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4−2

 性懲りもなく、昨日の夜に知恵熱がでてしまった俺はファラオの呪いかなんて考えつつも、妹に取り計らってもらった氷枕がボートを叩く波のように鼓膜に伝わってくるのを起きてから今の今までずっと感じていた。気まぐれに寝がえりを打てばプカンプカンと音を立ててくる。横を向けばご丁寧にも氷嚢ひょうのうまで乗せてくれたらしく隣には氷袋が置いてあった。

 それにしても……泥のように眠っておかしな夢を見たような気がする。が、まぶたの裏に残っていたはずのその残像は影も形もなくなっていた。夢の記憶がほとんどない。ノンレム睡眠の夢パワーは恐ろしい。


「んーっ……」


 やがてのっそりと起き上がり、トイレに行って顔を洗って制服を着てうんぬんかんぬん。一段落がついて朝食の準備に取りかかる。妹はテレビのチャンネルをあちゃこっちゃ回していて、そのたびにでる占いの結果に一喜一憂をしていたのだが、機敏に立ち上がりこっちにまでやってきた。なんだろう、別に占いの結果は教えてくれなくてもいいぞ。


「ハルくん様、お加減はよろしいでしょうか?」


 どこで覚えてきたんだろうか、その給仕みたいな言い方。それにハルくん様って、お兄様じゃないのか。分かってはいるけど。


「アキ、昨日はありがとな」


「左様でありますか」


 アキは口と鼻の部分に手を当てて、かまくらの形みたいなこんもりとした山を作って小声で言った。まったく、何のアニメを見たんだ?


「では、ハルくん様。体のお具合が宜しいようなのでハルくん様、コーヒを召しあがりますか? それともアキを召しあがりますか?」


「コーヒ。って、え?」


 そんなふうにたどたどしくもかしこまった感じで言うので、俺は突っ込むこともできずにコーヒーと言ってしまったのだ。……まあ、いいじゃないか。アキはとんでもないことを言っているのだがそれに気が付いてはいないのだから。しかし、それは絶対に超えてはいけない一線なんだ。このことは綿密に注意しなくてはいけない、ってなはずはないよな。明日になったらもうその興味は削がれているだろう。


「あっ!」


 ふいに聞こえた五十音の一番最初。声の主の方を見ると、今あたしの電球がピカンと光ったのよ、あたしとてもいいことを閃いたのよ、みたいな表情を浮かべている。見ればやかんを持って突っ立っているじゃないか。もしかしてお湯でも沸かすつもりなんだろうか。が、それはまずい。いいか、やめるんだアキ。熱いお湯で火傷でもして一生消えない傷が顔にでもついたら大変だ。いますぐやかんをガスコンロの上において、ポットに入った昨日の残り湯を使うんだ。それをレンジで温めるだけでいいから。なんならクリープの入れ忘れだって断腸の思いで受け入れてやる。へぼ兄貴はな、妹がコーヒーを入れてくれるだけで心の底から満足だ。だからな、やかんでお湯を沸かすことだけは止めて――って、水道水かいっ! しかも粉末よりに先にっ! 俺は諦めて現実逃避をする。わーいわーい、アイスコーヒーばんざーい。

 てんやわんやでの勢いで我らの――じゃなくて我が妹にインスタントコーヒを作ってもらった俺は、騎士道でよくありがちな三銃士並みのポーズをしてからうやうやしく受け取り、カップをはしを持ち上げてコーヒーをずずずーとすすった。まるで三銃士のダルタニャンな気分だ。しかし、淹れたてのコーヒーが泥水のように感じられるのはどうしてだろうか。一仕事を終えて満足げにしている幼子おさなごのせいか。このさやえんどうをもりもりと食べているこわっぱが、水を入れてから粉を入れたせいか。いや、ただ単に泥のように眠ったことに対する相似的比喩表現を使ってみたかっただけかもしれない。そういうことにしとこう。

 コーヒーを飲んだ後は何か摂取しようと思ったが、目の前にある色どりみどりの朝食が並んでいたのを見て、急に食物のために咀嚼そしゃくするなんて行為がとてもまどろっこしく感じられた。結局、それらの食べ物が俺の喉を通って嚥下えんかされることもなく、普段はもっちりとした感触を味わっているこの食パンも、さやえんどうのさや剥き卵付きサラダも、リンゴヨーグルトも、まったく食べられなかったのだ。なんとなく。

