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物騒シリーズ

山月記と変身願望

 山月記。


 1942年に発表された中島 敦の短編小説で「詩人になるという望みに破れた男が、発狂して虎になってしまう」という物騒なものだ。


 詩人になるために多くを捨てたにも関わらず大成できず、最後には気が狂ってしまうというのだから、目も当てられない。



 詩にかぎらず、創作に人生を捧げたことでかえって貧しくなるという現象は枚挙にいとまがない。


 それでも人々は憧れ、手を伸ばす。

 椅子なんて数えるほどしかないのに、そこに座れると思っているのだ。



 そのためには自分の人生をないがしろにすることもいとわないし、どれだけ犠牲を積み上げても飽き足らない。


 平凡であることに耐えられず、何者かになろうとして。


 取り返しが付かなくなってからこう言うのだ。



 こんなはずじゃなかったのに、と。

 


 

 さて、そろそろ本題に入ろう。


 これはわたしの復讐の物語だ。




 あれは中二の夏の頃。

 夏休みも終わりに差し掛かった、ある日のことだ。


 わたしはクーラーのきいた部屋で蝉の声を聞きながら、小説投稿サイトを見ていた。


 誰でも自由に作品を投稿できるという触れ込みで、毎日何千もの小説が公開されるその場所は、当時のわたしにはひどく稚拙ちせつに見えた。



 並ぶのはロビンソンクルーソーの原題のような、長大なタイトルばかり。


 しかも、どれも似通ったことばかり書いてある。

 流行に媚びを売っているのだろうか。


 いくつか読んでみると、逃避のために作られたかのような、甘ったるい展開に胸焼けがする。


 大抵の筋書きはこうだ。


 これまでとは違う。

 別の自分へと変わり、認められる。


 それだけだ。

 そんなどうしようもない、変身願望を満たすための小説ばかり。


 本当の自分はとても素晴らしい人間なんだ。


 こんなのは本当の自分じゃない。

 本当は、こんな惨めな人間じゃないんだ。


 そんな思いが透けて見える。


 きっと、皆。

 何者かになりたいのだろう。


 でも、なれないのだ。


 だから、こんな甘ったるい物語で自分をごまかして生きているのだろう。


 くだらない。


 その上、書き手はいつだって小説投稿サイトのランキングに執心して、勝っただの負けただの、書籍化しただの、なぜあんなやつが上位にだのと言っている。


「なぜ、こんなものの為に。ふざけているのか?」


 わたしはだんだんと腹が立ってきた。


 こんなものの為に、と。

 気がつけば何度も呟いている。


 ああ、この安易でお気楽な展開しかなさそうなタイトルが出版され、国会図書館に保管されるだなんて、気が狂いそうだ。


 わたしは国語のテストでも90点を切ったことはないし、読書感想文では賞を貰ったこともある。


 夏休みの宿題はもう終わっているし、読書感想文だって良い出来だ。

 きっと、先生だって褒めてくれる。



 早速、パソコンのメモ帳を開き。

 何事かを書こうとして、やめた。


「いや、まだだ。市場を調査する必要がある。」


 自分はこの小説群を舐めてはいない、だからこんなことをするのだ。


 そう自分に言い聞かせて、その日は一文字も書くことなく小説投稿サイトを見ていた。




 当時のわたしは、どうしようもなく嫉妬に駆られていて。


 そのくせ、あまりにも無自覚だった。


 小説への愛憎と、父への復讐心。

 それらを一緒くたにしていたのが悪かったのだろう。


 人は皆、おぞましいものからは目を背けるものだ。

 そして、こうした抑圧は時に夢となって現れることもある。



 その晩、夢に現れたのは虎だった。

 

 ただ一言。


「やめておけ」


 と言って、闇へと去って行く。

 わたしは憎悪をくすぶらせながら、虎が闇に融けるのを見ていた。

 

 

 憎悪の理由はすぐ理解できた。

 理解できたからこそ余計に憎たらしかった。


 あれは李徴りちょうだ。


 短編小説、山月記の主人公。詩人になるために仕事まで捨てたというのに何にもなれず、気が狂って虎になってしまった男だ。



 やめておけだって?

