人生迷い道
潮川の自宅跡地で決意を固めた翌日、博之と富美恵は山梨の和明に電話を入れて仔細を話して了解を得た。和明は離婚を回避したことにホッとしていたが仕事先に自分の会社が袖にされたのを苦笑混じりに悔しがっていたが声のトーンから安心感を読み取れた富美恵もまたホッとした心境になった。それから佐久間の家を訪れて経緯を話すと同時に離婚のことで要らぬ心配をさせてしまったことを詫びた。佐久間もまたホッとしたような表情で一番いい形で収まったと我が事のように喜んだ。
「俺はあの様子じゃ九分九厘、お前達は離婚して別々の道を歩むと思ってた。それで晋作さんにはアテにしないでいた方がいいと言っておいたんだよ。しかし緒方さん、釣りで数回会っただけだが筋を通す人だとは感じていた。だからお前の心を揺り動かせたんだろう。それに実家がピンチだったにせよ会社を辞めてすぐに行動に移すなんて真似は俺には出来ない。ああそうだ二人とも引き受けてくれたのはいいが威勢よく提案したものの後から考えたら問題がいろいろあることに気づいた。まず真一君と隆徳君の通学だ。鉄道が無くなってしまったから施津河からけせもい高校への通学はとても困難だぞ。それに肝心の仕事だが養殖設備の準備も覚束ないし、まして民宿に客など来るはずもない。俺は現状把握が全く出来てないんだもんな。どうしたものか」
佐久間は溜め息混じりに釈明したが博之は笑みを浮かべながら自分の考えを語った。
「そうしたことは承知の上ですよ。まず俺は船舶免許を取ります。佐久間さんの実家の養殖施設復旧にも素人とはいえ人手があった方がいいでしょう。民宿も観光客ではなくボランティアで訪れる人達の需要がありますよ。富美恵は海に潜って行方不明者の捜索に手を貸せます。子供達は俺の両親に預けるつもりです。孫と暮らしてれば老け込んでる場合じゃないでしょうからちょうどいい」
「なるほどな、そんな考え方もあったか。俺は視点が狭い。ただ一つ無理と分かって言わせて欲しい事がある。それは船だ、船が欲しい。晋作さんは自分の船が大破してしまった事が一番のショックだった。1トンにも満たない小さな物ならすぐに調達出来るがそれでは意味がないんだ」
「船ですか。それはまだ先のことと考えてました。資金的にとても無理ですよ」
博之は民宿を引き受けることを決意した時に急いでどうこうするのではなく長期的なスパンで取り組もうと考えていた。軌道に乗ったらもちろん釣り船をやるつもりではいたがそれはいつのことになるのか見当はつけられない。が、しかし現時点でまだオーナーである晋作は船に乗って海に出るのは年齢的にギリギリである。本人もそうしたいと願っているのは分かっていても叶えてやる力が今の自分にはない。佐久間の言葉に歯噛みしていると富美恵が恐る恐る、どうなるか分からないけどと前置きしてからポツリと言った。
「お金がないと言うなら、資金ならば兄に相談してみようかしら」
「何だって、義兄さんに援助してもらおうと言うのか。俺は反対だ。今まで危機に陥るたびに何度、山梨へ来ないかと手を差しのべてくれたことを断ったと思っている。どのツラ下げて頼めると言うのだ」
「ごめんなさい、言葉足らずだったわね。援助ではなく融資してもらうという形にするのよ。兄にはビジネスとしての投資みたくなるけどと話を切り出してみる。経営者としてどう判断してくれるかに期待しましょう」
(チッ、自分は実の兄貴だから簡単に考えてるんだろうが俺にはとんでもないプレッシャーだよ。しかし確かに資金調達方法としては頼るところが他にはない)
博之は腹をくくり富美恵に交渉は任せるとだけ言うと庭へ出て佐久間が飼っている柴犬とじゃれあいを始めた。昔、実家にいたコロの事を思い出すのである。富美恵はその姿を横目にしながら和明に連絡を入れた。
「あなた、兄さんが来週のスケジュールを調整してこっちへ来てくれるそうよ。電話ではラチが明かないから直接話したいって言ってたけどなんか期待出来そうな口ぶりだったわ」
