3話:風の大精霊との契約
ユージーンは静かに瞼を閉じ、蒼紫の瞳が長い睫毛で隠される。
突如、彼の足元がぱあっと光ったかと思ったら、金色の魔方陣が展開した。知らない魔法言語、記号、蔓の意匠が芸術的に絡み合い、複雑な文様のようにも見える。
「この地を守る風の大精霊よ。契約者、ユージーン・アストル・ラスフォードが命じる。我が妻を新たなる守護者として登録する。彼女の名はミリアリア・ラスフォード。契約の証しとして、彼女の魔力を汝に捧げる。どうか彼女に、悪しきものを退ける守りの力を。災いをはねのける力を。今ここに、風の加護を与えたまえ」
ユージーンの声に呼応するように、魔方陣の縁がきらきらと輝く。ミリアリアの名が呼ばれた瞬間、魔方陣の中央が緑に染まった。重なった手のひらから、何かが吸い上げられていくのがわかる。
(これが、わたくしにある魔力……?)
ミリアリアの魔力が魔方陣に注がれ、薄紅色に変化していく。
どこからともなく吹いた風が周囲を巡り、ふわりと長い髪が揺れる。淡紫の髪がはためき、見えない力がそばにいるのを感じる。
耳元をかすめる風は、まるで歌声のように響き合い、きらきらと緑の光が木漏れ日のように降り注ぐ。神秘的な光景に、ほぅとため息をつく。
ふと、不思議な浮遊感に見舞われた。まるで、体の奥底に眠っていた何かが共鳴しているような感覚がして、ミリアリアは思わず周囲を見渡した。
「受け入れろ」
短い言葉だった。ユージーンの助言に従い、ミリアリアは自分を包み込む風に身を委ねた。重ねられた手のひらから伝わる温もりが、何があっても大丈夫だと信じさせてくれる。
長いような短い時間を経て、ユージーンがゆっくりと手を離した。
いつの間にか、足元の魔方陣も消えている。
「無事、風の加護を授かったようだな」
「……これで、わたくしも守護結界を張れるようになるのですか?」
「いや。さっきのは守護者として契約しただけだ。守護結界を張る資格は得たが、実際に結界を張るためには練習が必要だ」
「そうなのですか。どういった鍛練を積めばよいのでしょうか?」
ミリアリアの質問に、ユージーンは視線を宙に投げながら答えた。
「結界構築には、術式の核を作るところからだな。……そのためには魔力を自在に操れるようにならなくてはならない。まずは指先や手のひらに魔力を集中し、魔力の流し方を練習するのがいいだろう。次に魔力の留め方の練習だ。小さな球体を形成し、指の間で崩さずに保てるようになるのが目標だ。最終的に、何をどうやって守りたいかを思い浮かべながら展開していく。強く守りたい相手を思い描くほうが、結界が安定し、強度は増す」
「練習には段階が必要なのですね……。どうやって守るかのイメージが、わたくしには難しいです。閣下は何を思い浮かべているのですか?」
守護結界を実際に張れる彼の意見は重要だ。
何か参考になるかもしれない。期待に胸を躍らせ、返事を待つ。
「俺の場合は緑のカーテンだな」
「カーテン……ですか?」
「ああ、窓を開けていたら風でカーテンが揺れるだろう? 見た目は布のように柔らかいが、外からの侵入は誰であろうと防ぐ強い盾を意識している」
「……なるほど。風の大精霊様の力を借りるのであれば、風で守るイメージを明確にしたほうがよいということですね」
「そうだ。曖昧な想起では、すぐに消えてしまう。具現化してそれを維持することを考えれば、身近なものを思い浮かべたほうが効率がいい」
丁寧な指導に頷きながら、ミリアリアは気合いだけではだめなのだと悟る。
(イメージが大切なのですね。なら、わたくしは……雨をしのげる東屋、かしら)
脳裏に浮かんだのは、雨の日の思い出だった。
弟妹が誕生した邸で誰にも必要とされず、部屋の片隅で声を押し殺して泣いていた日々。呪われるという理由で、血の繫がった弟妹に会うことすら許されず、使用人にも空気のように扱われるようになった。不必要な人間になったのだと実感するには十分だった。
雨の日なら、東屋には誰も来ない。
冷たい大理石に頬を押しつけ、虚無感に支配されていたとき、決まって現れた一匹の黒猫。何も言わずに寄り添ってくれた小さな命に、ささくれていた心が慰められた。
(あの子を守れるようになりたい……。でも、普通の東屋では横から吹き込む風は防げないわね。雨だって入り込んでしまう)
あの猫に救われたときの温もりが、今も胸に残っている。
ふと、胸の奥に小さな光が灯った。
(そうだわ。すっぽりと全体を包み込むようにすれば……。雨や風だけじゃない。悪意もはねのけて、誰にも傷つけられない、唯一無二の場所。見えない壁で守るように──あの東屋をわたくしの魔力で形作れたなら。きっと、どんな攻撃からも守られる空間ができるはず。自分の力で、閣下と領民の皆さまを守るの)
明確なイメージができたと思った瞬間、蒼紫の瞳とぴたりと視線が交差する。
温かく見守るような眼差しを向けられている気がして、ミリアリアはどきりと息を呑んだ。けれど、言葉はなくとも彼のそばにいることは、少しも怖くなかった。
ユージーンの眼差しには敵意も軽蔑もなく、ただ静かに寄り添うような温かさがあった。
「その様子だとイメージはできたようだな。魔力を流す練習相手は、魔力量のつり合いが取れないと危険を伴う。今後は俺と毎日、魔力の同調をすることで慣れてもらう」
両手を握られ、ユージーンが目をつぶる。慌ててミリアリアも瞼を閉じた。
彼の魔力に連動して、体内の魔力が引き出されるのがわかる。
やがて、二人の魔力がゆっくりと波紋を描くように重なっていく。未知なる体験の連続に、心臓が早鐘を打つ。
触れた指先から電流が走っているように、体中が熱い。このままでは、ゆでだこになるのではと気が逸る。だがその心配は杞憂だったようで、すぐに合わさった手が離れる。
「……ミリアリア。体調は大丈夫か?」
「あ、はい。問題ありません」
「本当か? 吐き気や目眩がしているのに隠しているなんてことは?」
「体はすこぶる元気です。魔力はその……まだ自分ではうまく操作できませんけど」
「そうか。魔力操作に関しては、毎日やっていたら、そのうち感覚をつかめる。あまり心配するな。それよりも、少しでも不調をきたしたらすぐに言ってくれ。魔力切れは命に関わるからな」
「命に……」
言葉を繰り返すミリアリアに、ユージーンは真面目な顔で大きく頷く。
その日から、二人だけの特訓の時間が日課に加わった。