1. トイレの花子さん
epilogue
冷めきっていく彼女の身体を、体温を分け与えるように抱き締める。薄い腹部からはどくどくと血が流れ、耳元で聞こえる息遣いは次第に早く細くなっていき、華奢な身体は自立することもできず、じわじわと重みを増していた。
「ねぇ」
彼女が薄く目を開く。視点の定まらない目がこちらの目の中を覗き込む。もうほとんど何も見えていないのかもしれない。その目にはどう映っているのだろう。
「あい……してる──」
絞り出された声はそこで途切れて、彼女は細いため息を漏らすと目を閉じた。微かな笑顔は憑き物が落ちたかのように穏やかで、透き通るように白かった頬は、今はもう青白く生気を失っていた。
「どうして」
彼女の身体を強く抱き締めて、その胸に顔を埋める。
「どうして」
彼女は何も答えない。
「どうして……っ」
涙は出なかった。悲しいはずなのに、怒りたいはずなのに、それでもなお感情が麻痺してしまったように何も感じられないのだ。
「……ああ」
もう動かない彼女を抱いたまま、その場に蹲った。そしてただ呆然と虚空を見つめ続けた。
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夏の前奏を奏でるように雨粒が傘を叩く。汗と雨垂れで濡れたシャツは、肌にまとわ
りついて肌に張りつき、体温と体力を奪っていく。
普段はすれ違うことのない小学生が、汚れることを厭わず大きな水たまりに飛び込んだ。きっと、家に着いたら出迎えた母親から大目玉を食らうのだろう。名前も知らない少年に思いを馳せながら、胡織は家路を急いだ。期末試験まで時間がない。少しでもテキストを読み込んでおかなければ。“彼”に追いつくためには。
住宅街の中の公園を右折すると、低学年くらいだろうか。また別の少年が水たまりに駆け込むのが見えた。普段であれば若い母親と幼い子供たちの声が響く公園も、連日の雨ですっかり寂しい姿になっていた。少年は滑り台の頂点で、滑ることもなくただぼんやりと縮こまって座っている。階段のそばに転がっている靴は遠目からもわかるほどに履きつぶされており、踵部分は踏まれて平らになっていた。
「……危なっかしいな」
思わず言葉が漏れてしまう。だが、それと同時に小さな違和感を覚えた。なんだろう、あの子はあんな表情をしていただろうか。小学生特有のはつらつさや好奇心のようなものを感じなかった。というよりも、まるで何もかもを諦めているような、疲れ切ったような目をしている。胡織は、彼から目をそらせなかった。すると、視線に気付いたのか、少年は顔を上げて胡織の方を見た。
「っ……!」
やましいことなど何もないはずなのに、胡織は思わず少年から目を逸らし、足早にその場を立ち去った。幼い子供をあのような状況にさらすことは気が引けたが、自分に他人の心配をしている暇などない。自分には時間がないのだ。
「ただいま」
誰もいないはずの玄関に声をかける。もちろん返事はない。靴を脱いで、そのまま自室に直行する。
「はぁ……」
鞄を床に置き、部屋着に着替えて濡れた制服をハンガーにかけると、そのままベッドに倒れこんだ。
「疲れた……」
思わず独り言が漏れる。今日は特に疲れていた。期末試験の勉強もしなければならないし、明日の授業の予習もしておきたい。だが、今はもう何もしたくない気分だった。このまま眠ってしまいたい。しかし、そうもいかないのだ。やらなければいけないことはたくさんあるのだから。胡織は体を起こすと、鞄の中からテキストを取り出した。
野球部の掛け声が響く午後。甲子園を控え、その声は2週間前よりもさらに気合が入っていた。他の部活動も負けじと各々の練習に励んでおり、テスト期間で静かだった校内は再び活気を取り戻していた。
「もうすぐ夏休みだね~」
ふいに隣の女子生徒―今垣綾芽が話しかけてきた。胡織は返事を返すことなく、聞き耳を立てながら書類をまとめている。
「椎葉くんは夏休みに旅行とか行くの?」
「ない。毎日予備校」
「ええ~!せっかくの最後の夏休みなのに!?」
胡織のぶっきらぼうな返事を気にすることなく、綾芽は会話を続ける。
「夏休みなんて来年もあるだろ」
「いやいや、来年は受験だから!遊んでいられるのも今年までだよ~」
「どうでもいいから、手を動かせ。仕事が溜まってる」
