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春のうららの隅田川という歌がある。
大抵の人は歌詞をちょろちょろと思い浮かべることができたり、一度は口ずさんだことがあるだろう。こののほほんとした春の大らかさを表す歌は、厭世的、退廃的、陰鬱的といった負の思考を全て吹き飛ばしてしまうもので、春の素晴らしさを称賛してやまないものだと俺は認識しているし、世間一般でもそう言う認識なはずだ。
そして春の代表格でもある桜。それは白妙の雪のごとく舞う花弁。
あの不思議な軌道を描く放物線に癒されたり、これを見ながら秒速何センチメートルで落ちていくのか、なんてことを考えるのも風流でもののあはれを感じるもの。
あのそよ風を纏った優雅なそれは、梢を揺らすたびに零れ落ちる優雅なそれは、割と儚いものだ。
なーんていうような、春の桜花爛漫の季節なのだが。
なのだが。な、の、だ、が。
この俺の目の前にいる人間爆弾チェリーブロッサム――実在戦闘機名、桜花――のような凄まじい勢いで食べまくる小早川のやつは、そう言った類のもんにしか目がいかないようで、あの歌の一節や花を愛でることなんて知らないのではないかと勘繰りたくなるものだ。
まあ俺の中では、四月の卯月と掛けて卵付きご飯(世間一般ではオムライスというのだが)を食すのはなんとなく微笑ましいのだが、その異様なまでに盛り上がったスーパーフルーティーパフェがやはりいただけない。
しかも店員のやつは気を利かしているのか知らないが、二人分のスプーンを用意してきやがった。俺の苦手な生クリームとかチョコレートとかを一心不乱に口へと運ぶ小早川。ほっぺについてるのがかわいいなこのやろー、とか思った時点で男として負けだろうか。
いいや、小早川には負けたとしても世間には勝ったんだー!!
――ってアホか俺は。
まったくもって論点がずれてしまった。それに何と闘っているんだ? この目の前の美少女と、さもデートしているかのように見せて世間と闘っているのか?
実際は悲惨だっていうのに。
それにな、小早川のやつ、今度はわき目もふらずにさくらんぼを食べているのだぞ。
そろそろ「あたしの胃袋はブラックホールとホワイトホールを抱えているの」とでも宣言してほしいものだな。
だいたい花より団子という言葉があるように、そういうものでも食っていればよかろう。変に洒落てパフェなんて食うからいけないんだ。なぜにそのような『おいしいチェリーのつまみかた(白抜きの星マーク)』的な――どこかの少女コミックの一節にでもでてきそうな、あるいは携帯小説にもでてきそうなワンシーンのようにさくらんぼをぱくつくんだよ。
「もぐ、おかわりするからねっ!」
…………。
やはり、俺は負けだな。
その天高く突き上げられたクリスタルでガラス細工な器に、あとどんぐらいの甘味料を膨張させれば気が済むんだろうとか詮無いことを考えるのはダメだ。そこまできたらもう抗うわけにはいかない。あの感無量と言った顔をされたら――。
でもな、このすらっとしたスタイルが保てるのは有機生命体として不思議なくらいだとか思ってやるさ。
「あと、これと、これと、これと」
「うっ、お、おまえ」
小早川が店員に再度注文したのを見て思わずボヤく。
実のところ、この喫茶店に来てからすでに一時間半が経過している。
まったくもって迷惑なのだが、まあこの場所であったことは少なくとも僥倖だといえるかもしれない。なぜなら、この都内有数を誇る桜の大樹が連なった公園近くの喫茶店は、外観の景色の見通しが良く目の保養にはなっていることだけは間違いはなかったからだ。ちなみにここの喫茶店の名は『栞』といって、店の名前の由来は本を読むときに休憩を挟む栞のように、お客様にとっては人生の休憩地点として欲しいという配慮からつけられたらしい。
しかしさ、
「休憩地点じゃねぇよな」
まさにその反対で、疲れはどっとたまってしまう。
