11話:邪龍が目覚めた世界
的確な避難指示をする騎士に、ミリアリアは放心状態の老人の保護を求めた。彼は快諾してくれたが、ふと首を傾げる。
「君は避難しないのか?」
「わたくしはユージーン様の妻です。あの方がお戻りになるまで、邪龍の動きを止めます」
「……なっ、あなたが閣下の奥方!? いけません、お一人で立ち向かうなんて危険すぎますよ。せめてユージーン様がお戻りになってからでも遅くはないのでは」
「いいえ。今は一刻の猶予もありません。この状況、あなたならわかるはず。魔獣の出現はおそらく結界のどこかを内側から破られたのが原因でしょう。ですから、守護結界を張り直さなくてはなりません。……ただ、わたくしは土地勘がありません。適した場所はありますか?」
状況は切迫している。
必死の形相で問いかけると、数拍の間を置いて返事が来る。
「……邪龍を閉じ込めるのなら、教会がある高台がいいと思います。あそこは見晴らしもいいですし、街の様子もよく見えます」
「ありがとうございます。あなた方はすぐにこの場から離れてください。少しでも遠い場所へお願いします」
「はい! 奥方もどうかご無事で……っ!」
頷き合い、ミリアリアは高台へと駆け出した。
教会のある丘の上に立ち、息を整えながら眼下を見下ろす。
街は白い霧に覆われていた。つい先ほどまで目にしていた街並みも、まるで幻のように掻き消えていた。
その中で、ひときわ濃く、大きな影がゆらゆらと揺らめいている。
目を凝らすほどに、霧の奥から異様な輪郭がじわりと浮かび上がってきた。
「見えたわ。あれが、邪龍……」
閉ざされた霧から姿を顕現させたのは、禍々しい邪気を放つ古代龍だった。
黒い鱗は艶を失い、長い胴体をずるずると引きずり、周囲に毒の息を巻き散らかしている。口元からもれた唾液が土壌を瞬く間に腐敗させていく。緑の芝生は赤茶に変色し、草木が驚くべき速さで死に絶えていった。
(なんて濃い邪気……。こんなもの、これ以上広げるわけにはいかない)
ミリアリアは両手を目の前に突き出し、指先をクロスさせて構えた。
まずは街を守る守護結界のほころびを修復させなければ。
深く息を吸い、細く吐き出す。目を閉じて、指先に意識を集中させる。手のひらに魔力を集めると、じんわりと熱が宿るような感覚が広がった。焦らずに、ゆっくりと。糸を紡ぐように繊細に。
風の球体を作るように、魔力の塊を形にしていく。
(わたくしが守りたいのは、この街。ユージーン様が守ってきた土地と、そこに暮らす人々……)
魔力の核に想いを込めた瞬間、風が呼応するように震え、一瞬だけ周囲の音がすべて消えた。
指先から放たれた緑の魔力が空にひゅんと飛び、街を包み込む守護結界の裂け目へと滑り込んでいった。破れた布を縫い合わせるように、魔力が流れていく。
穴の開いた箇所が徐々に小さくなる。だが、まだ穴は完全には塞がっていない。
(まだよ、もう少し……!)
ミリアリアは魔力をさらに送り込む。
力業だとわかっていても、今は時間が惜しい。邪龍を足止めするためには、魔力を温存しておかなければならない。一から張り直すよりも、応急処置でしのげればいい。
ようやく裂け目が閉じきったとき、一陣の風がミリアリアの耳元をかすめた。
淡く光る緑の粒子が、祝福のように舞い降りる。まるで風の大精霊が励ますように寄り添ってくれているようだった。
守護結界の穴が塞がれたことで、他の魔獣の気配はなくなった。おそらく、結界の効力で浄化されたのだろう。残る大仕事はひとつ。
「ここからが正念場よ。大丈夫、ユージーン様とずっと練習してきたもの。次は今までの応用をするだけ。風の檻を作って、あの邪気ごと閉じ込めるの」
自分を励まし、霧の向こうで蠢く巨大な影を見据えた。
こうしている間にも邪気は広がり、濃霧の色が黒く変色していく。大地が汚染されていく。早くしなければ、また結界にほころびが出るかもしれない。
よどんだ空気の中、ミリアリアは魔力核を形成し、ありったけの魔力を注ぎ込む。空中に浮かび上がる幾何学模様は、古い文献で読んだ風属性の大規模結界術式だ。
「風の大精霊よ。我が意に従い、邪悪なる存在を囲いし檻となれ……ッ」
詠唱を終えると、解き放たれた風の刃が四方へと走る。魔方陣が輝きを増し、空中に透明な檻を描いていく。
その最中、霧の一角が吹き払われた。
霧が裂けて、黒い靄をまとう古代龍の濁った瞳がこちらを射抜いた。距離は遠く離れているのに、ギロリと睨まれて身がすくむ。邪龍が咆哮し、空気が揺れる。ミリアリアが発動した檻の完成を阻もうと空を泳ぎ、展開した魔方陣に向かって、凶暴な口をぐわっと開く。
だが瘴気にまみれた刃が届くより数秒早く、檻が完成した。渦巻いた風が鎖のように、邪龍の周囲に絡みついて動きを封じる。
(捕らえた……!)
厄介だった邪龍の吐息は遮断され、結界外の影響はなくなった。立ちこめていた邪気も少しずつ守護結界が浄化していく。
張り詰めていた気をゆるめ、ミリアリアはほっと息をつく。
淡い緑に包まれた風の檻の中では、邪龍が巨体をぶつけて結界を破壊しようともがいている。噛み砕こうと何度も牙を突き立てる。そのたび、反動でミリアリアの魔力が削られていく。
耐えきれずに一瞬ふらつきかけたが、なんとか踏みとどまる。
だが結界内でもがく邪龍の暴れぶりはすさまじく、パキッと不穏な音が走った。見れば、檻の一部にヒビが入っている。もし、このまま結界が破られれば──。
ミリアリアはぐっと奥歯を噛みしめた。
(わたくしはユージーン様の妻。一歩も引くわけにはいかない……!)
両手を突き出し、魔力を注いで修復作業と、結界の重ねがけを行う。
淡い緑の輝きが虹色の透明膜に変化する。急激に体内の魔力が減っていくが、構うものか。ここで守り切らなければ一体、何のためにいるのか。
国を覆う守護結界と共鳴し、光の粒がきらきらと舞った。二重の結界で拘束された邪龍の動きが鈍くなる。苦しげな鳴き声が続く。
今が好機だと、魔力の出力を上げるべく意識を研ぎ澄ます。
ガーネットの瞳が金色の光を帯びた、その瞬間──後ろからユージーンの声が鋭く飛んできた。
「ミリアリア! 無理をするな。魔力が暴走するぞ」