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第二話 夏の記号


 花火大会が終わり一週間が経過した。夏休みも前半を終え、後半戦へと流れ込む。まだ二十日近く夏は残っているというのに、気分はもう夏の終わり。ひぐらしの声でも聞こえてきそうな憂鬱加減だった。

 テレビを点ければ『まだ間に合う! 夏のレジャー施設!』という特集が毎日のように目に付き、天気予報を点ければ連日最高気温を更新している。

 僕はというと、今現在進行形で葉子と一緒に図書館の学習スペースで夏休みの宿題を片付けに掛かっていた。

 高二の夏休みという、もしかしたら人生で三本指に入るのではないかと思われる貴重な時期を、僕は何の面白味もなく過ごしている。

 欲を言えば宿題なんて放って置いて、プールだ祭りだワッショイワッショイと騒いで過ごしたいのだが、葉子曰く

「大切な時期だからこそ勉強しないといけないの。心電図みたいな一瞬の盛り上がりと、残りの人生右肩上がりの折れ線グラフだったらどっちがいい?」

 と説得され、うーん、と顎に手を当てている間に気が付けば学習スペースへと連れ込まれていたのだ。

 補足すればエアコンが壊れてしまい、このまま家に居たら溶けてしまうか干からびてしまう。そうだ、葉子の家に行こう。

「ウチは駄目に決まってるでしょ」

「じゃあ死ぬしかないの?」

「なんでそうなるの。図書館なら涼しいと思うよ。そういえばあんた宿題やった?」

 と逃げ切れなかったのが事の発端だ。

 学習スペースは学校の教室より少し広めで、白を基調とした清楚な内装に長机と椅子が並ぶだけ。壁に貼られたポスターも気が散りそうな宣伝の類いのものはなく、シンプルに注意事項だけときている。

 テストシーズンになると、学生でほぼ満席になるらしいが夏休みの時期とあって僕達以外で来ているのは十数人程しかいなかった。

 朝から始めて数時間も経ち、流石に集中力も切れてきていた。ちょっと気晴らしにスマホゲームでもするかと手を伸ばすと、脇腹にどぎついエルボーが葉子から飛んできた。

 他の人も来てるが故、呻き声を極限までに抑え込む。

「真面目にやりなさい」

「流石に疲れたって」

 どうしてそこまで集中力が続くのか寧ろ訊きたいぐらいだ。下手すりゃこいつは生涯勉強と添い遂げるのでは? と心配になってくる。

「飲み物買ってくる」と嘘ついて、学習スペースを出ると、誰も見てないことをいいことにへそチラするぐらいに思いっきり伸びをした。

 さて、どこに行こうか。

 気晴らしに外に出てみたが、蒸し暑さに一瞬で退散する。全然気晴らしにならない。

 場所は図書館、右を向けども左を向けども活字ばかりで目頭を揉みたくなってくる。

 学習スペースを出る口実で吐いた嘘のつもりだったが、気分を変えるために僕は自販機で麦茶を買い、すぐ脇のベンチに腰を落ち着けた。

 一口を大きく仰ぎ、背もたれに倒れ込む。

 ポケットに手を突っ込めば、あの例のサイコロがあり、指の間で遊んでしまう。コンビニ前での事故以来、助かった時に持ち合わせていたサイコロをお守り代わりに常に持ち歩くことにしていた。

 点の数は今朝も確認したが二のまま変わっていない。

 最初は拾った日から一日が経過したから点が一つ減ったのだと仮説を立てていたのだが、それは違ったみたいで三週間経った今、あれから変化は一切ない。この点が何を表しているのか、それは今も謎のままだった。

 謎のままと言えば、あの事故のこともそうだ。

 気付けば僕と葉子が反対側の歩道にいたこと。

 葉子にも訊いたが、あいつも咄嗟のことで全然記憶にない、と言っていた。

 サイコロをあらゆる角度で撮影し、片っ端から画像検索してみたがヒット件数はゼロ。

 瞬間移動についても、理系が馬鹿真面目に考察したサイトばかりで、上の方に表示されたサイトを適当に幾つかなぞってみたが、どれもあの現象を説明するのは不可能なものばかりだった。

 お茶をもう一口飲むと、葉子に「遅い」と口から火を吹かれる前に戻ることにした。

 学習スペースに戻ると、部屋にいる数人が一瞬だけ僕の方に振り向いた。自分に関係ないことを察すると、すぐに僕への興味をなくして戻っていく。

 振り向かなかった人の内の一人に葉子が含まれていた。足音を立てて近づいてもこちらに気付く様子もない。よっぽど集中しているのか。

 こっそり後ろから忍びより、手元を覗いてみる。

 何ということだろう。僕がスマホに手を伸ばしただけで攻撃してきた葉子が、両手でスマホを弄っているではないか。

 これ、僕が二回エルボーしても許されるよね?

 全く自分を棚に上げて一体何やってるんだ、と思い、液晶画面を覗いたのは悪意より正義心の方が強かったからだ。

 これでゲームでもしていたら正してやらなければならない。エルボーされた身として。

 しかし、葉子の画面に映っていたのは期待、いや予想を大きく裏切るもので、僕は虚を突かれてしまう。

『波島浩介』

 ラインの画面に見慣れた名前が表示されていた。

 あの日、花火の日、結局葉子は帰ってこなかった。花火が終わってからごめんごめんと戻ってきた浩介と三人で帰り、帰宅すると葉子の部屋に明かりが点いていた。どうせ明日になったらまたウチに来るだろうと思っていたのだが、ウチにまた来だしたのは三日経ってのことだった。花火大会なんてなかったみたいに、普段通りにソファに寝転んでテレビを見始めていた。最初こそ何一人で帰りやがって、と頭に血が上っていたが、その頃にはやっぱりいきなり皆で花火大会はハードルが高かったか、と思い始めていて、僕の方からも敢えて花火大会について言及することはしなかった。

 ――しなかったのだが、これはどういうことなのだろう。

 あの日、僕は葉子と浩介がまともに会話している所なんて見ていない。花火の日を除いても浩介と葉子が会話をしたの何てプリントの回収をする時ぐらいしか見掛けたことはない。

 そんな二人が連絡先を交換しているだなんてありえるだろうか。いや、ありえない。僕は白濱さんの連絡先だって知らないのに、僕と白濱さん以上に疎遠だった葉子と浩介が連絡先を交換して、あまつさえ夏休みに連絡を取るだなんてありえるはずがない。

 流石に会話の内容を見るのは気が引けて、僕は野暮な考えを捨てることにした。

「おい、何やってんだよ」

 ペットボトルを葉子の頭の上に乗せて、隣の椅子に腰掛ける。頭のペットボトルを取りながら葉子はいつもみたいに目を尖らせた。

「見た?」

「見てない。興味ない」

 ホントに? と言い出しそうな疑いの目に「携帯で何してるの?」と嘘を上塗りする。

 葉子は少し目を泳がすと

「お母さんと今日の晩ご飯の相談」と僕の目を見ずに言った。

 嘘を吐かれたことは少なからずショックで、そのことを悟られないように僕も葉子から目を逸らす。お互い様だというのに。

 それからもうしばらく二人で宿題を進めると、図書館を後にすることにした。

 葉子の方は粗方片付いたみたいだったが、僕の方は休憩以降、ほとんど進むことはなかった。数式や古文や世界の歴史よりも、葉子がどうして浩介と連絡を取っているのか、ましてやどうしてそれを隠すのか、そのことの方が気になって仕方がなかったのだ。




 晩飯は冷やし中華だった。

 もしかして付属のあのツユを水で割ったのか? と思いながら麺をすすっていると、葉子が言った。

「ねぇ海に行きたい」

 インドア派らしからぬ台詞に驚いて咽せてしまう。

「う、海ぃ!? お前疲れてんのか?」

「今日の宿題は疲れた」

「そういうことじゃなくてさ……」

 何だか最近この眼鏡の様子がおかしい気がする。ピントでもズレているのだろうか。

「まぁいいよ」と僕は一言呼吸を挟み、海について少し考えてみることにした。

「海、海ねぇ、海かぁ……」

 そういや白濱さんも同じようなことを言っていた気がする。行くなら是非にとも誘いたいものだけど……

「望のお婆ちゃん家は? 昔よく一緒に行ったじゃん」

「あぁー、確かに悪くはないな」

 海の日帰りは辛いし、泊まりとなれば金も掛かる。その点を考えれば、お婆ちゃん家は全てが丸く解決する。

「でもなぁ……」

 何を隠そうエセインドア派に成り果てた葉子と違い、僕は曇りなき綺麗なインドア派なのだ。スイカ割りに、バーベキュー、浜辺で花火といった如何にもアウトドア派が好きそうなイベントに憧れてないわけではないが、葉子と海に行くには少々材料が足りていない。

 晩飯を食べ終え、シャワーも浴び終わり、部屋に戻るとスマホが着信の光をあげていた。

 相手は浩介だった。

〈合宿いこうぜ合宿。海行きてぇ!〉

 お ま え も か。

 どうして皆海に行きたがる。何だ海ブームなのか。プールじゃ駄目なのか。求められないプールが可哀想だと思わないのか。ちなみに僕は思わない。というか、何で皆僕に言うんだ。

〈合宿ってどこに?〉

〈当てがないからお前に言ってる!〉

 僕を何だと思っている。僕で当てを探そうとするな。偶然にも当てがあるから困るだろ。

〈合宿って何の合宿なの?〉

 考えていたのだろうか。既読がついてからしばらくして返事がくる。

〈夏休みの宿題。俺ほとんどやってないから夏休みの宿題をする合宿だよ!〉

 海でやる必要ないだろ。家でやれ家で。お前の場合は寧ろ効率が落ちるだろ。

 何て返信するか指が彷徨っていると、部屋のドアがノックされた。

 してきた相手が誰かなんて見当しなくても一人しかいない。「何?」とドア越しに言うと、気分を窺うようにドアがそっと開いて、葉子が控えめに顔を出した。

「さっきの件だけど、私、海に行きたいっていうのは遊びのためじゃなくて、自由研究をするためなんだけど」

 お前ら絶対裏で繋がってんだろ! もう少しタイミングをズラすとかバレない工夫をしないか普通!?