 創作に身を投じて、自分のようになるなとでも言いたいのか?


 わたしに小説が書けないとでも言うのか。


 あのくだらない小説たちにわたしが負けるとでも、そう言いたいのか?


 ふざけるな。

 わたしはお前とはちがうんだ。


 いきどおったわたしは小説投稿サイトを巡り、小説を読み散らしていく。


 くだらない、くだらないと言いながら。

 その癖、一文字も書くことなく、ひたすらに読み続ける。


 自分がなぜこんなに躍起になっているのかもわからないままに。


 隣の部屋から奇声が聞こえてくる。

 腹違いの姉だ。何やらずっとゲームを作っているらしい。


 そういえば、去年も作っていた。

 ネットでつのった仲間と作業しているようで、いつも通話で喧嘩ばかりしている。



 あんなの現実逃避だ。

 学生の本分は勉強ではないのか、大学生にもなって恥ずかしい。


 わたしは片手間だけど、あの女はどうも本気のようだった。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 姉も何かになりたいのだろうか。


 そんなことを考えながら、小説を読んでいく。


「何だ、これ面白いぞ。」


 くだらないと思っていた小説の中にも、面白いものがあった。

 でも、なぜ面白いのかわからない。


 構造を分解し、分析していく。


 文学史に名が残る文豪ならば、その過去や経歴、当時起こった事件から情勢を推測し、解釈を重ねることもできるけれど、今回はそうはいかない。


 純粋に小説そのものから割り出すしかない。


 何日も、時間を忘れて読み込むうちに、傾向のようなものが見えてきた。


 序盤はわかりやすいテンプレートな展開をさせ、読者が食いついたあたりで作者が好む流れに引き込んでいるのだ。


 そんなことをしないと読まれないなんて。

 これでは似たようなタイトルばかりになるわけだ。


 すっと、心の芯が冷えていく。

 

 何が自由な創作の場だ。

 こんな場所で自由な創作などできるわけがない。


 いや、できはする。

 できはしても、それが認められる可能性は低いだろう。


 そして、否応なしに数字を突きつけられるのだ。

 それがどれだけ過酷なことか。


「まだだ、勝ち筋が見えなきゃ。書くだけ無駄だ。」


 作品だけでなく閲覧数やその変動値、初動なども調べていく。

 最初はノートにまとめていたけれど、途中から表計算ソフトに切り替えた。


 執筆道具も、メモ帳から文書作成ソフトに切り替える。


 作品の内容とは無関係なことに時間を取られすぎている気がするけれど、これも必要なことだと思うことにした。


 それでも、焦りはつのっていく。


 こうしている間にも、新しい小説は次々に公開されているのだ。


 そればかりか、何時間もかけて作品を公開しても、すぐに後続の小説に押し流され、人目に触れなくなる。



 連続公開できる長編であれば、序盤で人気が出なくても後半で巻き返しが利くけれど、短編はそうもいかない。



 つまり、短編は不利。

 身の詰まった私小説や研ぎ澄まされた短編など、書くだけ無駄だろう。


 長編を書くにしても、ウケなければ延々と書き続けることになる。


 いつ当るかわからないものを書き続ける苦痛は、すでに何人もの作家の筆を折っていた。



 ウケそうな書き出しをいくつか用意して、評価のよいものだけ書き続け、不要なものは削除することも考えたが、同じ手法をとって炎上した作家を見てやめた。



 同じてつを踏むのは馬鹿のやることだ。


 勝ち筋が見えない。

 勉強の方が遙かに簡単だった。


 学校の問題には解答があり、その道筋を学ぶ手立ても用意されている。


 でも、この問題には明確な答えがない。

 道筋は曖昧で、そもそも手立てがあるかもわからない。


 本屋さんで指南書も買ってきたけれど、あれに書かれているのは小説を書く方法だ。


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 どうすればいい、どうすれば人気が出る?

