その二 または、防圧放送
見えない弾丸、とは電波のことだったそうで――。
詳しい話は夜にでも――という大牟田技師の提案で、いったんラジオ渟足の支社を出た真樹と坂東医師は、それぞれの家に戻って夕方まで小休止、ということになった。もっとも、お互いに古書店のほうと、患者の診療という大仕事が待ち構えているから休止、というのは物の例えなのだが――。
「先生、先生」
「……ん? あ、ああ、どうかしましたか」
「それはこっちのセリフですよ。どうしたんです、眠そうな顔して……」
昼の休憩を前に、ややおぼつかない調子でカルテを確認していた坂東医師は、診療室へ入ってきた年配の、やや太った看護師に心配そうな目を向けられた。
「医院長である坂東先生がシッカリなさらないと、患者さんによくありませんわよ。医院の評判は、力量だけで成り立ってるんじゃないんですから……」
「ハハハ、そのとおりですね。ちょっと眠りが浅かったもので……失礼をしました」
椅子から立ち上がって深々頭を下げると、ベテランの看護師はえへん、と言いたげに胸を張り、
「よろしい。――というのは言い過ぎでしたね。そろそろお昼取りますけど、先生は何になさいます」
そういってメモを取る支度を始めた彼女へ、坂東医師はいつものやつで、と、近場の蕎麦屋に天丼を頼むよう命じた。仕事中の坂東医師は毎回、それしか頼まないのである。
やがて、人数分の品が届き、休憩室で昼食が始まった。別段、なにか打ち合わせをはさむというわけでもない。いつも通り、雑談をしながら食事をし、お茶を飲むだけの昼休みのはずであったが、その日はいくらか毛色が違っていた。
「先生、噂になってるのご存じですか?」
「噂……どんなのですか」
学校を出た間がない若い看護師がそっとささやいたので、坂東医師は箸を止めた。
「夜中に、ラジオのなんにもやってない周波数から音が聞こえるっていうの……ご存じありませんか?」
「あら、そんな噂があるの?」
中年がらみの看護師が、ざるそばを手繰りながら若い看護師に尋ねる。彼女はだまって頷くと、
「それで、気になった人がラジカセを持ってきて、その変な音を録音したらしいんですけどね。全部録り終わって、テープを巻き戻してみたら……」
ジェスチャーたっぷりにひっぱる彼女に、野暮とは思いながらも坂東医師は、
「音が何にも入ってなかった、ってなところかな? よく怪談である展開だね」
自信があったのを不意にされて悔しいのか、若い看護師はむくれた顔を坂東医師にむける。
「もー、先生ったらいじわるなんですから……。それより、先生は知ってたんですか? その話……」
「小耳にはね。なんでも、放送局のミスだって話らしいけど……音が録れてないというのは不思議だねぇ」
小皿の柴漬けをかじり、坂東医師は手酌で麦茶を含む。すると、それまで気に留めずにかき揚げ丼を食べていた年配の看護師が口を開いた。
「ねえ、それっていったい、どんな音が流れてくるの?」
「それがですね、都会の雑踏みたいな音がずーっと流れてくるんですって。別に、変なしゃべり声が聞こえてくるとか、そういうんじゃないんですけど……ちょっと不気味ですよね」
「都会の、雑踏……」
声のトーンの下がったのに気付いた坂東医師は、年配の看護師の顔がどんどん青くなっていくのを見逃さなかった。
「ちょ、ちょっとごめんなさい、なんだか気分が悪くなって……少し横になってきます」
どんぶりへ蓋をかけると、看護師用の仮眠室として使われている部屋へ、彼女は慌ててかけていった。
「どうしたんでしょうねぇ、おトキさんがあんなこと言うなんて……珍しいわ」
中年の看護師が、おトキこと時田の出て行ったあとを呆然と眺めるのを、坂東医師は横目でうかがっていた。
――ひょっとして、時田さんもあの放送を聞いていたんだろうか。
それにしては素振りが妙な気もしたが、これ以上妙な詮索をするのは職場のためにならない――。
そう考えると、坂東医師は一旦、彼女の健康を気遣うような言葉をかけ、その場を半ば有耶無耶に収めた。そして、休憩も明けて、めいめいがカルテのチェックや処方薬の確認を始めたのを見計らって、坂東医師はそっと、二階の書斎から真樹の元へ電話を掛けた。
