その三
居酒屋での、今回は鼎談です。
約束通り、夕方に行きつけの個室居酒屋へ集まった真樹と大牟田技師は、坂東医師が仕入れてきた情報へ耳を傾けた。ことに、「防圧放送」という耳慣れない言葉が、大牟田技師の好奇心を大いに刺激したようだった。
「――録音に乗っていないのに、大勢の人間が聞いていた……それを考えると、ない話ともいえないでしょう」
手酌でビールを注ぎながら、坂東医師は物静かに、それでいながら力強く、自分の説を主張している。その姿に真樹や大牟田技師は、自分にも同じような熱気が帯びるのを感じていた。
さて、そもそも防圧放送とは何なのか。まず簡単に、このことについて触れる必要がある。
太平洋戦争末期、南方の要所・サイパン島を米軍によって陥落された日本軍と政府は、現地から日本国内の放送周波数に合わせて送られる、こちらにとっては都合の悪いVOAの放送――今も健在の国際放送「アメリカの声」のことである――に頭を悩ませていた。
当時は空襲警報の際に流れる軍管区情報を聞くため、放送がない時でもラジオをつけっぱなしにしておく家庭が多かった。そこへ、国内の放送が終わった後にサイパン島から放送が流れてくる。これをなんとかせねばと考えた時の日本放送協会はある方法を思いついた。
なんのことはない、流れてくる米軍の放送と全く同じ周波数で、音の上書きをしてしまえばいいのである。そのために使われたのが、ラジオドラマの効果音などに用いる、街頭のざわめきなどを録音したレコードだったという。
「でもまさか、うちの看護師さんがきっかけで、正体がわかるとは思わなかったなあ」
「そりゃあ、あの年なら親御さんは当然、戦中派ですからね……」
思いがけない突破口をいまさらながら驚く坂東医師へ、真樹も重ねて同意してみせる。
「それにしても、初耳だったなぁ。戦争中に、いまのNHKが海外向けにプロパガンダ放送をやっていたのは知っていたけれど、そんなこともやっていたなんて……不勉強でした」
一方、大牟田技師はおしぼりで顔を拭いながら、自身の無学を恥じ入っていた。最初はやや強気で接していた彼も、真樹や坂東医師を前に、すっかりしおれている。
「無理もありませんよ、しょうもないことは覚えてる僕だって、こいつに関しちゃ全然知識がなかったんですからね。本で読んだ限りじゃ、わずかな間だけしか行われていなかったらしいし、ネームバリューじゃやっぱり、米兵泣かせの『東京ローズ』のほうが有名でしょうよ……」
実際、事前に坂東医師から簡単なあらましを聞かされていた真樹も、この件に関してはすぐにピンとはこなかったらしい。本人曰く、
「たまたま、手近にあった戦中の生活に関する資料にざっくりとした記載があったからよかったようなものだ――」
という具合なのである。
「なにせ、ネットにもほとんど記載がありませんでしたからね。WEB版の国語辞典に、言葉の意味がちょこっと載ってるだけだったんですから……大牟田さんがご存じないのは無理もない話です」
坂東医師がキャメルをくゆらせながらフォローにまわる。心なしか、大牟田技師も気が晴れたような装いだった。
「――それにしても、戦後七十九年目にして、放送という名の英霊が出るとは思わなかったなぁ」
「――実は真樹さん、僕はそれが気にかかるんですよ」
神妙な顔で冷やの徳利を傾ける真樹に、大牟田技師が口をはさむ。
「いったいなぜ、今頃になって出てきたのか。それはもとより、僕はいったい、どこからあの奇妙な声が流れてくるのか、とても気にかかるんですよ」
「なるほど、幽霊とはいえ、出どころはあるはずですからね……」
吸いさしを灰皿へ押し付けながら、坂東医師はロイド眼鏡のレンズ越しに、まじめな瞳を覗かせる。
「なにせ、NHKの電波や、うちの電波にかかるような範囲の周波数で来るんですからね。録音に残らない性質のものとはいえ、AMのラジオを通して出てくるわけだから、発信源はあると思うんですが……」
そこまで言うと、大牟田技師はちょっとバツが悪そうに黙り込んでしまった。放送機器の管理をする人間が非科学的なことを口にしたのだから無理もないことだったが、真樹たちは決して、それを笑いはしなかった。
「真樹さん、僕は大牟田さんの意見に賛成ですよ。幽霊にだって規則性はあるといいますからね。現地へ行けばわかることもあるかもしれません」
「大牟田さん、発信源の特定はどのくらいかかりますか」
真樹の質問に大牟田技師は腕を組みながら、
「明瞭な電波がキャッチできれば、十分以内にできると思います。ただ……」
言いよどむ大牟田技師へ、真樹と坂東医師の視線が集中する。
「――特定は楽でも、その機会がいつやってくるか。それが一番のネックですよ」
「……そいつは、もっともですなぁ」
酔いのいまいち回りかねた顔が三つ、小さな個室に並んでいた。
次回へ続く。