極楽の人
僕は自分が煉獄にいると思っています。
福沢諭吉は、
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、
などと説いていない。
男子、三日会わざれば刮目して見よ、
と呂蒙が言うように人には様々な内面の能力がある。
これは飽く迄も、私の、作者自身の見解ですが、
天は人の上に人を造らず、と言うのは
人の上に造られた人の妄言であり、人の下に造られた
人が共感できるように説かれたものなのだ。
「我々」はこのような不平等と常日頃
戦わなければいけない、
人の下に造られた人なのである、
いったいなぜ「我々」なのか?これを読んでいる貴方、
つまり読者、または自分自身、そう、
画面の前の貴方です、これを読んでいる人なんて
人の上に造られた訳がない、そう確信しているからです。
なんと言っても人の上に造られた人は最初の見解に共感せず、この文に目を通す事無く終わる筈ですからね。
話を戻しますが「我々」は人の下に造られた人達なのです、
ですが、ですがね、
見ようによっては不平等の得をする側が「我々」である、
とも考えることができるのでは無いでしょうか。
ここで考えて頂きたい、
人の下に造られた「我々」、 人の上に造られた人、
「多数派」はいったいどちらになるでしょうか、
少し考えれば分かると思いますが、勿論
下に造られた「我々」の方が多いです。
二択の多数派は劣ってる方が多いものでしょう?
我々人間、
またの名をホモ・サピエンス、ヒトとも言いますね、
この生き物はなんだか妙に大きな数というものが好きなので、なんでも「多数派」を決めたがるものなのですよ、
ナチス・ドイツだって多数決によって設立されましたし、かの有名なエジソンまでも多数決に目を付け即座に結果を調べられる押しボタンを開発しました、まあ、
ナチスは大失敗し、エジソンの押しボタンも採用されることは無かったのですがね、
多数決によって人類というものは何度も悩み、
何度も人類を分断してきたのです、ですがその中で多く共通している点、「多数派」は大体尊重されるのです。
その点を踏まえもう一度言います、
「我々」は人の下に造られた人です、ですが、
本当に我々は不平等の損をする側なのでしょうか
私は9割この考えを否定することができます。
つまり、「我々」人の下に造られた人の方が
正しい人間である、と言えるようになったのです、
残りの1割は是でも非でもなく、許容
この考えはまあ良いんじゃないか、といった程度に考えています、
ここで、私自身可笑しく思ったのが、1割の方です、
9割否定できるのは自論なので当たり前ですが、
この1割、なぜ許容したのか、
それは、この説に間違いが有るせいなのだと思います、
自分が「多数派」になり正しい人間になったからなんなのだ、と「我々」が正しい、人の下に造られた人が正しいと、
人の上に造られた人が正しくないのか、恐らく、違う。
可笑しい、なにか、
今まで私がしていたのは、「我々」、人の下の人が「多数派」であり正しい、という証明、人の上の人が正しくないことは証明が出来ない、確定出来ないことなのでしょう、
これは私が確定出来ない、私だけが出来ないのではない。(おそらく)
多数決の為に押しボタンを作ったエジソン、
人それぞれに個性を見出そうとした呂蒙ですら確定できず、
そしてこの考えの元となる文を引用した福沢諭吉ですら、学ぶことで解決するというパワープレイしかできない、
これはそういった問題なのである、
それをこんな一般人の、それも人の下に造られた人間である私一個人ではおそらく解決出来ないであろうと思う。
きっと、このような考えをしたのは私が始めてではない、多くの人を悩ませ続けたような大きい問題なのである、ですが、私は一つ、便利なまとめ方をアメリカの独立宣言序文から今日教わっていたのです、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、
されども、人の上に極楽は有らず 人の下に煉獄は有らず」
便利でしょう?流石、人の上に造られた人が考えたやり方は良いですね、
皆さんはどうですか?