3−12
空中を迂回。だいぶ時が流れる。
衝撃波すら感じることなく万事快調。
ジグザグな走行から、螺旋を描き、幾何学的な模様を空にうつし出す。
縦横無尽に飛びまわる。自由開放に動き回る。
イレギュラーな速度で駆動。浮遊の力を持たされた単車。
空を舞う。滞空しているような感覚がある。
まるでUFOみたいだ。
いいだろう。悪くはない。
むしろ心地よい。というよりも感動すら覚えている。
新原の使った能力<不可視光状態依存空間>とやらは、存在そのものが見えなくなってしまうらしい。他にもいろいろとある。俺たちが乗っている単車には緩衝材みたいな幕で覆われているということとか、レーダかなにかで目的としている人物を探したりとか、エトセトラ。やはり凄すぎる。宇宙人でも何でも構わない。いたく感激もしたくなる。
「なるせ、少し、ぶれるから」
新原が言う。そしてその瞬間、機体がありえない角度になる。おそらく物理法則を完璧なまでにしかとしているに違いない現象。まるで違う次元の空間を移動しているかのように瞬速で立ち回る。まさしく瞬間移動。目に止まらぬ速さで揺れ動く。まったく、人が見えるものには限界があるんだと思う。すると一度弱まった速度がさらに加速していく。さっきよりもはるかに凌駕するハイスピードで広範囲を移動。気圧の影響で眼球に辛さが生じたり、三半器官がおかしくなったりしないのは、ひとえに新原のおかげだと言えるだろう。ホントまったくだ。
そして、俺は今しがた起こったことを思い返す。
地上が小さく感じるこの感覚。
もっと前の事も思い返す。
なぜか俺が影響するらしい世界について。世界の改変についても考えていた。
もう一つの心が制御不能になったとき。それとは、やはりなんだろうか。
あの男が言ったこと。本当だろう。いや、その前に何が起こるというのだろう。
「なるせ、ハンドルを離すから」
聞けば重力制御や気圧関係を楽に無視できるエネルギアを掲載したらしい。ゆえに、ハンドルを握らなくても基本的に問題ないことには変わりはないらしい。
しかし、新原。俺の心臓にはまことに良くないぞ。それにおまえは何をしているんだ。
その舐めた人差し指の風向きで探し人が発見することができるなんて、そんな原始的な方法を採用するとは思わなかったぞ、さすがに。せめてスティックかなんかを取り出してダウジングでもした方が似合っていただろうが。
と、そこまで考えていると急に、新原がその姿勢のまま首だけを動かして振り向いてきた。なぜかその姿はさまになっていて、おもわず見惚れてしまう。
ところが新原は、「これはただのスタンス。特別な意味はない」とか言うのだ。このやろーめ。
「あっ、霧散した」
「ん?」
「気配が霧散した」
おそらく新原が感じた危ない何か、とのことだろうか。
「そうか」
「上空する」
「これからどこへいくんだ?」
「大気圏」
「はっ?」
「まではいかない。その反対、急直角で落下するために反動を付ける。用は済んだ」
まずいんじゃないか。俺の心理的に急直角落下は。
「新原っ!」
「ほよ?」
なんだ? その受け応えは。
「急直角で落下するとは本気か?!」
「本気」
「ほんとか?」
「本気と書いてマジ」
「まて」
「なに?」
「なんか変だぞ」
「なにが?」
新原は心底不思議そうなトーンの声でしれっと言いやがった。
「しゃべり方」
「本に書いてあった」
「……そうか」
「そう」
「……」
「そろそろいく」
「あーくわ、ばら」
「くわばら」
なぜか複唱してくる。
「へっ?」
「なるせ、下ではなく前を向いて」
新原は指示す方向は正面だ。地上ではなくどこまでも続いていきそうな青の空だ。しかし正面を向くということは、後に地上に向くこととなるのだが。
「なるせ」
「な、なんにだ?」
ちくしょう。緊張の所作か、「なに」と「なんだ」が混ざってハングル語みたいになっちまった。