 何も思いつかない。


 わたしは絶望的な気分になって、ベッドに倒れ込む。


 そういえば、今日はいつだろう。

 かなり時間を使ってしまった気がする。


 夏休みが終わるまでにはいっぱしのものを書いて、ランキング上位に食い込んでおきたい。


 このままじゃ、ひどく惨めだ。

 歯がみしながら眠りに落ちると、またあの夢を見た。



 虎だ。虎がいる。


「どうやら、血は争えないらしい。」


 暗がりの中の虎は、残念そうに見えて、どこか嬉しそうだった。

 芥川がどうとか、太宰がどうのとか、そんなことを言っている。



 やめろ。

 書きたくなんかない、ただ何もかも気に食わないだけだ。


 お前なんか嫌いだ。

 あの小説投稿サイトも。


 変身願望に取り憑かれた読者も。

 それに合わせて書くやつらも、嫌いだ。


 特にお前は、嫌いだ。

 父親みたいで、嫌いなんだ。


「そうか」


 虎がわたしを見る。

 

「学校には行けよ」

 


 おぞましいことに気づいて、わたしは目覚めた。

 

 時刻は午前11時。

 今日は始業式だった。

 

 ラインの通知が溜まっている、クラスメイトのKからだった。

 友人が始業式に現れなかったのだ、心配もするだろう。


 こんなことは初めてだ。

 どうしたらいい、今から学校に行くべきだろうか?


 遅刻なんて恥ずかしい。

 こんなの一生の汚点だ。


 いっそ体調不良で休んだ方がまだマシだ。


 どうせ今日は始業式だし、大した授業もないだろう。

 

 わたしは学校を休むことにした。

 妙な焦りがあるけれど、気にしない。


 せっかく時間ができたのだ、今のうちに小説投稿サイトを研究しよう。

 中学二年生の語彙ごいじゃないとまで言われたわたしが、舐められたままではいられない。


 絶対にランキングを駆け上がってみせる。




 そして、更に一週間が経過した。


 スマートフォンは通知がやかましいので電源を切った。

 姉はゲームが完成したのか、最近は嬉しそうにどこかに出かけている。


 義母はいつもどおりだ。

 わたしに気づいても、不干渉を貫いている。


 テーブルの上に今月の食費が載っていた。

 わたしの分だ、とりあえずこれで飢えることはない。


 ふと、思った。

 別に学校に行かなくてもいいのではないだろうか。


 幸い、わたしが通っているのは中高一貫校だ。

 多少、出席日数が減っても高校卒業まではエスカレーターだし。あんな退屈な授業なんて受けなくても支障は無い。


 すでにクラス一位なのだ。

 あいつらにはちょうどいいハンデだろう。


 そんなことより、この小説を読み切るほうが先決だ。




 『メイドオブオールワーク』


 トレンドを無視したタイトルでありながら、ランキングを駆け上がり、先日書籍化が決定した作品。


 メイドに身をやつした元ご令嬢が、雇い先の屋敷で起こる難事件を解決していくというミステリーものだ。


 高貴な身の上の少女がメイドに身をやつすという展開は小公女セーラから続く鉄板だし、読者の変身願望も叶えられる。



 その上、きちんとミステリーとして成立していて、探偵役のメイドとワトソン役の坊っちゃんのコンビが実にすばらしい。



 当初は不仲なのだけど、回を重ねるごとに関係が改善され、友情が芽生えていくバディものとしても読める。ミステリーに不慣れでも二人の掛け合いだけで十分に楽しめる構成だ。