 少し面倒になってきていて僕は頭を掻きむしると、ほぼヤケクソ状態で

「分かったよ」と葉子にも浩介にも返事をした。

 仲間外れは可哀想だから、という理由で白濱さんを付けるのを条件にした。

 念願の白濱さんの連絡先をゲットォ! したのは四人のグループラインが作られたからだった。グループラインでは白濱さんから来るメッセージの一つ一つが、脳内で全て白濱ボイスとして再生され、全部が愛おしくなってしまう。我ながら気持ち悪い。

 グループラインで何の自由研究をするのかが話し合われ、お婆ちゃん家の周りには川と海がある、と言うと白濱さんの提案で水質調査をすることに決定した。

 海に行くのは未だに乗り気にはなれなかったが、白濱さんに自由研究のためならば、致し方ないというものだ。

 その日の内にお婆ちゃんに電話して都合を付けると、週末(より正確に言えば五日後)に三泊四日で合宿を行うことが決定した。

 予報によれば台風が接近するらしいが、北の方に逸れて日本には来ない見込みらしい。



 ※



 そしてやって来たるは合宿当日、ではなく合宿前夜のことだった。

 ボストンバッグに荷物を詰め込んでいると、重要なものがないことに気が付いた。

 確か名前は『自由研究用タイトル用紙』だったか? まぁ正確な名前はどうでもいい。必要なのは自由研究を提出するためのプリントだ。

『レポートをまとめる用紙はなんでもいい。あ、ただし感熱紙は禁止だからな。前に一度それで提出してきた馬鹿がいやがって…… いやこの話はどうでもいい。とにかく禁止だ。今配ったこのプリントを一番上にして提出するように。クラス氏名とタイトルを書いてな。これに点数と評価を書いて後で返却するから絶対になくさないように』

 ――なくした。

 他の先生ならば適当な紙で代用出来るが、理科の(まつ)(だいら)はそういうわけにはいかない。前にプリントをなくした奴がコピー用紙で提出したら配ったわら半紙じゃないとして、滅茶苦茶に怒鳴られたことがあった。あれを自分もされると思うと……ヒッ。

 引き出しをひっくり返しても、バックをひっくり返しても、プリントの紙片さえ出てこない。ヒッ。

 普段の自分の行いを振り返っても、どこかでプリントを出すようなことはしていない。だとしたら、一番可能性があるのは学校の自分の引き出しだ。

 時刻は午後九時。学校はとっくに締まっている時間帯。出発前に取りに行こうにも、明日の出発は朝七時。学校が開くのは朝八時ときている。

 何か方法はないかと頭を抱えて、部屋をうろつく。しかしやっぱりどうしてか、方法は一つしか思いつかなかった。

 はぁ、行くか……

 外は昼間より幾分過ごしやすくなっていたが、それでも肌にまとわりつく湿気は不愉快になるには充分だった。

 自転車をかっ飛ばして夜風を浴びても、湿気なのか汗なのか、気分の悪い液体が胸と背中を舐めていく。

 等間隔に並べられた街灯が淡く道路を照らしていた。古いタイプの電球を使っているのか、夜の暗闇に手を伸ばせば、指先から消えていってしまいそうだった。

 別にただタイトル用紙、合宿から帰って来てから取りに行けばいいのだが、それに気付いたのはもう少し後のこと。

 五分後に学校に到着するも当然正門は閉まっていた。乗り越えられない程の高さでもなかったが、不審者対策のためか正門付近は虫がまとわりつく照明で煌々と照らされていた。

 流石に目立つ。裏手の職員用出入口に行っても似たようなものだった。

 まぁでも、学校なんて侵入しようと思えば容易い物だ。体育館脇の背の低いフェンスを乗り越えればあっという間に敷地内に侵入出来てしまう。

 体育館角を抜けてすぐに目に付いたのは暗闇の中でただ一つ光る職員室の窓だった。恐らく宿直の先生がいるのだろう。

 逆光で外は見えていないはず。だが念には念を、校庭の隅を通り、校舎の入口に向かった。だけど昇降口は予想通り鍵は閉まっており、試しにすぐ近くの廊下の窓を開けようとしてみたが、当然ここにも鍵が閉まっていた。この調子なら校舎の窓、全てが締まっているだろう。

 ま、そんなこと勿論分かっていたわけで、算段なく来たわけじゃない。

 特別棟東側一階トイレ前の手洗い場の窓。そこの鍵は僕が入学した時から、ずっと壊れたままでいる。鍵はきっと僕が入学する前から壊れていて、二年になってからは確認していないが、たぶんまだ壊れたままでいるだろう。

 校舎を迂回し、渡り廊下を横切り、用具倉庫の後ろに回る。

 よし到着、と思ったのが一瞬、予想だにしなかった光景に僕は思わず固まってしまった。

 窓から人間のお尻が生えていたのだ。

 正確に言うなら、上手く侵入出来なくて途中で引っかかってしまったのだろう。地に足が付かなくなった足がバタバタと宙を泳ぎ、まるで溺れているようだった。見慣れた学校の制服、スカートからして女子生徒だろう。

「あの、えっと、君、何してるの?」

「あ、すみません! これには色々事情がありまして! その、見逃してください!」

 お尻が喋る。どうやら僕のことを先生と勘違いしているようだ。

「違うよ。安心して、僕も生徒。たぶん君と同じで学校に侵入しに来ただけだから」

「あ、そうなんですか、良かったです」とお尻が安堵したようにぐったりと落ち着く。

「それでは悪いのですが、押してもらっていいですか? 自力だとこれ以上行けなくて」

「押すって言ったって、ど、どこを?」

 女性のお尻を触るわけにはいかない。だからといってふくらはぎとか太股を触るのも悪い気がする。というか女性の全身、触っていい部分なんてあるのだろうか。

「どこでもいいですよ。どこでもいいんで押してください。この姿勢結構キツくて」

 少し逡巡した挙げ句、僕は一度合掌して、女生徒のお尻を触った。

 ――あ、柔らかい。

「ちょっと、どさくさに紛れて変な所触らないでください!」

「あ、ご、ごめん!」

 変な所ってどこ!? 僕からしてみたら全部触っちゃいけないところなんだけど。

「あぁー、手を離さないでください! 落ちちゃいます!」

 混乱に、困惑に、パニックを併発した僕はもうどうにでもなれと、思いっきりお尻を掴んだ。女生徒が小さく悲鳴を上げる。何か抗議をし出したが、僕はそれに耳を傾けず、思いっきりお尻を押した。

 一瞬、暗闇の中でピンク色が見えた気がした。直後、騒々しい音を立て、女生徒は校舎の中へと落ちていった。中から「イッタァ」という声が聞こえてくる。

 僕もサッと中に入ると、女生徒は俯いて足を摩っていた。

「大丈夫? 捻った?」と手を差し出す。

「大丈夫です。蛇口にぶつけただけですから」と女生徒が僕の手を取ろうと首を上げた。

 そこで僕達は全く同じタイミングで「あ」と声を漏らした。

「し、白濱さん!?」

「望月くん!? どうしてここに」

 僕達はひとしきり驚き合うと、ふっと緊張の糸が解けたみたいにこれまた同じタイミングで笑い声を上げた。

 白濱さんは僕の手を「ありがとうございます」と取ると立ち上がった。

「白濱さんどうしてこんな夜中に?」

「望月くんの方こそどうしたんですか?」

「僕はプリントを取りに来たんだよ。ほらあの自由研究のタイトル用紙」

「え、望月くんもですか? 実は私もなんです」

 僕達は示し合わせたみたいに笑い合うと、一緒に取りに行くことにした。

 それにしても僕がさっき触ったものは白濱さんのお尻だったのか。両手を見つめて深く反省する。……もっと味わえば良かった。

 夜の学校は不気味だった。いつもの聞き慣れた昼間の喧騒はなく、窓から差し込む街灯が薄ぼんやりと廊下のシルエットを作り上げる。まるで知らない場所みたいだった。陰から何か飛び出してきても不思議じゃない。足音が響いて、消火栓の赤いランプが血を連想させた。

 昔からこういう所はあまり得意じゃない。今この心臓の高鳴りが、恐怖心から来るものなのか、白濱さんが隣にいるからなのか分からない。

「そういえば」突然白濱さんが口を開いて、僕は声を上げそうになった。

「何、どうしたの、幽霊!?」

「もしかして怖いんですか?」と白濱さんが口に指を当てる。

「ほ、ほんのちょっとだけ?」僕は親指と人差し指の間を一センチほど開けた。

「それで白濱さん、何言おうとしたの?」

「はい、あの、ちょっとおかしな話をしようと思って」

「心霊系じゃないよね? 今されたらもうちょっと指の間が開くかも」

 白濱さんはまたクスリと息を漏らしてから話を始めた。

「隣町に謎の秘密基地があるって聞いたことありますか? いえ、私も聞いただけの話なんですが。こう外を歩いてて、よく分からない建物ってあるじゃないですか。その中でも隣町には一際異彩を放つ建物があるらしいんですよ。

 だだっ広い空き地の真ん中に台形の形をした建物がポツンと。それこそ用具倉庫ぐらいの小さなものが。まるで潜水艦から潜望鏡だけがプクって地上に出ているみたいらしいんです。扉のようなものはなくて、ただ本来扉が設置されそうな一面にぐるぐると書かれた渦巻きみたいな模様が書かれているらしいんです。

 え? だからどうして謎の秘密基地なのかって? あ、すみません、話忘れていました。その友達が実際に見たらしいのですが、丁度その時、友達は親と喧嘩をして家を飛び出した所で、ってすみません。この話は関係ありませんね。とにかく友達は夜中、確か深夜の二時頃だったと思います。その空き地の片隅で座り込んでいたら、突然渦巻きマークが縦に割れて、建物の中から人が出て来たらしいんですよ。それも八人も。あんな小さな建物にあんな人数が入っていられるはずがない。それこそ地下に大きな空間がない限りはって」

 だから謎の秘密基地、と。

 確かに聞いたことないし、健全優良男子としては興味が惹かれる話だ。

 だがしかし、今この場でそんな話をされても興味が惹かれない。もっとこう太陽が元気な時間帯にしてほしい。

 今はどうしてもそんな話よりも、こう物体のないフワッとしたもの、そう、あんな感じの光の球の方が――

「ひ、光の球!?」

 階段前の窓に光の球が突如として現れて、するりと滑る。

「あら、ヒトダマですかね?」

「ひ、ヒトダマ!?」

 ありえないありえないありえない。こんなご時世にありえない。こんな非科学的なことがあるはずないないないいいあないあにあいななないに。

「落ち着いてください望月くん、ただの懐中電灯ですよ。きっと守衛さんです」

「あぁ守衛さんか…… そうか良かった良かった。ってそれも良くないよね!?」

「おい、誰かそこにいるのか?」

 階段の方から野太いおっさんの声が聞こえてくる。

 もしいるのがバレたら怒られるだけで済むはずがない。停学…… 下手すりゃ不法侵入で退学だ。

「マズいよ、白濱さん。早く逃げないと!」

 天然なのか、何が悪いのか分かっていないのか、ボケッとしている白濱さんは逃げようとする様子は全くなかった。

 僕は白濱さんの手を取ると「走って」と出来るだけ抑えた声で、されど力強く言い放った。

 白濱さんの手の柔らかさを堪能する余裕もなく、廊下を走る。

 突き当たりの角を曲がる際、一瞬僕らの全身に光りが当たった。

「おいっ! 待てお前ら!」

 野太い声が掛かる度に、僕の心拍数が爆上げする。ヤバイヤバイヤバイヤバイ。

 階段を駆け下り、また廊下を走る。適当な角を曲がれば、また階段を駆け上がる。追い掛けてくる守衛の足音が至る所から聞こえてくるようで、頭がどんどん真っ白になっていく。

 息が、呼吸が、酸素が、全然足りない。逸る気持ちに足が追いつかず、もつれてしまいそうだった。

 気が付けば、引っ張っていた手に重みが感じなくなっていた。僕の早さとほぼ同期して、白濱さんが走っていた。その顔は必死な僕とは裏腹に、月明かりに照らされて楽しそうな微笑みを携えていた。

 僕の視線に気付いてか、白濱さんと目が合った。白濱さんの笑窪が僕に伝染してしまう。

 いつからかは分からない。僕は声に出して笑いそうになっていた。今度はそれが白濱さんに伝染したのか、声を我慢して笑い始める。そしていつしか、僕らは声に出して笑っていた。

「コラッ! 待てぇ!」

 僕らはおじさんの声を嘲笑う。何だかとっても、楽しくなっていた。

 しかしいつまでも笑っているわけにはいかない。

 途中から笑うのを堪えると、僕らは自販機と消火栓の間に息を潜めた。

「くそっ、どこ行ったあいつら……」

 守衛さんが目の前で足を止める。

 潜めるどころか息を殺して、何らなら存在まで消してしまおうと口を強く押さえた。心臓の音でバレてしまうのではないかと思ってしまうほど、張り詰める緊張の糸。

 辺りを見渡しているのだろう。目の前の足がぐるぐると回る。衣擦れの音でバレてしまうと思い、首を上げることすら出来ない。もしかしたら守衛さんは既に僕達に気付いていて、僕達の反応を楽しんでいるのではと思えてくる。

 しばらくすると舌打ちが聞こえ、守衛さんは来た道を引き返して行った。腰の鍵束と足音が不機嫌さを物語っていた。

 足音が遠くなり、聞こえなくなる。

「ったはぁ!」

 緊張の名残を一度に吐き出すと、隣からも似たようなものが吐き出される。

「死ぬかと思った」つい口をついて言ってしまう。

 そんな命まで取られることはないと分かってはいるが、言うならば社会的な死を意味しているかもしれない。我ながら哲学だ。……哲学か?