「怖がらなくていい。それに、返しジョークというのは空気を和らげる効果があるらしいのだが、なるせの現在の状況下に置いて効果が半減しているのは残念」
「はっ?」
「……」
「おい、だからどういうことだ」
「本に書いてあった」
「本に書いてあったのか?」
「そう、本で覚えた」
「そうか」
「一日万語」
「一日マンゴー?」
「本に書いてあった」
「本に書いてあったのか」
「そう」
「そうか」
変な会話だ。しかし、今の状況下においてまともな会話をしろというのは、どだい無理な話なのかもしれない。
「一日万語、現代語を記憶するために覚えている」
「そうか」
さっきからちょろちょろとは思っていた。赤ちゃんが新しい言葉を覚えて、それを使ってみようとしている感じであったことを。ただ、それ現代人でないことをおもいっきり暴露しているぞ、いいのか新原。
「この後、どこか私用はある?」
「あっ」
新原が尋ねてきた事で、俺は大事なことを思い出す。
「今すぐ喫茶店の近くまで行ってくれたら、とても助かる」
「がっ、」
「ん?」
「がってんしょーちのすけ」
「……」
「本に書いてあった、から」
「本に書いてあったのか」
「そう」
「……」
「やっぱりなんでもない」
「そうか、じゃあお願いしていいんだな」
「わかった」
すると、それを合図にフルスロットルのターンでもするみたく天空へ向けて迂回した。こっから勢いを付けて落下するんだ。効果音を付けるならギュインギュインか。
急激に前方からの風がなびく。新原がふとこっちを見た。あー新原のおでこ初めて見たかもしれない。そんな呑気な自分に呆れる。いくら命に別条はない状況っていっても、いや怪我の心配さえないとはいってもそれはないだろ、ばか。そんな落ちていく少し前の瞬間。きっと遠目から見たら目眩がするほどの急降下するのだろう。
俺は思う。ひこーきぐもはできるのだろうか。昔良く願った幻想。紙ひこーきを飛ばして願いを叶えようとした幻想。いずこへ? まほろぼではなかったのか。空を飛びたい? それは実感している気がする。想像以上に凄いことだ。心が躍動していた。
やがて天空から落下。ジェットコースターみたいなもんだろうか? 乗ったことはないけど。
「今度この時代の人間が、すべからく失敗するあれの考察をする」
こんなときに新原が喋る。すべからく失敗? なんかのギャグか?
「閑話休題。それよりもなるせ」
「なんだ?」
「明日は――」
学校こいよ、だろ。でも、このタイミングでいうのはなしだぜ。
「学校に来て読み始めてほしい、あの本を」
それも解っている。だからみかじめ料をムリくりに払わせようとする目つきはやめろ。あれは三日以内だったか。金曜日までにはしっかりと読むよ、ちゃんと学校に来て読むさ。
「本に書いてあるから」
「そうか」
「そう」
「本に書いてあるのか」
そんな何度目かのやりとりをした時に、もう一度思う。俺なんかのためにありがとさん。心の中で唱えてみる。落下は続く。
あんなに大騒ぎをしたわりには正味一時間足らずの寸劇だったことには驚きを隠せない。そう感じるのはおそらく、よほど密度が濃かったからだと思う。ていうか、これ以上何があっても、もうすでに常識を覆すような耐性のワクチンをこれでもかってぐらい打ち込まれているのだから、驚くのなにもあったもんじゃーない。
あの急激な落下の後、新原がスマートな低空飛行を続けて穏やかに着陸したおかげか、はたまた都内随一の面積を持つ武蔵桜公園という着地場所が良かったのか、滞りなく問題もなく済ませることができた。改造したバイクは新原の超能力が解けて元の機能に戻ったものの、新原はそれを置いて帰ってしまった。放置か。
しかし俺も、それには構うわけにいかず喫茶店へと向かう。
やっぱりいくら身の危険を感じたといっても、ユカリを一時間ばかし喫茶店に放置しておいたのはまずいのかもしれないと思う。怒髪天を衝くほどの怒りをぶちまけられるのだろうか、昔のユカリなら。なら今のユカリでは?