マイペースな彼女と会話をしているとつい気が抜ける。早々に会話を切り上げたい胡織の気持ちを察してか、綾芽もそれ以上は何も言わなかった。
「あ、そういえば」
しばらくして、何かを思い出したかのように綾芽が口を開いた。
「最近、うちの学校で噂になってる話があってね」
「『学校の七不思議』ってやつ」
「七不思議……」
そんな子供じみたものに興味はない。胡織は書類に視線を戻しながら、再び手を動かす。
「そう!小学生の時に流行ったやつ!最近よく聞くようになったんだ。生徒会にもいくつか報告があるみたい」
図書館に置いてある児童向け小説にも似たような話があったことを覚えている。『一段増える階段』『目が合うモナリザ』『勝手に演奏するピアノ』『動く人体模型』『走る二宮金次郎像』『開かずの間』、それから……いや、そんなことはどうでもいい。しかし、高校生にもなってそのような噂が流行するとは。胡織は心の中でため息をついた。
「それでね、その話なんだけど……」
「『トイレの花子さん』、だろ?」
「会長!お疲れ様です」
あやめの言葉を代弁するようにして、会長と呼ばれた生徒―弥生鶫が声をかけてきた。
「すみません、まだ書類がまとめ終わっていなくて……」
「はは、急ぎじゃないから気にしなくていいよ。それより……」
「胡織、君に頼みたいことがあるんだ」
「俺に、ですか?」
「『トイレの花子さん』の正体を掴んできてほしいんだ」
「はあ?」
胡織は思わず素っ頓狂な声をあげた。『トイレの花子さん』なんて都市伝説を、なぜ自分が調べなければいけないのか。だいいち、『花子さん』は女子トイレに出るはずだろう。男の自分が調べる理由が見つからない。
「なんで俺が……」
「もちろん、『花子さん』は建前だよ。グラウンドの屋外トイレの調査をしてほしいんだ」
鶫の口紅を引いたような真っ赤な唇と切れ長な瞳が弧を描く。色気をまとった妖艶な表情は同じ高校生とは思えないほどの色香を放っており、胡織は思わず息を呑んだ。
「あのトイレから異臭がすると目安箱に苦情が入っているんだ。他の生徒会メンバーはみんな部活の大会を控えていてね、綾芽ちゃんはどうせ嫌がるだろうし。頼めるのが君しかいない。どうかな?引き受けてくれる?」
「はあ……そういうことですか」
「掃除はまた日を改めて生徒会でするから、とりあえず簡単に様子だけ見て報告してくれればいいよ」
「分かりました、そういうことなら」
「ありがとう。助かるよ」
「いえ。では早速行ってみます」
「うん。よろしく頼むよ」
「はい。失礼します」
胡織は軽く頭を下げると、生徒会室を後にした。
「ああ、そうだ」
「最近、近くで殺人事件があったから。念のため気を付けて」
「え、ああ……はい」
まるで、おやすみを言うかのように軽い口調で紡がれた言葉に一瞬戸惑ったものの、胡織は軽く会釈をして生徒会室を出た。
(めんどくせー……)
廊下を歩きながら心の中で愚痴を吐く。何か適当に理由をつけて断ることもできたが、生徒会の頼みごとを無下に断ることは自分の評価を下げることにもなるだろう。それは避けたかった。それに、あの会長のことだ。断ったら何を言われるかわかったものではない。
「女子トイレか……」
正直なことを言えば、男子高校生にはハードルが高い。だが、自分の評価を下げることは避けたい。覚悟を決めて屋外トイレへと向かった。
「確か、ここのはずだよな……」
校庭の奥にひっそりと位置している屋外トイレは、老朽化により酷く汚れており、ほとんど使われていない。生徒会にも何度も改修の要望が届いているが、予算がどうとか言って、実現することは難しいだろう。入り口のドアノブをひねると、簡単にドアが開いた。
「案外綺麗だな」
思わず独り言が漏れる。掃除もしていないため汚れていることを覚悟していたのだが、予想外に綺麗だったことに驚いたのだ。誰も使っていないから、そもそも汚れが付かないのだろう。男子用便器にも異常はなく、異臭もしない。念のため個室の中も確認してみたものの特に変わったところはなかった。
(なんだ……)
拍子抜けした胡織は、続いて問題の女子トイレの扉を開いた。
「うっ……!?」
鼻が曲がるような強烈な匂いに思わず顔を歪ませた。異臭の原因を探ろうと、匂いの発生源を辿ると、一番奥の個室にたどり着いた。ドアの前に立つと、びちゃりという音と共に透明な液体とぬるりとした感触がした。
(なんだ……これ?)