 僕と白濱さんは勝利の美酒を味わうように二人でニヤニヤと笑っていると、それは突然襲ってきた。

 何の前触れもなくいきなり目の前が光り、僕の目が眩んだ。

「騒がしいと思ったら…… アオハルをするなら私がいないところでやってくれって言ったでしょ」

 顔を上げる。僕らに懐中電灯を向けていたのは担任の山ちゃんだった。

 ……死んだ。ゲームオーバーだ。

 怒るとか驚くとか、そんなものを通り越して、山ちゃんは呆れた顔をしていた。

「とりあえず職員室ね」と僕らは連行されることになった。

 職員室まで待てないのか、山ちゃんの尋問は移動をしながら始まった。

「何やってんの、あんた達。来年受験でしょ」

「すみません、忘れた宿題を取りに来て……」

「昼間に取りに来ればいいでしょ」

 山ちゃんは不機嫌な様子を隠す気もなく、言葉の節々に棘を出してくる。

「急ぎの用事だったもので……」

「何も私が宿直の日に来ないでよ。色々面倒くさいんだから」

「……あの、面倒くさいって例えば?」

「教頭先生と生徒指導の先生、それと二人の親御さんの召喚。場合によっては警察に連絡。そのあと先生同士で二人の処分の検討して……」

 指を折りながら呪いの呪文を並べていく。心霊系とは違った恐怖に、背筋ではなく胃袋がゾワリとし始める。

 途端、前を歩いていた山ちゃんが足を止めた。

「……確か、宿題を取りに来たのよね」

 山ちゃんが右に向かう所を左に曲がり出す。

「あれ、先生、職員室はこっちじゃ……」

「私は学生の主体性を重んじるの。決して面倒になったわけじゃないから」

 前者と後者、どっちが建前でどっちが本音なのかは一目瞭然だったが、僕はそれについて追求することはしなかった。

「やりましたね」小さく聞こえた声に首を向ければ、白濱さんがピースしてきた。可愛い。

 教室に着くと、山ちゃんは

「ほら、早く取るもん取って、とっとと帰って」と手をヒラヒラと振った。

 机の中を覗くと、引き出しの奥で教科書に押し潰されたのであろう。見るも無惨な姿になったタイトル用紙が見つかった。

 白濱さんを見ると、引き出しの中を少し引っかき回して、首を横に振った。見つからなかったようだ。

「ロッカーとか見なくていいの?」

「え? あぁ、はい、大丈夫です。もしかしたら家にあるかもしれませんし」

「そう? ならいいけど」

 何だか腑に落ちない。でも何が腑に落ちないのか自分でも言葉に出来なかった。

「もういい? いいなら早く帰って。私はあんまり精神的苦痛を味わいたくないの」

 お尻を蹴られるように僕らは学校を追い出された。

 時計を確認すると、時刻はもう十時を回ろうとしていた。

「夜ももう遅いし、送るよ」

 僕の台詞に対して、白濱さんはまたいつものように笑うと

「ありがとうございます。でも大丈夫です。明日も早いから早く帰ってください。私の家はそんな遠くにあるわけじゃないですから」と僕の返事も待たず、手を振ってきた。

 送るよ、と提案しただけでも精一杯で、食い下がるほどの胆力を僕は持ち合わせてはいなかった。持ち合わせていればとっくに連絡先を手に入れていたはずだ。

 手を振り返し別れると、僕は白濱さんに背を向ける。帰路に就こうと自転車に跨がった時だった。

「望月くん!」

 白濱さんに名前を呼ばれて、振り返る。白濱さんが手でメガホンを作って言った。

「今日のことは秘密ですからね!」

 手を上げると、上げ返されて、今度こそ白濱さんは振り返ることなく小さくなっていった。

 帰り道、しばらく握っていた白濱さんの手を思い出す。ニヤッ。

 また明日も白濱さんと会える。ニヤニヤッ。

 嬉し恥ずかし今日の思い出。明日の期待も胸一杯。ただ一つ不安があるとすれば、夏休みでズレまくった生活リズムの中で明日、起きれるかどうかが問題だった。

「あっ」

 山ちゃんにネックレスのことを訊くのを忘れていた。

 首に掛かるそれが、おいしっかりしろよ、と言ってるように思えた。



 ※


 

 翌日、合宿当日。天気、快晴。晴れ渡った空には雲一つなく、アスファルトの照り返しも、モヤッとする湿度も今日もエネルギー全開だ。

 案の定寝過ごしそうになった僕は葉子に叩き起こされた。寝ぼけ眼をひん剥かれ、寝落ちしそうな頭に水をぶちまけられ、家に戻りたがる背中を押されて駅へと向かった。

「あ、今、神様からお告げが来た。やっぱり今日は中止しよう。天気もそう言ってる」

「そんなわけないでしょ。寝言は合宿から帰って来てから言いなさい」と葉子が耳元で騒いだ。合宿中は徹夜なのかよ。

 駅には既に浩介と白濱さんがいて、僕達と分かるなり手を振ってきた。

「よ、望。相変わらず黒澤とよろしくやってるじゃん」

 僕はすぐにシャキッと背筋を伸ばし、葉子の手を振りほどく。何コイツ、と怪訝な視線を隣から感じたが無視することにした。

「望月くん、黒澤さんお久しぶりです。花火以来ですね」

 白いワンピースの白濱さん。今すぐ麦わら帽子を被せてひまわり畑を歩かせたい。

「お、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 もっとクールに決めるつもりだったのに、バナナの皮で滑ったみたいにひっくり返った声が無様に転がった。

「白濱さんはあんたの姑か。白濱さんも波島くんも久しぶり」

 葉子の台詞に少しカチッときた。

「姑じゃないよ!」

「分かってるわよ!」

 僕と葉子のやりとりに、浩介が面白がっていつもの冷やかしを入れてくる。。

「夫婦漫才は相変わらずだなー」

「だ、誰が最優良花嫁候補よ!」

「……葉子? 誰もそんなこと言ってないよ……」

 何言ってんだこいつは。それを見ながら浩介が鋭く分析する。

「なるほど、黒澤は弄られ慣れてないから突飛な方に考えが飛んでいくのか。これはもしかしたらお笑いのセンスが埋もれてるかもしれねぇな」

「だ、誰がダイヤの原石よ!」

「んなこと言ってねぇよ!?」予想外に怒った葉子が浩介を殴ろうと追い掛け始める。

 その光景が面白くて僕が笑うと隣でも似たような笑い声が聞こえた。二人だけが抜け出したみたいに白濱さんとこっそり目が合った。『今日のことは秘密ですからね!』白濱さんの少し笑った目は、昨日ことを念押しするような、そんな力が込められていた。

 田舎のお婆ちゃん家に行くには電車を何本も乗り換えていく必要があった。

 まず地元の駅から都心部まで行き、そこから新幹線で一時間。ローカル線に乗り換えて終点まで行くと、更にそこから二時間に数本のバスに揺られて行く。

 累計移動時間は約五時間。その間僕達は黙ることを知らず、それこそ小学生が詰め込まれた教室みたいに、騒ぎ続けた。キノコかタケノコかで騒いだり、好きな本が被って共感したり、ババ抜きで盛り上がったり。

 当初僕は葉子が打ち解けられるか心配していたが、それは杞憂に終わったようだった。

 隣を見れば、葉子はキノコの方がチョコ多いしと主張し、やっぱあの作家の囁くような文章が最高だよねと目を細め、ババを引いたのがバレて怒ったりして、何なら僕より楽しそうにしているようだった。

 都心部で幅を利かせていたビル群が、風景から少しずつ減っていくと、次第に背の低い住宅地へと変わっていった。その住宅の数も減っていき、田畑の中に疎らになっていくと、バスは一度長いトンネルに入り、眠り落ちたようだった。豆電球に似たオレンジ色の蛍光灯に肌を撫でられ、しばらくするとトンネルの先に小さな光が現れる。

 光は遠近法に従って大きくなり、光が全身を包んだ次の瞬間、僕達は目が覚めるような、真っ青な空の下にいた。

 コンクリートジャングルにはなかった緑溢れる豊かな自然。目の前の田畑から遙か先にそびえる連峰の山々まで、青々しく茂る草花からは目に見えないエネルギーを感じてしまう。

 築何十年かも分からない錆びたバス停で降りると、僕達は目の前の坂道を上り始めた。

 道路の両脇から生える木々によって作られた天然のトンネル。木漏れ日から漏れる光の雨と一緒に、蝉時雨が僕らに降り注ぐ。

 坂を登り切りそうになると、また葉子が一人早足になっていき、坂道の頂上で立ち止まる。

「早く早く!」

 子供みたいにはしゃぐ葉子に続き、浩介、白濱さんと登り切っていく。

「おい、望何してんだよ。早い来いよー」

「望月くん頑張ってください」

 浩介達が急かすように手招きしてくる。

 僕はお前らと違って、おしとやかなインドアなんだよ……

 汗水を流して、急勾配を登り切る。

 皆が急かした訳はすぐに分かった。そこに広がる景色に、流石の僕も声を漏らした。

 真っ直ぐに続く道路に入道雲。道路の先にあるのは水平線まで続く海。

 夏の象徴といえるものが詰まった景観が、僕らに両手を伸ばすように広がっていたのだ。

「ここだけ時間をくり抜いたみたい」

 何かの本の引用だろうか。葉子が呟くと

「原風景というやつですね」と白濱さんが反応した。

 白濱さんと葉子が目を合せて、笑い合う。もしかしたら本当に何かの本の引用なのかもしれない。

 それから目の前の風景に足を踏み出し、十分程歩くとようやくお婆ちゃん家に到着した。

 碁盤の目のように並んだ田畑の一角から少し離れた場所に、昔ながらの平屋のお婆ちゃん家が存在する。

 鍵の掛かっていない引き戸を開けて、玄関でお婆ちゃんを呼んだ。すると、見慣れた女性がニコニコしながら現れて

「よぉ来たねぇ。いらっしゃい」と僕達を招き入れてくれた。

 もう七十の後半になるだろうか。僕と葉子は、まだまだ元気そうだね、と同じ感想を小声で言い合った。

 案内された客間は縁側が隣接した畳の部屋。僕と葉子がよくお絵かきをしていた部屋だ。

「何か温泉旅館に来たみたいです」

 白濱さんはこういった所に来たのは初めてだったみたいで、都会に来た田舎者みたいにキョロキョロとしている。

 荷を下ろしをし、はぁ疲れた~、と皆で足を伸ばしていると

「ここまで来るの疲れたでしょ」とお婆ちゃんがお盆に麦茶を乗せてやって来た。

 麦茶と見るや否や、浩介が一目散に飛びつく。

 ちょっと失礼な奴だなー、とか思いつつも僕も喉はカラカラ。手に取った麦茶を一気に飲み干すとお婆ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。