近くまで来て、小早川がいるであろう喫茶店の様子を外から窺ってみた。
この場所。桜ははからずとも散ってしまったが、風情に溢れている光景は変わらない。
人生の休憩地点『栞』。そう考えつつ目の前のドアを、
――カランコロンカラン
開けた。
その瞬間、かろやかな鈴の音が鳴る。今の俺の心の状態には似合わない音。
とにかく、いろんなことがありすぎたと思い返す。
自分の事を世界を改変するもう一つの能力があると言うあの男のこと。新原と一緒にとんでもない世界を見てしまったこと。果たして、本当にユカリとは無関係なんだろうか。もしかしたら自分がなんらかの影響を及ぼしているのだろうか。やっぱり疑惑の念に駆られてしまう。致し方がない。
「どうしたの? その逆立ってる髪型……」
小早川が座っていた席を見つけおずおずと近づいてみれば、開口一番に言われたセリフがこれだった。なんとなくほっとする。
「特に正面から見た感じが変だよ。なんかピンチの前髪みたいだね。はっ?!」
こういって自分の発言にはっとするユカリさん。なあ、おまえってそんなにおとぼけキャラだったか。白雪姫のこびとか。つくづくなんというか。
「あーそれは髪が少ないって意味ではなくてー、チャンスの前髪をちょっと反対にひねってみたというか、あわわわっ」
とーぜんだ。毛髪量に関していえばむこう六十年ぐらいは問題ないだろう。これから先、宇宙人に掻っ攫われて脳味噌を穿られて検査されて有害な電波を浴びさせられて、実はそれが放射能よりも危ないものだった、というのではなければの話であるが。
とはいえ、前髪の乱れを直すのも忘れていたのはどうかしているとも思う。
ナルシストとしてはボロが出っぱなしだ。
どうしてくれよう。どうしてくれようか。
いや、それよりも少しを落ち着かないと。
軽く、深呼吸と腹式呼吸みたいなのを繰り返してなんとか平静を取り戻そうとしてみる。やってみるとやはり、一時的だが調子が戻ってきた気がしないでもない。無駄な高揚感はまるでは収まらないが。
ユカリに座るように促されて、俺はようやく席に着いて腰を落ち着けた。この店内のゆったりとした雰囲気が、すぐ馴染んでいけそうな気配であるのは僥倖なのかもしれない。と、このまえ来たときとは別の意味で考える。
「どうしたの? それで」
「あ――」
「ほらっ、遅れた理由」
「あー、そうさ。聞いてくれよ。斎藤がさ――」
俺は本当の事を言ってもいいかと一瞬だけ考えたが、流した方が賢明であろうと判断して適当に話を繋げていた。そうしてこの話も流れ、三十分ぐらいは歓談をしていたことになる。さっきまで非日常的出来事はこのの高鳴る心臓が無ければ嘘みたいであった。
ところが、夕日が見える頃合いになったところで、俺にとって重大なことを小早川はふと口にしたのだった。
「ねぇ、ハルくん。実はね、あたし、ハルくんが来るまでの間、くたびれちゃってうとうとしていた時があったの」
ユカリはいまはもう空のコップをストローでもてあそんでいた。
「でね、なんかあり得ない夢を見たのよ」
なんだかいたたまれなくなった俺は、気ばかり焦ってどんな夢かを聞いてみる。
「でね、おかしな話なの。ハルくんの事をいじめたり、関節技を決めたり、口汚く罵ったりとか、あたしが思い通りにならなかったことはほとんどハルくんのせいにしていたりとか。あっハルくんのことはナルって呼び捨てだし。そう、すぐそっぽ向いて目も合わせようとしないし。だけど憎らしいことにときたまデレっとするの。まるであたしじゃなくて別の人みたいだったかも……」
まわりには爪に火を灯していそうな吝嗇っぽい奥さんがいる。初老に手の届きそうなおじさんもくつろいでいる。そして俺らと同じような高校生もいる。
皆がめいめいに時を過ごしていて、きっとここでなされている会話も一般的には何の変哲もない話である。
「夢の中のあたしは、今の自分とは違う性格でいて変だったの」
しかし、そうとは言えないのが現状であった。だから、俺はこう言ったのだ。
「あのさ、ユカリ。それって――」
その夜。
返された十字架のペンダントがジーンズのポケットにあったのに、今更ながら気づく。
ユカリに渡しそびれたことが判明。そして結局、何一つユカリの変化が分からなかったことも判明。
だから、飯を食って風呂を入って歯を磨いて、妹に宿題は自分でやりなさいと言って、枕投げもパスをして、貰った手紙に何かヒントがあるのかと読んでみても何も分からないままであって、ならば芥川の『藪の中』でも読んで気を紛らわそうとして、しかしどうにも抗えないような眠気が襲ってきて、何もかも投げ捨てるようにして床に入ってしまったのだった。