「――単なる偶然にしてはちょっと気になりましてね。どう思います、真樹さん」
『なるほどねぇ……。そういえば、おトキさんっていくつぐらいのお方でしたっけ?』
「昭和三十二年生まれだから、今年で六十七才のはずですよ。もともと、よその病院で師長をしてたのをやめて、うちへ来てくれたんです」
『ふーむ、なるほど……。別段、戦中派というわけではなさそうなところを見ると、実際にラジオから流れる声を耳にして、てなとこかなぁ?』
電話越しにメモを走らせる音が続き、真樹が自説を述べる。
「さあ、どうでしょう。夜更かしをするようなタイプには見えないけれど……おや、ちょっと失礼……またかけなおします、ではのちほど……」
階下からの足音に気づいて電話を切ると、坂東医師は書斎を出て、階段の方へ顔をのぞかせた。大方、そろそろ診療の時間ですから、と言いに誰かが来たのだろうと思った坂東医師だったが、そこに先般話題になっていたおトキこと、時田がいたのにはさすがに息をのんだ。
「あの、先生……」
いつになく元気のない彼女に、坂東医師は怪訝そうな目を向けつつ、
「あ、ああ、そろそろ時間ですね。下へ行きます、ハイ……」
と、どこか落ち着かない調子で階段の方へ急いだが、三歩進んだところでその足取りは止められてしまった。
「実は、先生にちょっとお話したいことがあるんですけれどね。どうにも、誰かに話をしないと、スッキリしないんですよ。ただ……」
「――おトキさん、ひょっとしてそれは、ほかの人に話すと馬鹿にされてしまいそうな、奇妙な体験だったりしませんか」
「……まあ先生、どうしておわかりになったんです?」
驚く時田に、坂東医師は得意げに、
「第六感というやつは、経験の蓄積あってこそなんですよ。――勝手な想像で申し訳ありませんが、ひょっとしたら、例の奇妙な放送の話と関係があったりしませんか」
バーカウンターつきの応接間へ時田を招き入れ、冷蔵庫に入った烏龍茶の栓を抜くと、坂東医師は二人分のグラスへそっと中身を注いだ。
「ええ、そうなんです。うちはよく、夫がラジオの深夜放送をイヤホンで聞いたまま寝落ちているんですが、昨日の晩、ふとしたはずみにイヤホンが外れて、放送が部屋に流れ出したんです」
「――それが、例の雑踏ばかり流れてくる放送だったわけですね。どこの局に合わせてありました?」
坂東医師のすすめた烏龍茶をなめながら、時田はNHKの第一です、と答える。
「いつも、ラジオ深夜便を聞いてますから、それで間違いありません。でもおかしいんですよ、そんなことがあったのに、新聞や放送じゃあなんの謝罪放送もないんですから……。それで私たち、集団幻覚でも見たんじゃないかと思っていたんですけど……」
「あれだけ噂になっていればそうではない、で、僕へ話をしてくれたんですね」
日ごろ看護師たちへ向けているようなにこやかな笑みを浮かべながら、坂東医師は時田を慰めた。
――夜中にあんなものを聞けば、誰だってびっくりするさ。まあ、早いとこ真樹さんと真相を明らかにしてしまわないとなあ。
と、そんな具合に坂東医師が今後の青写真を広げていたところへ、時田が思いがけないことを話し出した。
「――実は先生。私、例の放送にちょっと心当たりがあるんです」
「……なんですって」
いったい、どこで……と声を張る坂東医師に、時田はちょっと困った顔で、
「で、でも、ずいぶん昔の話ですし……だいいち、今こうして流れてくるのがおかしいんですけれどね……」
「かまいませんよおトキさん、どんなことでもいいから、教えてほしいんです。――心当たりっていうのは、どんなものですか」
すると、いくらか決心がついたのか、時田は烏龍茶の残りを飲み干して、おもむろに口を開いた。
「――私の両親は、勤労動員先で知り合って、戦後に結婚をしたんですけれどね。そのきっかけになったのが、戦争中にNHKのやっていた、『防圧放送』っていうものの仕事だったんだそうです」
露がついたグラスから、並々と水分がテーブルの上へ垂れていった。
次回へ続く。