「そうか、また遠くまで足を運ばせることになって申し訳ないな。そうだ佐久間さんもまた同席してもらえませんか。船や海で使う資材などについて俺はまだ分からないことだらけですから」
「それは構わないと言うよりこの話を持ち出したのは俺なんだから責任を持って協力せにゃならん。しかしだな投資だのビジネスとかなんたらはお前らに任せる。俺はちんぷんかんぷんだ。あくまで実践的なことだけサポートするのに徹する。そうだ和明さんには現場である施津河に来て貰ったらどうだろう。まだ酷い状況だからこそそんな場所で話を進めた方が建設的な意見も出て来ると思う。それに俺はこの前行ったファミレスな、ああしたところはどうにも落ち着かんのだ」
「俺もそれがいいと思います。ファミレスは嫌いじゃないですが義兄さんに現場を見てもらう必要性は感じます。おおい、富美恵。義兄さんには晋作さんのところに足を運んでもらうことにしたから了解を取ってくれないか」
博之は叫ぶように富美恵を呼んだが当の本人は入れ違いに柴犬と戯れている。やれやれと思いながらも屈託なく笑う富美恵を見るのはいつ以来だったろうと記憶を辿った。
7月になって博之と富美恵はけせもい高校の避難所を出て晋作の離れに移り住み民宿を手伝い始めたがやはり観光で訪れる客はおらずボランティアで来たという人間が宿泊場所として利用するケースがほとんどである。博之が考えた通りの格好になったが晋作夫婦はどこか気の抜けたような面持ちだ。そのうちに口コミで工事関係者も続々と来訪し始めた。ついに晋作は思い口を開いて本来の民宿としての姿に戻るのはかなり先のことになりそうだから博之達に全ての権利を譲渡して引退し、あとはのんびりと余生を過ごすと言い出した。博之はそれは困ると慌てて待ったをかけた。
「晋作さん、待ってください。ノウハウもまだ把握しきってない俺達にいきなり運営を任されても綻びが出て頓挫します。教えてもらうことが山ほどありますし第一に隠居するには早すぎるでしょう。実は富美恵の兄さんに仕事の合間を縫って船探しを依頼してたんですが昨日、手頃なのが見つかったと連絡がありました。静岡で釣り船として使われていたそうでここに写真もありますがご覧になりますか」
晋作は船という言葉を聞いた途端に目に輝きが戻り口調も先ほどまでとは打って変わり生き生きとしたものになった。
「なんだとどんな船だ。写真があるなら見せてくれねえか。ほう、まだ立派だな。6トン前後ってとこか。ちょうどいいサイズだ。出来るなら他に持っていかれる前に押さえてしまうことは可能か」
博之は前々から船を何とかすると話していたものの晋作は無理だろうと期待半分で生返事をしていた。しかしそれが現実味を帯びて来たためか博之も胸を張って説明を始めた。
「大丈夫ですよ。先方にはウチが優先的に交渉を進められるように話がついています。買うと決まれば整備や諸々の手続きが済み次第、施津河に回航するだけですから」
博之の説明により晋作は完全に生気を取り戻したようだ。津波で打ち上げられ真っ二つになってしまった船を目の前にした時にはかける言葉が何も思い浮かばなかったと佐久間から聞いていた。晋作は沖出ししなかったことを悔やんでいたが博之は緒方の兄の話をしようとして口をつぐんだ。漁師経験のない自分がそれを語るには僭越過ぎると思ったからである。しかし何はともあれピースは一つ揃う。それも重要度の高いピースだ。あとは迷うことなく前に進めばいい。だがいくら金を工面してもらった相手が義兄とはいえ多大な借金を抱えたことに変わりはない。もう後戻りは出来ないが博之は不思議とプレッシャーに苛まれてはいなかった。それどころか充実感を身に纏ったようにすら感じている。思えばこの歳になるまで何かモヤモヤした気持ちを抱えて生きて来た。今、若き日に思い描いたものとは異なるが海というフィールドで動き回れる一歩を踏み出せることに変わりはないのだ。それで十分ではないか。失敗したらまた違う道を探せばいい、なんとでもなる。ずっと前のめりになっていた背筋が心なしかピンと伸びたような気がした。一ヶ月後、船は施津河湾に回航された。博之は晋作が以前乗っていた船名と同じ明神丸の文字がはっきりと視認出来るところまで近づくとヨシッと力を込めて拳を握りしめた。