「……え」
足元に目をやった胡織は言葉を失った。床にはおびただしい量の血痕が広がり、まるで絵の具のように赤黒く染まった水たまりができていた。
(まさか……)
嫌な想像が頭をよぎる。しかし、慌てて首を振ると胡織は個室のドアに手をかけた。
「ひッ!?」
思わず悲鳴が漏れる。勢いよく開け放たれたドアの先には、胸を少女の遺体が座っていた。制服を着ているが、胡織の通う高校のものではない。遺体はあまりに凄惨な姿で、思わず目を逸らしたくなるほどだった。赤黒い血にまみれた腹部はぱっくりと切り裂かれており、臓器らしきものがのぞき見えた。
「……う」
(なんだ……これ)
胡織の胃が痙攣する。今までに経験したことがないような吐き気に襲われた。ぐにゃりと視界が揺れ、胡織の意識はそこで途絶えた。
独特なアルコール臭で目が覚める。ここは保健室のようだ。直前の記憶をたどり、自分が倒れたのだと察した。自覚したとたんに激しい頭痛を自覚する。
「おっ。おはよ」
聞きなれない声が聞こえた。声の方を見ると、隣に見覚えのある…だが名前の知らない男が座っていた。
「体調はどう?」
「……誰だ、お前」
「ひっでーな。せっかく助けてやったのに」
「……それは、ありがとう」
「まあいいや。俺は檜垣瑛都」
「俺は…椎葉胡織」
「知ってる。一応、同じクラスだし」
「……悪い。人を覚えるのが苦手で……」
何となく気まずくなって目を逸らす。檜垣と名乗る男の手元を見ると、紙パックのカフェオレを飲んでいるようだった。
「保健室は飲食禁止のはずだが」
「固いこと言うなよ。お前を運んで喉が渇いたんだから」
「……そうか」
「それより、あの遺体のことなんだけど」
「……!そうだ、会長に報告しないと……いや、その前に警察か?」
「ああ、それはもう俺がやっておいたから大丈夫。胡織はなんであんなところにいたんだ?」
「お前には関係ないだろ」
「いいや、通報しちゃったからもう俺も関係者」
「……」
「で、なんであんなところにいたんだ?」
「……それは」
言いよどむ。檜垣はじっと俺の目を見ている。生徒会の仕事とはいえ、女子トイレの中に男子生徒がいる状況はやはり異様だ。しかし、檜垣の眼力に気圧され、俺は事のあらましを話すことにした。
「……つまり胡織は、会長の頼みであのトイレを調べていたと」
「ああ」
「で、問題の個室を開けたらあの遺体を見つけた……」
「そういうことだ」
「まあ、あんな遺体を見たらだれだって失神するよなあ。警察が言うには臓器が一部なくなってたとか」
「やめろ、詳細に話すな」
「悪いって」
そう言って檜垣はけらけらと笑う。こいつもあんな遺体を見たというのに、なぜ平然としていられるのだろうか。ここまで考えて、胡織の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「お前、なんで遺体を見ているんだ?」
檜垣はしまった、とでも言いたげな顔をした。男子生徒である彼もまた、本来はあの現場に立ち入れないはずだ。
「いや、その……」
「お前、まさか……」
「ち、違うんだって!変な理由じゃないから!」
「じゃあ何だ」
胡織に詰め寄られ、檜垣は観念したようだった。檜垣は渋々と理由を話しだす。
「俺、”聴こえる”んだよ……」
「え?」
「死者の声が聴こえるんだ」
続きます