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10話:孤児院の帰り道で

 朝日が昇ると同時に、ユージーンは調査に向かった。

 執事とともに見送りに行くと、彼は苦笑しながら「夕方までには戻るから」と言って、ミリアリアの頭にそっと手を置いた。くすぐったい気持ちに駆られながら、その背中を見送った。


(不安ばかりになっていたらよくないわ。ユージーン様はきっと無事に戻ってくださる。だって、わたくしのもとに戻ると約束してくださったのだもの)


 弱気になるな。信じて待つのが妻の役目なのだから。

 そう自分に言い聞かせ、胸元に手を当てた。

 深呼吸をして、淡い桃色が混じった東の空を見上げた。朝日が地平線を押し上げるように、金色の雫が境界線を染めていく。夜の名残を抱えた空気はひんやりとして、澄み切った静けさの中に、草木の葉が露をまとってきらめいていた。

 まだ鳥の声もまばらな時間、空は一日の始まりを告げるように、明るさを増していく。

 ミリアリアは無意識に、耳元に挿したスミレの髪飾りをそっと撫でた。


 ◆◇◆


 侯爵夫人として孤児院に寄附金を持っていく任務を無事終えた帰り道。

 馬車を引く馬が突如、ヒヒーンといなないた。怯えたような声が気になり、ミリアリアは御者に一声かけて馬車を降りた。

 通りの向こうで杖をついて歩く老人が、ふと視界に入る。

 そこへ飲食店から逃げ出してきた野良猫が驚くべき速さで、彼の足元をすり抜けていく。驚いた老人は足をもつれさせ、バランスを崩す。ミリアリアは急いで駆け寄り、倒れそうになった背を支えた。


「大丈夫ですか?」

「あ、ああ。助かったよ、お嬢さん。ありがとう」

「いえ……」


 老人の無事に安堵したのもつかの間、バキッという鋭い音がして、足元の石畳が割れた。瞬く間に大きなひびが蜘蛛の巣のように広がっていく。次の瞬間、雷鳴のような音とともに地面が深くえぐれていった。


「危ない……っ」


 ミリアリアはとっさに老人の腕を引いて、道の端へと避難した。

 地割れは収まったが、侯爵家の馬車はひび割れた地面の向こう側に取り残されていた。

 馬車の扉が開く。馬車内で待機を命じていたメイドが顔を青ざめさせ、身を乗り出しながら叫ぶ。


「奥様!? ご無事ですか!?」

「わたくしは平気です! それより、ここにいると危ないわ。あなたたちは早く邸に戻って。わたくしは違う道で帰るから心配しないで」

「い、いけません! 奥様をお一人で置いていくなど……っ」


 メイドの鑑だ。けれど、今ここで議論している暇はない。

 彼女たちまで巻き込んでは一大事だ。落ち着きを払い、ミリアリアは侯爵夫人として凜として命じる。


「──これは命令です。早くお戻りなさい。大丈夫、わたくしには守護結界の力があるから。いつ領民の皆さんが避難してきても、温かく迎えられるように、残っている使用人で対応をお願いしたいわ。頼めるかしら?」

「かしこまりました。ですが、奥様もお早くお戻りくださいね」

「ええ。やるべき事を済ませたら、ちゃんと帰るわ。さあ、早く行って!」


 ミリアリアが急かすと、メイドが馬車に戻ってすぐに御者に指示を出す。馬車が慌てて去っていくのを見送る。


(突然の地割れは普通じゃない。地震でもなかったし……。今はユージーン様がいない。わたくしがこの領地を守らなくては。何か原因があるはずよ。まずは状況を確認しなくては)


 思案に暮れていると、ふっと視界が暗くなった。

 いきなり昼から夜に変わったような変化だ。普通に考えてあり得ない。


(おかしいわ。今日は晴天だったはず。それに、まだ昼間よね……?)


 釈然としないまま、空を見上げて「あっ!」と声を出した。

 頭上には不吉なぶ厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の光を閉ざしていた。まるで世界を暗黒に塗り替えるように。いつの間にか、周囲には濃霧が立ちこめて視界が不明瞭になっていた。同じ街にいるはずなのに、違う街に迷い込んだような薄気味悪さがある。

 ふと霧の奥から、奇妙な叫び声がした。

 人でもない。ましてや動物の鳴き声とも違う。もっと禍々しい甲高い声だ。

 産声のように鳴く声に呼応するように、どこからか悪臭がする。耳を澄ませると、遠くから、のそのそと歩いてくるのは狼型の魔獣だった。


(守護結界があるのに、どうして街に魔獣が……? 魔除けの効果も結界もくぐり抜けてきたのか、それとも結界内で出現したのかしら。どのみち、状況は芳しくないわね)


 ミリアリアが眉を寄せる間に、雷が落ちたような凄まじい咆哮がした。反動で魔獣が四方に散らばっていく。


「な、なに!?」


 耳をつんざくような音の方向を探ると、近くにいた男が無造作に空に手を伸ばした。つられるように見上げると、大きな影が蠢いているのが見えた。

 雲の中を泳ぐように、うねりを上げながら空へと伸びていく影。

 蛇よりももっと太くて立派な胴体は、神秘的というより地獄の使者といったほうが合っている。それほどの威圧感を放っていた。


「……嘘、じゃろ……。ああ、こりゃ悪夢に違いない。儂の人生も終いじゃあ……」


 老人は顔面蒼白で、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。


「一体、あれは何ですか!?」


 だがミリアリアの問いに答えることもなく、老人は呆然としたまま固まっている。恐怖に顔がこわばり、そもそも声が届いていないようだった。


(……それにしても、なんなの、この気配。空気もよどんでいて息苦しい)


 喉を押さえていたミリアリアの耳に、遠くから騎士たちの避難指示を告げる声が届いた。

 その声に呼応するように、領民たちが雪崩のごとく駆け抜けていく。皆、血の気を失ったような顔で、領主の邸を目指して走り去っていく。空気を切り裂くような悲鳴と足音が混じり合い、ただならぬ事態を物語っていた。

 土埃が巻き上がる中、騎士の野太い声がすぐ近くから聞こえてきた。


「何をやっている、君たちも早く避難するんだ! 封印されていた邪龍が復活したんだ。龍の息に触れたら、たちどころに体が腐敗するぞ。やつは昔、死のブレスで多くの人間を殺めたんだ!」

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