本当に不意打ちとしか言いようがなかった。人々を一瞬にして恐怖と絶望の谷間に突き落とした東日本大震災からはや10年の歳月が流れた。被災地と呼ばれた地域は以前ほどではないにせよある程度の活況を取り戻しつつある。新しく構築された街並みも暮らしの中に馴染みまるで以前からそうであったようにすら感じる。しかしそれは原子力発電所事故によっていまだに立ち入ることが叶わない区域を除かなければならなかった。そこだけは10年前で時間が止まったままである。博之は被災した直後から自分達のことで精一杯だったために震災そのものを直視して深く考え全体を見る余裕がなかったのだ。今こうして生活が軌道に乗りつつある立場になってようやく震災がもたらした負の出来事を思い知らされた。10年の間には集中豪雨ややはり大きな地震で新たに被災地となった地域もあった。そうしたこともあって博之はなおいっそう与えられた使命を全うしなければならないと誓った。
「故郷やかつての仕事に戻りたくても戻れない人達の分まで俺は出来る範囲で頑張らないといけない。どうやら緒方さんが言っていた次世代への橋渡しをする役目を果たせそうなところまで持って来れたような気がする。思い返せばこの10年、浮いたり沈んだりの繰り返しだったが借金返済のメドも立った。何度か放り出そうとしたが我ながらよく辛抱したもんだ」
博之は岸壁に横付けされている明神丸の傍らに立ち一人呟いた。いよいよ明日の朝に釣り船としての初航海となる。そのための準備をしていたが夢中でデッキを掃除していたら腰に疲労感を覚えて一旦船を降りたのである。ストレッチを始めようと足を伸ばしたところに富美恵が息を切らしながら小走りに駆けて来た。
「あなた、緒方さんから荷物が届いたわよ。中身は棒のような感じの物だけど釣竿かしら、とにかく戻って確かめてみて」
「分かった。しかしお前もわざわざ降りて来るなんて何を無駄なことを。電話なりメール寄越せば済むことだろう」
「上から様子見たら、あなたが変な踊りみたいなことやろうとしてたから気になったのよ」
「踊りなんかじゃないよ。デッキ掃除で腰が張ったからストレッチしようと思ったんだ」
この10年でずいぶんと馬鹿な掛け合いが増えた。富美恵は辛い時こそ演技っぽくなっても構わないと敢えて博之に茶目っ気を出して接して来たがそれがいつの間にか演技ではなくなりごく普通の仕草へと変わったようだ。博之はそんな富美恵に感謝しきれない気持ちを抱いていた。
(そうだよ俺一人ではここまで辿り着くなんて到底無理だった。富美恵はもとより真一、佐久間さん、緒方さん、晋作さん、義兄さんといった人達のサポートがあったからこそだ)
博之は富美恵の肩を叩いて一緒に民宿へ戻り緒方から届いた荷物の封を開けた。すると驚嘆せざるを得ない物が入っていた。
「こ、これはタモじゃないか。なんてこったこれ以上ない最高の贈り物を頂いたよ。さてお礼の電話をしないと」
博之はメールを打って今、電話をしていいかどうか確認をした。土曜日ということもあり緒方は釣り客を乗せて海に出ているだろう。メールでお礼の文を打っても構わないがやはり電話で伝えるのが筋だろう。返信を待っていると折り返し緒方の方から電話の着信があった。すかさず出ると微かにエンジン音が聞こえたのでやはり海に出ているようだ。