 でも、妹はさやえんどうのさやをもりもりむしゃむしゃと食べているのに。テレビの方に足を向けてぶらぶらさせながら、ちゃんちゃかと世話しなくチャンネルを動かしながらだけど。


「ハルくん! そいえば、今日って、あっめーが降るってさぁ〜」


 ふと思いついたようにアキが呟き、なんのてらいもない純粋な視線を投げかけて来た。


「ふ〜ん」


 そう言われて外を見れば、雨が降る前兆といえそうなおぼろ雲がこの世界を覆っていた。すりガラスを通したような不透明さは太陽を灰色に見せているようだ。別に悪い気分ではないこの光景。ただ、それは哀愁の空とでも表現できそうな霞んだ色を写し出していたのが気がかりなだけであった。

 視線を水平に移動して元に戻すと、我が妹はさっきまで見てた星座占いから、キンカンぬってまたぬって〜♪ と変な抑揚の節を流れたCMのところで興味深々に反応し、


「変なのぉ〜、キンカンぬって、またねぇ〜ってハルくん。そこでバイバイするなんて、ありったけおかしーよねぇ〜」


 そんなありえない勘違いをする。が、やがて程なくして、そのチャンネルはきっと良く分かりもしない経済ニュースで止まった。俺のために気を使ってくれたのだろうか。しかし、腕を組み、うんうんと唸るその姿はどうもそうには見えなかった。


「あははっ、この人もみあげながすぎー、つながってるよ! ハルくんほら、つながってる〜!」


「……」


 がんばれ。日本の将来は常日頃から危機感というか焦燥感というか、そういうある一定の憂いを帯びているが、きっと妹という存在が全てを超越してなんとかしてくれるはずだ、と馬鹿な奴が言っていたぞ。もう少しがんばれ、我が妹よ。

 やがて学校に行く時間になって、俺はいつもどおりアキより先に家を出た。しょうがないよな春より先に秋という季節が巡ってくることはない、とか埒も無いことを考えつついってきますいってらしゃい。鍵の戸締りを忘れないことと言って、ハルくん。アキに任せなさいっ、えっへんみたいな感じで言われた。

 飯を食えない以外は特に問題もなく、熱が出たのもじんましんにも似た一過性のものだと判断したのであって最初から学校には行くつもりだった。まあ、新原と落下時に交わした吊り橋効果みたいな約束もあるからな。

 そして、しばらく歩いていると霧雨が降ってきた。白っぽい雨は周りの景色をさらに霞んで見せる。薄霧に近い現象だ。この灰色の世界にぼかしたアクセントをつけていたんだろう、と思う。

 折り畳み傘を取り出そうとしている最中、ふと脳裏をよぎった言葉があった。

 水はね、生命の源なんですよ。誰かがそう言っていたのを思い出した。誰だろうか。そこまでは思い出せなかった。でも構わないか。

 ともかく、今日は四月二十日、木曜日。

 この世界に対するスタンスを変えなくてはいけないらしい俺は、訳の分からない何かにまた悩んでいたらしく、ローテンションにチューニングをしたままだ。


――カンカンカンカン。


 すっかり慣れ親しんでしまった遮断機の音が耳朶じだに轟き、ほどなくしてギュインギュインという電車音が聞こえてくる。今日もまた変わらずにタイムイズマネー達を乗せて走り去っていくのだろうか、とふと思う。









 昨日、学校はちょっとした騒ぎだったらしい。

 とはいっても、この話題が学校中を席巻せっけんしたわけではない。

 学校は、ではなく主に一年B組が、ちょっとした騒ぎになったのだ。

 まあ、たやすく言えばうちのクラスである。

 気がついたのは昼休みのことだった。

 数字と記号と公式の魔術が襲い、弥生時代の猛者もさ達の武勇伝に困惑させられ、運動という名の拷問が極度の疲労を促し、そして解読不可能の文字が懸想文として成り立っていることにおののきながらも、やがてこくりこくり。


「なるせさん?」


 どうやら首から上がボートを漕いでいたのを見咎められてしまったようで、はっと気が付き見上げてみれば、気の良さそうなおばあちゃん先生が目と鼻の先にいた。トイレ掃除の、ではなくて古典担当のおばあちゃん先生。すいません、ぜったい定年退職していますよね、と思っているのは心の奥深い触れてはいけないところに閉まってある秘め事だ。

