5話:お見舞いの飴玉
前日の夜からの重だるさは、気のせいではなかったらしい。
今朝、起こしに来たメイドが一目見るなり、「奥様!? 顔が真っ赤ですよ!」と騒ぎ立てるまで、ミリアリアは自分が熱を出していることに気づかなかった。
メイドが呼んだ侯爵家お抱えの主治医が診察した結果、「風邪ですね。疲労も溜まっているようです。熱が引いても、しばらくは安静にしてください。薬を飲めば、すぐによくなりますよ。また明日も来ますからね」と言い残して帰っていった。
それから重粥を三分の一だけ食べて薬を飲むと、抗いきれない睡魔に襲われて、そのまま意識を手放した。次に目を覚ましたときは、主治医がいた椅子に、なぜかユージーンが座ってこちらを見ていた。
「……閣下?」
「起きたか。熱は少し下がったと聞いたが、まだ苦しそうだな」
「い、いけません閣下。風邪を移してしまいます。早くご退室ください」
「俺は滅多に体調を崩すことはないから安心しろ。それより、水を飲め。ゆっくりでいいから」
水差しから注がれたグラスを受け取り、常温の水をゆっくりと飲み干す。
自覚はなかったが、ずいぶんと喉が渇いていたらしい。しっかりと水分補給をすると、両手から優しくグラスが抜かれていく。
サイドテーブルにグラスが置かれる音を聞き、ミリアリアは頭を下げた。
「ありがとうございました。閣下。何かあればメイドを呼びますから、わたくしのことは気にせず、どうぞお仕事に戻ってください」
「妻の一大事だ。急ぎの仕事は午前中に片づけた。緊急案件以外は後日にしろと通達済みだ。……それとも、俺がここにいては気が休まらないか?」
「い、いいえ。誰かがずっとそばで看病してくれることなんて、今までなかったですから。その、とても嬉しいです」
ありのままに答えると、ユージーンが押し黙った。
ちらりと見た彼はぐっと眉を寄せ、何かに耐えているようだった。
(先ほどまで穏やかだったのに、なんだか今は不機嫌そう……? はっ、そうだわ。わたくしったら熱に浮かされて、肝心の謝罪をまだしていないじゃない。謝って済むことではないけれど、ちゃんと言葉で表さないと……!)
自分は契約妻。侯爵家の役に立つために花嫁に選ばれた身だ。
だというのに、この体たらく。体調管理を疎かにした挙げ句、熱で寝込んで意識を手放してしまった。そして周囲の使用人のみならず、侯爵家当主にまで手厚く看護されている。
契約妻の責務をまったく果たせていない。むしろ迷惑をかけている有様だ。
ミリアリアは青ざめながら、反省の意を込めて、一言一句を魂に刻み込むように言う。
「か、閣下。申し訳ございません。自己管理もできず、体調を崩してしまいました。あとでどんな罰でも受けます」
粛々と頭を垂れていると、なぜか狼狽したようにユージーンの声が上ずった。
「ちょっと待て。罰とは? 一体、何を言っている?」
「え? 侯爵家当主の許可なく体調不良になった結果、閣下の手をわずらわせてしまった罰を……。今後、一週間は一日一食で過ごします。古いパンと水だけいただければ幸いです。このような失態を犯しておきながら、贅沢などできませんから。寝台で寝るのも厚かましいですね。しばらくは床で寝ます」
キリッと答えたものの、ユージーンは片手で顔を覆ってしまった。
何か間違ったことでも言っただろうか。いや、もしかして侯爵家ではもっと厳しい罰でなければ、反省にもならないのかもしれない。
(どうしましょう。こちらのレベルがさっぱりわかりませんわ……)
言葉をなくしていると、ユージーンがぽすんとベッドの端に腰を下ろした。反動で寝台が少し揺れる。
先ほどより近くなった距離に目を瞬く。
一方のユージーンは痛ましげな表情でミリアリアを見下ろす。心なしか、蒼紫の瞳は悲しみで揺れているように見えた。まるで捨て猫を見捨てられず葛藤するように。