「すみません、海に出てますよね。そろそろ上がりの時間ですか?あとからゆっくり電話すれば良かったんですけど何分、俺も明日が初めてお客さんを乗せての航海なもんで落ち着かないんです。ああいけない肝心のお礼がまだでした。タモ、ありがとうございます。あれからもう40年近く経ちますね。仙台新港の埠頭で釣りをしていて緒方さんからタモを借りた。つい先日のことのように思えます」
「うん、そうだな。だから俺も考えた末にタモが一番いいだろうと決めた。俺とお前の付き合いが始まるきっかけはタモだった。あの日のことは俺も鮮明に覚えている。まあタモなんぞ当然準備してるだろうが何本あったっていい。それと一つ訊くが今はもう11月も半ばだ。シーズンも終わろうというのになぜ初航海なのか。年が明けて暖かくなってからでも良かったんじゃないのか」
博之は緒方がその疑問をぶつけてくるであろうと想定していた。確かにこの時期に初航海するのは不自然である。あえて決行する理由はけあらしの時期だったからだ。由里子との永遠の別れ、富美恵との出会い、いずれもその時にはけあらしが海を覆い尽くしているという場面が用意されていた。釣り船としての初航海もけあらしが伴ってくれないだろうか。そうした思いから敢えてこの時期を選んだ。もちろん明日の朝にけあらしが出るという保証書などどこを捜したってあるはずもない。博之はただ可能性に賭けたのである。経緯を聞いた緒方は納得したように返答した。
「なるほどな、由里子さんが亡くなった時だけではなく富美恵さんと初めて会った時にもけあらしが出ていたとはな。それなら気持ちも理解出来るよ。俺は決してロマンチストなどではないが由里子さんと恭一さんの二人が天国からお前達を見守ってると思いたい。兄貴や甥っ子そして義姉を震災で一度に喪ってからそうした感情を持てるようになった。しかしけあらしか。確かに明日の朝に出たならこれ以上ない船出になる。待てよ明日の予報はけっこう冷え込みそうだぞ、今朝もわずかだがけあらしが出ていたような気がする。あくまでこっちの話だがそっちの予報はチェックしたか」
「ええ、天気予報には目を通しました。荒れることはなさそうですね。最低気温の予想が氷点下1℃ですがこれはどう考えたらいいのか。けあらしが発生する気温の数字的なデータなんて分かりませんよ」
「そんな数字的なモンはあくまで予報だろ。明日になってみないと答は分からんさ。それに船で海に出るようになっていろいろ教えて貰っただろう。その土地の経験則だ。どこそこの山に雲がかかれば雨になる。風がこう吹いたらウネリが高くなってくるとかの類いだよ。気象予報は進歩したが局地的な変化はまだソイツが頼りになるんだ。今からけあらし乞いでもするといい。じゃあ健闘を祈る」
「緒方さん、ありがとうございました。急がしさに翻弄されていて初歩的な事をすっかり忘れてました」
博之は電話を切ると緒方から贈られたタモを片手に船に戻り操舵室に入った。神棚の下には由里子の遺品である釣竿とリール。そして恭一の遺品であるレギュレータとウェットスーツが並べてある。その脇にタモをそっと置いた。
「由里子。緒方さんからタモが届いたよ。最高にして最強の贈り物だ。それでなんだが一つお願いがある。明日の朝とびきりのけあらしでここの海をいっぱいにしてくれるように天気の神様に頼んでくれないか。恭一さんも一緒にお願いします。貴方が考えていたような民宿とはかなりかけ離れたとは思いますがどうにかここまで来れました。晋作さんも喜んでいます。施津河の街並みはすっかりと変わってしまいましたが、海はその輝きを失ってはいません」
博之は神棚に一礼して船を降りると民宿の方から微かに富美恵の声が聞こえた、どうやら一服しようとでも言っているようだ。
(フフ、さすがに降りて来るのが面倒になったか。それに今度はストレッチのような紛らわしいことをしてないからな。しかし携帯電話が普及して何年になる。何のために持ってるんだよ。まあいいか)
富美恵は携帯電話をなかなか使わない。鬱陶しいらしいのだ。博之の口からため息が漏れたがそれとは裏腹に民宿へ歩き出す足取りは軽かった。