第三話 蝉が鳴けば夏が、風が泣けば秋がくる
九月の三週目。
その日は珍しく気分が良かった。昨晩ぐっすり眠れたおかげだろうか。空模様も霞のような雲一つない。
秋晴れ。すっかり過ごしやすくなった外は薄手の長袖が丁度いい。
残暑がぶり返す日もいまだにあるが、今日は涼しい日だ。
土曜日ということもあり、僕はどこかに出掛けようかと考えていた。たまには映画でも観に行こうか。インドア派らしからぬ考えが頭によぎる。でも一人で映画を観に行くのは恥ずかしい。葉子の予定はどうだろう。
〈今日映画でも行かない?〉と連絡を入れてみた。だが中々既読が付かない。画面をスライドさせると二日前の〈宿題見せて〉と送ったラインから返事がなかった。
そんなに怒らせてしまっただろうか? もしかしたらプリンの件をいまだに怒っているのかもしれない。
〈映画代、奢るからさー〉と続けてメッセージを送信する。しかし既読は付かない。現金なあいつが反応しないところからすると、未読無視ではなく本当に気付いていないのかもしれない。葉子の部屋の窓を見ると、もう十時過ぎだというのにカーテンが閉め切られたままでいた。やっぱりまだ寝ているみたいだ。
仕方ない。どうしようかとリビングのソファーに向かっていると、お母さんがエコバッグを抱えて家を出ようとしているところに出くわした。
「もしかして買い物? なら僕も行きたい」
お母さんが目を丸くして僕を見てくる。少し驚いているみたいだった。それもそのはずだ。中学生以降、一緒に買い物に行くなんて言ったことがないのだから。
「え、うん、いいけど」
まるで大して仲良くないクラスメイトから遊びに誘われた、みたいな顔をしていた。
車の助手席に座り、何を買うのか尋ねた。
「今日はトイレットペーパーとお水。あと晩ご飯ね。何か食べたいのある?」
「そうだなぁ。じゃあ、すき焼き」
ダメ元で言ったつもりだったが、お母さんは嬉しそうに「分かった」と言った。
車に揺られながら不意に、葉子も食べたいかもしれないな、と思った。もし後で食べたことがバレたら、またネチネチと嫌味を言われるかもしれないし。
「ねぇ葉子も」いや葉子だけを話にあげるのは変に勘ぐられるかもしれない。
「黒澤さん家も呼ぼうよ」
「え…… まぁそうね。最近は一緒に食べてないし、すき焼きは皆で食べた方が美味しいしね」
その晩、黒澤家も交えて、すき焼きを食べることになった。
「いやぁ今夜はお招頂きありがとうございます」
葉子のお父さんが、僕のお父さんのグラスにビールを注ぐ。
いえいえ、と社交辞令の投げ合いが始まり、ホントおじさんはいやねぇ、と母親同士が宙を叩き合った。
二家族の両親に挟まれ、僕は長テーブルの上座に座っていた。どちらの家族も座る位置など気にしていないのだ。そんなことよりも、僕は葉子の姿がないことの方が気がかりだった。普段なら僕と葉子が隣同士に座らせられるのに。
〈どうした? 食べに来ないのか?〉
十分前に送ったメッセージもやはり既読が付かないままだ。体調でも悪いのだろうか。
大人達の止まらない会話の往来を無視して僕は葉子の両親に「あの」と声を掛けた。
「葉子はどうしたんですか?」
会話が止まった。というよりも空気が固まったと表現する方が正しい気がした。
やっぱり会話の最中に水を差すのはマズかっただろうか。それとも聞こえなかったのだろうか。
「葉子はどうしたんですか? 体調でも悪いんですか?」
全員が信じられないものを見たような目つきで僕のことを凝視してきていた。
何か変なことでも言っただろうか。再び葉子の名前を出した途端、僕のお母さんが珍しく声を荒立てた。
「望、やめなさい!」
虚を突かれた。まさか怒鳴られるとは思わなかった。
「すみません」と両親が葉子の両親に頭を下げる。それを受けて葉子の両親は
「いやいや、いいんですよ」と諦めたような表情でいる。
意味が分からなかった。その表情の意味も、怒られる意味も全く分からなかった。
「……何で怒鳴るんだよ」
僕がぼやくと、もうやめろ、というニュアンスを込められて名前を呼ばれる。
「望、あんた最近変よ」
お母さんが僕の顔を覗いてくる。
「何が変なんだよ。いきなり意味もなく怒鳴るそっちの方が変じゃないか」
「あんた本気で言ってるの? 本気で言ってるならホントに変よ」
強い口調になってるお母さんをお父さんと葉子の両親が宥める。
「だから何が変だっていうんだよ! 葉子はどうしたのかって聞いただけじゃないか!」
思わず僕の語気も強まってしまう。
「望くん、そろそろやめてくれないかな?」
葉子のお父さんが言った。悲しみとも憂いとも取れる表情に僕はたじろいでしまう。
「悪い冗談はよしてくれ。あんまり笑えないよ」
「何を言って――」
「葉子は亡くなったじゃないか」
また虚を突かれた。体がピクリとも動かなくなってしまう。
葉子が死んだ? それこそ悪い冗談だ。
「う、嘘はやめてくださいよ」
「嘘でも娘が死んだなんて言うはずないじゃないか」
頭が熱に浮かされたみたいに困惑していく。葉子の両親は昔から冗談を言うようなタイプじゃない。それに葉子の既読だっていまだにつかない。でも、それでも、葉子が死んでいたなんて信じられるはずがない。
テーブルの端に葉子のお父さんが置いたキーケースが見えた。あれには家の鍵が付いてるのを何度も見ている。
「すみません!」
僕はキーケースをひったくるように手に取ると、家を飛び出した。誰かの制止する声が飛んでくるが、それを無視して葉子の家に向かった。
葉子は部屋で寝ているに決まっている。きっと、どうせ体調を崩して寝込んでいるに決まっている。葉子が死んだなんて嘘だ。僕はそんなの知らない。一体いつどこで死んだって言うんだ。
玄関に辿り着き、キーケースから鍵を取る。逸る手がもつれて何度も落としそうになる。
扉を開け、暗闇の中、見知った廊下を駆け抜ける。葉子の部屋に真っ先に向かいドアを開けた。
「葉子!」
返ってきたのは静寂だった。人の気配一つなく、僕は机の下からタンスの中までその姿を探した。
「葉子、どこにいるんだ!」
リビング、キッチン、トイレ、風呂場。
どこにいるんだよ。出てきてくれよ。
似たような感覚だった。雨の中、こうして葉子を探した気がする。風が強くて、一歩一歩が重くて、そして――
「望くん」
葉子のお父さんが和室に立って部屋の一角を指差していた。
そう、こうして名前を呼ばれて、指を差しているんだ。
あれを見ろって。現実を見ろって。
恐る恐る和室に足を踏み入れる。そこで僕はまた突きつけられる。
見たくないものを。知りたくないことを。
仏壇に満面の笑みで笑った葉子の写真が立てられていた。
「望くん、葉子はね、死んだんだよ。君が見つけたんじゃないか」
※
「ちょっといつまで寝てる気なの?」
ツンとした声に目を覚ますと、ベッドの横に不機嫌そうな葉子が目を尖らせていた。
「あーおはよう」
「なに呑気に言ってんの。もう夏休み終わったんだから、早く起きなさい。遅刻しちゃうでしょ」
葉子に手を引っ張られ、無理矢理起こされる。時刻は八時。確かに普段通りに準備をすれば遅刻しかねない時間だ。
「分かったからそんなに引っ張るなよ」
葉子に一回部屋を出てってもらうと学校に行く支度をして部屋を出る。
「あーもう馬鹿。どうやって制服しまってたの。皺ができちゃってんじゃん。ほらこれ食べて」
葉子に食パンを咥えさせられると、僕の服の裾を引っ張って皺を伸ばしだす。
「はい、これでよし」葉子が僕の肩を叩いた。
外に出て自転車に跨がると、何も言わずとも葉子が荷台に乗ってきた。
あの苛立ちすら感じた夏の暑さも、目の前まで迫っているはずの秋の涼しさすらも感じない。スイスイと動くペダルを回して学校へと向かう。
教室には既に白濱さんと浩介が来ていて、予鈴ギリギリに必死な顔してやって来た僕らを茶化してきた。
ドアの前で騒いでいたらいつの間にか後ろに山ちゃんが来ていて
「全員遅刻にするわよ」と脅されて、僕らは逃げるように席に着いた。
座るとすぐに消しゴムの欠片が僕の机に飛んできた。振り向くと、葉子が口の動きで、あんたのせいだかんね、と訴えてきていた。
また始まった。僕は無視して前に向き直る。消しゴムの欠片が執拗に何度も僕の背中を叩いてくる。一体誰がそれを掃除すると思っているんだ。黒板横の当番表を見ると、タイミングを見計らったように僕だった。
はぁー、と深い溜息を吐いて、頬杖をついた。
窓の外は夏と秋の狭間のぼやけた青空が広がっていた。山ちゃんが今日も異性間交流の何が駄目なのかを真剣に僕らに説いてきて、誰もその話を聞いていない。浩介も白濱さんも隣の友達と雑談をしていた。
いつも通りだった。普段通りの惰性的な日々。もしかしたらこの間もこんなことがあったかもしれない。
でもそれでいい。それがいい。こんな酷くつまらない穏やかな日々が大切なことに、僕はいつしか気付いたのだ。
僕は満足そうに目を瞑って、いつまでも続けばいいな、と思った。
ハッとすると自分の部屋にいた。
また葉子の夢を見てしまった。急に寂しさが込み上げてきてしまう。
起きるのが怠い。歩くのが怠い。着替えるのが怠い。
九月頭。
ベッド横のカーテンを少し捲った。外はあの日みたいな空模様で、大玉の雨を降り注いでいる。あの日から雨は嫌いだ。とてつもなく嫌な気分になる。吐き気がしてくる。
あの時のことは全部夢だった。何度もそう思って、僕は幾度となく葉子の部屋の窓を見た。でも部屋のカーテンは今日も締まったままでいる。それで僕は今日も現実を頭にぶつけられたみたいになって目眩を起こす。
学校に行くのも怠い。今日も休んでしまおうか。
掛け布団に籠もれば、また前みたいに葉子が迎えに来てくれるんじゃないかと思って、何かを期待してしまう。でも十時を過ぎても誰も迎えに来てくれなくて、僕はそのまま学校をズル休みした。
親は何も言ってこない。学校の先生も、クラスの皆も。理由は何となく分かる。葉子が亡くなって以来、僕は腫れ物みたいに扱われている。
学校をサボることに罪悪感がないわけじゃない。こうしている間に皆が授業をしていると思うと、憂鬱になってきてしまう。
でも体が動かない。このままカビが生えて苔が生えてウジが湧いて腐り落ちてしまうかもしれない。でもそれもいいかもしれない。
あれ以来、ガランと静かになった部屋もそろそろ嫌いになってきた。
夜、気晴らしに外に出た。
時間が決められている学校と違って、気楽に外に出ることはできた。
無風。だが、大粒の雨は容赦なく傘を叩いてくる。
何の目的もなく彷徨い歩く姿は亡者同然だろう。
公園の前を歩いても、歩道橋を渡っても、どこを歩いても葉子が影が視界の隅にチラついてしまう。
踏切で足を止める。赤いランプが雨と水溜まりに反射する。血を連想させて、崖下のあの光景がフラッシュバックしてしまう。
強烈な吐き気に襲われて、足元がふらついた。横にいたサラリーマンに何かを言われて体を支えられたが、僕は夢中で体を押し剥がすと踏切を潜って駆け抜けた。
踏切を抜けた直後に電車が真後ろを通過した。あと一歩遅ければ轢かれていたかもしれない。それはそれで、いいのかもしれない。
気が付けば傘がなくなっていた。
まぁ別に、どうでもいいか。
翌日は登校することにした。
雨は以前として降り続いていて、足元を泥だらけにしていく。
歩くのがだいぶ遅くなったみたいで、学校には一時限目の直前になってしまった。
教室に入ると一瞬視線が集まり静まりかえる。すぐ分散していく視線の中には白濱さんも含められていた。
席に着くも僕に声を掛けくる人は誰もいなかった。前の席の浩介に至ってはカバンすら掛かってなかった。
夏休み明け以降、浩介は一度も学校に来ていないし、白濱さんとも喋っていない。
僕達の間に流れる歪な空気。嫌だけど、払拭することが出来ず停滞してしまっている。
昼休みになると、一人で昼食をとるのが恥ずかしくて、保健室へと向かった。
「あら、望月くん。また来たの」
「はい、体が怠くて」
三十代前半ぐらいの保健室の先生は、眼鏡を一度持ち上げると
「山岡先生には私の方から言っておくわね」と僕をベッドへと案内してくれた。
今まで保健室を利用したことはない。しかし夏休み明けから頻繁に利用しているからか、先生は僕のことを覚えてしまっていた。
「授業に出られそうになったらいつでも言ってね」
先生はそう言うとカーテンを閉め、足音が所定の机へと戻っていく。しばらくすると、先生が電話をしたのか
「もしもし石内です」と声が聞こえ始めた。
「望月くんがこちらに来たので。はい、そうです。はい。いつもの調子で。はい。よろしくお願いします。はい。それでは失礼します」
相手の先生も事情を知っているようだった。ここ最近の教師達の対応を見ていれば分かる。恐らくは葉子の幼馴染で不安定になっていることを共有されているのだろう。
それがありがたいとは思わなかった。それよりも申し訳ないな、と思ってしまう。
午後の授業は出席せず、放課後になったら教室のカバンをそのままに、先生がいない間に逃げる様に家へと帰った。
誰とも会話したくない。誰にも気を遣われたくない。
耳を塞いで、目を瞑って、濡れるのも構わずひたすらに走った。