「望ちゃん、婆ちゃん今日の夜からご近所の佐々木さん家にお世話になるから、好きに使ってちょうだい」

「え、そうなの? ごめん、もしかして気を遣わせちゃった?」

「いいのいいの。あなた達もお友達だけの方が気楽でしょ。それに婆ちゃんもお泊まり会なんて若い頃を思い出して少し楽しみなんだから。そっちの方だとこういうの、女子会って言うんでしょ?」

 果たしてこの年代でも女子会というのかは謎だが、気分を悪くさせるわけにもいかず

「パジャマパーティーの方が合ってるんじゃないかな」と僕は適当なことを言った。

 股引パーティーの方が正しいかも。

 居間の丸テーブルで、お婆ちゃんが用意してくれた冷麦を食べた。空腹だった胃袋を満たし、一心地ついていると、満を持したかのように「さて」と勢いよく浩介が立ち上がった。

 なんだなんだと浩介を見ていると、何も言わず客間に一度消え、しばらくすると

「さて、水質調査に行くぞ!」と浮き輪に海パン姿で登場した。

「水質調査とは……」とボヤくと、隣いた葉子の手にはいつの間にかマスクとシュノーケルを握られていた。

「ガチか、お前は」

「すみません。私、ゴーグルとプール帽子しか持ってきてません」

「白濱さん、大丈夫だよ。僕は何も持ってきてないから」

 というか

「何でお前らそんな海に入る気満々なんだよ。水質調査しに来たんだろ?」

「実際に入って調査しないと分からないこともあるでしょ」と葉子が。それに便乗して

「そうだそうだ」と浩介が腕を振り上げる。

 白濱さんに至っては

「すみません。私はあちらの味方です」と爽やかに笑った。

 溜息を一つ。

「ならお前は来なくていーよー、二人とも行こうぜ」と浩介がプレイボーイに二人の肩を背中に手を掛けて歩き出す。

 やれやれ。

 僕は立ち上がり「待てよ」と三人の後を追い掛けた。




「いやぁ、いいね、やっぱ水着いいよ」

 浩介の台詞に既視感を覚えるが、まぁいいか、と野暮なツッコミは入れなかった。

「……死ね」と物騒な言葉と裏腹に恥ずかしそうな葉子がもじもじとしている。黒を基調とした水着が、童顔の葉子を少し大人びて見せた。

 砂浜と波打つ水面が太陽を反射して白く輝く。観光地でもないためか海水浴客は全くおらず、貸し切り状態となっていた。ただ一つ残念と言えば、海の家がないことぐらいだ。

 顔を戻すと「何か感想とかないの」と葉子が目を泳がせながら訊いてきた。

「感想って言われても、昔は結構ちょくちょく水着見てたからなぁ……んー……胸、大きくなった?」

「死ね」と今度のは明確な悪意を持って言われた気がした。

「すみません、お待たせしました」と後ろから足音がした。目の前にいた浩介が僕の後ろを見るなり、ニヤリと笑う。

 振り向くと、白濱さんがいた。白い水着と、普段は見えない部分が露出した白い肌に目が吸い寄せられてしまう。

 目のやり場に困って視線を逃がすと、葉子と目が合った。見慣れたものに胸の高鳴りが収まっていく。ほっ……

「ちょっと! 何で私を見て落ち着くのよ!」

 何か冗談を言おうと思ったが何も思い浮かばない。

「あぁー……ははっ」と笑って誤魔化したが、火に油だった。葉子は目を釣り上げて、僕に迫った。

「ヤバっ」

 走って逃げると、葉子は諦めることなく追い掛けてくる。その後ろに浩介と白濱さんも続いてきて、何故だか僕は三人から逃げることになった。

 それが皮切りに、僕達の名ばかり水質調査は始まった。

 海に投げられ、砂に埋められ、僕への罰ゲームが済んだと思えば、突如砂のお城作り大会が始まり、ビーチフラッグが開催される。それも飽きれば、浜辺の隅にある岩場付近を散歩する。蟹だなんだと騒いだ後には、足を滑らせた白濱さんの手を取って助けたりもした。

「ありがとうございます」

「ど、どういたしまして」

 この繋いだ手を少しでも長く繋いだままにしたくて、でも手汗も気にしちゃって、僕の天秤が手汗に傾いて、すぐに手を離す。それでもやっぱりすぐ、もうちょっとって後悔した。

 

 五時になっていたことを僕らは夕焼け小焼けのチャイムで気が付いた。子供みたいにそろそろ帰らなきゃと、列をなして片道五分の道を引き返した。

「あれ、もしかして望ちゃんと葉子ちゃん?」

 途中、高そうなカメラを持った女性? の人に話し掛けられた。

 三十代前半、猫撫で声なのだが、すぐに猫を被っていると勘づけるハスキーな声。

 チノパンにショッキングピンクのワイシャツ。パッチリとした目と真っ赤な口紅。パッと見の印象では女性を彷彿させるのだが、よく見れば女性であることに疑問を感じ始めてしまう。おばちゃんなのか、おっさんなのか、どっちかよく分からないおばちゃんという印象を覚え始める。

 ひとえに言ってしまえば、オカマだった。そんなインパクトの強い人を忘れられるはずもなく、彼女? だと気付いた葉子は嬉しそうに

「クリームちゃん!」と駆け出した。

「やぁ~、やっぱり葉子ちゃんだったのねぇ。すっかり美人になっちゃってぇ嫉妬しちゃうわ~」

 抱きついた葉子を受け止めると、クリームちゃんが頭を撫でた。

「え、オカマ……」

 信じられないものを見た。と言いたげな浩介がフリーズする。そんな浩介を放っておいて、僕もクリームちゃんの元へと向かった。

「久しぶりクリームちゃん」

「望ちゃんも男前になっちゃって。そろそろ食べ頃かしらぁ?」

 アハハと笑うクリームちゃんに、僕と葉子はつられて笑ってしまう。

「クリームちゃん今年も来てたんだね」

 葉子に問いに、クリームちゃんは重そうな目でウィンクをした。

「そ。やっぱりここがあたしにとっての心の故郷なのよねぇ」

 クリームちゃんは僕らの後ろの二人に顔を向けると

「友達と一緒なのに悪かったわねぇ。そうだ、後でスイカ持ってってあげるわ。近所のお姉さん達がたくさんくれちゃって食べきれないのよぉ」

「相変わらず人気者なんだね」

 僕が言うと、クリームちゃんは嬉しそうに目を細めた。

「そうなのよぉ。皆あたしの魅力にメロメロなのよぉ。全く罪なオ・ン・ナ」

 それじゃあねぇ、と僕と葉子の頭を軽く叩き、クリームちゃんは立ち去った。

「今のは?」浩介が訊いてきた。

「クリームちゃん、旅人らしいんだけど、本名とかはよく知らない。小さい時、葉子と毎年夏にこっちに来てたんだけど、その時によく遊んでくれたんだ」

 聞いておきながら話半分といった様子で、浩介はクリームちゃんの後ろ姿を眺めていた。

「あの人どっかで見たことある気がする」

「まっさかー。気のせいじゃない?」

 僕がそう言うとしばらく間を置いて、そうだな、と浩介は振り返った。



 

 家に戻ると、丁度お婆ちゃんが佐々木さん家に行く所だった。

「それじゃあパジャマパーリー行ってくるから」とお婆ちゃんが漬け物を持って僕達の脇を抜けていく。

 パーティーを上手く発音出来なかったのだと思うが、まるでとても行き慣れている大学生みたいだった。

 家の中に入り、レディーファーストでシャワーを浴びることになった。決してジャンケンに負けたからじゃない。

 女性陣が洗っている間に居間に行くと、置き手紙で『冷蔵庫のものは好きに使ってください』とあった。つまり晩飯は自分たちで作れという意味だろう。

 浩介とのジャンケンにも負けた僕は最後にシャワーを浴びることになった。

 穏やかとは言わずとも楽しげな時間。

 僕はシャワーを浴びながら今日一日を振り返り、思わずニンマリしてしまう。しかし、そういう時間は長続きはしない。いつも突然打ち砕かれてしまうのが世の常だ。

 破滅の音はドタバタとする足音共に近づき、ドアが勢いよく開かれたことで開幕した。

 きゃっ変態! なんてお約束を言う暇さえなく、慌てた浩介の顔が目に入る。

「望、大変だ! ユリカと黒澤が」

 ただならぬ様子に僕は詳細を聞く暇も惜しみ、シャンプーを残したまま慌ててバスタオルを巻いて居間に駆け出した。

 ……喧嘩、いやもしかしたら何か怪我か!?

 足に力が入る。

「私が作るって言ってんの!」

「いいえ、私が作らせていただきます!」

 居間に行くと二人がそんなことを言い争っていた。

「二人共ストップ! 喧嘩は駄目だよ!」

 僕が割って入ると、二人はキョトンとして僕の顔を見てきた。空気を壊した時と似ていた。

「え? どういうこと?」と呟いた僕に、葉子が

「それはこっちの台詞よ。何でそんな格好で出てくるのよ」と冷たい言葉が飛んでくる。

 一歩遅れてやって来た浩介が

「話を聞く前に飛び出す奴があるか」と息を整える。

「どういうこと?」僕が首を傾げると、浩介は一つ咳き込み

「話は三分前に遡る」と遙か昔のことを思い出すかのように天井を見上げ始めた。

「風呂から上がった俺は、二人に置き手紙の件を伝えたんだ。当然、何を作ろうかと話になったんだ。そこでふと俺はこう思った。

『女子の手料理が食べられる貴重な機会なのでは!?』と、しかしだからと言って俺と望が料理を手伝わないと言えば男子勢の評価は落ちてしまう。如何に評価を落とさず――

 え? 前置きが長いって? わーったよ。

 とにかく俺は『女子の手料理とか胃袋掴まれちゃうぜ』って言ったんだ。そしたら二人が突然私が作るって主張し始めたんだよ。これは面白くなりそうな予感がするって思って、俺はお前を呼びに言ったってわけだ」

 ものっっっ凄くくだらない理由で肩を落とした。

「二人で協力して作ればいいじゃないか」

 僕は投げやりに二人に言った。するとどうだろう。

「望はどっちの料理が食べたいの?」と葉子がいつにも増して語尾を強めてくる。

「お二人はどっちの料理が食べたいんですか?」と白濱さんも続いてくる。

 白濱さんまでムキになるとは珍しい。何が二人をそこまで駆り立てるんだ。

どうする浩介、と視線を送るが、隣の馬鹿はニヤニヤしているだけだった。

 駄目だこいつ、鍋を混ぜるだけで全く役に立たない。

 んー、と少し悩む。本音を言えば当然白濱さんの料理が食べたい。葉子の手料理は夏休みに入ってから毎日食べているわけだし。でもここで白濱さんを指名すればきっと葉子は傷ついてしまうだろう。じゃあ折衷案として僕らが男料理を披露するというのも何か違う気がする。というか、浩介が言った女子の手料理を食べたいというのは、とても凄くめっちゃかなりスーパー同意する。同意した上でまた同意してしまう。