 危うくおばあちゃんと言いそうになるのをすんでのところでこらえ、くどくどと授業に対する態度の諸注意を受けている間にチャイムがなってくれた。あー助かったぜ。余計な懸案事項が増えちまうことだった。やれやれ。

 ということは自動的に昼休みである。そうなった途端に、


「やっほ――――――――い」


 斎藤だった。

 俺はなぜか重苦しい雰囲気をまき散らすこともなく、かといってむやみに吹き払うわけでなしに、その鬱屈とした気持ちが萎んでいき晴れやかな気分になっていくのが分かる。


「やっほ―――――――う! なあ、成瀬、おまえ中休みはどこいっていたんだぁー?! 話しかけようとしたらさー、さっさと教室から出ちゃって、チャイムがなるまでさー帰ってこないことはないだろ!」

 

 その理由はこいつがこんなにもハイテンションだからであろう。当社比十割増ぐらいで、その成分はこっちの暗欝とした気分まで吹っ飛ばしてしまうらしい。

 ちなみに斎藤が言っていた中休みにいなかった理由わけは、新原から手渡された本を解読しようと文学室にいって試みたからである。しかし、さわりだけしか読む時間がなくて肝心な事は何も分からなかった。あの本はなんだか途轍もなく危ないものかもしれない。それこそあるまじき爆発オチみたいな雰囲気がプンプンと漂ってくる気がしたのだ。

 とりあえず内容はこうだった。

 本書取扱い―― 一ページも一行も一文字も飛ばさすに読んでください。そうしないと取り返しのつかない事になってしまいます。そんな滅相もないくだりから始まり、似たような注意書きがえんえんと書かれてあって、だからといって読み飛ばすわけにもいかずに読みとおしたのだった。まったく、黒魔術でもかけられているのだろうか。

 ん……、斎藤の話に戻ろう。


「だから俺さ、昨日電話したんだぜー。今、クラス中の益荒男ますらお達が大変な事になっているって知らないだろー。昨日から凄いことになっているんだよー」


 斎藤が事細かに語ってくれたのは、担任の角川が一身上の都合で休職するらしいことと、「しか〜しっ! それがメインの本題じゃーないんだ!」と妙に英語と日本語の意味が一緒のような気がするもったいつけた前置きを付けてから、その角川先公の休職に伴って臨時で配属された雇い教師の話をし始めた。その人物とは――


『えっ、あの人が先生? なんかあたしよりかわいいんだけどぉ〜』


『あーウインクしたらおもわず両目つぶっちゃいそうなタイプだな』


『なんかなでなでしたくなるよね〜。よしよしって』


『常に瞳に涙をためていそうだよな〜』


『あー童謡とか口ずさんでそう。ある日、森の中ぁ〜(それ童謡か?)』


『世界は何でできているのかというと、あの方のような天然の癒しでできているのだろうか』


『並んで歩いたら姉妹に間違われそうだわ。もちろんせんせーが妹』


『ふむふむ、これをロリ教師というのかな〜』


『あっ、何もない所で転んだ。つまずく事から始まるドジっ子の華麗なる一日ってかんじぃ〜?』


『せんせー、もの真似してー。もちろんあ〜んちゃぁんって!』


『せんせーぬいぐるみという付属物はどれぐらい常時してありますこと? 参考までにお聞かせ願えませんか?』


『くちゅんだって、あっ、しかも鼻血だしてるよー(うげっ! そ、それはトラウマだ)』


『せんせー自分の頭をコンって叩いててへっ、って言って』


『せんせーなはなはして〜(そこに何の意味が見いだせるのか?)』


 これはクラスメートの諸々の反応である。こりゃ教師を舐め過ぎである。まあ、まだ見知らぬ先生を拝ませてもらったら、そのイメージは変わってしまうかもしれないが。特に男子、半分以上はあんたらの発言に肯定できるが、見事なまでのばかばっか。益荒男というよりもむさくるしいむくつけきおのこ達の空集合だ。

 でもふと思う。俺の見えている世界とやらはなんとも平和だったんだろうか。

 だから、今置かれている現実を危うくおいてきぼりにしてしまいそうだった。





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