それは時を巻き戻せば、小一時間近くという表現がぴったし当てはまるほどに、新原 紗希との関係やその人なりとの人物について問い詰められていた俺だからだ。こっちだって知りたいことなのにな。
『なるせ……、あなたはあたしがまもる』
そう、これが彼女と交わした唯一の言葉。いや、交わしたというよりは一方的にそう言われただけだ。これ以上は何も分からん。ユカリは、『新原 沙希は何者なのよー』というが、そもそも新原 沙希が新原 沙希たる所以など誰であってもわかるはずがない。
いやはや、見事なまでの反復同語的トートロジー。
まあ、おまえが問うていることはサクランボはなぜ赤いのかと一緒だってこと。
そんなことは誰にだってわかりはしないんだ。
「なにぼんやりしてるのよ」
「えっ?」
「ほらっ」
なぜか目前に、甘味料付きのスプーンを差し出される。
「ほら、あんまり退屈そうにしているから食べさせてあげるわよ、ひとくちだけ特別に。だから今すぐ口を開けなさいよ」
あのなぁー、俺は甘いものが嫌いなんだぜ。セリフだけを聞けばとても魅力的な提案であるが、そんないかにも嫌そうな仏頂面ではこっちだって対処に困るわけだ。
しかし、俺が次に発すればいい適切な言葉を探していた時に、
「あのね」
「なんだ?」
「なに考え込んでいるのよ」
「いや、べつに」
「じゃあ言うけどね、だいたいあたしがナルになんか食べさせるわけないでしょ! なんか邪な事を考えていたんでしょ、どうせ。あたしホントは、こうやって目の前で間抜け面して口を開けているところで、このスプーンをねー、くるんと方向転換させて自分で食べる予定だったんだから、って聞いてるのー!」
「あー、そんなのは分かっているよ」
「……」
小早川はなぜか何らかの躊躇いを見せて、そしてこう言った。
「じゃあいい、もう本題行く」
「ん?」
「ナル、しっかり聞いてよね。ちゃんと最後まで聞いていなかったら許さないから」
おいおい。許さないって……。
それに本題ってなんだ?
「あのさ、聞く気あるのー?」
小早川が疑わしそうな視線を向けて訴えかけてきた。
しかし、あれだ。と俺は言いたい。
今までずっと聞いてなかったのはユカリだろーが、どんなに何事かと問いかけてもオムライスとかパフェとかぱくついて。なにが「ジャンボパフェは女の子の夢なの」ってその真っ白なアイスクリームを純白さを穢すようにチョコレート、バナナ、さくらんぼ、キウイ、スティック状や、コンフレーク状の簡易菓子なんかでふんだんに踏みにじった代物にどれほどの付加価値があるのだと――
「ああすまん……で、なんだ?」
目線が怖かったので思わずうなずいちまったのね。
「ほらっ、あのはなしよ」
「だからなんだよー、ユカリ」
「あ、あのね、ナル。こんなこと絶対に言いたくなかったのに。ホントはこんなことはダメなんだけど」
小早川は自分の指と指を重ね合わせて、それでもって人指し指をくるくるーと器用にまわしていた。
「げっ、現実世界と夢世界がねっー、ほら、繋がっている?みたいな夢を見たのよっ!」
「へっ?!」
おいおい、マジでこれは地動説ではなく天動説を唱えるガリレオ的なありえなすぎる場面に出くわしちまったんじゃーないか? あの小早川 ユカリが、こう改まってSF風味の夢話をしようと試みるなんて。
「で、どうしたんだ?」
好奇心に駆られた俺はおもわず立ち上がってしまった。
「えっ? んと、とりあえず座って」
起立をしたからにはなんとなく礼までして着席。
小早川はそれを訝しげに見つめていたが、しばらくするとこう言った。
「えーとそれがね、あーこの世界とまた別の世界のある空間が交差しあっているというか、あたしが異空間に吸い込まれたような話なのよ」
どうやら小早川は、今までの一時間半の無駄に対して見事に帳尻を合わせてくれたらしかった。
そしてその後の俺は普段のユカリから考えるとあり得ないことだと思いながら、または新原 紗希の件と重ね合わせて一抹の不安を覚えながらも、やはり今日は特別な日だなんて考えつつただ黙ってその話を聞いていたのだった。