 その上、メイドや当時の貴族事情にも詳しく、大した財産もない貴族が見栄を張ってメイドを雇った際に発生する社会問題が、現代にも通じている。



 そして、選択を前にして怯まず。現実を凝視するような、何か。

 この何かが、胸を熱くするのだ。


 疑いの余地もない、この作者は本物だ。


 勝てるのか、この小説に。


 そんなことを考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。

 呼び鈴の音はけたたましく、おさまる気配がない。


 仕方なくドアを開けると、クラスメイトのKがいた。


 連絡が付かないことを心配してやってきたらしい。


 わたしのスマートフォンは電源を切ったままだし、先生が義母に電話しても無言で着信拒否されるのがオチだろう。あれはそういう女だ。


「Kを嫌いになったわけじゃないよ、今は忙しいからじゃあね。」


 そう言ってドアを閉めようとすると、烈火の如く怒られた。


 言っていることは要領を得ないけれど、わたしを心配しているのはわかる。


 近所迷惑なのでこのままお帰り願いたいけれど、言うことを聞いてくれるとは思えない。普段は大人しい子なのに、たまにこうなるのだ。


 家に招いたものの、どの部屋に入るか迷う。


 少し迷ってから、自室に入った。

 

 最近はパソコンを使う都合上、失踪した父の部屋に入り浸っているから、自分の部屋は久しぶりだ。Kには適当な場所に座ってもらう。

 

「よかった。酷い目にあってるかと思ったよ。」


「酷い目って何さ。」


 虐待とか? とKが言う。

 黒い瞳がわたしを見ていた。


「ないない、そんなのないよ。」


 そんなこと、あるわけがない。

 虐待されるほど、深い関係なんて築けていないのだから。


 Kを自室において、わたしはキッチンにお茶を取りに行く。


 冷蔵庫の食べ物やペットボトルには油性ペンで名前が書かれている。調味料も同様で醤油が三本、ソースも三本、その他諸々の調味料も名前つきだ。


 中身は圧迫されるが仕方ない、食べ物を共有する不快さを考えれば、不便にも耐えられるというものだ。


 自分の緑茶を取り出して、グラスに注ぎ、Kの居る自室へと戻る。




 事の始まりは、あいつ。

 わたしの父ということになるのだろうか。


 父は小説家志望の、どうしようもない男だった。


 もう30も過ぎたというのに憧れを捨てることができず、アルバイトをしながら売れない小説を書いていた。


 あいつは体験というものを重視していた。


 小説、特に私小説を書くにあたっては自身の経験がモノを言う。だから、経験が大切なのだといつも言っていた。


 ああ、そうだろうね。

 わたしもそう思うよ。


 でも、だからといって小説を書く為に女に近づいたり、結婚したり、子供を作るのはどうなのかな。


 そうして書き上げた小説が箸にも棒にもかからないと、あいつはすぐに女を捨てる。



 こんなはずじゃなかったのにと、ひとしきり悲しんだ後こう言うんだ。


「そろそろ次の題材を見つけよう。」


 いやぁ、前向きですね。実に前向きだ。


 立ち止まらないというか、止まる気もないというか。

 前に進むことしか考えていないというか。


 端的に言えば、狂っている。


 そうして捨てられた一人目の女が姉の母で、その次の女がわたしの母だった。


 母はあの人は純粋なのよと言った。

 ああ、純粋だろうね。でも、醜悪だ。


 というか、純粋なのは母の方だ。

 いつまでも愛してもらえると思っているのだから。


 案の定、新作は一次選考に落ちて。

 あいつはまた女を変えた。


 白々しくも「こんなはずじゃなかったのに」と言って。


 純粋だったが故に、母の怒りは凄まじかった。

 わたしに至っては、お前なんか産まなければよかったと言われた。


 ああ、わたしもそう思うよ。

 わたしだって、生まれてきたくなんかなかった。


 逆に聞きたいくらいだよ、なんで産んだの?



 そして、わたしと姉は父と共に新しい女の家に住むことになる。


 それがこの家だ。


 わたしも姉も馬鹿じゃない。

 ここまで繰り返されたのだ、あいつのやり口を読んで、それぞれ先手を打つようになった。


 大学進学を控えていた姉は、あいつの執筆活動を遅らせることで離婚を食い止め、新しい女に大学の学費を捻出ねんしゅつさせようとした。


 実に打算的だ。

 いいんじゃない? 好きにすれば?