 ……ならば取れる選択肢は一つしかない。

「じゃあ料理勝負すればいいじゃない?」駄目元で言ってみた。

 僕の発言にその場にいた全員が、その発想はなかったと言いたげにハッとする。

 葉子と白濱さんの目つきが変わった。それはさながらリングで対面したファイターのようだった。目の奥に闘志を感じる。

「名案!」浩介が指を鳴らすと、二人が頷いた。

 これでとりあえずはいいだろう。僕はホッと息を吐き、居間を後にする。

「望、どこ行くんだよ」後ろから浩介が声を掛けてきた。僕は頭を指差し

「シャンプー、洗い流すんだよ」と呆れ半分で答えた。




「さぁお待たせしました! 男の胃袋を掴むのはどっちだ!? 第一回納涼お料理対決!」

「……パフッパフッ」って、なんだこれは。

「実況はお馴染み、波島浩介が。解説は望月望さんに務めさせてもらいます」もらいません。

 ツッコミが追いつかない。シャワーから出て浩介に促されるままに丸テーブルに着けば、態々作ったのであろう『解説』と書かれた手書きの紙が立てられていた。

 正面には台所でバタバタとする二人の姿が見て取れる。

「今回のお題はハンバーグとのことですが、この料理チョイスどう思いますか?」

 マイクに見立てられた拳が向けられる。まぁたまには茶番に付き合ってやろうと、僕は両肘をついて手を組むと、その道のプロの気分でコメントを始めた。

「そうですね。合宿の定番と言えばカレーですが、そこを外して敢えてのハンバーグ。大変難しいと思います」

「と、言うと?」

「どんなに美味しくなくても大抵のものはカレー粉を混ぜればカレーになります。しかし手作りハンバーグはその人の料理スキルが謙虚に出てしまいます。空気の量、塩味、焼き加減、作ったことがある人はその難しさを知っていることでしょう。老若男女、多くの人が好きな料理ではありますが、いざ作るとなればハンバーグは中級者から上級者向けの料理と言っても過言ではないでしょう」

「まさかハンバーグがそんな高難度な料理とは、では率直にどちらが勝つと思いますか?」

「んー、白濱選手の腕前がどれほどか、によりますね。浩介さんは知っていますか?」

 浩介は腕を組んで思い出をひねり出す。

「バスケの練習試合の際におにぎりを作ってきてくれたのですが、そのおにぎりの具が塩でした」何だその羨ましいイベントは。落ちろ。今すぐ地獄に。

 僕は咳払いをして、冷静にコメントを返す。

「ご飯の【味付け】としての塩ではないのですか? 【具】なのですか?」

「はい、ご飯の中心に塩の山が入っていました」

「――となると私の知っている限り、料理の腕前は互角。いい勝負と言っていいでしょう。そこで悔やまれるのがハンバーグという点ですね。声を大にして言えないのですが、恐らく綺麗で美味しいハンバーグというのは拝めないと思われます。料理チョイスが大変悔やまれますね。無難にカレーで良かったのに。一体誰が料理チョイスを……」

「私、ハンバーグが一番の好物でして」

「お前か!」

 まぁいい。

 こうして同級生の女子が台所に入っていると、どうしてか胸に来るものがある。

 邪魔しては悪いと思い、僕と浩介は台所まで入らず、終始その後ろ姿を眺めていた。たまに笑い声が聞こえてきたり、互いに器具を渡していたりと、心温まる一幕も垣間見えた。

 四十分ほど掛かっただろうか。すっかり寝落ちしていた僕は浩介に起こされた。

 そこには既に料理をし終えたのであろう。白濱さんが立っていた。

 僕が体を起こすと、浩介が声を張る。

「それではいきましょう。先行、ユリカ選手の一品です!」

「え、そのノリまだやるの?」

 白濱さんが僕らの目の前にどんぶりを置いた。

「ただのハンバーグではつまらないと思いまして、ロコモコ丼にしてみました」

 置かれた瞬間に分かった。料理が下手なんじゃなくて、料理を知らないんだなって。

 本来のロコモコ丼とは、ご飯の上に野菜、ハンバーグ、目玉焼きなどを乗せたハワイ料理の一つである。しかし目の前のそれはまごうことなき、そぼろ丼、だった。

 綺麗な茶色い挽肉は甘辛い肉の旨みを想像させ、黄色い卵のふりかけはふわりとした食感を連想させる。

 文字にすれば美味しそうだが、しかし、これは僕が思っていたハンバーグではない。まごうことなき、そぼろ丼だ。

「ハンバーグとは挽肉を焼いたものと聞いております」白濱さんが笑顔で首を傾ける。

 そうだけど、そうじゃない。

「予想の斜め上できたな。枠に収まりつつ、型破りだな。凄い発想だ」

 浩介、お前は褒め上手か。

「では、実食!」

 浩介の合図で一口食べる。瞬間、激震が走った。

 ザ・無味。

 驚きのあまり自分の味覚を疑った。きっと気のせいだろうと二口、三口と口に運ぶが、やはり無味、無味、無味、無味。

 化学変化でも起こしたのか、そこにあるはずの肉の旨み、卵の風味が影も形もなく消え去っている。忍びの世界であれば達人の領域。プロの仕業だ。

「これは…… 凄い、ノーベル賞ものだ」浩介の箸が止まる。

「ふふっ、ありがとうございます」

 嬉しそうに白濱さんが笑うが、本来、料理に使うべき言葉ではない。

 にしても、どうすれば無味になるのか興味が引かれる。だが僕とて怖い物知らずといわけじゃない。パンドラの箱を開けてはならないように、訊いてはいけないような気がした。

「後攻、黒澤選手!」

 次は葉子の番だ。僕はホッと胸を撫で下ろす。

 葉子の料理は味付けこそ薄いが決して下手ではない。なんならこの夏休みの間に毎日料理をしているおかげで当初より上手くなっているぐらいだ。

 葉子が自信ありげに平皿を置いた。

「タイトルをどうぞ!」

「三十二種のスパイスと香辛料を使ったピリ辛地中海風ハンバーグです」

 赤々としたハンバーグが鼻を突き刺す臭いを放っていた。

 葉子おぉ! 何でここぞとばかりに個性を出してきた!? 普段のお前なら超薄味じゃん!? 自然を大切にしてんじゃん!? てか三十二種のスパイスってここでカレー要素出してくんなよ!

 笑顔を絶やさないあの白濱さんですら、眉の角度が落ちている。

「で、では実食」浩介の声が震えていた。

 恐る恐る箸を入れると、肉汁なのか、赤い液体が垂れ流れる。ゴクリと飲む唾は食欲に駆られるものではない。緊張によるものだ。

 口に近づけただけで分かる。これ…… 生き物が食べちゃいけないやつだ!

 葉子の期待の眼差しに、逃げ道を塞がれてしまう。意を決し、肉塊を口に入れ――

「――イッタァ!」

 思わず叫んでしまった。隣の浩介に至っては「ゴフッ」と口から赤い何か吐き出してしまっている。血じゃなくてハンバーグだろう…… だといいなぁ……

「……なんだこれは、辛いとか苦いじゃない。……痛い」と浩介が口元を拭う。

「どう? 美味しい?」葉子が悪魔のようにニッコリ笑う。

 その笑顔に僕はすぐに態とだと察知した。

「葉子! なんだよこれ! ハンバーグというより殺人兵器だよ!」

「死んでないじゃん」

「そういうことじゃないだろ!? 何でこんなことすんだよ!」

「さぁねぇー。自分の胸に聞いてみなさい」

「心当たりなんかないぞ」

「ヒント、水着、手、鼻の下」

 少し考えるが「やっぱりない」

「はい、ハンバーグおかわり入りましたぁー」

「いっらねぇよ! 自分で食えよ!」

「嫌よ、こんな犬の餌にもならないもの」

「自分で言うなよ!」

 痴話喧嘩を始める僕の耳に

「つか、俺関係ねぇじゃん……」と浩介の声が微かに聞こえた。

 結局、食べ物を粗末にしてはいけないということで、作った張本人と関係ない白濱さんもハンバーグを食べ、全員仲良くあの世行きと相成った。

 葉子から休戦が申し込まれ、満身創痍の僕らは全員で畳の上に寝そべった。開かれた窓からくすぐるような風が入ってくる。

 インターホンが鳴った。この中で今の主といえば僕だ。飛び起きて玄関へと向かい引き戸を開ける。

「こんにちはー。オカマ郵便でぇす」

 語尾に星が付きそうな声。誰かと思えば、クリームちゃんだった。その手には丸々とした大きなスイカが抱えられていた。そういえばスイカをくれるって言ってたっけ。

 口内に甚大なダメージを負った僕らにとって地獄で仏とはまさにこのこと。僕らは仏のクリームちゃんを拝み倒すと縁側に座り、スイカを頬張ることにした。

 赤く熟れた果肉を一口かじると、シャクッと心地よい音を鳴らして、口いっぱいに夏の甘みが広がる。夢中に進めれば、いつの間にかスイカはなくなって緑の皮だけが残されていた。

「まだまだあるわよん。さぁもっといっぱい味わってぇ」

 クリームちゃんに促されるまま、スイカの暴食が止まらなかった。

僕と浩介がどっちが遠くまで種を飛ばせるか競っている時だった。

「そうだ」とクリームちゃんが手を叩いた。

「あなた達、肝試し興味ない?」

「ない」即答するが、誰も僕の返事を拾うことなく

「興味あり寄りのありです!」と浩介が普段教室では絶対にしない大きな挙手をした。

「ないと言えば嘘になります」白濱さんもノリ気のようだ。

 お前だけは味方だよな、と葉子の方を見ると、やっぱり僕と同じように曇った表情をしていた。やったぜ。

 それを見越してか、クリームちゃんがポケットからティッシュで作ったであろうこよりを取り出した。

「このクジを使ってペアで肝試ししましょ。あたしは参加しないわ。だから想像してみて、もし男女でペアになったら――」

「なに馬鹿なことを」

 僕はクリームちゃんの台詞を遮るように言った。

 怖いとは本来生き物にとって正しい感情。それに反する行いを態々するなんて馬鹿がやることだ。でもしかし、そこで白濱さんとペアになった時のことを想像してしまうのも生き物として正しい感情だろう。

「なぁ葉子、肝試しなんて嫌だよな?」

 無理矢理賛同させる口調で僕は問うた。しかし、僕の考えとは裏腹に葉子は

「ま、暇だしやってもいいかもね」と言いやがった。

 こうして皆大好き民主主義の多数決により25%も影響がある僕の貴重な一票は闇に葬られた。




 その昔、男性が散歩をしていた時よん。

 夜の散歩が日課だった男性は、その日も夜の散歩に出掛けていたの。

 やっぱり夜は昼間と違って、涼しいし、色んなものが寝静まって静かだからね。

 いつもと同じルートを通ろうとすると、その日はたまたま夜間工事で道が閉鎖されていたの。これは仕方ないってことで、少し遠回りになるけど、すぐ横にある脇道を通って山を半周することにしたの。

 山と言っても人が通れるようにはなっていたわ。でも夜に人が通れるように想定されてなくて、辺りは真っ暗。夜の散歩用に常に持ち歩いていた懐中電灯だけが頼りだったの。

 山の中腹に行った辺りで、不慣れな山路と暗闇で慎重に歩いていた分、体力を使ってしまったから丁度目に入った枯れ井戸の縁に座って休むことをしたの。

 その時、後ろから枯れ葉を踏む音が聞こえたの。ビックリした男性は立ち上がって、辺りを見渡したわ。最近噂では変質者が出るって聞いていたし、もしかしたら熊かもしれないと思って、男性は必死になって懐中電灯で辺りを照らしたの。

 でも何も見当たらなく、兎か何かだったんだろうとホッと息を吐いて、振り返った瞬間だったわ。

 ギョロリとした赤い目玉が突然目の前に現れて、男性は悲鳴を上げる間もなく、ズバッと首を跳ね飛ばされてしまったの。

 その後、警察や狩猟組合の人がいくら捜索しても、その男性の首から下が見つからなかったんだってぇ。



 