「床で寝るのは論外だ。ちゃんとベッドで寝るように。食事を抜く必要もない。そもそも、君は生家で十分な栄養を与えられていなかった。それとも何か、俺は貧相な食事を妻に与えるような非道な男に見えると?」
「ち、違います! 閣下はお優しい方です」
「…………君が今までどんな生活をしてきたのかは知らないが、少し寝込むぐらいで処罰することなどあり得ない。風邪知らずの屈強な男だって、一晩中雨に打たれていれば高熱を出すように、人間は完璧ではないんだ。誰だって具合が悪いときはある。君の場合、睡眠時間を削って守護結界の練習をしていたと聞いた」
感情を押し殺すような硬い声に、彼の戸惑いと強い憤りを感じる。
ミリアリアは素直に謝罪した。
「す、すみません。早く閣下のお役に立ちたくて」
「その気持ちはありがたいが、体の限界を超えてまで無理をする必要はない」
「はい……おっしゃるとおりです」
彼は何も間違ったことを言っていない。すべて空回りしていたのはミリアリアだ。
(閣下は罰など望んでいないのに、わたくしは……。彼が自己犠牲で喜ぶような人ではないと、もうとっくに知っているのに。両親と彼を同じように考えてしまった愚かな自分が恥ずかしい。こんなのまるで、閣下を冒涜したのと同じだわ)
一度口にした言葉はなかったことにはできない。けれど、自分が発した言葉で、ユージーンを傷つけてしまったことは事実だ。
なんて最低なことをしてしまったのか。仕事を休んでまで看病に来てくれたのに、彼の優しさを踏みにじるようなことを言ってしまうだなんて。
罪悪感に苛まれていると、ユージーンが思い出したように立ち上がった。
「ああ、そうだった。見舞いの品を持ってきたんだ」
突然の話の方向転換に戸惑う。けれど、それが彼なりの優しさだと冷静な頭で理解すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
彼はテーブルの上に置いてある小瓶を取ってきて、再びベッドに座る。
「あの花瓶に飾ったガーベラの花束は庭師からで、この飴玉は俺からの見舞い品だ」
手渡されたのは雫型のガラス瓶だった。花の形をした蓋はあまり見ないデザインだ。
その中でカラコロと音を奏でるのは、蜂蜜色の丸い飴玉。その色合いは、夕暮れ前の空をゆっくりと溶かして固めたようだった。
「……綺麗な蜂蜜色ですね。コロンと丸くて可愛らしくて、喉の痛みすら忘れそうです。ガラス瓶もおしゃれで、見ているだけでも癒やされます」
「主治医から喉が腫れていると聞いたからな。俺は喉の調子が悪いときは、よくこれに世話になっているから効果は保証する」
「まあ、閣下の愛用品なのですね。そんな貴重なものを……もったいなくて食べられません。飾って保管してもいいですか?」
「飾ってどうする!? 飴なのだから、ちゃんと舐めて喉を労ってくれ。俺は君が苦しむ姿を見たくないんだ。もしなくなったら、また持ってくるから」
少し拗ねた口調がなんだか子どもっぽくて、小さく笑ってしまった。それを目ざとく見つけたユージーンが気まずそうに唇を尖らし、視線をふっと逸らす。
その仕草がまるで「笑うな」とでも言っているようで、ますます笑いをこらえるのが大変だった。お腹に力を込めて、ゆるみそうになる唇をぎゅっと引き締める。
(……閣下のこんな顔を見られるなんて、風邪を引かなければ知ることはなかったでしょう。たまには熱を出すのも悪くないかも、なんて言ったら怒られてしまうかしら)
ミリアリアは、飴玉が入ったガラス瓶を両手でそっと包み込む。
彼の優しさが詰まった瓶を見ているだけで、気持ちまで和らぐようだ。胸の奥に沈んでいた不安が、ふわりとほどけていくのを感じた。