幸せな男の最良の選択
「不幸なことというのは、絶対にない方がいいんです」
そんなの当たり前だろ。僕は心の中で呟いた。
ついこの間のことだ。
『時計で幸せになる方法』と銘打ったS氏の著作が大ヒットし、その方法は世の中のほとんどの人が知るところとなった。
S氏は、デジタルデバイスを主に取り扱っているスピリット社の代表で、Sウォッチという腕時計をこの著作と同時に発売した。
僕はヒットに合わせるようにして、この本と時計をセットで購入した。
本に書いてあった幸せになる方法自体は、運動やおいしいものを食べる、好きな人や家族と過ごすなど、ごくありふれた内容だった。
ただ画期的だったのは、Sウォッチで人の幸福量を計測できるようになったことだ。
「さあ始まりました、今週もハピネスTVのお時間です。本日のゲストは話題のこの人、スピリット社のSさんです。よろしくお願いします」
僕が欠かさず観ているハピネスTVは、”幸せ”をテーマとして色々な業界の人にインタビューしていく、という番組だ。
「ほら、観ようよ」
「そんなの観てどうすんのよ」
僕の彼女は世間では珍しくSウォッチを付けておらず、科学や数字にはあまり興味を示さない人だった。
「だって、Sウォッチを発明した人の話がきけるんだよ?絶対面白いじゃん」
「あんたさあ…その腕時計、怖いとか思わないの?」
「怖い?なんで?幸せになるにはこれが必要だよ」
「自分の幸せくらい、自分で決めればいいじゃない」
彼女の声は、たしかに僕の耳に届いていたはずだったが、僕はそれに返事をしなかった。
リビングのわずかな沈黙を破ったのはTVの音声だった。
「Sさんご自身もSウォッチを使用されているんでしょうか?」
「もちろんです。我々は生まれた以上、幸せになるべきというのがわたしの信条です。この時計を使えば、自分が何をしたときに幸福を感じるのか、具体的に数値として知ることができますからね。幸せになるための最短の方法だと思っています」
「なるほど!わたしも使っていますが、これは便利ですね~。おいしいものを食べたり、家族と過ごしている時間にふと時計に目を向けると数値が上がっていて、自分が実際に幸せな時間を過ごしているんだなーと実感できます」
「今後のビジョンに関しては何かお考えですか?」
「そうですね。世界中の人の幸福量データを活用していこうと思っています。様々な角度から数値化していますから、まずはそれらの総合幸福量をランキング化して、世界で最も幸せな人が持っている要素を完全に解明することが目標ですね」
「壮大な目標ですね。もし実現できたら、どんな世界が待っていると思いますか?」
「わたしは幸福値の高さが、お金や権力をどれだけ持っているかよりも価値を持つようになってくると思っています」
そんなS氏のビジョンは、ほどなくして”幸せ番付”として記事になった。
話題になっていたのは幸せ番付でNo.1に輝いた”世界一幸せな男”、K氏だった。
その男は、TVやSNSで毎日話題になっていた。
「それだけ幸せということは、悩みなんてないですよね?」
「そうですねー。悩みと言えるかわかりませんが、わたしには常に選択肢が1つしかないということでしょうか…」
「というと?」
「厳密にはあるんですが…わたしは物心ついてから常に、自分が最も幸せになる選択肢を選ぶことにしているんですよ」
「そういうことですか。でも、それなら自分が何を選ぶべきか迷うこともないってことですよね。それで世界一幸せになっているわけですから、やっぱり羨ましいですね~」
Sウォッチが便利なのは、実際に経験したことの幸福値を計測できるだけではない。未来に経験するであろうことを想像することで、ざっくりどれだけ幸福値が変化するかがわかるのだ。実際の経験をもとに計測するよりは精度は落ちるものの、この機能を活用すればほぼ間違いなく自分が幸福になる選択肢を選ぶことができるというわけだ。
僕はこの機能を使って、今日は何を食べたらいいかとか、どんな趣味を始めたらいいかとか、日常の至るところで時計の幸福値をもとに判断するようになっていた。
一方で、何かとSウォッチのことを否定してくる彼女がだんだん鬱陶しく感じるようになった。
互いに溜まっていた鬱憤が、ある日爆発してしまった。
「だから言ってるでしょ⁉そんな時計いらないの!捨てて!」
「何言ってんだよ。だって、一番いいものを選べるんだよ?一度つけてみれば良さがわかるって!」
「だから、それが必要ないってわたしは言ってるの。外食のメニュー1つとっても、2人でどれがおいしそうかって相談したりして、注文したのが失敗でも、やっぱりあっちにすればよかったねって2人で後悔して笑い合ってた、あの時間がわたしにとって幸せだったの」
そんなささやかな思い出話をされて冷静になった僕は、真剣にこの問題について考えることにした。彼女には明日また話そうと伝えて、僕は部屋に籠った。
自分が幸せになりたい、彼女を幸せにしたい。この2つの望みが僕を悩ませた。別れた方が互いのためなのかもしれない、とも思った。それでも簡単には割り切れないくらいには、彼女のことが本気で好きだった。僕は部屋で一人、時計も見ずに真剣に悩んだ。
その夜のこと。
ふと聞こえてきたニュースに僕は、耳を疑った。
「えー、繰り返しお伝えします。”世界一幸せな男”、K氏が殺人容疑で逮捕されました」
K氏の供述は以下のようなものだった。
わたしは、幸福の奴隷でした。
妻を殺害したのはたしかです。動機は、妻がわたしの幸福を阻害するようになったからです。離婚も考えたのですが、それを想像した瞬間幸福値が一気に下がりました。ところが、妻の殺害をいくら具体的に想像しても、わたしの幸福値は落ちなかったのです。不幸を知らないわたしに選択肢はありませんでした。それが最良の選択だったのです。
これまで、わたしに不幸な瞬間はありませんでした。
それが唯一の不幸です。
僕は時計を捨てた。それが僕にとって最良の選択だった。