8話:優雅な妻への第一歩
書斎で本を読んでいたミリアリアのもとへ、ユージーンは本棚には目もくれず、まっすぐに近づいてきた。かと思いきや、急に思い出したように本棚の前で立ち止まり、目の前の本を手に取る。だが目当ての本ではなかったのか、すぐに棚に戻し、別の本に指を伸ばす。
それを何度か繰り返しながら、硬い表情で本棚を物色していた。
(今日の閣下は少し様子が違うような……? いつもは泰然自若としていらっしゃるのに。もしかして、何かお悩みなのかしら)
そわそわとした気配が隠しきれておらず、視線こそ本棚に固定されているものの、意識がこちらに向いているのは明らかだった。
ちらちらと様子を窺うように横目で見られれば、気にしないほうが無理というものだ。もどかしさが混じった視線に胸がざわつく。
しかし、数分待ってみても、一向に話しかけてくる気配がない。
ここまで言い出しにくい話題ならば、いっそ自分から聞いてしまえばいい。
「あの……閣下? どうされましたか?」
そう思って口を開くと、ユージーンは視線をさまよわせながら答える。
「ああ、いや……。ずっと勉強ばかりでは気詰まりがするだろう。美味しいと評判の茶葉を手に入れたんだ。よかったら一緒にどうかと思ったんだが……邪魔だっただろうか?」
「邪魔だなんて、とんでもないです! とうとう毒味役を任される日が来たのですね。光栄です。毒味役とはすなわち、閣下に信頼されているという証し。必ずや閣下の期待に応えてみせます!」
「は?」
聞き間違いをしたかのように、ユージーンは瞬きを繰り返す。
きょとんとする夫に、ミリアリアはすっと立ち上がり、胸を張って説明する。
「魔力適性が高い者は、毒にも耐性があると本で読みました。……あら? でもそうすると、わたくしに効かなかった毒が閣下のお口に……!? まあ、どうしましょう!」
「お、落ち着いてくれ。君を毒味役にする予定は一切ない」
「……そ、そんな。どうかお考え直しください。才のないわたくしがあなたの役に立てる機会など、そう多くはございません。感謝と尊敬の念を持って、命がけで飲ませていただきますから、ぜひともお願いいたします……っ」
一歩詰め寄って涙ながらに訴えると、気圧されるようにユージーンは半歩下がった。それから額に手を当てて深く息を吐いた後、静かな声が返ってくる。
「どこから突っ込めばいいのかわかりかねるが……。俺は妻に毒味役を任すつもりはない。まったく、君は普通のお茶会をしたことがないのか?」
眉尻を下げて訝しげに問われ、ミリアリアはそっと視線を逸らした。
「…………ございません。誰かとテーブルを囲んでお茶を楽しむことは、上流階級の嗜みですもの。そのような晴れ舞台に、使用人以下のわたくしが呼ばれるはずがありませんから」
「そ、そうだったのか……」
「申し訳ございませんでした。てっきり、妻として新しい役目を果たせるとばかり……。これでは妻失格でございますね。毒味役も満足にできず、一般教養が足りないせいで閣下をがっかりさせてしまうなんて。本当に面目ございません」
反省の意を込めて、しっかりと腰を折って頭を下げる。
再びため息をつく音が聞こえ、びくりと肩が揺れてしまう。しかし、続く声色は労りに満ちていた。
「……何もそこまで落ち込まなくてもいいだろう。俺は君を悲しませたいわけじゃない。とにかく、毒味役は必要ない。そもそも自分の命を軽んじてはいけない。俺の妻として誇りを持って、長生きすることだけを考えてくれ」
「閣下……」
「ちなみに、侯爵夫人は優雅にお茶を楽しむのが仕事だ。ついでに糖分補給も必要だな」
今度はミリアリアがきょとんとする番だった。
(優雅にお茶を……? どうしましょう、まったく想定していなかったわ。結界術も大事だけど、社交も妻の大事なお務めよね。閣下に恥をかかせないように、お茶会のルールを身に付けておかなくては)
今まで社交界に出る機会がなかったから、いずれ出席する日が来るなんて、考えたこともなかった。お飾りの妻は外に出ないものだと思い込み、その可能性を最初から排除していた。
けれど、よく考えれば、侯爵夫人がすべての招待を欠席し続けるのは無理がある。社交ゼロで引きこもる妻など、どう言い繕っても世間体がよくない。
すぐには無理だが、ゆくゆくは、そういう機会もあるかもしれないのだ。
(ああでも、貴族との会話なんて、やはり恐れ多いわ。もちろん、練習は頑張るつもりだけれど、お茶会に出席することで閣下のご迷惑になる未来しか思い浮かばない……)
くすくすと笑われるのが関の山ではないだろうか。
どう頑張っても、美しく着飾った貴族の奥様たちの会話についていける気がしない。
流行のドレスもお菓子も歌劇も、何も知らない小娘なんて、嘲笑の的にされるだけだ。何のメリットも提示せず、すでにある派閥にすんなり入れてもらえるわけがない。
しかも、女性だけのお茶会では、ユージーンの助けは借りられない。貴族社会のルールに疎いミリアリアは圧倒的に戦力外だ。迂遠な貴族用語が飛び交う話の輪に入れず、孤立するのは当然の帰結だろう。
作り笑顔のまま固まる未来が見えて、さあっと血の気が引いた。
不安に揺れる胸を押さえながら、ミリアリアはおそるおそる口を開く。
「……世間知らずのわたくしが、お茶会に出てもよいのでしょうか?」
震える声で問いかけると、ユージーンは力強く肯定した。
「当然だろう。本来、侯爵夫人は客人をもてなす側だ。ホストが美味しい茶葉やお菓子についての知識を知らなくてどうする? 本当に他人に喜んでもらえる水準なのか、自分の口で確かめる必要があるとは思わないか?」
「……思います。知識だけでは、実際の味まではわかりません。もてなす茶菓子のセンスは料理人の腕にもよりますし、客人の好みの問題もありますから」
「では、まずは俺とお茶を楽しむことから始めよう。記念すべき最初のお茶会だ。身内だから話題提供の心配もない。マナーはいったん置いて、君の好みを教えてくれ。覚えたほうがいいことは徐々に身に付ければいい」
思いがけず前向きな言葉をかけてもらい、ガーネットの瞳に薄い膜が張る。
(人が泣くのって悲しいときや悔しいときだけじゃないのね……。嬉しくても泣きたくなるなんて感情、初めて知ったわ)
感極まって目尻にあふれた雫を指先で拭う。
自然と口元がゆるんだ。辛抱強く返事を待つユージーンに、ミリアリアは精一杯の笑みを向けた。
「……ユージーン様のお茶会、ぜひご一緒させてください」
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