 場所はところ変わって近所の山の麓。明かりはなく、暗闇に沈んだ山への入口が、この世ではないどこかへ繋がっているようだった。

「やめましょう。死者への冒涜は神が許しません」

 ここへ来るまでの間クリームちゃんが語った話だけで僕の恐怖心はピークを迎えていた。

「これからあなた達に行ってもらうのは、今話した井戸よ。行った証拠にこの石ころちゃんを井戸の縁に置いてきて。後であたしがちゃんと確認しに行くからね。さぁクジを引いて」

 誰も僕の話に耳を貸さす、クリームちゃんが掲げたクジに飛びついた。

「ほら早く、望くんも」ウキウキが止まらないのか、白濱さんが手招きしてくる。全く、しょうがないにゃあ。

 僕は残り物には福がある最後の一本を握る。浩介の「せーの」の合図で一斉にクジを引き抜いた。


「なぁんでこうなるんですかぁ。ちょぉうつまんないんですけどぉー」

 横を歩く浩介が腕をブラブラと大袈裟に揺らしながら抗議してくる。

「僕に言ってもしょうがないだろー」

 二つの懐中電灯が山路を照らす。浩介がペアになってしまい、互いに期待していた展開とはならなかったが、まぁ不幸中の幸いというのだろうか、おかげであまり怖くない。

 ルートは偶然にも昔、葉子と流星群を見に行った時のものだった。歩いていると当時のことを思い出してしまう。この道幅はこんなにも狭かっただろうか。自分の成長が悲しく感じた。切り株があった場所も今では針葉樹が埋められていて、なくなってしまっている。

 道中、ぶら下げられたこんにゃくや、意味深に置かれたゴムボールなど、クリームちゃんが用意したであろう小道具が点在していた。

 最初こそ、場を盛り上げる意味で驚いたふりをしてあげたが、冷静な浩介のツッコミに段々と僕も驚かなくなっていった。違う、驚くふりをやめることにした。

 切り株があった場所より少し先に行くと、言われた通りに井戸があった。

 林の中にポツンと突然現れた井戸は、違和感と気味の悪さが混ざり合っていて、不気味さをより強く際立たせていた。

「近づきたくない」と散歩を拒否する犬のように突っ張ったが、浩介に首根っこを掴まれて井戸まで引っ張られる。

 井戸からは死人の呻き声のようなボォーっという音が聞こえてきていた。

「ヤバイよ浩介! 命吸われちゃうよ!」

「アホか。井戸の奥に横穴でもあるんだろ。空気の流れが反響してるだけだろ」

「あ、なるほど」何でこんな時だけ冷静なんだ。

 井戸の中を覗き、ライトで照らす。かなりの深さがあった。間違って落ちてしまえば這い上がるのは不可能だろう。浩介が試しに落とし入れた石ころが地面にぶつかり乾いた音を鳴らした。

「早く戻ろ」

 井戸の縁に石ころを乗せ、振り返った瞬間だった。

 ドサッと重たいものがすぐ後ろで落ちた音がした。驚いて向き直り、ライトを当てる。

 人間の体だった。

 首から上がなく、僕は全身の血が引いていくのが分かった。ふらりとした瞬間、浩介が咄嗟に支えてくれた。

「落ち着けよ望、これもクリームちゃんが用意した作り物だろ」

「え、あ、あぁ、そっか。そうだよね」

 体格からして男性だろう。山には似合わずサラリーマンのようにスーツを着ていた。

 今にも動き出しそうなリアルさ、言い方を変えるならついさっきまで生きていたような気さえする。

 クリームちゃんの前座と照らし合わせれば、恐らくこれが肝試しの最大のオチである首を切られた男性なのであろう。

 見れば、今さっき切られたかのように、首元からバケツを倒したかのようにドクドクと赤い液体が流れ出ていた。

 流石に不気味。僕らは目を合わせると、振り返ることなく一目散に来た道を引き返した。

 久しぶりにちょっと本気の早歩きをしてしまった。

 振り返れば、井戸の影形はもうなく、どこまでもついて回ってくる闇だけがあった。

 ホッと息を吐き、肩の荷を下ろす。

 切り株があったゾーンも抜け、恐怖も薄まった頃だった。

「さぁこれからが本番だ」と浩介がまた変なことを言い出した。気持ちを切り替えるためか、態とらしく明るめの声を出している気がする。

「何? また変なこと企んでるの?」

「ふひひ。何のために女性陣より先に来たとお思いで?」

 浩介は適当な草むらに身を潜めると、こっちへ来いと手を大袈裟に振ってきた。

「驚かすの?」隣に座りながら尋ねると

「モチのロン」といやらしい顔をしながら懐中電灯の明かりを消した。

 暗闇に溶け込むと、虫のさえずりが一段と大きく聞こえ始める。

 秋が近づいたのだろうか。夏を賑やかす金管楽器よりも、秋を彩る木管楽器のような音色が増えた気がする。

 淡く見えていたものが輪郭を持ち始めた時だった。

「なぁ、望」藪から棒に浩介が言った。

「お前って黒澤のことどう思ってんの?」

 その台詞を理解するまでにしばらく時間が掛かった。

「……なんだよ急に」

「いや、何となく」浩介の顔色は伺えない。

 何でそんなことを訊くのだろう。ただの好奇心だろうか。浩介ならありえるが、正直そうとも言い難かった。最近の葉子と浩介の繋がり、どう繋がっているのか見えないからこそ、この質問に何か意図を感じてしまう。

「別に、どうも思ってないけど」

「ホントに?」

「ホントに」

 今までと変わらない返答と態度。これが最良の返答だったと思う。

「じゃあお前好きな人いんの?」

「それは……」

 言われた瞬間、頭に浮かんだのは当然、白濱さんだった。でもそれを浩介に言うわけにもいかない。

「それは?」

 ここでもし僕が白濱さんと答えたらどうなるのだろう。そんなイタズラ心みたいなものが芽生えてしまう。でもそんなもの、チラリとも見せるわけにはいかない。そんなことをすれば、浩介との関係がどうなるか分かったものじゃない。浩介と縁を切るにはまだまだ、それこそあと百年は早い。

「じゃあ浩介って言ったらどうする?」

「それはマジで言ってる? それとも肝試し?」

「さぁ、どっちでしょう…… ふっふっふ……」

 ホモの気配に怖じ気づいたのか、浩介の顔に恐怖が浮かぶ。

 お茶を濁すにはこれぐらいでいいだろう。

 それ以降、浩介がこの話題を掘り返すことはなかった。

「白濱さん怖くないの?」葉子の声がした。

「はい。地震雷火事親父の中には含まれないので」

「ごめん、全然意味分かんないかも」

 葉子と白濱さんの声に僕は息を殺した。どのタイミングで行くのだろうと、浩介を見ると、

「シッ―― 驚かすのは帰りだ」と小さく言った。

 行きはよいよい帰りはな、てか。

「帰り道の方が安心してるだろ? そこをつけ狙う」ニシシと暗闇に白い歯が覗いた。

 また二人だけの静寂が続くかと思っていると、浩介が妙なことを言い出した。

「ところでさ、あのクリームちゃんって人、どうして俺達に肝試しなんてさせたんだ?」

 言っている意味が分からなく、僕は首を傾げた。

「どうしてって、俺達に気を遣って、ていうのか、楽しませるためじゃないの?」

「どうしてそんなことをするんだよ」

「どうしてって、前からクリームちゃんはああいう人だよ。よく遊んでもらってたって言ったろ」

「事前に小道具やクジ引きも用意してたっていうのか? 思い出したように肝試しの話をし出したのに?」

「そういうことだろ。スイカを持ってくる前に僕達に肝試しをさせようって考えて、小道具やクジを用意して、用意していたのをあのタイミングで思い出したんだろ。特に疑問に感じる所じゃないんじゃないか?」

「見ず知らずの高校生が二人もいて、やるかも分からない肝試しのためにここまで用意するか普通?」

「全国を飛び回ってるって言ってたし、知らない人とコミュニケーションを取るために身につけた能力なんじゃないの? それにもし何か考えがあったとして、どんな目的があるっていうの? 僕達を特別視するような事なんて何もないじゃないか、少し考えすぎだよ」

 言い淀む浩介。しばらく腕を組み考えると

「……そうか、俺の考えすぎか」と腕組を解いた。

 珍しく浩介が真剣な顔をしていた。クリームちゃんに対して警戒心があるのだろう。仲の良いメンバーの中に突然知らない大人が紛れ込んだのだから、当然の反応なのだろう。

 もし逆の立場なら僕も同じ反応をしたかもしれない。

「クリームちゃんはね……」

 浩介にももっとクリームちゃんと仲良くして欲しい。そう思って言い出しかけた時、井戸のある方向から複数の足音が聞こえてきた。音からして急いでいるようだ。

 白濱さんと葉子だろう、僕達は会話を切り上げ、再び息を殺す。

 近づく足音に、タイミングを見計らう。

 ……今だ!

「わぁ!」と僕と浩介が草むらから飛び出した。しかし、僕達が望んでいたような反応はなく、二人は駆け足を止めることなく通り過ぎていく。

「え?」と浩介と目を合わせた。直後、二人が走ってきた方向から嫌な気配を感じた。

 暗闇の向こうから自然界に存在しない唸り声がする。

 まさか熊か? そう思った矢先だった。闇の向こうから白い服をなびかせた、首のない人間がこちらに向かって走ってきていた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 踵を返すと、僕らは全速力で走り出した。呼吸とか足場とかそんなものを気にしている余裕はない。ただひたすらに全力で足を動かす。

「なんだあれなんだあれなんだあれ!」浩介に取り合っている余裕なんてない。

 チラリと振り向けば、首なしは全く変わらない距離で追い掛けてきていた。何なら距離が縮んでいる気さえする。

「いやあぁぁあぁあぁあああああああああああぁあっっぁあああああああああああぁあ」

 自分が叫んでいるのか、浩介が叫んでいるのか、分からない。もしかしたら首なしの悲痛の叫びかもしれない。

 本来ならもう体力の限界を迎えている。だけど止まるわけにはいかない。僕を駆り立てるのは恐怖心、それだけだった。

 イノシシもびっくりの走りっぷりで、下山する。

 入口まで来る頃にはもう流石に、限界の向こう側まで達していた。

「もう無理。走れない……」

 両膝に手をついて、足を止める。浩介はまだ余力があるようで、僕より少し先で止まってくれていた。

「何やってんだ望、殺されるぞ!」

「煮るなり焼くなり呪い殺すなり、何でもしてくれぇ……」

 振り向くと、首なしが僕の目の前まで迫った。首でも絞められるかと思いきや、首なしは僕の隣で立ち止まり、まるで人間が肩で息をするかのように、激しく上下に動き始める。

「あっっっついぃ!」

 首なしが白い布を放り捨て、中からクリームちゃんが現れる。

「うわっ…… さいっやく……」そこで僕は大体の事情を察した。

「どう? 楽しかったかしら?」

「楽しくないよ!」

 クリームちゃんはイタズラが成功した子供みたいに喜んでいた。近づいてきた浩介は

「やっぱりクリームさんだったんですね」と分かっていたような口を利く。

「分かってたら教えてくれよ。ホントに怖かったんだから」

「幽霊なんているはずないだろ」やれやれ、と言った風に両手を広げる浩介。呪い殺されてしまえ。

 僕は汚れることもお構いなしに地面に座って両足を投げ出した。

「道中の小道具もクリームさんが?」いまだに疑念をもっているのか浩介が尋ねた。

「結構雰囲気出てたでしょ?」ニッコニコ顔で答えるクリームちゃん。いつか泥を塗ってやりたい。

「井戸の首なしは結構驚いたよ」僕が言う。

「首なし?」

「井戸のだよ。石を置いたら上から振ってくる……」

「え? 何それ? 私そんなの用意してないわよぉ?」

「え」

「え」

 後に合流した白濱さんも葉子も首なしなんて見てないと言い、翌日の早朝、僕と浩介は井戸まで向かったが、虫だらけのこんにゃくやボールは放置されているのに、首なしだけはどこにもなかった。