自分でも何がしたいのか分からない。どんな気持ちでいればいいのかも分からない。
同情されるのも、共感されるのもやめてほしい。
自分でも自分が分からず、空に投げ出された紙切れみたいにヒラヒラと揺れる。
夏休みの終わりに行われた葬式。たくさんの同級生が涙を流していた。なのに、僕は一滴すら涙が流れなかった。きっと薄情者なんだと思った。
家族同然の付き合いで、誰よりも葉子と一緒に長い時間を過ごしていたのに悲しくなれないなんて、薄情者に違いない。
告別式も、火葬場で骨になってしまった葉子を見ても、僕は何も思わなかった。何らなら式の最中に急に袖を引っ張られて、喉渇いたんだけど、と言われるような気もしていたぐらいだ。
学校から戻った僕はすぐにベッドにもぐった。ラジカセで聞く気もない音楽をかけて無音を潰すと、目をつぶった。
こんな居心地の悪い日々をあと何日過ごせばいいのだろう。夢なら早く覚めてほしい。次に目を覚ませば、次こそきっと、また葉子が起こしに来るに違いない。そうに決まっている。
「あんたいつまで寝てるつもりなの」
葉子に呼ばれて目を覚ました。
体を起こして部屋を見渡す。いつの間にか眠ってしまったみたいだった。部屋は真っ暗でラジカセで掛けていたアルバムが既に終了して、部屋は無音になっていた。人の気配はなく、デジタル時計は夜中の二時を表示していた。
また葉子の夢を見てしまったようだった。
夢と現実のギャップにまた鈍器で殴られたみたいな痛みを感じる。
「なぁ葉子、そろそろ出てきてくれよ。勝手にプリン食べたこと謝るからさぁ……」
葉子に向けた台詞が、誰にも届かずに霧散していく。
掛け布団を強く握ってしまう。それが悲しみからなのか、憤りからなのか、やっぱり分からなかった。ぐちゃぐちゃにされた気持ちが、行き場もなく、沈殿していくようだった。
翌日の学校では葉子が亡くなったことなど誰も忘れてしまったみたいに騒がしかった。
それもそのはず、その日クラスで話されたのは今月末に迫った文化祭についてだったからだ。
僕は気乗りせず、だからといって彼らの邪魔をしたいわけもなく、机に突っ伏していた。
楽しそうな談笑の中、微かに男女の会話が聞こえてきた。
「こんな時に文化祭するの? 少し不謹慎じゃない?」
「馬鹿ねぇ。こんな時だからこそ文化祭をするんじゃないの?」
「こう言っちゃ悪いけど、誰かが死んだからって文化祭がなくなるのは俺は嫌だぜ」
彼らの言うこともごもっともだったが、気にくわないわけじゃなかった。目立たないようにこっそりと席を立つと、僕はまた保健室へと向かった。
こうして葉子がいない日々が過ぎていく。皆は最初から葉子がいなかったように、あいつがいない生活に順応して、あの葬式で流した涙のことを忘れていく。
僕だけが取り残されて、周りの皆はどんどん先に行ってしまう。
でもそれはどうすることも出来ないことで、僕は壊れて止まってしまった時計をどうしても捨てることが出来なかった。
九月の二週目になると、僕は寝ることが出来なくなってきていた。
横になって何時間経っても眠れないことはざらで、いざ眠ることが出来ても一時間と経たず起きてしまい、小さな物音一つでも目が覚めてしまう。
病院に行かなくても不眠症だなんてすぐに分かる。原因も何となく分かるけど、それを解決することが出来れば何の苦労もない。親にこれ以上心配を掛けたくなくて、相談することも出来なかった。
寝られない日は膝を小さく折り畳んでボーっとする。それが癖になってきていた。
※
知らず、僕はいつの間にか膝から崩れ落ちていた。
目の前にある葉子の写真。
「そうか、良かった。ちゃんと望くんも辛かったんだね」
葉子のお父さんに抱き締められた。厚い胸板の包容力に突っ張っていた僕の何かが揺るぎだしてしまう。
「辛かったら辛いって、泣きたかったら泣いてよかったんだ」
葉子のお父さんが、優しく背中を叩いてくる。
痛みなんてないのに、背中を叩かれる度、僕の涙腺が緩んでいく。
「きっと疲れて、忘れることにしたんだね。葉子の死が君をそこまで追い詰めてしまったみたいだ。ごめんな。でもありがとう。葉子が誰かにそこまで想われていたなんて知れて少し嬉しいよ」
湿って震えた葉子のお父さんの声。
僕は必死に堪えていた。涙がこぼれないように。でも
「本当にありがとう」
その瞬間、ほんの少し、涙をこぼしてしまった。そうしたら数珠繋ぎに次から次へと流れ出してしまう。
僕は必死に堪えようとした。歯を食いしばって、首を上に上げて。でも少し開いてしまった蛇口を締めることが出来なくて。
しばらくして僕は限界を迎えた。
「ああああぁぁあぁああぁあぁ、ぁああああああああああああ! うあああああ、ああ、あああああああああああ! あ、あああああああああああ。ああ、、あああああああああ、ああああああああ!」
大量の涙が溢れ出して、子供みたいに声を上げて、体が耐えきれなくて震えてしまう。
行き場がなく、体の中に溜まっていた全部が水に変わって流れていく。
恥も外聞もない。体裁なんてない。せき止められていた感情が全部溢れ出して吐き出されていく。
いつ泣き止んだかは覚えてない。
薄暗い部屋のベッドに僕は横たわっていた。月明かりだけがこの部屋の光源だった。
泣きはらした目が少しヒリヒリとする。
散々泣いて、ようやく僕は葉子の死と向き合えていた。
今ならちゃんと葉子のことが考えられる。白濱さんとも浩介ともちゃんと話せるような気がする。
僕はベッドから起き上がると、机の引き出しからあのサイコロを取り出した。
二つの点が暗闇の中で緑色に光っている。
コンビニ前での事故以来お守り代わりに持っていたサイコロ。葉子が亡くなった以降はあの時持っていた不吉なアイテムとして見えない所に隠していた。
掌でサイコロを転がす。
別にこのサイコロのおかげでも、このサイコロのせいでもないのだが、何故だが縁染みたものを感じてしまうのだ。
僕は再びベッドに戻り、サイコロを眺めた。
ふと気を抜くと、すぐに葉子が死んだ時のことを考えてしまう。
警察の調べでは、恐らく葉子は海を眺めていて帰ろうとした最中に足を滑らせて転落し、怪我で動けない中、失血死したとされている。
僕はその知らせを聞いた時、酷く可哀想だと思った。せめて即死ならば良かったのにと。
足が折れて痛かっただろう。傷口が海水に染みただろう。打ちつける波が怖かっただろう。寂しかっただろう。怖かっただろう。もしかしたら誰かに助けを求めて声を上げたのかもしれない。
そういうことを想像して、より一層、僕は葉子のことが可哀想で仕方がなかった。
出来るなら変わってやりたい。あの小さな体に一体どれだけの恐怖と絶望が一瞬の内に詰め込まれたのだろうか。
葉子を想うと、また悲しくなって涙が溢れ出してくる。
時間が戻れば、どれだけいいか。
もし葉子の靴がないと気付いた時、早く探しに出掛けていれば――
もしペアを決める時、葉子を選んでいれば――
もしお婆ちゃん家に行かなければ――
あの時ああしていれば、こうしていればと、止めどなく考え始めてしまう。
その時だった。
手に持っていたサイコロが眩く光り出した。咄嗟にサイコロを手で覆い隠すが、指の隙間から光りが漏れる。光りの勢いが増し、閃光が目に刺さった。
目を瞑る。
途端、ベッドに倒れていた体が更に沈んだ。宙に投げ出していたはずの足が、自重と重心を持ち始めて、違和感に体がついていけなくなる。
ドンッ「イッたぁ!」
尻餅を着いた。痛みに顔を歪めてしまう。
「ちょっと大丈夫!?」
「うん。……え?」
目を開ける。
心臓が止まるかと思った。心臓の鼓動が理解の範囲を飛び越えていく。
「何どうしたの? 私の顔をまじまじと見て」
目の前に葉子がいた。もう見ることの出来ないはずの動きを交えて、もう聞けるはずのない声を出している。
また夢でも見ているのだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。
「ほら、手貸しなさいよ」
呆然としていた僕の手を引っ張り、葉子が僕を立ち上がらせる。その時に感じた手の温もり、柔らかさ、匂い、関節に掛かる重みがどう考えても夢じゃない。
両手を葉子に向かって伸ばすと、「え、何」と眉を寄せて一歩引かれる。
僕は一気に距離を詰めると、葉子の両頬を挟んでこねくり回した。
「なになに! 何なの!」
両手を引き剥がされて距離を取られる。
その反応、葉子だ。葉子がいる!
「よぉこぉ!」
改めて抱き締めようと、近づくとがら空きなった鳩尾に蹴りがめり込んだ。
「うっ……!」
この痛み、やっぱり夢じゃない。でも一体何が起こっているんだ。
周りを見渡す。
縁側に丸テーブル、既視感の強い和風の部屋はお婆ちゃん家だった。浩介と白濱さんの姿もある。僕らを見て、目を丸くしていた。
肌に纏わり付く嫌な湿度に、不愉快になるほどの温度、耳を埋め尽くす蝉の声は、まるで夏だった。
五感からくる情報量とさっきまで部屋に居たというギャップが頭を混乱させていく。
それに第一、どうして死んだはずの葉子が生きているんだ。
これじゃまるで時間が巻き戻ったみたいじゃないか。
そんな中、畳みかけるように葉子が言う。
「それで誰と組むの?」
「組むって何を?」
「はぁ!? 水質調査のペア決めだってば! 今の尻餅で抜けちゃったって言うの? 全く」
水質調査のペア決めだって!?
一体全体何が起きているっていうんだ。
もしかして本当に時間が巻き戻ったっていうのか? そんな非現実的なことがあるはずがない。でも突きつけられる現実がそれを物語っている。それに非現実といえば、コンビニ前での事故だって瞬間移動としか言えないことが起きている。
ポケットに入っていた携帯で日付を確認すれば、やはり一ヶ月前の八月二十四日、それこそ葉子が死んだ日と同日だった。
「望、携帯なんて見てないで、いい加減早く決めてよ」
今にも痺れを切らしそうに葉子の指がトントンとリズムを刻んでいる。
ここは一旦、話を合わせた方がいいかもしれない。今すぐに答えが出るとも思えない。
水質調査のペア決めと言ったか。確か前回はグッパーで白濱さんとペアになり、浩介と別れようか悩んでいると聞いたんだ。それで浩介とペアになった葉子が、浩介に告白して振られた理由からか海に行って、それで……
「それじゃあ葉子、僕と一緒に頼むよ」
選択肢は一つしかなかった。
「え、私?」葉子は豆鉄砲をくらったような顔をした。
「何で私なの?」
「幼馴染だろ? それにパックテストだっけ? あれの使い方も不安だし」
「ま、まぁそうよね。パックテストなんて普通使ったことないしね」
葉子が後ろを向いてしまう。溜息を一つ吐く。
何だか懐かしい。こんな当たり前だった会話で泣きそうになるなんて思いもしなかった。
時間逆行、時間跳躍、タイムトラベル、タイムワープ、タイムリープ……
映画やテレビで見たことがあるSF用語を頭の中で並べる。これらを携帯で調べて見たが、細部に違いはあれど結局はどれも似たり寄ったりな意味だった。
どうしてこんなことが起きたのか。時間が巻き戻る時を思い出すと、明らかに怪しいのはあのサイコロしかなかった。
この時期の僕は常にサイコロを持ち歩いている。ポケットを探れば、さも当然とそれは手の中に収まった。
取り出して見てみるが、サイコロに変わった様子はなかった。表示された点も二つのまま。この点の数はもしかしたら使用回数を表しているのではと思ったが、そうではないらしい。じゃあ何が原因で点は一つ減ったのだろう。
合いそうで合わないパズルのピースに、思わず頭を掻いてしまう。
「ねぇさっきからどうしたの? 一人で考え込んじゃって。何それ、サイコロ?」
また海で葉子が…… みたいなことを恐れて、僕と葉子は川の水質調査の方へと向かっていた。
「え、あ、いや、何でもないよ」
僕は葉子から隠すようにサイコロをポケットにしまった。葉子もさほどサイコロには興味がなかったのか、すぐに別に話題を振ってきた。
「ところでさ、何で白濱さん選ばなかったの」
「え、何でって」
「折角、人がパスしてあげたのに」
「そんなの葉子が心配だったからに決まってるだろ」
「え、何で私があんたに心配されなきゃいけないの」
「そりゃ葉子が……あ」
そこまで言って、自分が言おうとしていることのマズさに気が付いた。
本人にお前が死ぬかもしれないから、何て言えるはずがない。まぁいきなりそんなことを言われて信じるはずがないだろうが、葉子に要らぬ心配をさせるようなことをさせたくなかった。
「私に何かあるの?」
困ったなぁ……
今更訂正したり方向転換したりするのは難しい。少しでいいからまたさっきみたいに時間が戻ったりしないかなー。
と思っていた矢先だった。視界の隅、それこそポケットの中で握っていたサイコロが部屋で起きた時と同じように強い光を放った。
目が眩む。
立ちくらみに似た感覚に襲われると、意識が引き戻されて、目を覚ます。
「ねぇさっきからどうしたの? 一人で考え込んじゃって。何それ、サイコロ?」
葉子がさっきと同じ台詞を同じ姿勢で言っていた。
デジャブ? 違う。もしかして本当に時間が?
改めてサイコロを見る。点は二つのままで変化はない。
まさか本当に?