 ちなみに、小学5年生だったわたしはどうでもよかった。

 もう、本当に。何もかもどうでもよかった。

 

 こんな気持ち悪い世界。

 気持ち悪い場所なんて、みんな壊れてしまえばいいと思った。


 だから、新しい女に入れ知恵をして、あいつを追い出した。


 姉は激怒した。

 そりゃあそうだろうね。


 せっかく大学受験に成功したのに学費が払えないのでは通えない。

 でも、そんなことはどうでもよかった。


 みんなみんな、苦しめばいい。

 そう思った。


 あの男は小説の邪魔をされたと怒っていたけれど、そんなに小説というのは大切なものだろうか。


 あいつが残していった蔵書はあらかた読んだ。

 本来なら高校で学ぶ、『山月記』も『公然の秘密』も読んだ。

 

 どれもこれもつまらない。

 小説なんてつまらない。


 こんなものの為に、わたしがひどい目に遭っている意味がわからなかった。


 ただ、母を書いたあの小説だけは、とてもよかった。


 せめてあの小説がつまらなければ、わたしはこんなに苦しむこともなかったと思う。




 Kに緑茶を渡すと、少し話をした。

 

 何度か酷い目にあっていないかと疑われたけれど、気のせいだよとはぐらかしておいた。


 実際、何もされていない。

 あの女はわたしたちがここで寝泊まりしても怒らないし、金もくれる。

 

 姉は大学に通い。

 わたしは中高一貫校に通えている。


 金銭的な不自由はない。

 ただ、お互いに関わり合おうとしないだけだ。


 父が失踪してもあの女はまだ籍を入れたまま。

 書類上、義姉もわたしもあの女の娘ということになる。


 ああ、かわいそうに。


 愛した男に裏切られ、こんなどこの女との子かもわからない奴を二人も育てなきゃならないなんて。本当にかわいそう。


 同情するよ。

 でも、諦めて欲しい。


 人生とは理不尽なものだ。


 わたしたちは何にもなれない。

 特に、家族にはなれない。


 このまま、何にもなれないまま生きていくのだ。

 それでいいじゃないか。


 金の算段がついたらすぐに出て行くよ。

 だから、今後とも関わり合わずに生きていこう。

 

 それが、お互いの為だ。

 

 わたしはクラスの連中が用意しつつあるという寄せ書きをぞんざいに断ると、明日は学校に行くよ。と約束した。



 わたしは少しおかしくなっていたんだと。

 そう、付け加えて。


 Kを玄関まで送ると、外は綺麗な夕焼けだった。

 ゆっくりと扉が閉まっていく。

 

 家の中は、外より少し暗いものだ。


 そういえば、Kは少し心配そうな顔をしていた。


 優しいんだね、K。でも無理だよこんなの。

 どうにかできるわけないじゃん。


 どんなに外側を取り繕っても、わたしたちの人生は取り返しがつかないくらいぐずぐずになっているんだ。


 小説とかいうくだらないものに、身体の中を食い尽くされてしまった。


 中高一貫校の試験を突破しても、テストで一番になっても、別に何かになれるわけではなかった。


 振る舞ったお茶を片付けるために自室に戻ると、わたしはなぜか「帰りたい」と呟いていた。


 わたしの部屋はここなのに。

 帰りたいと、そう思うのだ。


 この部屋にあるのは、すべてあの女の金で買ったものだ。


 服も、部屋も、食事も。

 それを食べて育ったわたしの身体も。


 あの女の金でできている。


 まるで水槽に生きる金魚のようだと思った。

 自分では何も出来ず、与えられなければ死んでしまう。


 だから、帰りたいと思うのだろうか。


 本当の母を探しに行く物語は数多あるけれど。

 わたしが母の元へ行っても、何もいいことはないだろう。


 わたしが好きな母はもう、あいつの書いた小説の中にしかいない。


 あの母もまた、中身を全部小説に食われて、ぐずぐずになってしまったのだから。



 小説なんて嫌いだ。

 そんなものに執心する、作家たちも嫌いだ。


 でも、何よりも嫌いなのは。


 甘ったるい空想で人生をごまかして、のほほんとしている読者やつらだ。


 人生はつらいよ?