 クリームちゃん曰く、井戸の話は本当にあった話、とのことだった。



 ※


 

 二日目は夏休みの宿題をやることにした。

 浩介は今日も遊びに行くつもりだったようだが、晩飯を葉子に頼むぞ、と囁いたところ渋々と浮き輪の空気を抜き始めた。

 葉子と白濱さんは残りは自由研究だけのようで、まだ終わっていない僕と浩介にアドバイスをくれたり、カキ氷を作ってくれたりした。とはいっても僕も大方終わっていたため、始めてから一時間ちょっとで終わらせることが出来た。

 浩介といえば、今まで一ミリ足りともやっていなかったようで、高みの見物をする僕らを恨めしそうに見ながら宿題にかじりついていた。

 風がなびいて、風鈴が鳴っていた。

 流石に今日一日だけじゃ終わるはずもなく、朝の十時に始めてから夕方の六時になる頃には浩介は真っ白に燃え尽きていた。

「おーい浩介、生きてるかー」

「返事がない。ただの屍のようだ」

「死んでるならしょうがない。お祭りには三人で行くかー」

「祭りだと!?」

 葉子と毎年行っていた神社のお祭り。

 夕風に乗って聞こえてくる太鼓の音に誘われて、僕らは足を運んだ。近所の子供達だろうか、男の子は自転車で駆け抜け、女の子は浴衣で下駄を鳴らしていく。

 夫婦に挟まれた浴衣の子が片手にヨーヨーと綿菓子を持っていた。

 境内に続く階段付近には敷地内から溢れ出したように屋台が並んでいた。夕日を背に階段を上ると、ソースが焦げる匂いに、色鮮やかな飴細工が僕の気持ちを浮つかせる。

「なぁ射的しようぜ」

「見てください。金魚すくいがありますよ」

「ねぇ、リンゴ飴どこか分かる?」

 皆口々に思い思いのことを言う。端から順番に回っていこうと、手始めにたこ焼きを食べる所から始めた。

 型抜きをしたら皆で失敗して、射的をしたら浩介がアニメの指人形を当てた。金魚すくいで葉子が三匹すくって見せると、白濱さんが綿菓子の大きさに感動していた。

 焼きそばに大判焼きに瓶ラムネ、両手にいっぱい食べ物を抱えて神社を練り歩く。

 いつの間にか夕日が沈んでいて、境内の中は赤くぼやける提灯で賑わいを見せていた。

 腹に響く太鼓の演舞、発電機のエンジン音、負けじと叫ぶ蝉の声。

 リンゴ飴を囓っていた葉子が、人波にさらわれそうになり、僕は葉子の手を掴んだ。

「大丈夫か?」

「あ、うん、平気」

 リンゴ飴みたいに赤く見える葉子の顔。白濱さんに見られたくないな、と思いつつも、葉子が心配で、人混みで見られることもないかとしばらく葉子の手を引っ張った。

 葉子からも離れる気配がなく、こうして歩いていると小さかった時のことを思い出した。

『望くんの方がリンゴ大きい!』

『そんなことないよ。それだったらさっきの綿飴、葉子ちゃんの方が大きかったじゃん』

『今はリンゴ飴の話をしてるの!』

「ちょっと望、何ニヤニヤしてんの」

「ごめん、ちょっと昔のことを思い出して。前はよく、どっちが大きいかで喧嘩したよね」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 僕と葉子の声がお祭りの熱に溶かされ夏の幻になっていく。まだ夏は終わらない気がした。


「じゃじゃーん! 実はこんなものも用意してありました!」

 浩介がいつの間にか持っていた手花火セットを見せびらかした。

 お祭りから抜け出した僕らはそんな浩介に呆れつつ、喜びつつ、河川敷へと移動していた。

 人気はなく、お祭りの音が余韻のように微かに聞こえてくる。

 適当に取った一本に火を付けると、炭酸が弾けるような音と共に、火を咲かせた。

 黄、赤、緑と色を変え、両手に花火を持った白濱さんが浮かれたようにくるりと踊る。

 花火で花火を付け、色や形がバトンタッチしていく。火薬の渋いにおいがした。

 楽しいのに、皆笑っているのに、闇に散っていく光りの粒が、どこか悲しげに見えてしまう。最後に点けた線香花火が懸命に光りの球を膨らませる。

 こんな楽しい時間が、いつまでも続くと思った。疑う余地なんてなかったし、今ここにあるものが消えてしまうなんて到底思えなかったから。

 線香花火が、弾けて消えて散っていく。

 その日がすぐそこまで迫っているのに、そのことに誰も気付かないまま、最後の光りの球が消えてしまう。

「あ、落ちちゃいました……」

 台風が予測進路を外れて直撃する。

 それを知ったのはもう少し後のことだった。



 ※



 三日目。明日の昼過ぎには帰ることになっている。そこで本来の目的である水質調査を行うのは今日しかなかった。

「水質調査って実際どんなことするの?」

 僕の質問に葉子がたっぷり溜息を吐いてから答えてくれた。

「何箇所か適当な場所でバケツに水を汲んで、そこに入っている不純物とか調べて、パックテストを使って水の汚れを検査するの。パックテストは私が小学生の時に使ったやつのあまりがあったからそれを使って」

 パックテスト? 何だがよく分からないが、理科の実験で使われそうな安っぽいフォントで書かれた小箱を渡された。

 水の採取場所は川の上流、中流、下流の三箇所。それと川の終わりと、そこを中心に東と西の三箇所。計六箇所で水を採取することになった。

 スマホで地図を確認する。川は五キロ近くに及んでいた。

「川にしては短いけど、徒歩で作業するにはちと長いな」浩介が腕を組んだ。

「海も含めたら相当な距離がありますね。日が暮れてしまいます」

 じゃあどうしようかと悩み、作業を分担しようと結論が出るまでには大して時間は掛からなかった。

「二人一組で川と海に分かれれば丁度いいんじゃない?」浩介が言った。

 ペアを組む。それに関しては誰も文句を言うことはなかった。だが問題は組み合わせだ。和やかな表情の下で既に全員が誰と組むかを考え始めているのが分かった。

 僕としてもここはやはり一つ、白濱さんと組みたいものだが、このメンバーで僕と白濱さんが組むは些かおかしい。白濱さんと葉子で女子ペアは自然だし、白濱さんと浩介ならカップルとして問題はない。しかし僕と白濱さんでは何も繋がりがないからだ。

 ではどうやって決めるか。

 そこで葉子が言った。

「ねぇ望が組み合わせ決めてよ」

「え」

 何言ってんだ、と驚く一方で、白濱さんと浩介は何故か否定も肯定もすることなく黙っていた。暗黙の了解とでも言うのだろうか。

 何故だ。何故、僕が決めるんだ。

「ねぇ誰と組む?」葉子の催促。全員が僕の台詞を待っていた。

 まさか葉子の奴、人の人間関係を知った上で言いやがったな。性格悪いぞ。

 しかし、こうお膳立てされてはもう引くことは出来ない。

 浩介、葉子、白濱さん、僕は誰と組むのがベストなのか考えるしかなかった。

 まずは浩介。浩介を選ぶのは男同士だから特に何も問題ないと言えよう。次点で葉子を選ぶのも幼馴染の枠ということで何も問題ない。そして一番ペアになりたい白濱さんだが、僕が名指しで指名することは色々問題があると言えよう。

 僕が正当性を持って白濱さんを指名する理由が、どこにも存在しないのだ。こんな時、好きだから、なんて理由を気楽に言えたらどれだけいいか。

 白濱さんとペアになりたい。しかし、僕を取り巻く人間関係は浩介とペアになるのがベストだと告げている。ならどうすればいいのか。少し悩み、神の発想がひらめいた。

「うん、グッパーで決めよう」

 グッパーとは、ジャンケンの手であるグーとパーのどちらかを出すというもの。主に二つのグループに分けるときなどに使われる。神が作りし、人類英知の結晶だ。

 浩介と白濱さんが僕の案を了承する裏で、葉子が小声で「逃げた」と言ったのを聞き逃さなかった。うるせい。

 グッパーの結果、グーを出したのは葉子と浩介。パーを出したのは僕と白濱さんだった。

 おお、神よ。我が主、一生崇拝することをここに誓います。

「望月くん、何してるんですか? 早く行きましょう」

 支度を終え、既に外で待っている白濱さん。

「え、あ、ごめん」

 玄関へ向かう最中、一瞬、居間で浩介の準備を待つ葉子の姿が目に入った。

 微笑むにしては影を感じる、寂しそうな顔をしていた。

 外は今日も蒸し暑かった。冬よりも近くに感じる夏の雲がいつもより早く流れている。

 浩介達と別れると、僕は白濱さんと川へ向かった。

 まず一番遠くの上流で採取し、中流、下流へと行く予定だ。

 白濱さんとこんなに長い時間、二人きりになるのは初めてだった。僕の鼓動が恥ずかしげもなく上昇する。

「それにしても、本当に暑いですね」手で影を作りながら白濱さんが言った。

「このままじゃ茹で蛸になっちゃいそうだね」

「望月くんはタコだったのですか?」

「そうだよ」口を突き出すと、僕は両腕をタコの足に見立ててユラユラと揺らした。白濱さんが笑ってくれて、ただでさえ舞い上がっているのに、僕は更に舞い上がってしまう。このままいけば、あの雲まで届いてしまうだろう。

 青いバケツをひっさげて、アスファルトの陽炎がどこまでも続いているようだった。

 山を登っていき、目的の採取地点に辿り着く。岩場で、川の流れは速いが、深さ自体は足首程度しかないようだった。

 涼しげな川のせせらぎのおかげか、幾分か過ごしやすい。

 バケツで水を汲んで、レポート用紙をバッグから取り出す。水の状態とそこに含まれた葉っぱなどの不純物をスケッチしていく。

 作業をしながら雑談を交わした。

 ここまでテンション上がりまくりの僕は既にこの時点で、道中どんな会話をしたのかを思い出せないでいた。だから白濱さんが

「最近なんですけど」と言い出して、後にどうしてこんな会話の流れになったのか考えるはめになった。

「あの、私、浩介くんと別れようかと思ってるんです」

「へぇーそうな、え、あ、え? ん? うん?」

 その台詞が頭に浸透するまで、しばらく時間を必要とした。その上で僕はやっぱり理解する事が出来なかった。今なんて言った? 別れるって言ったのか?