葉子が顔を覗いてくる。
「本当にどうしたの? 今日何か変――」
葉子の話に耳を傾けず、時間よ戻れ、と念じてみる。すると再びサイコロが光り
「ねぇさっきからどうしたの? 一人で考え込んじゃって。何それ、サイコロ?」
葉子がさっきと同じ台詞を同じ姿勢で言っていた。
確信した。間違いない。これは時間を戻せる道具だ。しかも自分の望み通りの時間にだ。
仕組みとか、原理とかはよく分からない。でも想うだけで、時間を戻すことが出来る。
到底信じられるものじゃない。でも実際に時間が戻っている。
「本当にどうしたの? 今日何か変――」
再び念じる。サイコロが光る。
「ねぇさっきからどうしたの? 一人で考え込んじゃって。何それ、サイコロ?」
やっぱりそうだ。夢じゃない。
思い返せば、葉子が死んだ日に戻ってきたのは、部屋でサイコロを弄りながら時間が戻ればと考えていたからだ。これで僕がこの日に戻ってきたことに理由がつく。
にしても、このサイコロは一体何なんだ? 時間を戻す力があるのは分かったとはいえ、現実にこんなものが存在していることがいまだに信じられない。点の意味も不明のままだし、手放しで喜ぶにはまだ早い気がする。便利過ぎる故に、どこか危ない気もしてしまう。こんなものが学校の廊下に落ちていたというのも謎だ。
「本当にどうしたの? 今日何か変――」
「あ」しまった。無言で一人考えこんでしまった。
僕は再び念じて時間を戻した。
とりあえず、さっきから葉子に言われている「今日何か変」と言われるのが嫌だったから戻してみた。
「ねぇさっきから――」と続く聞き飽きた葉子の台詞を遮って
「いや、何でもないよ」とサイコロをしまった。
サイコロのことを考えるのは後にしよう。現状で分かることもこれ以上ないし。それよりも今は葉子だ。
このまま話の主導権を葉子に握らせてはまた、白濱さんをどうして選ばなかったのか、という話を振ってくる。僕はその話を避けるため「ところでさ」と言い掛けた葉子の台詞よりも大きな声で
「いやーにしても今日も暑いねー」
と話題を振ることにした。我ながらボキャブラリーが少ない。
葉子も流れに逆らわずに「そうだね、暑いねー」なんて言ってきたが、何か言いたそうな顔をしていた。
川に到着するまでの間、葉子は終始白濱さんの話を振ろうとしてきたが、僕はそれを半ば無理矢理どうでもいい話に切り替えた。ここまでくると流石に態とだとバレてしまうだろうが、そうしてでもその話は避けたかった。
どうして白濱さんじゃなくて葉子を選んだのか、その問いに葉子が納得する答えが見つからない。幼馴染みだからと言っても葉子は、なるほどね、と首を縦に振らないだろう。事実、ペアを組んだ時に「幼馴染みだろ?」と言ったにも関わらず、この手の質問をしてきたのだ。だからきっと「気まぐれ」も「何となく」も思慮深い葉子にとっては隠し事があるように思うに違いない。
だったらまだ、質問の内容を知らないとされている今の内に聞かぬを徹底する方が、葉子に不安の種を蒔かずに済むだろう。
目に見えぬ攻防をしばし行い、川の上流に到着した。前回僕と白濱さんが採取した地点と同じ場所で水質調査を行う。
一度やっているから知っているのだが、知らないふりをして葉子からパックテストの説明を受けることにした。
適当に相づちを打ちながら葉子の説明を右から左に聞き流す。
聞き流す中、頭ではこの後の展開を考えていた。
この後、台風が来る。早めに調査を打ち切って、家に戻る必要がある。前回と同じようにペットボトルに水を汲んで家でパックテストを行おう。
葉子が死んだ原因は元を辿ろうとすればいつまでも遡れる。言い換えれば、幾つもの偶然が重なって葉子が死んだ結末に繋がったと言ってもいいだろう。
例えば、台風が来なければ葉子が足を滑らせて転落することはなかったはずだ。
例えば、葉子が忘れ物を取りに戻ると言った際、浩介が呼び止めていれば岸壁に行くこともなかったはずだ。
例えば、葉子が浩介に告白をしなければ、葉子が海に行こうとは思わなかったはずだ。
そうやって原因は幾つも考えられる。今回はその原因の一つである葉子と浩介を二人っきりにしないということをした。
これで葉子が浩介に告白して、失恋にこうじて海に行くという展開も起きないだろう。
しかし、念には念を。
この手の展開として、歴史の矯正力というやつが働いて葉子が死ぬ展開が繰り返されるというのは基本中の基本だ。漫画で読んだ。
だとしたら今の僕に出来ることは、葉子が死ぬことに繋がりそうな根本的な感情である『浩介への恋心』を諦めさせることが一番だろう。
実際に作業が始まり、水を汲み、スケッチを始めた所で、僕は話を始めることにした。
「葉子さ、最近悩みとかない?」
「悩み?」
「そうだなぁ…… そうだ。例えば恋の悩みとか!」我ながら演技臭い。
「はぁ? 何馬鹿なこと言っての?」
葉子が眉間に皺を寄せて言った。
……たぶん本気で言ってるのだろう。ま、まぁ、いいさ、いつものことだ。こんないつものことがいつも通りにあるのはとても素晴らしいことなんだから。
僕は気を取り直して
「葉子は好きな人とかいないの?」と追求することにした。葉子が死ぬのを防げるならどんなに馬鹿にされたって構わない。何ならキス顔を見せたって構わないさ。構うけど。
「何いきなり」
不審がるのも当然だ。普段僕の方から恋バナなんて振るはずがないのだから。
あああああもう心が折れそおおおおおおおと内なる叫びを押し殺して、唾を呑み込む。
「いやぁ急に気になってさー。ほら、いつも僕の話ばっかりだから、たまに葉子の話でも聞こうと思ってさ。ほぼ毎日僕と一緒にいるけど、葉子には好きな人とかいないのかなぁって思ってたの。折角の夏休みだし、気になる男子を誘ってデートでもしたらいいんじゃないかなって」
焦る気持ちがいつもより饒舌にさせる。自分でもテンパっているのが分かった。
葉子の様子も窺いきれず、僕の舌が背中を押されたように更に動いた。
「そう、こないだ思ったんだけど、葉子が海行きたいって言ってきたタイミングで、偶然にも浩介も海に行きたいって言ってきたんだよ。僕その時、もしかしてこいつら口裏を合わせてんじゃないかなーって思ってさ」
僕は続ける。
「あ、もしかして浩介が好きだったりして――」
演じきった先、待っていたのは沈黙だった。
やばい焦り過ぎた。流石に直球すぎたか。
葉子は口を開けようともせず、滑った時のようなばつの悪い空気が漂う。
「あー…… えーっと……」
何か取り繕ったことを言おうとした時だった。
「私が好きな人、知りたいの?」
僕の焦りとは裏腹に、葉子の口調は落ち着いていた。
あんなに舌が回っていたのに、途端ペースを失って口が動かなくなった。
僕が頷いて見せると
「そんなに?」と葉子は首を傾げた。
僕は再び頷いた。それにどれだけの重みがあるとも考えずに。
葉子が寝ぼけたみたいにふらりと立ち上がった。落ち着きなくぐるぐると歩き始めると、やがて糸が切れたみたい俯いて立ち止まった。
俯いたままの葉子の腕がすぅーと持ち上がり、人差し指が僕を指す。
「……あんた」
「何?」
「……あんたって言ってるの」
「ん? 何が?」
「だ、だから、私が好きなのは、あんたって言ってるの!」
「ん?」
理解するのにしばらく時間を要した。一瞬葉子が僕のことが好きだと言ってると思ったが、そんなはずがないと思い、考え直す。どういう意味なんだ?
「鈍いにしたって限度があるんじゃないの!?」
更にしばらくして、ようやく僕は言葉の意味を理解した。
「は、はぁ!? ま、待ってよ。それはおかしいよ!」
「何でよ! 私があんたのことを好きなのがおかしいって言うの!?」
「うん! おかしいよ!」
葉子の顔が真っ赤に染まっていた。日差しの暑さとかそんな誤魔化したものじゃない。
「だって、葉子は浩介が好きなんじゃなかったの!?」
「何それ。私、浩介くんのこと好きだったことなんて一度もないんだけど。生まれてからずっと望のことばっかり見てたんだから!」
頭が混乱する。どういうことなんだ。前回の葉子が死んだ日、浩介は葉子に告白されたって、あれが嘘だっていうのか? でもあのタイミングでこんな嘘をつくとは思えない。
というか葉子が僕のこと好きだってのもよく分からない。
「お前最近浩介と連絡取ってたじゃん!」
「あれは違うの。そういうのじゃないの!」
頭の整理が追いつかなくなってきていた。
「そんなことより、あ、あんたは私のことどう思ってんの?」
「へ?」
「こっちが告ったんだから、そっちの気持ちを答えるのは当たり前でしょ!」
「今の告白だったの!?」
「告白じゃないなら何だって言うのよ!?」
告ったことも告られたこともないから分からなかった……
「それで、ど、どうなのよ?」
葉子が腕組みをしてそっぽを向いてしまう。
自分が葉子のことをどう考えているか何て、考えたこともなかった。どうなのだろう。僕は葉子が嫌いってわけじゃない。好きか嫌いかだったら確かに好きだが、でもそれは白濱さんに対する好きとは別物だ。それこそ白濱さんが言っていた友達の延長線かもしれない。いや、葉子は友達じゃないかもしれない。葉子が死んで、いない日を過ごした一ヶ月間、あれはまるで自分の半身を失ったようなものだった。苦痛もないのに、あの消失感。
物心つく前から一緒にいたのだ。きっと僕の中では家族の括りに入っているのだろう。
いくら喧嘩しても、いくら肌を合わせても、距離感が変わらなかったのがその証拠かもしれない。
答えが出るのは思いの外すぐだった。
真剣な空気を作り出したくない。僕は言葉を探すみたいに手持ち無沙汰な手で頭を掻きながら、ヘラヘラとした口調で言った。
「その、僕達の場合さ、恋人って間柄は似合わないじゃないかな。どっちかって言うと兄妹? みたいな感じでさ。だから――」
葉子の変化に気付いたのは、まだ言い掛けている途中だった。
葉子の顔がこれまで見たことないぐらいに悲しそうな顔をしたのだ。僕や葉子のお爺ちゃんが死んだ時よりも、葉子が大切にしていたインコが死んだ時よりも。
あ、やべ。
自分が葉子を傷つけたと分かった瞬間、僕は自然と時間を戻していた。
こんなことで葉子が傷つくと思わなかった。葉子にとって僕はそこまで重要な存在なのだろうか。分からない。
質問して、答えを聞いて、時間を戻す。
きっとこれを繰り返せば、葉子に知られることなく葉子の色んな気持ちを知ることが出来るだろう。でもそんなのはズルいというか、法律を破るような道徳的に駄目な気がした。
それに葉子の傷を感じ取った時、僕自身に走った胸の痛みをまた味わうかもしれないと思うと、尻込みせずにはいられなかった。
「それで誰と組むの?」
この台詞を聞くだけで今がいつかはすぐに分かった。
胸に残る痛みの残滓に目を背けて、僕は浩介を指差した。
浩介の選択に葉子は特に何も言わなかった。男がペアに男友達を選ぶ、別にどこにも不自然な点はない。葉子が難癖を付ける理由もなかったようだった。
葉子を海には向かわせたくない。そこで川は女性二人に任せて、僕と浩介が海の方に行くことにした。
この組み合わせでも葉子が死ぬ要素が減るのはありがたい。
携帯で見たと嘘をついて、台風が来るから早めに帰ってくるように伝えると、僕達は玄関前で別れた。海へは徒歩五分だ。さっさと行って終わらせてしまおう。
僕と浩介は道中の会話もそこそこに、海へと向かう。熱風に乗って、潮の匂いがした。
海に到着すると、やはり記憶通りに人気は全くなかった。
白い砂浜に波が押しては引いてを繰り返す。波の音が心地良いのは生命の故郷だから、なんてポエムなことを思いついてしまう。
葉子の告白が尾を引いているのか、感傷的な気分に波の音が突き刺さった。
浩介を置いて、波際まで小走りで近付くと、僕は海水に手を付けて、その心地よさを楽しんだ。
「さて、ここらでいいだろ」
僕の後ろで立ち止まった浩介が言った。
最初に採取するのは川の合流地点のはずだ。ここからはまだ距離があるはず。
「もっと東でしょ?」
「なぁ望、お前俺に隠し事してないか?」
僕の台詞を無視して、浩介が言った。その口調にはいつものヘラヘラとしたものは含まれていなかった。いつだかクリームちゃんの言動に疑問を持っていた時と同じ詰問のようなものだった。
「どうしたんだよ急に」
妙な覇気に気圧されてしまう。
「隠し事してないかって聞いてるんだよ」
「ど、どういうこと?」
また葉子関係だろうか。忘れていたが、葉子が浩介に告白した謎が残ったままでいた。もしやそれと何か関係が――
「お前、時間を繰り返してないかって言ってるんだ」
「えっ!?」
思いもしなかった台詞に僕は思考が止まるしかなかった。
「その反応、やっぱり図星みたいだな」
……何で浩介がそれを知っているんだ。
「な、何冗談言ってんだよ。その冗談あんまり笑えないよ? 一体どんな証拠があるって言うのさ」
浩介がどうして知っているのか、それを解明するよりも先に、僕は無意識にしらを切ろうとしていた。詰問から逃げようとしてしまうのは仕方ないことだろう。しかし、浩介はその程度で引く気はないようで、話を続けた。
「じゃあお前はどうして、ペアを決める同じ場面で毎回違う選択が出来たんだ?」
「そんなわけないだろ。時間が繰り返せるはずがない」
「どうしても認めるつもりはないんだな?」
「認めるも何も、事実なんだからしょうが――」
浩介が後ろ腰から取り出したものに僕は口を止めた。黒光りするそれは日本では一般人が所持してはいけないもの、拳銃だった。警官が持っているのと同じものだろうか、リボルバー式の小型銃。その銃口が今、僕に向けられていた。
「お、おい。どこまで本気のつもりなんだよ。モデルガンでも人に向けるのは危ないよ」
瞬間、モデルガンから出たとは思えない銃声が耳をつんざいた。
銃口の先が少し下を向いていた。その先、僕の足下に小さな穴が空いていた。
「今のは脅しだ。質問にはちゃんと答えろ。答えなければ次は体に当てる」
浩介の目は本気だった。暑さによるものじゃない別の汗が湧いてくる。
お、落ち着け、これも何かの冗談だ。
震えそうな腕を押さえつけて、僕は更にしらを切ることにした。撃つはずがない。とことん否定すれば、浩介の方も観念するはずだ。
「だから時間なんて」
銃声がした。
「あっがああああああああああああああぁああぁぁああああああああああああああ!」
右の太股に突然生じた激痛に、跪いてしまう。
「痛いだろ。今すぐ楽になるためには時間を戻すといい。そうすれば撃たれたことがなかったことになる」
確かにと。気が動転していた僕は一刻でも早く痛みから逃れるために浩介に言われた通りにサイコロが入ったポケットへと手を伸ばした。
「そこか」
直後、再び銃声がした。
「ぁぁあああああああああああぁああああぁあああああああああああぁああああ!」
右手が撃たれ、衝撃で腕が激しく揺れる。一瞬で手の感覚がなくなってしまう。
「やっぱりキューブを持ってるんだな。答えろ! お前らの目的はなんだ! 他の系外派は!」
「一体何を言ってるんだ! 何のことかサッパリだよ!」
「この期に及んで、まだしらを切るつもりか!」
痛みのせいか目が回る。考えがまとまらない。
「いいか、動くなよ。動いたら今度は肺を撃つ」
浩介が銃口を僕に向けたまま近づいてくる。息が乱れる。
何で、どうしてこうなった。僕が何したっていうんだ。
もう撃たれたくない。痛いのはもう嫌だ。
浩介がしゃがみ、僕のポケットをまさぐり、サイコロを取り出した。
その瞬間、僕は出せる力の限りを尽くして浩介に組み付いた。
持っている銃を掴み、右手を無理矢理動かしてサイコロを奪いに掛かる。
「何すんだ! やめろ! 離せ!」
指が上手く動かず、奪い損ねたサイコロが地面に転がった。
一瞬、ほんの一瞬でいい、ほんの一瞬でもいいからサイコロに触れられれば……!
力で圧倒的に負ける。無理矢理剥がされた右手を力強く握られる。
「ああああああああぁぁああああぁあああああああああああああぁぁぁ!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
涙が出る。考えが途切れ途切れになる。
――でも、やめるわけにはいかない。痛いのは本当に嫌なんだ!
口に砂が入る。痛み。頭にノイズが走る。
「観念しろ!」
組み伏せられそうになるが最後の力でもがき、首を伸ばし、僕はサイコロに噛みついた。
頼む! 戻ってくれ!
