その一
実はこれ、2022年の夏のホラーコンペに出す予定だった作品なのです。
その年のお題は「ラジオ」でした。
若い開業医・坂東医師がその奇妙な現象と出会ったのは、お盆明けのひどく蒸す晩のことだった。書斎でゆったりと、オンザロックのジャック・ダニエルを飲んでいた坂東医師は、うすく流していたポータブルラジオへ耳を傾け、昼間の疲れをそっと癒していた。もっとも、流れている放送の中身はといえば、スムースジャズの番組が終わった後の、癒しとは程遠い時事解説なのだが――。
『……昨今、世界各国では政治への不満をきっかけにした保守思想の再興、そして、ゆきすぎたグローバリズムへの警鐘がならされつつあります。しかし、これらはいずれも、在留外国人、ならびに少数派の人々への迫害や差別の温床にもなりつつあり……』
――時期が時期だと、こういう話も増えるよなぁ。
デジタル時計の日付へ目をやりながら、坂東医師はグラスの残りを一息に飲み干す。八月十四日の午後十時三十一分――あと一時間半後にやってくる十五日のことを、坂東医師はぼんやりと考えていた。
――うちの患者さんには、出征経験があるような人はいないからなあ。野戦病院……だと、師長さんでそんな人がいたっけ。
インターン時代に会った、ベテランの看護師長のことを思い出すと、坂東医師は半分ほどになった丸氷へ、バーボンを並々ふりかける。
――そういえば、僕の周りは結構、戦争経験者が多いなぁ。大叔父さんは軍医だったし、大叔母さんは海軍の病院で……。あとは、内地の勤務で軍属になったりした人がいたっけな。
「……でも、直接、戦線へ行ったような人はいないからなぁ」
その点が若干、坂東医師に暗い影を落としていた。小学生のころ、夏休みに「家族の人に戦争中のことを聞いてきて下さい」というお定まりの宿題が出た時、そのことを正直に答えた彼へ、同級生からこんな言葉が飛んできたことがあるのだ。
――なんだよ、坂東のとこのはみんな無事なんだなぁ。オレのじいちゃんは飛行機乗りで、空母に当たって死んじまったんだぜ。いいよな、医者の家はそういうとき優遇されて……。
当時の法律で医者が徴用出来ないこと、軍医や軍属も危険な目に遭っていることを知ってか知らずか、そんなことを言った同級生にクラスの空気はすっかり同調してしまった。
もっとも、それ以降意図的に省けにされたり、いじわるく当たられるということはなかったのだが、そうした意見をぶつけられたことが、強烈な記憶として彼に植え付けられた。
そしてそれ以来、毎年八月の十五日がやってくると、坂東医師はとてつもない憂鬱に苛まれてしまうのだった。
――こんなものがどうしようもないのは理屈でわかってるんだ。けど、我が身となると……。
医学の心得も、直に手の届かない心の傷を前にしては無力なものだ――そう思うごとに、坂東医師のグラスには並々とバーボンが注がれてゆくのだった。
窓から吹き付ける強い夜風に目を覚ますと、坂東医師は時計へ目をやった。いつの間に眠り込んだのか、日付はとっくに変わり、午前三時を告げる時報が、つけっぱなしのラジオから鳴り響いた。
――さすがに寝ないと、体に響くな。
立ち上がってかるい伸びをしてから、坂東医師はラジオを消そうと手を伸ばした。ところが、酔いで狂った手元は主電源のスイッチをそれ、周波数のプリセットボタンへとあたってしまった。
「いかん、飲み過ぎたな……」
国語辞典ほどの大きさのラジオを手にすると、坂東医師はあらためて電源へ手をかけたが、ふと、スピーカーから奇妙な音の流れてくるのに気が付き、耳をそばだてた。AMにあわせたラジオから、渋谷の交差点のような雑踏と、がやがやという盛り場のようなざわめきがうっすら聞こえてくるのだ。
特別な番組での、そういった演出なのだろうか――。そう思いながら、ローマ数字でⅠと彫られたプリセットボタン、そして正面の周波数の表示を見比べて、坂東医師は愕然とした。
「そんな馬鹿な――」
坂東医師は慌てて、サイドボードに置いてあった朝刊を手にし、中ほどにあるラジオ欄をめくった。そして、二つの事実に気づくと、坂東医師はとたんに、背筋の寒くなるのを覚えた。
ひとつは、プリセットボタンの一番目にはNHKの第一放送がセットしてあること。そしてもうひとつは、その第一放送が放送回線の整備のため、午前零時から東日本の全域で停波中ということだった――。
「どういうことだ、どうして、やってないはずの周波数で……」
しかし、依然としてスピーカーからは往来の雑踏が流れてくる。それを見ると、坂東医師は乱暴にラジオをつかみ、思い切って電源ボタンを押した。もしこれで音が消えなければ……という恐怖が、彼の心をよぎったのだ。
ところが、意外なことに問題の放送はあっけなく切れてしまった。あとには、急に音が消えた後に来る、ツンとした耳鳴りが、酔いのまわった坂東医師と、夜風が入り込む書斎を支配している。
「……消えた、のか?」
おそるおそる、坂東医師は消したばかりの電源ボタンへ指をかけた。そして、それと同時に目いっぱいボリュームを上げたのはよかったが、スピーカーからはAMラジオ特有の、砂吹雪のようなノイズが流れてくるだけだった。
「……なんだったんだ、いったい」
近所迷惑にならないよう、ボリュームを元に戻して電源を切ると、坂東医師はアームチェアへ腰を下ろした。頬をつねってみても、きちんと痛みがつたってくるし、視界はくっきりとしている。
「……酔っぱらいは、自分が酔ってるって認めたくないからなぁ」
いろいろ考えを巡らせるうちに、とうとう眠気が勝ってしまった。ラジオを元へ戻し、書斎を抜けると、坂東医師はクーラーのほどよく効いた寝室に向かい、ベッドへ身を横たえたのだった。
次回へ続く。