 僕の混乱を知ってか知らずか、白濱さんは台詞を続ける。

「浩介くん、私のことが好きだから付き合っているとは思えないんですよね」

「……どういうこと?」

「お恥ずかしいんですけど、私達キスをしたこともないんですよ」

「え、一年も付き合ってるのに?」

「恥ずかしいのであまり言わないでください」白濱さんの顔が赤くなった。

 流石に信じがたいものがあった。花火の日、僕が見た二人のやりとり。

 《一生大切にする》《お願いします》

 あの二人の会話が嘘だと言うのか。聞く限り、二人は何度もデートをしているし、試合の応援にもお弁当を作ってあげているような仲だ。

 なのにキスもしたことがなく、ましてや白濱さんが好きじゃないかもと疑っている。

「白濱さんは浩介のこと好きじゃないの?」

 思わず口をついて出たのは、ずっと訊いてみたかったことだった。

 白濱さんはしばらく考えると

「好きには好きです。でもこの好きが恋愛感情の好きかは分かりません。友達の延長線の好き、なのかもしれません」

 図らずも僕は喜んでしまった。キスもしたことない、恋愛感情もない。喜ばない方がおかしいというもの。だけど今、喜んでいい場面ではない。顔に出そうになる本音を飲み込むと、僕は神妙な顔を作った。

「二人はどうして付き合ったの?」

「浩介くんの方から告白してきました。誰かと付き合ったことがなかったので、試しにと思って付き合うことにしました」

「え、それだけ?」

「はい。友達にも試しに付き合えば本当に好きになるかもしれないと言われましたので」

 ……まさかの先着順。頭を抱えてしまう。なら僕が先に白濱さんと出会っていたらどうなっていただろう。付き合っていたのだろうか。そんなことを考えてしまう。

 邪な妄想を膨らませている中、白濱さんが更に続ける。

「それで望くんは別れた方がいいと思いますか?」

「それは……」

 別れた方がいい、なんて言えるはずがなかった。仮にも僕は浩介と仲が良いのだから、浩介を貶めるようなことは言いたくなかった。それに僕が抱えている白濱さんへの想いがバレてしまうようなことも避けたかった。

 そこで白濱さんがどうして別れようとしているのかを改めて振り返る。思い出したのは話題の冒頭、キスの話だった。

「白濱さんはキスがしたいの?」

 白濱さんの高揚していた頬が耳にまで広がっていく。恥ずかしそうに目が泳いた。

「そう、ですね。してみたい、とは思いますね」

 僕も同じぐらいには緊張していたのだと思う。これは良くない。

 落ち着きを失って、立ち上がろうとしたその時、

 わっ――

 僕は苔に足を滑らせてしまった。咄嗟に受け身をとろうとして、僕の腕が白濱さんの肩に引っかかってしまう。持ち堪えようとするが、それは叶わず、僕らは川へと落ちてしまう。

 水しぶきが上がった。火照っていた体に川の水が染みていく。

 頭が真っ白になってしまう。咄嗟の出来事だったというのもあるだろう。でもそれ以上に、吐息が掛かるほど近くに、白濱さんの顔があったからでもあった。

『してみたい、とは思いますね』

 頭の中でさっきの台詞が響く。目の前には白濱さんの唇。少し顎を動かしても、今なら事故だと言い逃れることが出来るかもしれない。

 水の音、蝉の声、心臓の音、薄い息遣い。夏の鼓動が頂点に達しそうになっていた。

 だけど、でも、駄目だ!

 僕は失い掛けていた理性を引きずり戻すと、勢いよく立ち上がった。

「ご、ごめん!」

 白濱さんに手を貸し、立つのを手伝う。

「ホントごめん!」

 爆発しそうになる胸の高鳴りを無理矢理押さえつけて、合わせずらくなった目を明後日の方向へと向ける。

「いえ、暑かったので丁度良いですよ。それにすぐに乾くと思いますし」

 川から一緒に出ると、僕らは裾を絞って、裸足になって、岩場で衣服を乾かすことにした。

 大きい岩の上に、二人で並んで座る。

 無言だった間の中、僕は何回も唾を飲み込んでから言った。

「浩介の件だけど、その、白濱さんの好きにするといいよ」

「……そうします。もし、私が泣くようなことがあったら責任取ってくださいね」

 冗談めかしに白濱さんが言う。

「ズルいなぁ」そんな風に言われたら、寧ろ責任を取りたくなってしまう。

 今回の相談のこと、花火の時に葉子が好きなのか訊いてきたこと、一年前の約束のこと、これらを合せて考えると、もしかして、な想像をしてしまう。同時に本当に別れてくれないかな、なんて他人の不幸を願ってしまう最低な自分の存在にも気付いてしまう。

 どうするのが一番良いのか、どんな思いで接するればいいのか、何も分からない。

 だけどまぁ、今だけは難しく考えなくていいか。

 二人っきりで、隣にいられることを噛みしめて、服が乾くまでの短い間、僕は夏の声に耳を傾けた。




 服が乾くと、遅れた分を取り戻すように僕らは急いだ。

 三時を過ぎると空模様が怪しくなった。今にも降り出しそうな雨雲が空を埋め尽くす。

 下流の水を道中で空いたペットボトルに組むと、パックテストは家でやろうと帰路を急ぐことにした。

 もうすぐ家に到着、というところで雨が降り始め、雨は瞬く間に大降りに変わった。家に到着するころにはまた、僕達は全身びしょ濡れになっていた。

「また濡れちゃいましたね」白濱さんが小さい声で言った。

 玄関の音を聞きつけてか、先に帰ってきていた浩介が居間の方からやってくる。

「うわっ、ぐしょぐしょじゃん。ちょっと待ってろ今タオル持ってくるから」

 玄関には葉子の靴がなかった。

 またレディーファーストでシャワーを浴びる。僕がシャワーを浴び終え、居間に行くと浩介と白濱さんはテレビを見ていた。

 天気予報のようで、上陸した台風の報道をしていた。

「あれ、台風逸れるんじゃなかったっけ?」

「あー、予報外れたみたいで直撃だとよ。これだと明日の電車が心配だな」

 浩介の話を聞きながら二人と同じように丸テーブルに着く。

 僕もボケーッとテレビを眺めて、そういや下流の水のパックテストやらないとなー、などと考えているときだった。

「あれ、そういや葉子は?」玄関に靴がないことを思い出した。

 浩介がビクッと反応する。振り向かないまま

「何か忘れ物したとかで、引き返してったよ」

「え、ちょっと待ってよ。それってつまり海に戻ったってこと?」

 台風が来ているのに海に行くなんて死に行くようなもんだ。立ち上がろうとすると

「大丈夫だよ。取りに行ったのは雨が降り始める前だからさ。すぐに帰ってくるよ」と浩介は僕に再び座るようにジェスチャーした。

 確かにここから海は近い。時計を見ると、もうすぐ四時になろうとしていた。

 雨戸を叩く雨音は次第に強く、風の音も女性の悲鳴のように不気味になってきていた。

 携帯で葉子に電話してみる。電話が取られることなく、タイムアウトする。

 まぁこんな天気で外にいれば電話に気付くのも困難だろう。僕は一言〈早く帰ってこい〉とメッセージを送った。




 いくら待っても、既読がつくことはなかった。時刻はもう五時を過ぎている。僕の心配もそろそろピークを迎えようとしていた。

「なぁ、いくら何でも遅すぎないか?」

「私も心配です」

 僕らの言葉を裏付けるように雨も風も一時間前とは比べものにならないほど強くなっていた。

「そうは言っても、今外に出るのは俺達も危険だぜ?」

 警察に連絡…… するのはなんだか躊躇われる。そんな大事になってない、という希望的観測からきているからかもしれない。

「どうしますか望月くん?」

 探しに行くか、探しに行かないか。選択肢が目の前に提示されるが、当然探しに行くに決まっていた。

 玄関の物入れから黄色いカッパを引っ張り出す。

「私も行きます」白濱さんが自分の分のカッパを手に取った。

「駄目だよ。白濱さんまで危険な目に遭わせるわけにいかない」

「でも危険なのは望月くんも一緒です」

「僕は平気だから」

「そんな、一人じゃ心配ですよ」

 引こうとしない白濱さんの手から浩介がカッパを奪った。

「半分俺のせいってのもあるからな。俺も行く」

 俺のせい? その言葉が引っかかるが、今追及している暇はない。

 浩介なら大丈夫かと思い、僕は頷いた。

「二人とも気をつけてくださいね。ご飯作って待ってますから」

「それじゃあカレーでお願い。パッケージ裏の作り方を見ながらね」

 僕は極力いつもの口調を保って言うと、家を出た。

 早く葉子の無事な姿が見たい。取り乱しそうになるのを何とか食い止めた。

 外は暴風雨でカッパを着てることさえも無意味に感じた。殴りつけてくる風と雨に、足を奪われそうになりつつも、海の方へと足を向ける。

「場所分かる?」走りながら浩介に尋ねた。

「たぶん東の岩場の方。だと、思う」

 浩介の言葉にいつもの覇気がない。さっきの俺のせいというのも気になる。最近の二人の関係もある。一体何が隠されているというのか。僕は思い切って訊くことにした。

「なぁ浩介、隠し事があるなら言ってくれ。葉子との間に何があった?」

 浩介は僕の台詞で明らかに動揺を見せた。しかし、状況が状況だからか、言葉を詰まらせながら、浩介は答えてくれた。

「実は…… 海水を採取している時、黒澤に告白されたんだ」

「はぁ!?」

「ユリカと付き合ってるからって断ったんだけど、それでも構わないからって。俺困ってさ、とにかく駄目だって言って、その場を終えたんだけど、家に帰ってきたら忘れ物したって黒澤の奴、海に戻っていったんだ」

 ……あぁ、そうか。……そうだったのか。だから葉子の奴、浩介にちょっかいを……

 名状しがたい感情が渦を巻いていた。言葉で表せない、重みのある、肌触りの悪いもの。抱えていると気持ち悪くなってくる、決して良い物ではない。

「浩介は間違ってないよ。何にも」

 発した言葉の裏で、僕は行き場のない憤りを感じていた。

 今はこの気持ちをどうにかする場合じゃない。とにかく葉子だ。早く見つけなければ。

 向かい風に煽られ、一歩進む事に体力をもっていかれる。時には強風に足を止めることも余儀なくされ、たかが五分の道に倍近くの時間を要した。

「あそこだ」浩介が指を差す。

 どうやら砂浜の先で採取したようだが、荒れ狂う波が砂浜を呑み込んでいて、近寄れそうにはなかった。

 すぐ横の岩場に当たる波は優に僕らの身長を超えている。怒号を飛ばすように噴き上がる波飛沫を直で見ると、あんなのに?まれたひとたまりもない、と頭で理解していた以上に実感する。

 僕と浩介は葉子の名前を叫んだ。

 腹から声を出しても、僕達の声が強風にさらわれていく。姿形も見えないことに焦りがどんどん溜まっていく。

 高台に行けば見下ろせる。そう思った僕は少し迂回して岸壁を上った。立ち入り禁止の線をくぐり、崖際までにじり寄る。浩介に危ないと言われても、僕はお構いなしに縁まで近寄った。

 どこだ、どこにいるんだ。

 名前を叫ぶ。返事はない。それでも叫ぶ。だけど返事はない。

 頼む、返事をしてくれ。ホントに、頼むから。お願いだから。

「望」

 浩介に名前を呼ばれた。振り向くと、浩介が崖下の岩場を指差していた。

 嫌な予感がした。コンビニ前での事故と同じ、嫌な予感。

 そんなはずない。ありえるはずがない。期待と恐怖が入り交じって、一歩が重く、吐き気が襲ってくる。

 そして、僕は、崖下を覗いた。

 ――っ!?

 赤くなった葉子が倒れていた。

 手足はありえない方向に曲がり、落とした粘土のように潰れた顔からは血が絶え間なく流れ出ている。

 目眩がした。平衡感覚がなくなって、目の前にノイズが走る。

「おい、望っ! しっかりしろ!」

 浩介の声が聞こえたが、その意味を理解することが出来ない。肌に打ち付けていた雨の感覚もなくなって、視界が闇に消える。音も遠のき、無音に変わる。

 きっと嘘だ。何かの悪い冗談に決まっている。目が覚めれば、昨日みたいに、いつもみたいにくだらなくて、退屈な日常が待っているはずだ。

 

 ――八月二十四日。黒澤葉子が、亡くなった。

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