「しまっ――」
体に掛かっていた圧力と痛みが消え失せた。
自重と重心が、今まで倒れていた体とのギャップについていけなくなる。
ドンッ「うわっ!」
「ちょっと大丈夫?」
目の前にいた葉子が手を差し伸べてくる。それを手に取り立ち上がると、真っ先に浩介と目が合った。
急な場面転換に目を見開いた後、僕を睨むような目つきが変わった。
いつでも時間を戻せるようにポケットの中のサイコロを握る。
しかし、浩介は僕に掴みかかってくるようなことはなかった。白濱さんや葉子には黙って起きたい理由があるのだろうか。海に着いた時も人気ないことを確認してから僕に話を切り出した節があった。
「それで誰と組むの?」葉子の一声に僕はこの時の状況を思い出した。
そうだ、ペアを決めなければいけない。もたもたしていれば、浩介が僕とペアを組みたいと言い出しかねない。今は浩介とペアは組めない。でも、白濱さんと組めば葉子がまた死ぬ可能性がある。だからと言って葉子が組むのは今は気が引ける。
そこで取れる手は一つしかなさそうだった。
僕は時間の巻き戻しで尻餅を着いたのを生かし、ふらつくフリをして近くの柱にもたれかかった。
葉子が心配そうに手を伸ばしてくるのを、僕は手で制した。
「ごめん、ちょっと体調悪いみたい。悪いんだけど、三人で行ってきてくれないかな」
三人で組んでもらう。これが最善手だと思われた。白濱さんがいれば葉子が浩介に告白なんてするはずないだろうし。
「それはいいけど、あんた一人で大丈夫? もし何かあったら」
「よし、じゃあ俺が残るよ」浩介が一歩前に出た。
それは良くない。
かぶりを振って
「大丈夫だよ。それにもしもの時はお婆ちゃんかクリームちゃん呼ぶし」
「いや、でもさ」と浩介は尚も食いついてきた。
「いやいや、ホントに一人で大丈夫だからさ。三人で水質調査行ってきてよ」
それでも食いついてくる浩介と一人は心配だと言う葉子。そこで僕は
「じゃあ分かった」と目の前でクリームちゃんを呼ぶことで、二人を無理矢理納得させることにした。
幸い、スイカを届けてもらった時に連絡先を交換していた。
三人が玄関から出て行くのを見送ると、僕は裏口から出て、角からこっそり三人がちゃんと水質調査に向かうのを見届けた。三人が見えなくなった所でようやくホッと息を吐く。
前回と同じ通りならこれから約六時間。いや浩介は台風が来るのを知っているから早めに帰ってくるとして約五時間は時間の猶予が出来ただろう。
僕はふらつくと仮病を言っておきながらフラフラと歩いて居間の畳に寝そべった。
ずっと張り詰めいた糸が解けたのか、酷い脱力感に襲われる。体は怠いのに、頭だけはよく冴えた。
頭の中で、葉子のことや浩介のことが頭の中でぐちゃぐちゃに混じり合っていた。
特に浩介だ。あいつは僕のことを銃で本当に撃ってきた。
傷や痛みはないが、心にはあの時の恐怖が刻み込まれている。
何故、浩介が時間の巻き戻りを知っているのか。浩介は僕が時間を巻き戻しても記憶を引き継いでるようだった。葉子は何回戻しても気付かなかったのにだ。それにあの拳銃、普通は本物の銃なんて手に入れられるはずがない。
僕を何かと疑っている様子もあったし。
何と言ったか。確か、そう、系外派だ。他の系外派は? と言っていた。
系外派? 政治の何か? 一体何のことを言っているんだ。
頭がぐるぐるとする中、インターホンが鳴った。
「こんにちはぁ~臨時ナースのクリームちゃんでぇーす」
「お疲れ様でした」
玄関の戸を閉めた。
「ちょっとぉ! 呼び出しといてそれはないでしょお!」
そうだ、嘘を突き通すために呼んだんだった。
クリームちゃんを中に入れると、僕はかいつまんだ事情を話すことにした。
「やだぁ! 仮病だったのぉ~あたしもう超心配したのにぃ~」
「ごめん! 本当にごめん!」
両手を力一杯に合わせて頭を下げる。
クリームちゃんは怒るかと思いきや、悟ったような溜息をつくと
「ほら、ちょっとこっち来なさい」と縁側へと座った。
言われた通りに縁側に座る。
「浩介くんと喧嘩以外に何かあったでしょ?」
クリームちゃんがいつもの猫撫で声ではなく、大人の口調でそっと言った。
心を覗かれたみたいでドキリとする。何も言わないでいるとクリームちゃんは、そうねぇ、と僕の目をジッと見て
「葉子ちゃんと何かあったでしょ?」と見透かしてきた。
「……何で分かったの?」
「女の勘よ」
「女じゃないでしょ」
「十年もやってたら充分、女よ」
そうなのだろうか…… 一秒も女になったことがないから何とも言えなかった。
「それで、何があったの?」
躊躇った。人に話していいものなのかどうか。頭を掻いて、うーんと唸って、腕を組んで、また唸って、僕は話すことにした。
「葉子に告られた」
クリームちゃんが驚くことはなかった。それどころか「あーやっぱり」なんて言って破顔した。
「分かってたの?」
「時間の問題とは思ってたわぁ。葉子ちゃんも可哀想に、望ちゃん鈍感さんだったから」
葉子にも鈍いと言われた。そんなに僕は鈍いかっただろうか。
「それで何て答えたの?」
「断ったら傷つける気がして…… 逃げた」
「逃げた!?」
クリームちゃんが声に出して笑った。
「なーんで逃げちゃったの? 葉子ちゃん良い子じゃない」
「そうかもしれないけど、葉子のことをそういう対象で見てなかったんだよ。それに別に好きな人がいるし……」
「もしかして一緒に遊びに来てるあの色白の子?」
頷く。
「あの子、ずいぶん可愛らしいもんね。あーにしてもいいなー若いって羨ましいわぁ~」
クリームちゃんはそこまで聞くと、一人でうんうんと納得し、突然
「あ、だから気まずくてサボったのねぇ」と拳を叩いてみせた。
「まぁそれだけじゃないんだけどさ……」
「何々? ここまで来たら話しちゃいなさいよ」
恋バナをしている時の女子みたいにクリームちゃんの声は弾んでいた。僕もここまで来たら話す気になっていたからいいのだが。
僕は相談のつもりを兼ねて、不可解に思っていた葉子の件について話すことにした。
「葉子がさ、僕に告白する少し前に、浩介に告白したんだ」
「えぇ!? 何それ面白い! あ、ごめんなさい。何それどういうこと?」
「分かんない。本人に聞いても浩介のことはどうも思ってないって言ってたし。でも普通どうも思ってない彼女持ちの男に告白するなんてありえないよね? しかも最近まで全く話してなかったんだよ?」
「んー、ちょっと待ってぇ。情報量多過ぎ。話を整理させて」
僕は一言謝ると、クリームちゃんと僕とでの情報の差を埋めることにした。
浩介が白濱さんと付き合っていること。普段の僕達四人の距離感のことなど。
僕が持ってきた麦茶の中で、氷が音を鳴らした。
「ねぇ、好きと嫌いは紙一重って聞いたことある?」
僕の話を全て聞き終えたクリームちゃんが言った。
「好きも嫌いも結局は相手を意識してるとか、好きも嫌いも結局は同じ感情、とかだよね」
「望ちゃんもしかして理系? だから彼女出来ないのよ」
うっせい。全世界の理系に謝れ。
「小難しく考えるんじゃなくて、もっと文学的に、心で感じるのよ」
「心?」とオウム返しをしてしまう。
「そっ。望ちゃんに諦めようとさせようとしたと思いきや、白濱さんとくっつけさせようとしてきたり、今まで疎遠だった浩介くんに告白したと思いきや、本当は望ちゃんのが好きだったと告白してきたり、結局はそれ、望ちゃんが好きだからやってることじゃない」
「どういうこと? 僕が好きなのに、白濱さんとくっつけさせようとしたり、浩介に告白したりするって矛盾してるじゃないか」
「これだから理系はぁー。頭じゃなく、心で考えなさいって言ってんのー」
クリームちゃんに頭をくしゃくしゃとされる。
「望ちゃんみたいに、純粋に好きなものは好き。嫌いなものは嫌いって分けられる人ばかりじゃないのよ。好きと嫌いは紙一重。好きだけど、自分のものにならないなら他の人とくっついちゃえ! っていう気持ちが生まれちゃうものなのよ。ましてや、自分に自信がなかったりすると、自分なんて相手にされないと思って余計ね。こういうの天の邪鬼って言うのよ。きっと葉子ちゃんは、望ちゃんが考えるより、ずっとずっと望ちゃんのことが本気で好きなのよ」
そこで僕が思い出したのは、断ろうとして逃げる決定打になった時の葉子の顔だった。
もしかしたら葉子にとって僕に振られるということは、僕や葉子のお爺ちゃんが死ぬことよりも、自分のペットにしていたインコが死ぬことよりも、深く、悲しいことなのかもしれない。
耳を傾けられる人生の先輩に言われて、僕はようやく気付くことが出来た。
目線を上げると、クリームちゃんと目が合った。
「やっと納得出来たみたいね」
クリームちゃんが立ち上がる。
「それじゃあお姉さんの人生相談はこれでお~しまい。料金は初回無料にしておくわねぇ」
モデルみたいな歩き方で、玄関へと向かい出す。
「あの、クリームちゃん! その、ありがと」
クリームちゃんは振り返ることなく
「次は逃げちゃ駄目よ~」と手をひらひらと振り、姿を消した。
部屋の中が蝉と風鈴の音だけになった。
改めて僕は葉子が告白してきたあの時を振り返り、何てふざけた対応をしてしまったんだろうと、自分を恥じた。
自分のことばかりを考えていて、葉子の気持ちを全く真剣に考えていなかった。
むしゃくしゃする。謝りたい。
でもあの時には戻ることはもう出来ない。時間を戻す道具があるのに、あの時間は既に上書きしてしまっている。
……気持ちを切り替えよう。葉子の件は済んでしまったことなのだ。僕が幾ら後悔した所で、葉子が僕に告白したという事実はなくなってしまっているんだから。
罰も込めて、僕は両頬を強く叩いた。
恐らくこの後は浩介との対峙が待っている。きっと避けることは出来ないはずだ。
何をどうすればいいのだろう。
時間を遡ったとしても、浩介と対峙するにおいて適切な場所も状況も思いつかない。銃を持っている相手に一体どう立ち向かえばいいというのだろうか。
僕は家中を歩き回ると、何か良い案はないかと考えた。
とりあえず武器は必須だろう。簡単に思いつくのは包丁だった。
前にネットで見た動画では至近距離では銃を構えて撃つよりも、走って刃物で襲いかかった方が強い。というものを見た。
僕は台所で包丁を手に入れると、更に部屋を歩き回った。
あとは万が一、撃たれた時の防具が必要だろう。
鍋の蓋…… はゲームじゃあるまいし。
試しに右手に包丁、左手に鍋の蓋を持ってみたが、滑稽なこと、この上なかった。馬鹿か。そもそも盾として鍋の蓋を持ったところで銃弾を防げるはずがない。
更に歩き回り、目に付いたのは戸棚に入れてあった家庭用の医学書だった。厚さは四センチ程。これを服の下に入れて銃弾を防ぐというのはどうだろう。……心許ないが、ないよりマシと言った所だろうか。……うん、採用。
そこでさっきのことを思い出す。まず撃たれたのは足、その次に手だった。体の末端への攻撃はどう防げはいいのだろう。
僕は顎に手を当てると部屋を歩き回る。戸棚、タンス、仏間、物置と、何かないかと漁っている時だった。
突然、体に違和感が襲った。ここ最近何度も感じた意識がズレる違和感。
我に返ると、空気が変わっていた。肌に纏わり付いていた不愉快な湿気は薄まり、焼けるような日の光はどこかへと消えてしまっている。辺りは暗く、明らかにそこはお婆ちゃん家ではなかった。
見慣れた部活動勧誘のポスター、血を連想させる消火栓、そして
「望月くん、どうかしましたか?」
隣には白濱さんが立っていた。
「え…… あ、いや、何でもないよ」
一瞬思考が停止したが、こんなのは初めてじゃない。落ち着け。
どどどどどうして僕は夜のががが学校にいいるんだ。
……しかしこの状況、見覚えがあった。
「あの白濱さん、変なこと訊くけど、僕達いま、自由研究のタイトル用紙を取りに行ってるんだよね?」
「……? 本当に変なことを訊きますね。私の思い過ごしじゃなければ、その通りですよ」
ということは今は合宿前日の夜九時過ぎ? そうだ、と思いつき携帯で確認する。携帯の表記でも夜九時を指していた。
何だか時間が戻ることが当たり前みたいになってきているが、まぁ今はどうでもいい。
どうして僕は突然こんな時間に飛んでしまったのかだ。僕はこんな時間に戻るようになんて念じていない。それに僕は浩介対策に夢中でサイコロに触れてもいない。
ならどうして……
考えを巡らせ、ふと、あることに気が付いた。
そもそもどうして僕は時間が戻ったと気づけたのだろうか。
それは恐らく【僕は時間が戻ることを経験しているから】てことなのだろう。その証拠に経験していない葉子と白濱さんは時間が戻ったことに気が付いていない。だから浩介が時間が戻っていることに気付いているのは僕と同じで【時間が戻ることを経験しているから】ってことになる。
それはつまり【浩介も時間が戻せる】ってことになるのではないのか……って……
てことは、この時間逆行、もしかして浩介が起こしたのか!?
一体何で、何のために?
咄嗟に校舎の窓から外を眺めた。夜の底に沈んだグラウンドは生き物がいてはいけないと思わせるほど不気味に沈黙を保っていた。正門から続く薄ぼんやりと光る街灯は道路の形を作り出し、そこにも人影一つありはしなかった。
夜の静けさがぞわりと背筋を撫でた。
一体、何が目的でこの時間に戻したんだ。浩介の目的は恐らく僕関連だろう。でも何故、合宿前日のこの時間なんだ? 浜辺での時みたいに僕自身に用があるなら他のタイミングだってよかったはずだ。僕と浩介が二人っきりになった時間なんてこれまで幾らでもあったはず。
本人に電話してみるか? いや、そんなことをして正直に答えてくれるはずがない。
浩介、一体何を……
「先ほどから恐い顔をして、どうしたんですか?」
白濱さんが首を傾げていた。
「あ、ごめん、何でもないんだ」
あ、待てよ。僕は白濱さんなら何か知っているんじゃないかと思った。
「最近浩介に変わったこととかない?」
「また急に変なこと訊きますね」
「いやーごめん、急に気になっちゃってさ」
「そうですね……変わったこと変わったこと変わったこと」
白濱さんは頬に手を当てると、何度も呟き、ありがたいことに真剣に考えてくれた。
しばらくすると、そう言えば、と切り出し、白濱さんが珍しくイタズラな顔をした。
「そう言えば最近じゃないんですけど、私、浩介くんにカ――」
プルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
携帯が鳴った。突然、廊下に響いた着信音に、思わず飛び跳ねてしまう。
ポケットで、早く出ろよ、と震える携帯電話。
おかしい。前回は誰かが電話してくることなんてなかったはずだ。
浩介も言っていた。前回と違う行動が出来る人間。それは前回を知っている人間しかいない。だから電話の相手が浩介だなんてのは想像に難くなかった。
しかし、ディスプレイに表示されていた名前は予想外の人物だった。
『黒澤葉子』
どういうことだ?