 ああ、つらいよな? 知ってる。


 わたしだって、何かになりたいよ。


 だからって、それで、自分から逃げてどうするんだよ。

 いいよな、お前らは。そうやって逃げていられるんだから。



 わたしは、わたしの人生は、そんなやつらの糧にされて、娯楽として消費されるためにあるのか? それが小説ってものなのかよ。



 せめて立ち向かえよ。

 人生が苦しくても、つらくても、何もかもうまくいかなくても。


 それでもてめえの人生だろうが。



 それからわたしは失踪した父の部屋に戻って、安っぽいコピー紙に印刷された母の物語を少し読んで、そのまま寝た。



 夜中に目が覚めて、何か素晴らしい傑作でも書いて世間をあっと言わせてやろうと思ったけれど。結局、一文字も書くことができなかった。



 この頃のわたしは人格権のことも知らなければ、父の書いた私小説というジャンルがどういうものなのかも、わかっていなかった。



 娯楽小説の重要性も知らぬままに、物事を混同して勝手に怒り狂う。

 我ながら、浅はかなガキだったと思う。


 そもそも、小説に何の罪があるというのか。

 悪いのは父であって小説に罪はない、それだけの話ではないか。




 そういえば、その日も虎の夢を見た。


「思うに、お前の父は虎になってしまったのではないか?」


 虎の姿をした李徴(りちょう)がそう問うてくる。

 

 確かにそうかもしれない。


 とても危険な人食い虎だ。

 みんなみんな食べてしまう、きっと心が虎だから、罪悪感もないのだろう。


 ふと、山月記を思い出す。

 父と比べると、李徴(りちょう)はずっと立派に思えた。


 虎になった後も詩文を捨てられなかったのは父と同じだけれど、父のように作品のために人を食おうとはしなかった。


 しかも、虎になった後も妻と子の心配をしていた。最後の最後の一言だけれど、それでもわたしの父よりはずっと気高く、立派だった。


 わたしは虎に身をゆだねる。

 虎はそっとその大きな腹を貸してくれた。


 ぐるると、唸って、息を吹く。

 かじったりしない、優しい虎だ。


 でも、いつまでも優しくはないんでしょう?

 時が経って、心のすべてが虎になったら、わたしを食べてくれるかな。


 ねえ、李徴(りちょう)

 わたしも虎になりたかったよ。


 このままずっと学校に行かずに、誰とも関わらずに、小説のことだけ考えていたかったよ。

 


 小説のことは嫌いだけれど、それでも素敵な小説というのもあって、そういうものをたくさん読んで、自分でも書いてみたかったよ。



 そして、ろくに何も書けずに虎になってしまいたかったよ。



「やめておけ」


 虎が、李徴(りちょう)が続ける。


「人と交わり、師を見つけて研鑽せよ、恥を忍ぶのだ。虎になどなるな、君は人のまま詩人となれ。」


「書きたいものがあるのだろう?」


 書きたいもの、わたしが書きたいもの。


 ああ、確かにある。

 今、読んでいる『メイドオブオールワーク』みたいな真に迫る話をわたしも書きたい。

 

「そして、何にもなれぬなどと、わけのわからぬ事を言うな。」


「君は何にならずとも、すでに君であるのだから。」


「嫌いながらでも構わぬ、ただ己を愛すがいい。」


 その後、しばらく虎と会話をしたけれど、今となっては覚えていない。

 

 でも、これでいいのだ。

 頭では忘れても、それは思い出せないだけで、ちゃんと身体に残っているから。


 これは、もう小説なんかに食わせない。

 誰にも語らず、語られない、わたし自身なのだ。




 その翌日、わたしは学校へ行った。


 クラスメイトに心配され、先生に心配され、Kに心配された。

 

