9話:二人きりのお茶会
カップから立ち上る白い湯気に、ほんのりと花の香りが混じっている。
ミリアリアの前に置かれたティーカップの内側には、淡い藤色の花が一輪、控えめに咲いていた。白磁に縁取られた銀彩がきらりと光り、遠慮がちに咲く花がまるで自分のようだと思えてしまう。
使用人は準備を済ませると、流れるように退室した。
サンルームは二人きりになり、マナーを見咎める者は誰もいない。
(……ユージーン様はミルクは入れず、角砂糖を二個入れるのね。意外と甘い物好き? それとも、これが糖分補給なのかしら)
南向きの半円形のサンルームは全面がガラス張りだ。天井からは暖かな陽光が降り注いでいる。アーチ状の大窓の向こうには、雲一つない青空と緑の芝生が見えた。
窓辺には常緑の観葉植物がいくつも並べられており、風が吹けば大きな葉がさやさやと揺れた。足元には丸く刈り込まれた低木の鉢が置かれ、奥には小さなオリーブの木が静かに枝を広げている。
緊張でこわばる手つきのまま、ティーカップの取っ手を指でつまむ。
そっと口を付けると、思ったより甘い香りが鼻腔をくすぐった。温もりで心がほぐされ、肩の力がゆるゆるとほどけていく。
「今日用意したのは南部産の茶葉なんだが、花と果実の香りが人気らしい」
「……とても、美味しいです。上品な香りと味でびっくりしました」
「それはよかった。君の好みに合うかどうか少々、不安だった」
「紅茶にもいろんな風味があるのですね。これほど香り高くて優しい味は初めてです」
ユージーンがふっと小さく笑う。
陽だまりのような、柔らかな眼差しを向けられ、気恥ずかしい思いに駆られる。
(わたくしの好みに合わせて選んでくれた茶葉……。ああ、嬉しさで頬がゆるんでしまうわ。こんなに舞い上がってしまって、変に思われたらどうしましょう。情けない顔なんて、見せたくないのに)
意識すればするほど、頬が熱を帯びる。
赤くなった顔を隠したくて、ミリアリアはそっと視線を落とした。
紅い瞳が、カップの中の琥珀の色に反射して揺れている。真っ赤に熟れた林檎よりも鮮やかな赤は、もう忌むべき色ではない。ユージーンが求めてくれた色なのだから。
テーブルクロスの上には、さりげなく生けられたラベンダーと白い小花が一束、淡い香りを漂わせていた。
(もしかして、このラベンダーもわたくしの髪色を意識して……? ケーキスタンドに載っているお菓子はどれも好物だし、ユージーン様のお優しさに胸が張り裂けそう)
三段のケーキスタンドには、色とりどりの菓子と軽食が品よく並んでいた。
上段には、淡い藤色のマカロンや紅茶のサブレ、ローズ型の小さなゼリー。中段には金柑のコンポートとフィナンシェ、白桃のタルトレット。どれも一口サイズで、まるで宝石のようだ。
下段のサンドイッチにはエディブルフラワーが添えられていて、見た目も華やかだ。
「葉の形をした紅茶のサブレは、客の好みによって茶葉を変えるのもありだな。俺はスモークサーモンとハーブのリエットを挟んだサンドイッチが好きだ。スモークの風味とチーズのコクが絶妙で、癖になる味だ」
「……リエット、ですか?」
「ハーブやクリームチーズと混ぜてペースト状にしたもののことだ。パンに塗ってもいいし、挟んでもいい。見た目は地味でも、驚くほど奥深い味になる。君はどれが一番好きなんだ?」
「そうですね……白桃のタルトレットでしょうか。甘すぎず、瑞々しくて、薄く重ねられた白桃の飾り付けもとても美しいですから。見ているだけで幸せな気持ちになります」
うっとりと、宝石のようなきらめきを放つタルトレットを見つめる。
(こういうとき、手で取ってもいいのかしら? それとも小皿で食べるのが正解……? どれも食後のデザートで提供されたことはあるけれど、ケーキスタンドに載った状態で対面するのは初めてなのよね……)
ほんのわずかに動きかけた手を引っ込める。