疑問に思いながら、電話を取った。
「もしも――」
「あんた今どこにいんのよ!」
思わず耳から遠ざける。こんな時間に学校にいるとも言い辛く「コンビニだよ」と嘘をつく。でも恐らく僕がどこにいるかは関係ないのだろう。言い方からして僕が家にいないことに問題があると思われた。
「何、どうしたんだよ」
僕は少し耳から遠ざけたまま訊いた。
「今浩介くんが来て、あんたに貸してたっていうサイコロ返してあげたわよ」
血の気が引いた。急いで両のポケットの中をまさぐり、そういえばこの時、携帯だけでいっか、とサイコロは机の上に置きっぱなしにしていたことを思い出した。
「ちょっと、あんた聞いてるの?」
そして再び、体に違和感が襲った。目眩にも似た感覚。
気付くと、僕はまたお婆ちゃんの家にいた。右手には包丁、左手には分厚い本が握られている。
包丁と本を床に置くとズボンのポケットに手を突っ込んだ。
ないないないない ……ない!
一筋の淡い希望を持ってポケットをひっくり返す。しかし出てきたのは埃だけ。ポケットにあったはずのサイコロはなくなってしまっていた。
……やられた……
過去を改変された。まさか、こんな手段をとられるとは思いもしなかった。
きっと僕があの時間帯、サイコロを持たずに留守にしていたのを知っていたんだ。
足の力をなくしてしまい、その場にしゃがみ込んでしまう。手で顔を覆うと、事の重大さにじわじわとなぶられていくことになった。
サイコロを奪われてしまった。つまりもう、都合良く時間を巻き戻すことが出来ない。もしこの状況のまま、また葉子が死んでしまったら……
全身の血の気が引いていく。
葉子に早く帰って来いと電話するか? でもまだ葉子が死ぬと決まったわけではない。
葛藤に答えを出せないまま、僕は廊下の真ん中で体を縮こまらせた。
何も起きなければそれでいい。それでいいのだが……
拭いきれない不安が重くのしかかり、体が震えそうになる。手に力を込めると、僕は懸命に震えを抑えた。
何も起きなかった。いや、正確に言うならば、何も起きなすぎたのだ。
時刻はあれから大分経ち、夕方の五時になろうとしていた。
窓を叩く雨は力強く、隙間風が悲鳴を上げている。
窓から外を覗いても、誰かが帰ってくる気配は一向になかった。
浩介が台風を知らないはずないのだ。なのに、どうして誰も帰ってこない。
不安と焦りが積もっていく。落ち着きなく、ゼンマイが巻かれた玩具のように部屋を歩き回ってしまう。
探しに行こうか。でも外の暴風雨も凄いし……
そうこうしていると、雨音の奥で別の音が聞こえた。赤い色を想像する音。警察のサイレンだった。それに続き、別のサイレンが付随する。けたたましい音が次第に近寄り、家の前を通過すると、音色を変え、小さくなっていった。
音が向かったのは、海の方向だった。
どうしようもなく、嫌な予感しかしなかった。
携帯を確認する。三十分前に送った〈早く帰って来い〉と送ったグループラインには一つとして既読は付かないままだった。
吐きそうだった。目眩がした。
僕は意を決し、カッパを手に取ると、海へと向かうことにした。
玄関を一度開ければ、そこもう別の世界のようだった。世界と世界を隔てる敷居を跨ぎ、嵐の中へと踏み出す。
灰色の雲。横殴りの雨。重たい風。何もかもが、あの日と同じだった。
耳にまで聞こえる鼓動に目を回しそうになる。
たった五分の道のりを倍の時間を掛けて到着した。
荒れ狂う波以外、何もないと思われた。人の気配も、一つもない。
良かった。きっと皆、別の場所に避難しているのだろう。そうだ、きっと川からの帰り道でどこかに避難したのかもしれない。何なら僕が家を空けたこの短時間に帰ってきているかもしれない。早く帰ろう。誰もいないことが分かっただけで充分じゃないか。
そう、安心したのは束の間だった。
引き返そうと振り返ると、視界の中で赤い光が見えた。
やめろ。駄目だ。見ちゃ駄目だ。
頭では分かっている。でも止めることは出来なかった。
僕が以前、葉子を発見した岩場だった。そこにランプを光らせたままのパトカーと救急車が止まっていたのだ。
脳裏をよぎるあの無惨な光景。
関係ない。関係ない。関係ない。関係ない。あのパトカーも救急車も僕には何も関係ない。僕には全く関係ない人。例えば、釣りをしていた人が怪我をしたとかに決まっている。
……僕と関係ないことを確かめなければいけない。
跳ねる鼓動が今にも口から飛び出しそうだった。何度も唾を飲み込み、近寄っていく。
パトカーの真横を横切った時だった。
ドキリとした。パトカーの中に一人の警官と白濱さんがいた。うな垂れた白濱さんは僕に気付く様子もなかった。
何で白濱さんが……
気分が悪くなってくる。今すぐ足を止めたい。逃げ出したい。
何かが僕の胸をざわつかせる。
岩場の先端、崖の下を警官と救急隊の人が見つめていた。その動作だけで僕の不安が高まっていく。
激しい雨音と視界を遮る雨量に、どちらも後ろから近付く僕に気付かない。
ホントに、ホントに、やめてくれ。もうサイコロはないんだ。時間は戻せないんだ。
すぐ真後ろまで来た頃、ようやく目の前の警官が振り向き、僕に気が付いた。
「あ、コラ、駄目、駄目、駄目!」
手を振り、下がるように促しながら近づいてくる。すぐ近くまで来ると、僕は姿勢を低くし、地面を蹴って警官の脇をすり抜けた。
「おい!」
静止を求めてくる警官の言葉は既に耳には入らなかった。不安定な足場に何度も躓きかけながら崖際に滑り込む。
「君! 見ちゃ駄目だ!」
追い掛けてきた警官が僕の腕を掴んだ。でもそれは、一歩遅かった。
崖下を覗き込み、目に入った光景に僕は酷い目眩を起こした。
「あ、あ…… ぁ……」
崖下で葉子が、血まみれで倒れていた。
力が抜けた。ついさっきまで嫌悪感があった雨粒の感覚がなくなって、自分の中で何かが瓦解していくのが分かった。広がって、僕を飲み込んで、大きな穴が作られていく。
頬が更に濡れる。
「嘘、だろ…… なぁ嘘だよな?」
葉子の様態を確かめようと、歩を進めると、警官が僕の腕を強く引っ張った。
「おい! 危ないから!」
「離せよ! 葉子が!」
振り解こうと力任せに腕を振り、警官の手からすっぽ抜ける。その反動で体勢を崩した僕は両手を地面に着くことになった。四つん這いになってしまうが、そこから立ち上がる気力が微塵も湧くことはなかった。
「……何で、どうして……」声がひっくり返る。
頭が真っ白になって、どろどろと溶けていく。
救急車のバックドアが開いた。救急隊員が出てきて、崖下を覗いていたもう一人に話しかけ始める。それを横目に、僕の目に飛び込んできたのは、救急車の中で座る浩介の姿だった。
「――あいつっ」
浩介を見た瞬間、頭に血が上った。
後から考えてみたら、こんなのただの八つ当たりだった。でもこの時の僕にはそんなことを冷静に判断する余裕なんてありはしなく、心の底でチラついた火は、哀しみに引火して瞬く間に怒りへと燃え盛った。
「浩介っ!」
無我夢中で駆け出していた。浩介が僕に気付いて、顔をこちらに向けるまでの僅かな間に、僕は救急車へと足を掛け、車内へと入り込む。
両手で胸ぐらを掴むと、勢いのまま、浩介を床に押し倒した。
「浩介! 何で! 何で葉子を見殺しにした!」
浩介なら葉子が死ぬかもしれないと分かっていたはずだ。浩介なら時間を巻き戻すことだって出来るはずだ。
僕の問いに無抵抗の浩介は目を逸らし、小さな声で答えた。
「……悪いとは思ってるよ」
「だったら、だったら今すぐ時間を戻せよ!」
途方にも長く感じる一瞬の間、もしかしたらこの一瞬の間に浩介は時間を戻すかどうか考えたのかもしれない。でも僕はそんな気持ちを推し量ることは出来ず、あらかじめ用意されていたであろう浩介の答えに最後の理性が決壊した。
「……それは、出来ない」
――っ!
右手を放し、拳を作り、振り上げる。浩介の黒目が動いた。浩介の顔めがけ、振り下ろした拳が即座に片手で受け止められる。防がれたと分かった直後、間髪入れず僕は左手で殴ろうとし、同様に受け止められた。
しかし、攻撃しないと気が済まなかった僕は、条件反射のように首を反り上げ、頭突きを浩介の顔面に食らわせた。
鈍い音が耳を通さず、頭に響いた。不思議と痛みは感じず、額に液体の感触がたらりと垂れた。
浩介の顔を見ると、鼻と口の周りはベットリと血が付き、上の前歯二本が折れていた。
「おい! 何してんだ!」
すぐ後ろで警官の声がした。羽交い締めにされ、浩介から引き剥がされる。この程度では気が済まない僕は無茶苦茶に暴れ、警官から離れようとした。
「二本で済むと思うなよ! 十本だろうが、百本だろうが、何本だって折ってやる!」
壁に手をつきながら浩介がふらりと立ち上がり、僕を見据えた。
「浩介! 許さないからな! 絶対にお前のこと許さないからな!」
獣みたいに牙を剥きだしに歯を食いしばる僕とは違い、浩介の顔は読み取れなかった。
痛いのか、怒っているのか、はたまた失望しているのか。
「なぁ望、お前は何のためにここにいるんだ? 俺を殴るためか? それとも」
「葉子を助けるために決まってるだろ!」
返答はなかった。浩介は目を瞑り、俯いてしまう。しばらくすると、ポケットに手を突っ込もうと、浩介の手が動き出す。しかし、手はポケットの前で停止した。
逡巡。クソッと浩介はごちると、勢い任せにポケットに手を突っ込んだ。
またあの感覚だった。刹那的な浮遊感。そして続く、先程までの姿勢とのギャップ。
気を失っていたかのように目を覚ますと、喧騒が別のものに変わっていた。
唸り声を上げていた風は蝉の雄叫びに。体温を奪う雨粒は、蒸し焼きのような暑さに変わっていた。灰色に埋め尽くされていた視界も、コントラストの濃い日差しに庭の花々を彩っている。
僕は再びお婆ちゃんの家にいた。
「それで誰と組むの?」葉子の声がした。
「え?」葉子が目の前にいた。
呆然とする僕の耳に、最近聞いていなかった血色のいい浩介の声がした。
「やっぱ男は男同士で組まないとなー!」
「えー、望に決めさせようよー」
「俺は聞こえるんだ。望は俺を望んでるって。望だけに」
「うわっ…… 浩介くん、それ小中で散々やったギャグだよ……」
何となく、過去に戻ったのは分かった。でも何というのだろう。空気の差についていけない。僕は状況に流されるまま
「望もその方がいいよな?」という浩介の台詞に「あ、うん」と答えた。
「まー望がそういうなら仕方ない。白濱さん、女子は女子で、男子の悪口会しましょ」
状況が飲み込めなかった。
僕からサイコロを奪い、葉子を見殺しにして、時間を戻して葉子を救うことも拒否した浩介が、何故時間を戻した?