 こんなにたくさんの人に話しかけられることなんてなかったので、こそばゆかったのを覚えている。


 しばらくして先生に呼び出された。

 事情聴取というやつだ。


 家の事は伏せておきたかったけれど、職員室にある小部屋で色々聞かれるうちに、つい事情を話してしまった。


 怒られるかと思ったけれど、意外にも先生は怒ったりしなかった。

 力になりたいから一緒にどうするか、どうしていきたいかを考えようと言ってくれた。



 どうやら、外の世界にはまともな大人もいるらしい。

 何も解決していないのに、気が楽になるのは不思議だった。

 

 

 その翌日あたりから、わたしの人生は少し面白くなった。


 K曰く、人生が面白くなったと言うよりは、わたしの方が面白くなったらしいけれど。そんなことはない、絶対にKの方が面白い。



 だって、Kは中学生ライトノベル作家になった。

 あの『メイドオブオールワーク』を書いたのはKだったのだ。


 その事実にわたしは嫉妬した。

 羨望と嫉妬が激しく心を駆け巡り、もう虎になってしまいそうだった。


 しかし、わたしは虎にならずに済んだ。

 なぜなら隣の席の男子が『メイドオブオールワーク』を馬鹿にしたからだ。


 こんな小説、小学生でも書けるぜ!


 中学生らしい小馬鹿にした態度にわたしは瞬間湯沸かし器のごとく沸騰し、憎悪のすべてを拳に込めて、殴った。


「お前が小説を語るんじゃねえ!!」


 それで一週間の停学になっているのだから、笑えない。

 Kは笑うけれど、本当に笑い事ではなかった。


 

 それからは大きな問題も無く高等部に進んで、今に至る。

 


 問題がないとは言ったけれど、うちの家庭は崩壊したままだ。

 義母とはドライな関係が続いているし、腹違いの姉はゲーム会社に就職して上京したきりだ。


 小説もいくつか書いてみたものの、まだうまくはいっていない。


 恥を忍んでKにも見てもらっているのだけど、どうにも感情が先行してしまって、読者を置いてけぼりにしてしまう。


 それでも、傾向と対策を繰り返せば見えてくるものがある。

 少しずつ、前に進むしかないだろう。


「君は、本当にこれを公開するつもりなのか?」


 今日も、夢の中で虎が言う。

 いやいや、絶対面白いんだって。


 わたしはもう一度、新作のタイトルを読み上げる。


『おっす! わたし李徴りちょう! 小説投稿サイトでトップランカーを目指すんだ! 前世では嫉妬に駆られて虎になっちゃったけど、今世では嫉妬なんかに負けないんだから!』


 虎が言葉に詰まっている。

 気持ちはわかるけれど、諦めて欲しい。


 TS転生メスガキモノで作家属性つきというのは新しいのだと、何度でも力説してみせる。


 しばらくして、虎はしぶしぶ折れた。

 やった。我、許可を得たり。




 ああ、これは復讐だ。

 

 あの父親の小説が本になることはないだろう。

 

 でも、万が一。

 億が一にも単行本でも出そうものなら、圧倒的な売り上げで正面から叩き潰してやる。


 誰も犠牲にしなくても、面白いものは書けるのだと、証明してやるのだ。



 わたしは何にもなれぬまま。


 復讐心に身をゆだね。


 たまに虎の夢を見る、女子高生として生きている。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 一見「なろう」の作品や読者に喧嘩売ってるのか、とも見えますが、中学生の頃ってこんな感じですよね。 子を見守る親?みたいな気持ちになりました。 シリアスに進行して最後には笑いで締めくく…
[良い点] うぅーむ、こちらもまた読んでしまいました! 『クラスメイトの中村ミカがいた』 ここに出てきましたか! しかも人気作家! やりますね! そして先生! まともに先生やってるんですね! えらい!…
[良い点] 面白かった。 感情移入していた時に『おっす!わたし李徴』はまじでダメです。
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