それに気づいたように、ユージーンが小ぶりのトングでタルトレットをひとつ取り、手元にあった小皿の上に静かに載せた。そして、それをミリアリアの前へと差し出す。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミリアリアは、おそるおそる小ぶりの銀のフォークを手に取る。
淡いピンク色の果肉が透けるように輝き、上から艶やかなジュレがかかっている。小さなタルトの縁には、絞り出された生クリームがふんわりと波を描いていた。
ぱくりと口に運ぶと、ひんやりとした果実の甘みが広がった。サクサクとしたタルト生地の中にはバニラカスタードが詰まっていて、優しい味わいに自然と目を細めてしまう。
「その表情を見れば、本当に幸せなのだと伝わってくるな」
「……はっ、すみません。ちょっと一人の世界に旅立ってしまっていました」
「なぜ謝る? 美味しいものを食べたら、思った感情を素直に出していい。俺は君が楽しそうに食事をするのを見るのが好きなんだ」
ユージーンはそう言いながら、両肘をついて組んだ手の上に顎を乗せる。
だが、目の前から注がれる眼差しは、どことなく甘さを含んだものだった。まるで、丹精込めて育てた花がやっと咲いたのを愛でるような──。
ミリアリアは動揺のあまり、フォークを取り落としそうになった。
ぐっと握りしめ、なんとか粗相は阻止できたが、一度暴れ出した心音はすぐには収まらない。
(か、勘違いしてはだめ。わたくしはただの契約妻でしょう。普通の妻ではないのだから、そもそも彼に愛される立場ではないのよ。ユージーン様が優しいのは、親切心や家族愛とか、そういうものなんだから……!)
必死に自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる。
彼は敬愛なる夫であり、命の恩人であり、結界術の師匠だ。彼のためならば、命を賭して守り抜く覚悟だってある。
気合いを入れ直したミリアリアは、震えそうになる唇を一度引き絞る。
「……っ……。その、侯爵家の食事はどれも本当に美味しくて、感動しっぱなしでして。何度食べても感動せずにはいられないと申しますか。はしたない顔をしていると思うので、どうか見ないでいただけると幸いです」
「すまないが、その頼み事は聞けないな。俺のことなど気にせず、心ゆくまで味わってくれ」
「き、気になりますよ!」
「君は、夫に妻の顔を見るなと言うのか?」
「ぐっ……」
完全に言い負かされた。完敗だ。
ユージーンの言葉は正論だ。どちらかと言えば、ミリアリアのほうが言いがかりに近い。ぐうの音も出ない妻に、彼は面白そうに唇の端を吊り上げた。
(ま、まさか……。先ほどのはからかわれただけ……!?)
恨めしげに見上げれば、ユージーンは苦笑した。
「妻の願いはできる限り聞き届けたいと思っているが、ミリアリアの顔はどんな顔でも見ていたいんだ。……許してくれるだろうか?」
「そんな風に言われると、こ、断れないではありませんか。ですが、他の人には吹聴しないでくださいね。変な噂が立つのは困ります」
「わかった。口外はしない」
「約束ですよ?」
念押しすると、もちろんだとも、と言葉が返ってくる。
ユージーンは渇いた喉を潤すように紅茶で口を湿らしてから、表情を引き締めた。
「ひとつ報告がある。近々、隣国との境界へ調査を行くことになった」
「……調査ですか?」
「ああ。国境外で地震が頻発しているらしい。どれも小規模なものだが、念のため、邪龍の封印を確認することになった。結界内なら大丈夫だろうから、君は心配せず待っていてほしい」
話題転換の合図のようにティーカップが置かれ、ミリアリアは渋面になった。
「お待ちくださいませ。ユージーン様は守護結界の外に行かれるのですよね……? とても危険な任務なのではありませんか?」
「俺たちは部下数人で行く。少人数なら、結界を張りながらでも調査は可能だ」
「それでも……心配です。無事に帰ってきてくださいね?」
「ミリアリアのもとに戻る。必ずだ」
力強い返答にゆっくりと頷く。
けれど、心の中に芽生えた不安の種はなかなか消えなかった。