浩介の考えが全く分からない。
ペアが決定し、水質調査の支度を始める。そこで僕はバレないようにそっと台所から包丁を取り出すと、刃の部分をタオルで包んで後ろ腰にしまい込んだ。
台風が来ることを葉子と白濱さんに伝えると、玄関前で別れ、僕と浩介は海へ向かった。
海には人が来ないことを知っている。それに自宅で暴れて、物を壊すわけにはいかない。
海向かう道中、僕達は一言も会話をしなかった。数人のお年寄りとすれ違う。もし口論にでも発展し、こないだのように撃たれでもしたら大変なことになる。それを懸念し、僕は浩介から距離を取ることもしなかった。こいつが怪しい動きでもしたらすぐに掴み掛かる。そのつもりでいた。
海に到着し、砂浜を少し歩き、浜辺で足を止める。前を歩いていた浩介が振り返った。
一体何を語るのか。
僕は隠すつもりもなく、後ろ腰の包丁に手を掛け、臨戦態勢を取った。
対峙する視線。沈黙。台風の影響か、波が一段と大きな飛沫を上げた。
浩介が口を開く。
「言い訳じゃないが、聞いてくれ。さっきの黒澤のことだが、海水を取っている最中にいきなり告白してきたんだ。俺もユリカがいるからしてこないだろうって油断してたんだ。黒澤は感情的になったんだと思う。俺が断ると脇目も振らずに岩場の方に走っていったんだ。当然俺もユリカも止めに行ったんだ。でも悪い。そこで俺は思ったんだ。あー黒澤が死ぬのは運命なんだって。俺達は極力、正史を変えてはならない。変えていいのは、戦争に関わることだけだっていう決まりがあるんだ。だから俺は心のどこかで諦めてたんだと思う。問答の末に、足を滑らした黒澤は転落。あとは見た通りだ。警察を呼んで、お前が来たわけだ」
「正史? 俺達? 戦争?」
葉子が死んだ件に意味不明な単語がくっついていた。
既に頭がパンクしかけていた。
時間が戻ること、サイコロのこと、浩介が持つ拳銃、等々。
僕は痺れを切らし、浩介に問うことにした。
「ねぇ浩介、君は一体何者なの?」
「望と同じ人間だよって言うは少し意地悪か」
そうだな、と浩介は考えるように視線を適当に飛ばすと、やがて僕の方を再び見つめて
「分かりやすく、月並みな言い方をするなら俺は未来人、戦争を止めに来た」
と冗談のみたいなことを冗談抜きで平然と口にした。
それを前置きに、浩介は少し長い昔話を語り始めた。
※
前々から気付いてはいたが、その日、まだ中学二年の波島浩介は、理不尽に反抗することが如何に無意味かを悟った。
授業中に後ろから飛んでくるサッカーボール。少し席を外している間に椅子にくっつけられるガム。定番中の定番、上履きに画鋲。
これまでは黙っていることが出来た。しかしその日は違った。彼らは体育の授業で行われた野球で、エラーをした男子を金属バットでタコ殴りにしたのだ。
見るに堪えないその光景を同じ地球人の先生は止めることをせず、止めに入った浩介自身も右腕を骨折。全身打撲の怪我を負った。
タコ殴りにされた生徒は全治三ヶ月の怪我を負い、そのまま復帰することなく、転校することになった。
その翌日、勝利の旗挙げのように、太陽系を模した渦巻き型の巨大な落書きが校庭に書かれていた。
浩介はこれをイジメとは思っていなかった。
何故ならその対象が自分だけに限定されず、同じ学校に属する原住民、謂わば地球人全員に対して行われるものだったからだ。
小学校は良かった。学内の全員が同じ地球人だけで構成されていた。しかし、中学に上がると、ユニバーサル教育という名目で、彼らが混じり、あらがえない階級格差というものを教え込まれることになる。
「おい、発達障害ども! ちゃんと授業聞いとけよぉ!」
クラスの一番後ろでふんぞり返る宇宙人が叫んだ。彼は近代史になると必ずそう叫び、周りの取り巻きが大笑いした。
板書をする教師も含め、誰も振り返らなかった。もし振り返って目が合いでもしたら、何をされるか分かったものじゃないからだ。
「おい知識障害! ちゃんと発達障害どもに分かるように説明しろ!」
教師に今さっき配られたプリントが丸めて投げつけられたが、教師はなかったことのように教科書を読み続けた。
今から十五年前、地球に『系外知的類似人類』通称、宇宙人が襲来した。
太陽系外から来たと思われ、地球人類と99%容姿やDNAが同じためにそう名付けられた。
平和的交流は一切望めず、圧倒的な文明レベルの違いにより、アメリカ、ロシア、中国と次々に陥落していった。
彼らの文明力は凄まじかった。四次元止まりの地球人とは違い、彼らは五次元を利用し、地球側の被害は数えられただけでも数十億人、対して宇宙人側の被害は数十人に留まったのだ。
地球は一ヶ月と持たず陥落し、のちにこの戦いは皮肉を込めて、蹂躙戦争と命名された。
この戦いで地上は人間が住めない状況にまで追い詰められたが、五次元を操る彼らに掛かれば、元の状態に戻すまでに数秒と掛からなかった。
そこまでされれば地球側にはもう、発言権はなかった。
地球全土が植民地となり、地球人は差別、迫害されることになった。
宇宙人の操り人形のように政治は行われ、反発しようものなら秘密警察によって処罰されてしまうのが当然。
教育面は、宇宙人を崇拝し、地球人はこれまでどれほど自分達が馬鹿で無能だったのかを刷り込ませるように作られ、戦後生まれの子供達の中には既に、その考え方が根付きつつあった。
幸いにも浩介は戦後最初に産まれた世代であり、洗脳にはまだ程遠く、暴力のみに怯えているだけで済んでいた。
学校が終わるとすぐに家に帰って引き籠もり、両親と妹のいる家でのんびり過ごすのが浩介にとって唯一の心の拠り所だった。
その日、波島浩介は世の中の理不尽さに打ちのめされた。
中学三年の冬。押し付けられた掃除当番で遅く帰ると、両親と妹が死んでいた。
押し込み強盗による殺人だった。連日ニュースでも大きく取り上げられたが、犯人が捕まった途端、その報道はパタリとなくなった。
犯人は宇宙人だった。
浩介の知らない所で示談が成立しており、犯人の顔を見ることもなくその事件は解決扱いとなった。当然、浩介にお金が入るようなことはなかった。
浩介は強く恨んだ。宇宙人を、この社会を。
犯人を殺そうとも考えたが、名前さえも教えてもらえず、秘密警察の睨みのせいで、文句を言うことさえ出来なかった。
家族がいなくなった浩介は義務教育が終わる一年間を施設で過ごすことになった。
登校のために一時間早く起きるようになり、倍以上の距離を通学しなければならなくなった。されど浩介はそれを辛いとは思わなかった。学校での息苦しさ、施設での居場所のなさと比べたら通学中は寧ろ気が休まる時間でさえあったからだ。
農業には興味ないが、バスから見える流れてく田園が唯一の楽しみだった。
中学三年になり、進学するお金のない浩介は就職先を探していた。周りが本格的な受験ムードになっている中、進路面談が行われた。
「進学するにしろ、就職するにしろ、君は今より社会に近付くことになるよね。そこで君は今の社会をどう思っているのかを教えてくれないかい? 率直な気持ちでいいよ」
浩介はすぐに思想調査だと見抜いた。ここでの発言で、普段の監視度合いが決まる。
本音を吐露すれば、浩介の監視度合いはすぐに警戒レベルに達し、周りに悪影響が出ない内に処罰されるだろう。
感情を押し殺して、浩介は反発せず
「とても素晴らしいと思います」と教科書に書かれているような従順な回答をした。
それから間もなくしてだった。浩介宛に一通の手紙が届いた。
【重要。本人のみ開封】と仰々しく判の押された封筒だ。中身は秘密警察への勧誘書類だった。どうやら浩介は先日の思想調査で、評価されたらしかった。
最初は断ろうかと思った。誰が好き好んで宇宙人の犬になるかと。しかし宇宙人が住み始めてから建築の仕事がなくなり、とび職は仕事を失い、中卒での仕事はほとんど見つからない状態になっていた。そのため秘密警察の就職以外に今後浩介は生きていく道は見つからないと言っても過言ではなくなっていた。
結局、秘密警察へと入ることにした浩介。
中卒の十五歳に求められる仕事は簡単な部類だった。そもそも十五歳なんてまだ社会の右も左も分からない年齢だ。浩介が勧誘された理由は、その年齢を生かした場所に潜入し、密告してもらうためであった。
ここに、何故地球人なのかという理由が更にある。宇宙人では入れない和が必ず存在する。そこに付け入るための地球人なのだ。
下は十三、上は七十五まで。幅広い年齢が所属していることを浩介は入ってから知った。
浩介は内偵のため有名な進学校へと裏口入学することになった。
その高校から有名大学に進み、政治家へとなる者も多く、悪い芽は早くから摘むつもりなのだろうと浩介は考えた。
入学してから一年の間で、浩介は十三人を反社会思想として密告を行い、内五名は家族諸共、行方不明になった。
処罰方法は浩介にも知らされなかった。それは別のチームがやっているからか、浩介の年齢ではまだ教えられないからか、知る必要がないからかは分からない。ただ浩介からしてもそれはどうでも良かった。密告する度に僅かながら金が出る。一人暮らしの浩介にとっては、その金は食いつなぐ命そのものだったからだ。
高二なった最初の月、反社会思想を持つグループがいるとタレコミが入った。
そのグループは学校がある場所から数駅行った場所にあるカフェレストランによく集まると聞いて、浩介は向かった。
家やチェーン店などの場合、盗聴器が仕掛けられている可能性があるとして密会には個人経営の店が選ばれることがよくある。
浩介が行った日には集会は行われなく、浩介は連日通うことになった。
四日目、休日。
そろそろレストランのメニューを端から食べていこうかと考え始めた頃だった。
その日、初老のマスター、常連の読書をする年配の男性、ナポリタンを食べる親子、仕事の愚痴を捲し立てる女性二人組がいた。
浩介は勉強しているふりのため、パソコンを広げ、興味のない宇宙に関する記事を時折悩むふりをして、その記事をそのままノートに書き写していた。
午後一時前、入店してきたサラリーマン風の男が、背中合わせになるように後ろの席に腰掛けた。他にも席がある。態々他人と近い席に着くことに違和感があった。しばらくすると鞄から新聞を取り出し広げた。そこまでお膳立てされればすぐに分かった。
携帯のインカメラでその新聞を覗き見る。広げていたのは経済面。それは『正面を向いたまま話を聞け』の合図だった。カップとスプーンで二回、音を鳴らし合図を仕返す。
「お前の経歴を調べた。両親が宇宙人に殺されたらしいな」
「あんた、何者だ」
「俺のことはいい。窓際に座る二人組を見ろ。あの二人はお前の両親を殺した張本人だ」
浩介の指先がピクリと動いた。
「ナプキンを落とせ、そして拾え」
浩介が言われた通りにすると、姿勢を低くした瞬間に男からカバンを蹴って渡された。中には拳銃が入っていた。
「あの二人はこの店の裏にある興信所で働いてる。彼女達は昼休みをここで過ごし、12:45に店を出て、すぐ横の路地を通って興信所に戻る。路地にはまだ監視カメラが設置されていない上に人通りは全くない。今日は雨だ。何かあってもしばらくは発見されないだろうな」
暗に、殺すなら今しかない、と告げていた。
目の前に家族を殺した奴がいる。その事実をまだ受け止めて切れていない浩介を急かすように二人が席を立った。焦燥と葛藤。二人が店を出てノスタルジックなベルが鳴った。
浩介は席を立った。
「銃器は音がデカい。暗殺するなら縄か刃物がベストだ」
すれ違い様、男に告げる。
「よし合格だ」
男が言った。台詞の意味が分からず、足を止めると、今し方出て行った二人組が再び入店してきた。見れば店中の客が立ち、マスターを含む建物内の全員の視線が浩介に集まっていた。
男は続けた。
「宇宙人への反逆心。そしてこのような場面でも銃器を選ばない冷静な判断力。君には是非、我ら太陽派の一員になってほしい」
秘密警察内には二つの派閥が存在していた。
【太陽派】と呼ばれる反宇宙人派閥。もう一つは宇宙人を崇拝する【系外派】の二つだ。
太陽派は当然そのことがバレたら処罰されるため、常に正体を隠し、逆に系外派は誰が太陽派か分からないため、内偵に内偵を出すなどの策を講じているらしい。太陽派に参加した際に、その事実を知らされた浩介は、より沼の深みへと沈んでいくのを実感した。
太陽派の最終目的は宇宙人からの解放であった。
「宇宙人からの解放? どうやって、具体的には? まさか絵空事とか言いませんよね」
「当たり前だ。そのために我々は十五歳の君を秘密警察に入れたんだからね」
男は語った。
「浩介くん、君はまず、どうして蹂躙戦争において地球人が負け、その後発言権を奪われる程になったのか理解しているかい?」
「宇宙人側が操る五次元にやられたからですよね?」
「その通り。ではその五次元とは、一体何なのか理解しているかい?」
浩介は眉をひそめた。
「彼らが操る五次元とはすなわち――」
太陽派のリーダーを名乗るその男の解説では、浩介は五次元について理解しきれなかった。四次元止まりの地球人にはまだ言語化が不可能な点が多いため、口頭で伝えるには無理があるから仕方ない話だが。
要点をまとめれば、時間操作可能、地球の自然現象然り物理現象を操作可能、無から有の生成可能など、宇宙人は神にも等しい力を持っているとのことだった。
しかし、それは宇宙人の一人一人が持っている特殊能力というわけではない。それを可能にする物【五次元干渉装置】通称【キューブ】というものだった。
ステンレスのような材質に、使用可能回数が一次元の点で表現されるため、その姿形からサイコロと呼ぶ人もいるという。
当然これの入手は地球人には不可能だった。しかし、浩介が秘密警察に入った日から数えて約二年前、太陽派はこれの構成データの入手に成功していたのだ。
構成データを元にコピーを制作。地球人は五次元を理解出来ないため、オリジナルと同等のものは作れなかったが、四次元能力までは似せて作ることに成功した。つまりは時間と空間移動が出来るようになったのだ。太陽派はこれを用いて、戦争をなかったことにしようと考え、人員を必要としていたのだった。
コピー品は【四次元干渉装置】と名付けられた。複数作られたそれは統一した形ではなく、その辺に落ちている石ころのような歪な形となっていた。地球人が理解していないものを真似て作ったせいかもしれない。宇宙人の作ったキューブが統一した形で綺麗にまとまっているのは、それだけ彼らの技術力が高い証拠だった。
太陽派に入ってから最初の任務は、四次元干渉装置の人体実験の立ち会いだった。
東京のビル群に紛れて佇む雑居ビル二階。壁もないフロアに数十人の太陽派が揃っていた。中にはあの喫茶店で見た顔もあった。
実験内容は、被験者は過去に戻った後、元の自分と重ならないように大きく幅を取って、一時間後に帰還するというもの。
失敗すればどうなるか分からない。そんな中、大きく名乗りを上げたのは、見覚えのある人物だった。
「俺、中学生の時、野球の授業中にエラーしたせいで宇宙人にボコボコにされて、あの時のことをなかったことにしたいんだ」
そう言った彼は新聞の一面を小さく折り畳むとポケットにしまい、掌サイズの石ころ、四次元干渉装置を握った。
カウントダウン。合図が出されて数秒後、彼は青白い光に包まれて姿を消した。歓声が上がった。それからきっかり一時間後、彼は再び青白い粒子が再集合するように現れた。
世紀の瞬間だと言うのに、浩介はあっけなく感じた。
全員の注目が集まる中、彼は一言「失敗したよ」と影を落とした。
どよめきが起こり、リーダーが尋ねた。
「過去改変は出来なかったのか?」
「いえ、本来の目的は成功しました。失敗したのは俺個人の方です。エラーをなかったことには出来ませんでしたよ」
