その三
草木も眠る、丑三つ時――。
……はて?
カーテンのばたばたと揺れる音と、いきなり入り込んできた激しい夜風に首を向けると、真樹啓介はズキズキする頭を押さえて、つけっぱなしの間接照明にまばたきをしてみせる。ベッドサイドに収まったデジタル表示の時計は、夜中の二時三十一分を指したばかりであった。
「――今度はこっちの番か」
布団をはねのけ、籐椅子の上で眠りこける坂東医師に気づくと、真樹は彼の手元からグラスをはがし、余分な布団を一枚、そっと彼の上へかけてやった。そして、全開になっていた窓を半分ほどおろすと、調光器のダイヤルをしぼって、部屋を暗くした。
が、そのとき手元を誤ったのか、真樹はいくつか並んだダイヤルの一つへ指をひっかけ、いっきに目盛りをあげてしまった。どうやら、目覚ましのベル代わりにラジオが鳴るしかけらしく、砂嵐のような音がスピーカーから大波のように迫ってくる。
「しまった、坂東先生を起こしてしまう――」
真樹は慌てて、間接照明を全開にして、ラジオのボリュームをしぼった。が、もう少しで音が消えようというところで、ある奇妙なことに気の付いた真樹は、握ったボリュームをそっと、元の方向へ戻していった。真夜中には十分すぎるほどの音でスピーカーから流れてきたのは、先だって話題にしていた、あの奇妙な雑踏だったのだ。
だが、それに対する真樹の反応は、実に冷ややかなものだった。
「――昨日の今日でまたヘマかよ。いやんなるなぁ」
大方、またNHKの中継線でトラブルがあったのだろう。それくらいに思っていた真樹は、気分を変えようとほかの周波数へダイヤルを変えることにした。ところが不思議なことに、ダイヤルをいくら回しても、普段やかましく流れている深夜放送のパーソナリティの雑談や、時事解説がまるで聞こえてこない。
――おい、こりゃどういうことだ?
どこまで行っても、都会の喧騒のようなあの雑踏の音が、ぬめるように聞こえてくるだけなのに、さすがの真樹も服の下へいやな汗のにじむのを覚える。故障かと思ったものの、液晶画面に出る周波数は、AM電波の上から下をころころと回っている。
……なんだ、なんかおかしいぞ、これは……。
真樹が半ばパニックになりながらダイヤルをまわしていると、背後で眠り込んでいた坂東医師が、物音に気付いて目を覚ました。
「――おや、どうしました、真樹さん」
寝ぼけたまま布団を直し、ずれた眼鏡をあげる坂東医師に、真樹はやや半狂乱になって返事をする。
「先生っ、またです。今度はAMの電波ぜんぶに……」
「――なんですって」
あの晩聞いたのとまったく同じ音に、坂東医師は眠気も酔いも吹き飛んで、そのままベッドサイドへ飛びかかった。
「――真樹さん、僕らは揃って酔っているんでしょうか。AMの周波数はどれも変わっているのに、ずっと同じ音が流れているなんて……」
「そんな馬鹿な、もうずいぶんと抜けたはずなんだが……」
間接照明の明かりの中で青い顔をする二人だったが、まるで糸でも切れたようにぷつんと、問題の音は止んでしまった。そして、そのあとからは二人にも覚えのある、チェーンの焼き肉屋のコマーシャルが、かなりの音量で飛び込んできたのだからたまらない。
慌ててボリュームをしぼり、ラジオのスイッチを消してしまうと、二人はそのまま、布団の上でお互いの顔をじっとにらんでいた。
「……どうやらこれは、ただ事じゃなさそうですよ」
口火を切ったのは、真樹の方だった。技術者のミスという発表を信じていた彼が、今の出来事で転向を余儀なくされたのを、坂東医師はどこか悲しげに見つめている。
「――どうもそうらしい。しかし、これはいったい、どこで、誰が……」
立ち上がって窓を開けると、坂東医師は心地のよい夜風を受けながら、くずれた前髪をそっと掻き上げる。
「狐狸妖怪にしちゃあ、ずいぶんと手が込んでる。けれど……」
隣に立って言いよどむ真樹の肩へ、坂東医師はそっと手をかける。
「けれど、真樹さんの第六感は狐狸……いや、人ならざる奇々怪々なものが関わっているかもしれないと、そう言っているんでしょう? 僕は信じますよ――」
励ましの笑みを浮かべる坂東医師に、真樹は軽く頷き、窓外の月を眺める。雲の間から漏れる青白い輝きが、傘岡の夜にそっと降り注いでいる夜だった。
次回へ続く。