12話:妻と夫の攻防
異変に気がつき、慌てて駆けつけてくれたのだろう。
馬からさっと下りたユージーンの姿は見送り時とは違い、髪や衣装が乱れている。
「ッ……ユージーン様。ここはわたくしが食い止めます。今のうちにお逃げください」
「何を言っている!? 君が死ねば俺は一生後悔する! 俺を絶望させたくなければ生きることだけを考えろ」
厳しい叱責が飛んできたが、構わず結界に魔力を注ぐ。
結界の力を強めながら、ミリアリアは妻の身を案じる優しい夫に微笑む。
「領民にとってユージーン様は希望そのもの。魔物に荒らされた田畑を再び耕し、街を再建させねばならないときに、あなたの存在は道しるべになる。守るべき対象を間違えてはなりません。わたくしの命でユージーン様が守れるなら本望です。尊いあなたがいるだけで、皆が救われるでしょう」
一番大切な彼の命は絶対、ここで散らしてはいけない。
ユージーンは復興に必要な人材だ。彼は多くの人に希望を与えてくれる、立派な領主なのだから。
封印から解き放たれた邪龍は、滅ぼさなければ。
聖なる結界で弱体した今を逃す手はない。この禍々しい生き物が解放されれば、穢された大地が急激に増える。それはすなわち、民の絶望が広がることを意味する。
(再封印なんて生ぬるい真似は選べない。もう二度と、皆が恐怖せずに暮らせるためならば命など惜しくはない。災厄を振りまくだけの邪龍はここで仕留める。たとえ、差し違えてでも──)
ミリアリアの思いに応えるように、結界が虹色の輝きを増す。
だが、不意に後ろから抱きしめられて、びくりと肩を震わせた。大きくてたくましい腕にすっぽり包まれて体が硬直する。腕の力は強くなる一方で、ミリアリアは身動きができなくなった。
まるで、一人で逝くことなど許さないとばかりに。
「君は俺の妻だ。代わりなんていない。責任感が強いのも結構だが、自分の身を大事にしてくれ。君はもう俺の半身も同然なのだから。──いいか、二人で生き延びるんだ」
「……え……」
「返事は? 俺のミリアリア」
「は、はい。仰せのままに」
従順に頷くと、安心したように体を包み込んでいた腕の拘束がほどかれる。
「結界の一部だけを解くことはできるか? 邪龍を仕留めるため、上部のどこかを開いてほしい」
「……やって、みます。北東あたりでいいでしょうか」
「頼む」
ユージーンはマントを翻して前に出た。その大きく頼もしい背中を眺めながら、ミリアリアは指先に力を込め、結界の一部をゆるめるイメージを脳内で描く。
「行くぞ!」
ユージーンが手を掲げた、その瞬間。
彼の頭上に青白い光が明滅する、巨大な魔方陣が出現した。
しかもそれが二重、三重と重なり、まるで天蓋のように上空を覆っていく。中心部からは淡い雷光が走り、風と炎が渦巻くように収束し始めた。
「裁きの雷槍! 光よ、悪しき龍を貫け」
詠唱が終わるタイミングを見計らって、ミリアリアは北東の結界を一時的に解放する。と同時に、魔方陣の中心から雷槍が打ち出される。
閃光が走った。
まばゆい一閃が空を裂き、結界の隙間を通り抜けて邪龍の喉元を直撃した。刺さった雷槍は内部で炸裂し、邪気を吹き飛ばす。続いて炎の柱が打ち上がり、邪龍を取り囲む。胴体には風の刃が鎖のように絡みついていた。
ユージーンは指先で印を結び、次々と術式を重ねていく。空中に展開された魔方陣が七重、八重と増える。そのたびに光の奔流が解き放たれ、巨体を容赦なく切り刻んだ。叫ぶ間もなく四肢が引き裂かれ、黒い鱗が鈍い光を放ちながら霧散していく。
最後の一撃、無数に分裂した光の矢が心臓の核を貫いたとき、邪龍は断末魔を上げることすらできず、崩れるように消滅した。
(す、すごすぎます……)
霧がすっかり晴れ渡り、太陽の光が地表を優しく照らし出す。
重く張り詰めていた空気も和やかなものになり、いつもの日常が戻ってきた。安心したミリアリアは結界を解除し、疲れひとつ見せない夫を尊敬の眼差しで見つめた。
「ミリアリア。君のおかげで邪龍を消滅させられた。礼を言う」
ユージーンはそう言って胸に手を当て、頭を下げた。
彼なりの最大限の感謝の表れだったのかもしれないが、ミリアリアにとっては非常に胃がキリキリする光景だった。「あ、頭を上げてください……! お願いですから!」と悲鳴じみた声を上げると、侯爵家当主は素直に従った。
公の場で、彼になんという真似をさせてしまったのか。少し離れた位置から見守っていた騎士団から、ざわめきの気配がしている。
なんてことだ。己の罪深さを呪う。確実に、数年分の寿命が縮まった気がする。
内心頭を抱えていたミリアリアは、ふと目の前から視線を感じ、咳払いで動揺を押し隠した。反省は後回しだ。
「い、いえ。これはユージーン様の功績です。わたくし一人では突破されていたでしょうから。空に浮かぶ術式が幾重にも展開される姿、圧巻でございました。人間離れした攻撃の数々は無慈悲かつ残酷で、一瞬たりとも目を離せませんでした」
「……それは褒めてくれているのだろうか?」
「当然です。ユージーン様がいらっしゃったからこそ、犠牲は最小限で済みました」
どうぞ胸を張ってください、とばかりに瞳を輝かせると、彼は気まずげに視線をそっと逸らした。見間違いかもしれないが、彼の耳がほんのり赤く色づいている気がする。
ユージーンは深呼吸をひとつした後、ミリアリアに向き直った。
「君に……大事な話がある。今夜、俺の執務室まで来てほしい」
「承知しました」
「すまない。本当は邸まで送り届けたいところだが、俺は後処理をせねばならない。君は先に帰り、体を休めてくれ。夕食は別々になってしまうだろうが、早めに戻るよう努める」
「わたくしは待つのは得意ですから。いつまでもお待ちしています」
安心させるように微笑むと、ユージーンの頬が少しだけゆるんだ。