男がポケットにしまっていた新聞を取り出した。日付を確認し、パソコン内に保存された同じ新聞の一面を表示させる。同じ日付、同じ新聞、同じ一面が並べられ、一同は再び歓声を上げた。
【校庭に謎の巨大落書き!】
男の持っていた新聞には書かれていない見出しが、データの新聞には書かれていた。
「どういうことですか?」
浩介は丁度隣にいたカフェでマスターをしていた男性に訊いた。
「今回の実験では三つのことが調査されたんだ。一つ目は人間の体で行っても平気なのか、二つ目は正確な時間に移動出来るのか、三つ目は実際に過去改変は行えるのか、だ。それで今回の実験では、その三つが全て無事成功に終わったってことなんだよ」
「でも野球のエラーはなかったことには出来なかったって……」
浩介が言及すると、被験者の男は「そうだった」と全員の注目を再び集めるように手を叩いた。
「問題が一つ発覚しました。俺がエラーをなかったことに出来なかった理由です。意識と記憶だけが遡れるオリジナルキューブと違い、このコピー品では体ごと戻ってしまいます」
それから四次元干渉装置の実際のスペックや時間転移による弊害を調べるため、実験は何度も行われた。
そして判明したことが幾つかあった。
・オリジナルと違い、使用回数に限度はないが連続して使用することは出来ず、一度の使 用ごとに二十四時間の充電時間が必要なこと。
オリジナルは時間を戻しても、使用前に時間が戻ることになるため使用回数が減らず、 連続で戻ることが可能らしい。
・触れている物や人も一緒に移動してしまうこと。
一緒に移動してしまう理由や限度や制限は謎なことが多く、なぜ原子単位ではないのか とか、なぜ八十キロ以上の物は移動しないのか等、判明しないことは多い。
・一度でも時間転移をした場合、時間の枠から外れてしまうのか、他の人が時間転移する とそれに引っ張られて意識と記憶がついていってしまうこと。
・それに伴い、多人数が同時に別々の時間に移動すると、それぞれの意識と記憶の引っ張 り合いが起き、自我崩壊を起こしてしまうこと。
正し、自分がまだ生まれてない時代などの場合はこの現象が発生しない。
これらの成果と引き換えに、五人の人間が廃人と化してしまった。その内の一人に、あの元クラスメイトの奴も含まれていた。
宇宙人が使用しても自我崩壊が起きないため、彼らには何かまだ秘密があると睨んだ。
しばらくしてキューブの構成データを入手したチームがまたやってくれた。宇宙人が自我崩壊しない理由が判明したのだ。彼らは特別なスーツを着ることで意識と記憶の引っ張りをオンオフ切り替えていたのだ。
コピーキューブを作ったチームが、このスーツのコピーも制作。
準備は着々と進められ、その朗報がもたらされたのは、初の人体実験が行われてから一年が経とうとしていた時だった。
「戦争をなかったことにするための過去改変計画【桜花返り咲き作戦】の内容が決定した」
雑居ビルの二階、リーダーが遂に待ちに待ったことを言った。
「苦節十余年、調査の結果、宇宙人は戦争が起こる日から遡って十年前に地球にやってきていたことが判明した。その目的は恐らく、我ら地球人の調査。しかし、具体的な調査内容は分からないままだ」
リーダーが指をスライドさせると、壁に投影されていた映像に一人の女性の顔が映し出された。
「その調査を行ったと思われる人物は、白濱ユリカ。現在は故人だ。終戦後に行われた被害大調査の時に日本の高等学校でその遺体が発見された」
女性の顔を睨むように見ていたカフェのマスターが顎を撫でながら「というと」と全員の視線を集めた。
「というと、私達が行うのはこの地球に来た白濱ユリカと接触、及び監視。戦争の引き金となった原因を調べ、分かり次第それを阻止するってところかな」
「流石です先生」リーダーがお辞儀をする。
「そこで今回のために切り札を用意した。見てくれ」
白衣に眼鏡の男が仰々しくレストランで料理を運ぶような台車を使い、何かを運んできた。台車の上にそっと載せられた黒い布をリーダーが全員の注目が集まったのを確認すると、これまた大袈裟に捲った。
現れたのは、金色に光を放つ掌サイズの石ころ、いや四次元干渉装置に見えた。
「遂に先日完成した。地球産、五次元干渉装置。通称、マークⅡだ」
四次元ではなく、五次元。数字が一つ上がっただけなのに、その場にいた全員が息を?んだ。
「まぁ量産出来なければ、一度しか使えないんすけどねぇ」
張り詰めた緊張を緩ませるように白衣の男がのんびりと言う。一度萎んだ風船にまた息を吹き込むようにリーダーが咳き込んだ。
「使用用途はまだ決まってはいないが、戦争をなかったことにするために、必要な鍵になることには間違いない」
リーダーが指をスライドさせる。次に映ったのはパワポ初心者が作ったような箇条書きの文字の羅列だった。
「それでは今回の作戦を伝える」
作戦内容は思ったより大雑把だった。
戦争が始まる十年前に戻り、白濱ユリカと接触。恐らく最も長いタイムトラベルとなると思われるため、住処となる基地を設営。
その後、時間転移で一年置きずつに人員を分け、一年ごとの白濱ユリカを同時観察する。戦争の引き金となる原因が分かり次第それに対処し、マークⅡは最終手段として温存しておくことにする。
もし誰かが死んだからといって、それを知らせに時間転移で戻ると、相手も殺すために同じ手段を取り、堂々巡りを繰り返し、最終的には八方塞がりになる可能性があるため、その手段は原則取らないとする。
「尚、歴史の矯正力があるため、当時の人との交流などはある程度、正史と異なった行動をしても問題ないと思われるが、未来に関することを話したり、死人を救ったりするような、バタフライエフェクトで大きな影響がもたらされると思われる行動は絶対に禁止だ。破ったものには処罰があると思うように」
「どういう意味ですか? ちょっと専門用語が多すぎて……」
浩介は声を小さくして隣に座っていた女性に訊いた。カフェで浩介の家族を殺した宇宙人役としていた人だ。
「あーつまりはね、小さなことだったら歴史が辻褄を合わせてくれるけど、あんまり大きなことをすると色んな所に影響が出ちゃって大変なことになるから駄目ってことだよ」
それ以上説明してもらうのは悪い気がして浩介は分かったふりをした。とりあえずはリーダーが言っていた言葉通りに【当時の人と交流はしてもいい】【未来に関することは話さない】【死人は救わない】を徹底すればいいかと思った。
「それで作戦決行日は?」マスターが尋ねた。
「今から、と言いたいが、全員やり残したこともあるだろう。この作戦が成功しても、失敗しても、確実に今のこの時間にはもう戻ってくることは出来ない。そのため決行日は来週とする。全員それまでこの時間でやり残したことを尽くすように」
浩介は別に今からでも良かった。
家族がいなければ、高校生活も仮面の一つに過ぎず、本物ではない。誰かにとって愛おしいほどに重要かもしれないその一週間は、浩介にとってはどうすれば早く潰せるだろうかと爪を噛まずにはいられない苛立ちを覚える時間だった。
その六日目のことだった。
一通の連絡が来た。
それは小学校時代によくしてくれた黒澤先生からだった。
ファミレスで落ち合うと、先生は
「久しぶり」と昔と変わらず、優しげな微笑みを浮かべた。
卒業してからもう五年以上経っているのに、掛けている眼鏡も服のセンスも当時と何も変わっておらず、安心してしまう。
卒業してから色々あった分、先生との積もり話もよく弾んだ。
先生がコーヒーの二杯目に口を付けた頃だった。
「今日呼んだ本題です。頼みがあるんですけど、浩介くん、そろそろ過去に行きますよね?」
ドキリとした。そのことを知っているのは太陽派の人だけのはずだったからだ。浩介は素早く店内の人の顔を見渡した。
「大丈夫です。安心して。知っているのは私だけですから」
「……何で知ってるんですか」
「未来のあなたから聞きました」
「っ!? どういうことですか」
「そこまでは教えられません。リーダーからも言われているでしょ。未来のことは話しちゃいけないと」
言葉を失った浩介に黒澤先生は続けた。
「それで頼みなんですけど、浩介くんが行った時代で、これをこの住所に届けてください」
差し出されたのは宛名のない茶封筒だった。住所だけはしっかりと書かれている。
「この封筒の中身が何かとか、この住所に誰が住んでいるのかとかもやはり聞いては」
「はい、いけません。未来のことなので話すことは出来ません。浩介にメリットは何もありません。でも、この頼みを聞いてほしいです」
悪意のない顔だった。浩介は躊躇った。この中身がこの住所に届いたことで、何かよくないことが起きるのではないかと。しかし、小学生の時によくしてくれた恩師である。
浩介は一つ頷いた。
「分かりました。善処します。でももし出来なかったらすみません」
「いえ、それで構いません。ありがとうございます」
本題を終え、コーヒーを飲み干すと黒澤先生は席を立った。
「それじゃそろそろ行きますね。早く帰らないとまた妻にどやされるので」
浩介も席を立った。
「先生。奥さんはどうなんですか?」
「目は不自由のままですけど、変わらず毎日文句言ってきますよ」
浩介と黒澤先生は店の前で別れた。
曇天。作戦決行日が訪れた。所定の時刻、意を決したメンバーが目に険を引っさげ、総勢三十四名が集まった。
時間転移は四次元干渉装置のエネルギーを温存するために、二人一組でペアを組み、触れているものも移動するという特性を利用して効率良く行われることになっていた。
いつものフロアに全員が整列し、リーダーが口上を垂れている時だった。
突如、一階から爆発音が響いた。火災警報器がけたたましく鳴り、後ろのドアが勢いよく開かれた。
普段から一階で見張りをしている丸坊主の男だった。
「た、大変です! 系外派が、系外派が攻めて――」銃声がして、男が糸を切らした。
坊主が開けたドアから武装した集団が銃を構え、突入してくる。間髪を入れず、銃声と悲鳴が部屋を一瞬で満たした。
「早く時間転移をするんだ!」誰かの叫び声がした。
混迷を極めていた。浩介は無我夢中で転移を行った。浮遊感に襲われ、先程までの阿鼻叫喚が嘘のように静まり返る。
耳をつんざいた音が消え、視界は黒く塗りつぶされ、死んだのかと思った。しかし、よくよく耳を澄ませば虫の声聞こえ始めてくる。
初めての時間転移。土の匂い、足を動かすと柔らかな感触と一緒に枯れ葉を踏み潰す音がした。どうやら指定した通り、二十三時丁度の森の中のようだった。
突然闇に放り出され不安になっていると、すぐ近くで足音がした。それは一つではなく、いくつもあった。
「状況確認」リーダーの声がした。辺りを警戒してるのか、声を抑えている。
「こんなに暗くちゃ無理ですよ」
聞いたことのある女性の声がした。その声がした辺りから懐中電灯の明かりが点った。足下が照らされる。
「馬鹿っ! 点けるな!」珍しくリーダーから衝動的な声が上がった。
「え?」
女性がライトを上げた時だった。サーマルゴーグルを付けた不気味な顔がリーダーの背後に浮かび上がった。
心臓が飛び上がったのとほぼ同時だった。切り裂かれる音とリーダーの断末魔が耳に飛び散った。
よく考えるべきだった。疑問に思うべきだったのだ。キューブやスーツの構成データを入手出来たことも、調査が上手くいっていたことも、全て、この日、太陽派を一網打尽にするための系外派の計画だったのではないかと。
それに気付いた時にはもう、遅かった。
暗闇で敵も味方も分からず、逃げ惑い、蹂躙されるがままだった。
彼らは近くの麓に民家があるのを知っていたのだろう。音の大きい銃器を使わず、ナイフを使用していた。
敵に位置がバレているならライトを点けても構わない。そうして次々とライトが光り、光線が乱舞した。ナイフが白く反射し、赤い血が飛散する。
「どこでもいい転移しろ!」誰かの叫び声がした。
浩介はここに来るのに使ってしまい、転移するには誰かの転移に巻き込んでもらうしかなかった。
目が合ったのは井戸の近くにいるカフェのマスターだった。彼の手に握られる石にはまだエネルギーを示す紺色の光が点っていた。浩介の表情で、すぐに察したマスターは浩介を呼んだ。
「早くこっちへ!」
途端、マスターの首が跳ね飛ばされた。首を失った体が、青白い光り包まれ、どこかに時間転移してしまう。
死体のふりは意味がない。彼らがプロなら必ず死体に追い討ちを掛けて確認するからだ。
それからどうしたのかは浩介自身、記憶が曖昧だった。ライトを消して、木に何度もぶつかりながらひたすらに走ったことしか覚えていなかった。
下山に成功し、民家の倉庫の中で震えていると、気付けば朝日が昇っていた。自分が生きているのが不思議で堪らなかった。
その後、基地設営予定地に集合出来たのは浩介を含めて八人だけだった。
リーダーを失い、仲間を失い、更には切り札であったマークⅡさえも森の中の襲撃際に紛失してしまっていた。然れど、作戦を中止するわけにはいかなかった。
浩介達は時間転移を利用し、この時代の宝くじや競馬などで資金を貯めると、基地を作った。
白濱ユリカに関しては人数が減った分、一人二年単位で監視することにし、余った三人はサポート役として基地に常駐、主に資金繰りをすることになった。
浩介は歳が近いことを利用し、白濱ユリカと同じ高校に入学、交際するまでに関係を進展させることに成功したが、戦争が始まるまで二ヶ月を切った現段階で、いまだ引き金となる要因が判明しないでいた。
※
語り終えた浩介に、僕はどんな感情を向ければいいのか分からなくなっていた。
到底信じられない話だった。
未来人だとか、戦争だとか ……白濱さんが宇宙人だとか。
しかし浩介の話を信用すれば、全ての辻褄があってしまうのだ。
コンビニ前で瞬間移動をしたのは、僕が無意識にキューブを使ってしまったからだし。
僕を躊躇いなく撃ったのも、話に出てきた系外派とかいう連中と勘違いしたためだ。
僕からキューブを奪うために合宿前日に戻ったことだって、あれは白濱さんを監視していたら、丁度よく僕も現れて、僕の動向を知っていたから。
葉子を見殺しにしたのも歴史を無闇に変えてはいけないというルールがあったからだ。
今まで浩介に向けていた感情が一度に去来する。見殺しにした怒りとか、何者か分からない不安とか、全部冗談でしたとかいう期待とか、過酷な日々を同情したりだとか、白濱さんと付き合っていた嫉妬とか。
色んなものがごちゃ混ぜになって、言葉が出なかった。口だけが何かを言おうと焦って、パクパクともがき、でもやっぱり何も出てこない。
そんな中で、必死に言葉を探して、最初に出てきたのは友情に対する
「ごめん!」だった。
「え、お、おいおい、何で望が謝るんだよ」
「だって、浩介がどういう立場に置かれているのかとか何も知らなかったとはいえ、前歯を折って、酷いこと言って」
「待てよ、それを言うんなら俺の方だって勝手に敵かもと思って容赦なく撃ったんだ。謝るのは俺の方だよ」
浩介は姿勢を正すと「その、ごめん」と頭を下げた。
僕の方こそ、いや俺の方こそと、二人で頭を下げ合っていると、どちらが相手より頭をより下にさげられるかみたいな勝負になって、次第にそれが馬鹿らしくなった僕らはどちらからともなく、息を吹き出し、笑って顔を上げていた。
一頻り笑い合うと、僕らはまた元の鞘に戻るように手を叩き合った。握手するとか、殴り合うとかそういう少年漫画みたいなノリはいらない。手を叩き合うだけで充分なのだ。
「なぁ、望、お前オリジナルキューブをどうやって手に入れた?」
「拾った」
「拾ったぁ!? いつ、どこで!」
「夏休み前に、学校の廊下で」
