第37話:新堂亜紀
――その話を耳にしたのは、GAIALINQの定例ミーティングが終わった後だった。
休憩スペースで広報の同期と顔を合わせた時、彼女がぽつりとこぼした。
「……ねぇ、知ってる? フェリシテの会長が急に亡くなったんだって」
「フェリシテ?」
私は思わず聞き返した。
国内アパレル大手 Félicité(フェリシテ)。
年間売上1500億円規模。
五井物産が長年、独占的に総代理店契約を担ってきた――社内でも“看板中の看板”と呼ばれるブランドだ。
総合商社でも一番華やかな部門の一つがアパレルだ。
海外の一流ブランドや新興ブランドとの代理店契約を獲得し、
国内での販売促進を担い、あるいはその逆もする。
けれども一流ブランドは自社で海外進出をしてしまうケースも多い。
フェリシテのように、五井物産が、マイナーながらも出資もしていて関係が深い場合は別だ。国外のブランドとの提携による相互流通も五井物産がサポートしている。
そして国内外の流通を五井物産は担うことによって膨大な利益を計上してきた。
そのオーナーが急逝?
一瞬、言葉を失った。
「後継はね、一人娘の神楽坂梨奈さんって子らしいんだけど……完全にギャルだって。しかもSNSで“総代理店、別に五井じゃなくてもいいんじゃない?”って言っちゃったんだってさ」
「……は?」
思わず声が出てしまった。
隣にいた同期の営業担当も苦笑する。
「俺も最初、冗談かと思ったよ。でも広報経由で確認取れた。本当に言ったらしい」
アパレル部門は大パニックだと聞かされた。
SNSでの発言内容が確認された直後から社内は荒れに荒れ、次の代理店契約を巡って水面下で競合各商社が動き始めているという。
※※※
私はペットボトルの水を握りしめながら、半ば呆然としていた。
フェリシテなんて、正直言えば個人的には全く無関心なブランドだ。
ビジネス領域としても、アパレルはGAIALINQとはまるで別世界。
もちろん直也くんの活躍で今やGAIALINQは五井物産の中核プロジェクトとなっているが、アパレルとは『派手さ』の意味合いが全然異なっている。
それでも――社内にとっては巨大な看板案件であることくらいは知っている。
「……これは、しばらく社内が騒がしくなるわね」
つい小声でつぶやいた。
当事者じゃないから、深刻に受け止める必要はない。
むしろ“VeryVery”の取材の恨みは深い。あのアパレル部門の本部長に対しては正直ザマァという感情すら持ってしまう。
でも、五井物産という会社全体の空気には確実に影響してくる。
――その日の午後、オフィスの空気がどこかざわざわしているのに気がついた。
エレベーター前では、総合職の若手数人が小声で話している。
「……伊東注がもう梨奈さんに接触したらしい」
「いや、五菱商事も役員直轄のプロジェクトチームを立ち上げたって」
すれ違いざまに耳に入る単語に、思わず足が止まりそうになる。
給湯室でも同じだ。
「年間1500億の売上が飛んだら、アパレル部門は立て直し効かないぞ」
「幹部クラス、何人か飛ばされるって噂だよ」
「だよなぁ……あそこは完全に五井のアパレルの“看板”だったのに」
どの会話も、内容はほとんど同じ。
不安、苛立ち、焦り。
まるで社内全体が一枚の薄氷の上に立たされているかのようだった。
私は黙って廊下を歩きながら、周囲の声に耳を澄ませる。
アパレルなんて直接関わりのない部署の人間までが、やたらとこの話題を口にしていた。
それだけ――“フェリシテ崩壊”が社内に与えるインパクトは大きいということだ。
(……GAIALINQは別世界。直接は関係ない)
そう自分に言い聞かせても、全体の空気に飲み込まれそうになる。
「五井の屋台骨の一つが揺らいだ」という現実は、誰にとっても無関係ではないのだろう。
――社内がざわつけば、必ず波紋は広がる。
GAIALINQの活動にだって、じわじわと影響してくるかもしれない。
私は胸の奥を軽く押さえた。
「直也くんに、新しい火種が回ってこなければいいけど」
そんな言葉が、心の中で響いていた。




