第49話:一ノ瀬保奈美
中間テストの後のテスト休みだった。
自宅で、一人テーブルで勉強を進める。
教科書を広げて勉強を進めていた。
私は水道橋大学の生活科学科を目指している。
だから中間テストが終わったから遊ぶとか、そういう気分にはならない。
スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。
「……直也さん?」
通話ボタンを押すと、耳に届いた声はいつもより硬かった。
『頼みがある。俺の部屋の机の上に紙袋があるだろ? 中に服とサイバーグラス。そしてスニーカーが入ってる。それを池袋まで持ってきてくれないか』
「……服と、サイバーグラス……?」
どうしてそんなものを急に。理由は告げられないまま、通話は短く切れた。
スマホを机に置いたまま、私はしばらく動けなかった。
世間ではここ数日、“総合商社が総代理店の契約をかけてカラオケで競う”という奇妙な対決が話題になっていた。
学校は休みで直接クラスメートから聞くこともなかったけれど、朝食の席で父や母が新聞をめくりながら名前を出していたのを覚えている。
――五井物産。
その響きに、胸がざわめいた。直也さんの会社。
けれど、それは私にとっては遠い世界のこと。超大企業なのだから、少々の茶番で揺らぐようなものではない。GAIALINQとも関係ないと思っていた。
なのに、今――直也さんからの電話。
紙袋、服、サイバーグラス、池袋。
その断片が、頭の中でひとつに繋がってしまう。
「……もし、先日の交流会が原因だったら」
胸がぎゅっと縮んだ。私があの場で歌ったせいで、直也さんが巻き込まれたのだとしたら――。
「……私のせい?」
呟きが、静かな部屋に落ちた。
でも立ち止まっていられない。直也さんが頼んでくれたのだ。
だったら、私がやるしかない。
ノートを閉じ、椅子を蹴って立ち上がる。
スマホを握る手が小さく震えていた。
紙袋を抱えて玄関を出た。
秋の風が肌に触れると、家の中の静けさとまるで別の世界に放り出されたような気がした。
電車に揺られながら、膝の上に置いた紙袋を両手で押さえる。
中に入っているのは服とサイバーグラスとスニーカー。直也さんが、わざわざ「それを持ってきてくれ」と言ったもの。
なぜ必要なのか、考えても答えは出ない。
窓の外を流れる景色を見つめていると、胸の奥がじわじわと熱くなる。
――五井物産。
名前を聞いただけで、会社の規模の大きさや、直也さんが背負っているものの重さを思い出す。
カラオケ対決、総代理店、商社同士の競争……。私には詳しいことは分からない。ただ、新聞や大人たちの会話の断片からも、それが軽い遊びではなく、大人の世界の真剣勝負だということくらいは感じ取れる。
そんな場所に、直也さんが。
もしかしたら――いや、きっと私のせいで。
先日の交流会で私が歌ってしまったせいで。
「……ごめんなさい」
声に出すと、隣に座っていたサラリーマンが一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。
恥ずかしくて顔を伏せる。だけど、胸の奥のざわめきは消えない。
駅に近づくにつれて、紙袋を抱く腕に力がこもる。
怖い。けれど、不思議なほど誇らしい気持ちもある。
直也さんに「頼む」と言われた。
その言葉ひとつで、私はここにいる。
池袋に着いたら、どんな顔で渡せばいいのだろう。
「はい」と笑って差し出せるだろうか。
それとも、胸の奥のざわめきが声になってしまうだろうか。
電車のブレーキがかかる。車内アナウンスが「次は池袋」と告げた。
心臓が跳ね、息が詰まる。
――行かなきゃ。
約束したから。直也さんに、頼まれたから。
紙袋を強く抱きしめ、私は立ち上がった。
指定されたレンタル会議室は駅からすぐそばだ。