「はぁ!? 何だよそれ、俺達秘密警察でも手に入れられなかった物を学校の廊下でって」
浩介はむしゃくしゃと自分の頭を掻きむしると、また溜息を一つ吐いてから、石ころサイズの何かを僕に向かって放り投げてきた。
たぶん爆弾とかではないだろう。僕はそれを受け取ろうと手を伸ばしたが、運動神経の悪さが目立ち、二度三度と掴み損ねて宙を跳ねさせた。
「何してんだよ。おもちゃじゃないぞ」呆れた口調で浩介の軽口が飛んでくる。
「分かってるっての」
ようやく手の中で落ち着き、手を開いて確認する。それは僕が今までサイコロと呼んでいたものオリジナルキューブだった。
「え、浩介これ」どうして僕に? と続ける前に浩介が言った。
「正史は変えるなっていう命令だからな。もしかしたら、この時代のこの時間、お前がそのキューブを持っていることこそが、正史なのかもしれない」
「でも正史を変えるなっていう命令に従うなら、どうして葉子が救えるようにこの時間に戻したのさ」
「黒澤が死ぬ運命なのか、生きる運命なのかは、お前がキューブを持っている限り、俺には分からない。それに黒澤を失ったお前を見てたら、何だか昔の自分を見てるようでさ」
浩介は家族を奪われた。その痛みがどれほど心を蝕むかは、葉子が死んだ僕には理解出来た。いや僕は葉子だけだが、両親と妹の三人を失っているのだから僕以上に辛い思いを経験しているのかもしれない。
浩介は暗い雰囲気になったのを壊すように
「それに前歯を失っちゃ、格好悪いからな」とおどけて見せてくれた。
僕もそれに応えて
「うん、滅茶苦茶間抜けだったよ」と笑ってやることにする。
釣られてか、浩介も息を吹いた。
こうして再び浩介と一緒に笑い合えて良かったと、僕は心の底から思った。良かったと安堵する一方で、客観的に見て、どこかよそよそしくて、まるで最後だから笑い合ってるようにしか思えない、そんな自分もいた。
「ねぇ浩介、どうして僕に本当のことを言ったの? 未来に関することを話すのはルール違反じゃないの?」
「お前を撃った時点で既に色々アウトだったから開き直って話してやった、てのもあるんだが、なにより、黒澤のためにあそこまで必死になれるお前ならきっと、戦争をなかったことにしてくれるんじゃねぇかなって期待したってのが本音だな」
……戦争。よく聞く言葉だが、実際には現実離れした言葉だ。その言葉の意味の重さを僕は未だに実感が持てず、理解しきれずにいる。
「ねぇ本当に戦争は起きるの?」
「あぁ、起きるよ。九月二十八日にな」
「来月末…… 文化祭の日じゃないか!」
「あぁ、その日、大量の宇宙戦艦がやってきて、地上に総攻撃を開始する。だから頼む、望、俺に、俺達に出来なかったことをお前がやってくれ」
「そんな…… 無茶だよ…… あ、そうだ、これを使おう。五次元干渉装置だっけ? このキューブを使えばどんなことだって出来るんだろう?」
「その案は俺も地球産の五次元干渉装置が完成した時に提案した。でも当然却下された。考えてみたら当たり前なことだ。それは元々宇宙人が作ったもの、奴らがそれを考えて対策をとってないはずがない」
言われてみれば「……確かに」
「ま、頼むとか大層なこと言ったけど、別にそんな気構えることないさ。出来なくたっていい。歴史が繰り返されるだけで、お前には何の落ち度はない。非難される筋合いもない」
そうは言われても、その戦争だけでたくさんの人が死んで、それをなかったことをするためにまた多くの人が命を落としている。そして今僕の手の中にあるこのキューブには戦争を止められるかもしれないというのだ。無責任でいる方が無理な話だ。
事実を認識する度に、その意味の重圧やプレシャーが形作られて、肩に乗っていくようだった。
「さて、風も強まってきた。長話をし過ぎたみたいだな。そろそろ動かないと黒澤がまた死んじまうぞ」
浩介が乱れた髪を整えながら言った。
「あ、でも、このままいけば葉子が浩介に告白することは――」
この時間の続きはまだ見ていない。浩介に告白する機会さえ作らなければ、葉子が死ぬようなことはないはずだ。と思っていた矢先だった。
浩介の携帯が鳴った。僕の期待をあざ笑うような着信メロディ。ディスプレイに表示されていたのは葉子の名前だった。
「噂をすれば影がさす。たぶんこれは告白の電話だろうな。これに出なくてもきっとまた別の手段で告白してくる。これが歴史の矯正力ってやつなんだと思う」
浩介はその電話を拒否して、携帯をポケットにしまい込んだ。
「いいか、望。黒澤を助けたいなら死に繋がる原因を根本から変えなきゃいけない。きっとこの台風だろうな。だからお前は一度過去に戻って、キューブを使って台風を消すんだ。そうすれば黒澤が死ぬ要因がなくなるはずだ」
「うん、分かった」
僕は頷いた。浩介の考えを尊重して返事はしたが、正直不安ではあった。本当にそれで葉子を救えるのだろうかと、一抹の不安が拭えない。
葉子のこともそうだが、拭えない不安はもう一つある。
「それでさ、浩介はこれからどうなるの? ルール違反はしたけど、それを罰するリーダーは亡くなってるわけでしょ?」
「さぁ、どうなるんだろうな。残った八人の内で、新しくリーダーを決めたんだ。たぶんそいつに処罰される。何されるか分からないが、まぁ良くて謹慎、悪くて消されるだろうな」
「消される!?」
「過去に戻って俺を始末すれば、俺が今までしてきたことはなかったことになるからな。でもまぁ流石にそこまではしないと思うけど…… まぁ別にいいさ」
冗談を言ったつもりみたいに浩介は笑った。それが無性に腹が立った。
「別に、ってそんな投げやりなこと言うなよ」
「俺には何にもないから、仕方ないさ」
確かに浩介は家族を失って、元に時代に戻ることさえも許されていない。でも
「何にもないとか、そんなこと言うなよ!」
僕は声を大にしてしないと言わずにはいられなかった。
「僕は浩介と死ぬまで友達で居続けてもらうつもりだったんだから! 一年半だけだけど、お前は僕達と過ごした日々も、密告のために過ごした高校と一緒だったって言うつもりかよ! お前は僕達を友達と思ってないのかよ!」
何もないとかそんな寂しいこと言われると、悲しいより、怒りが勝った。
「お前、インドアのくせに意外と熱いんだな……」
「うっせぇ」鼻を広げて、排熱する。
浩介はばつの悪さを隠すみたいに頭を掻いた。
「……悪い。そうだよな、お前らがいたな。……うん、悪くなかった。いや、最高に楽しかったよ。出来るなら最後まで、一緒に過ごして、一緒に卒業したかったよ」
俯きながら浩介が言った。チラリと見えるその頬は少し染まっていた。
「そろそろ行け。泣きそうだ」
震えた浩介の声。ほんの少しは浩介を救えただろうか。
僕は「分かった」と大きく頷くと、キューブを力強く握った。
今の僕の顔を見られないように、後ろを向く。鼻をすすり、小さく、強く、考える。
――戻れ。
あの違和感が全身に走った。
「それで誰と組むの?」いつもの声。
目の前にいるいつもの三人。内一人は照れくさそうに下を向いて頭を掻いていた。
「じゃあ葉子、僕と行こうか」
気取られない程度に胸を張り、葉子を指名する。
「え、私? 何で私なの?」
「葉子に話したいことがあるんだ」
葉子が眉を寄せて、首を傾げた。
ペアが決定すると、身支度を済ませて、僕らは家を出る。浩介、白濱さんペアは海の方角に、僕と葉子は川の方へと向かうことにする。
玄関で別れる間際、僕と浩介はハイタッチを交わした。力強く、嫌みったらしく、相手が痛がるぐらいに派手に音を鳴らす。
「じゃあな親友」
打ち合わせもしてないのに、僕らの言動は全部一致していた。それがまた可笑しくて、僕らは破顔する。親友なんて、青臭くて恥ずかしい台詞。
葉子は何してんの、とジト目で見てきていたが、そんなことは気にしない。
きっとこの四人が揃うことはもう二度とない。嫌だけど、辛いけど、進むしかないのだ。
背向けて、僕らは歩き出す。
川へと向かう畦道。葉子は僕が言った話したいことが気になっているようで、一人ソワソワとしていた。
「ねぇ望、それで、私に言いたいことって、な、何よ」
言うことは決めていた。既に覚悟だって決めていたはずなのに、実際に土壇場になると、心臓が破裂寸前までに膨れ上がる。
深く息を吸い、ゆっくり吐く。
葉子が死ぬ原因は台風じゃない。それこそ台風のせいにしているだけで、葉子と向き合っていない証拠だ。葉子が死ぬ本当の原因は恐らくたぶんきっと、それは僕への恋心だ。
葉子を傷つけてしまうのが怖くて、僕は一度逃げ出した。でもクリームちゃんに言われた、今度は逃げちゃ駄目だと。
葉子と真剣に向き合うと決めたのだ。もし逆上して前歯が折られたって構わない。本気の相手には、誠意を持って向き合わなければいけないのだ。
タイミングを掴むと、僕は葉子の目を見た。一度は逃げた選択を僕は再び選び取る。
「葉子、僕、白濱さんが好きなんだ」
葉子の足が止まった。葉子は平静を取り繕ったつもりだったろうが、僕は刹那的に目に出た本当の感情を見逃しはしなかった。
「何、急に? そんなの知ってるに決まってるじゃん」
葉子は僕を馬鹿にするみたいに鼻で笑うと
「もしかしてそれが私に話したかったこと?」とやれやれと言いたげに首を振った。
でもそれが虚勢なんていうのは、すぐに察しが付いた。
「うん、そうだよ。僕は白濱さんが好きだって、葉子に伝えたかった」
葉子がさりげなく、僕に背を向ける。少し前、海で僕が浩介に背を向けたみたいに。
「どういうつもり? 私に伝えたからってどうだっていうの」
本当は初めから気付いていた。中学生の時に、歩幅合わなくなり始めた頃からずっと、気付かないふりをしていただけだ。
「僕は葉子が好きだ。でもそれは家族としてだ。ずっと一緒にいたいと思う。でもそれも家族としてだ。恋人としてじゃない」
歩幅が合わなくなってすぐに感じ取った。これ以上今の関係が壊れてほしくない。これ以上距離感が合わなくなってほしくない。そう思って僕は気付かないふりを始めたんだ。
「もしかしてあんた、私があんたのこと好きだと思ってるの? ちょっと待ってよ、そんなはずないでしょ」
残酷なことだけど、僕は葉子を振ると決めたんだ。たとえ葉子を傷つけて、泣かせて、嫌われることになったとしても、無意識に守ってきた距離感が崩壊することになったとしても、葉子を助けるために、選び取ることにしたのだ。
「あんたみたいなブサイクで、根性なしで、運動音痴で、鈍チンで、ウザくて、キモい、良いとこ何て一つもない…… あんた何か……」
肩を震わせていた葉子が振り向いた。目にたっぷりと涙をため込み、今に壊れてしまいそうな体を自分で強く抑え込んでいだ。
「あんた何か、好きになる、はず、なかったのに……」
感情が爆発寸前なのが分かった。本当に悪いと思う。いくらでも後で謝ってやる。だから僕は今だけは態とその爆弾に火を点ける。
「ごめん、葉子。僕は白濱さんが好きなんだ」
「分かってるよそんなこと! 同じこと何度も言わないでよ!」
葉子の声が何度もひっくり、涙が遂に流れ始める。
「諦めようと思ったんだよ? 何度も何度も。あんたの悪い所ばっか探して、粗探しして。でも目が勝手に追い掛けちゃうの! 泣きそうになるの! 何で轢かれそうになった私をあんなに必死で助けてくれたの? あんたことされたらもっと好きになっちゃうじゃん!」
葉子が距離を詰めてくる。溜め込んでいた涙が、目の前で次々と流れ落ちていく。
「何で私じゃ駄目なの? 白濱さんより、私の方がずっと長く一緒にいるし、ずっと詳しく知ってる。確かに顔じゃ敵わないかもしれない。性格だって敵わないしれない。でも私の方がずっと! ずっと、ずっとあんたのことが好きなんだから!」
「ごめん、本当に」
「謝らないでよ!」
葉子の拳が僕の胸を叩いた。痛くないのに、その振動が胸に重く、のしかかる。
「本当は今日、浩介くんに告白するつもりだったんだよ? そのために今日この日まで色々頑張ってきたの。もし私が告白すれば私達の関係はぐちゃぐちゃになる。そうしたらもうあんたの横顔なんて見たくないものを見なくて済むようになる。あわよくば、私と浩介くんがくっついて、フリーになった白濱さんとあんたがくっつくかもって考えてたんだよ? ホントつくづく、自分のこと最低だと思う」
「葉子は最低じゃないよ」
「最低なの! あんた本当に何にも分かってない! 花火の日にあんたと白濱さんを二人っきりにしたのだって、今日誰とペア組むかをあんたに託したのだって、全部私が、私を傷つけるためなんだから! 諦めなきゃいけない、白濱さんに勝てるはずない、自分で自分を諦めさせるためにやったことなの!」
「……」
「今だって、こうやって泣けば、あんたが優しくしてくれるかもしれない、振り向いてくれるかもしれないって思ってるんだよ? ホントに最低。最低なんだよ!」
「じゃあ葉子、僕が泣き落とされていないか試してみたら?」
葉子の呼吸が一瞬止まる。唾を飲み込むように喉が動いて
「……わ、私と付き合ってくれますか?」と葉子は僕の目を見上げてきた。
ようやく引き出した、葉子の本音。ここでまた逃げ出すことは出来る。僕が次に言う台詞で、葉子は間違いなく傷つく。でももう逃げるわけにはいかない。目を背けるわけにはいかない。葉子を助けるためだけじゃない、僕のためにも。僕と葉子がこれからも一緒に居続けるために必要なことなのだ。
「……ごめん、それは出来ない」
少し引っ込んでいた葉子の涙がさっきより勢いよく流れ出して、また僕の胸を叩いた。
「馬鹿っ!」何度も「馬鹿っ!」何度も「ズルいよ!」何度も「卑怯よ!」
最後には言葉もなくなって、葉子は子供みたいにわんわんと大声を出して泣き始めた。
僕はそれを宥めることもせず、ただ眺めて、受け止めた。
多少なりとも僕にも出来た心の擦り傷。心地よいとも思わない。でもその痛みも、受け入れていかなきゃいけない。
散々泣いて、喚き散らして、ようやく少し落ち着くと、葉子が言った。
「私だって、望と昔みたいに、花火見たかったんだから」
徹底的に振ると決めていたが、これぐらい優しくしてもいいだろうと思った。
元々は葉子のために、台風を消す用にあったものだ。使ってしまっても問題はあるまい。
――僕は願った。
直後、耳に打ち上がる、光の音がした。
目を向ければ、夏の青空に大輪の花が羽を広げた瞬間だった。
一つ、また一つと打ち上がり、咲いていく。開花を喜ぶ律動が、体を、心を震わせる。
気休めかもしれない。葉子に優しくしてやったっていう僕の自己満足かもしれない。
胸元でうずくまる葉子を見ると、夏の眩しさに淡くぼやけた花火に、夢中になっていた。
僕の視線に気付くと、服を掴む手に力が込められる。
鳴り止まない空の鼓動。胸を締め付ける葉子の心音。それを一身に受け、僕は再び花火へと視線を預けた。
光の曲線が鮮やかな花を連想させ、惑星を想像させる。
見惚れている時だった。頬に花火にも負けない熱と柔らかさを感じた。
驚いて、葉子を見ると
「これぐらい許してもらわないと」と悪戯な笑みを浮かべた。
その好意を許すつもりはなかったが、今更咎めることも必要ないだろう。
「この花火が続く間だけだからな」
僕は観念して、無防備に花火を見続けることにした。
これから先、何が待っているのかは分からない。戦争とか宇宙人とか五次元とか、僕の想像を越えている。でもそれを裏付ける証拠が今も僕のポケットに収まり、その時を待っている。不安じゃないと言えば嘘になる。
僕に何が出来るのか、何をすればいいのかは分からない。
ただ今は、今だけは、この熱に甘えることを許してほしい。
夏の終わりを嘆くひぐらしが、空が色づく合間に姿を消した。
それが夏の終わりを意味しているのか、世界の終わりを意味しているのか、僕には分かるすべがなかった。




