3−8
「あなたですよ」
そいつは平然と、それでいて優雅でありながらも飄々(ひょうひょう)とした態度で言い放った。
あの時、――ひゅん、と音がして振り返り、そこには男が立っていた。
すると彼の手元にあった小物が空中で浮遊しながら全て戻ってきたのだ。鉛筆も消しゴムも十字架のペンダントも。誰もその不思議な現象に気がつくことはなく、俺の体の中へと吸い込まれていった教室での場面、あるいはボートに乗っている場面で起きたのと同じく、また何事もなかったかのように人々は無関心であった。
やがて男はその様子を見届けてから、映画館入り口の階段をずかずかと降りてきて雑踏の中にいる俺に近寄ってきた。
「こちらに来てお話でもしましょうか」
この言葉と共に腕を掴まれ、彼の思惑通りすぐ近くの人通りが少ない路地通りへと連れ込まれてしまったのだ。
男は俺が返答する間も与えずに、人気の少ない蔓ばかりがつたう人家を両サイドに従えながらも憎たらしいほどの笑みを浮かべ、「それはお返しますよ」と俺に告げていた。
しばし沈黙。その廃れきった人家に貼ってあった剥がれかけのポスターは日本の未来を憂うような文面に気色満面の笑顔を見せていた。それがふっと目に入る。
「さて、何から話しましょうか」
男が言葉を発した。するとようやく俺は、それに呼応したからなのか「何が目的なんだ」と尋ねることができたのだが、彼は窮に瀕することもなくあっさり導き出した答えは「あなたですよ」だったのだ。
それは友達にでも語りかけるような穏やかな笑みであり二枚目俳優といってもさしつかえないぐらいに整っていたために、相手が超能力者か魔術の使い手である可能性が高いにも関わらず一気に戦意を削がれてしまう。
「なら……何を考えているんだ、あんたは?」
緊迫した状況であったはずなのだがそれを凌駕するぐらいの友好的な微笑みを投げかけてくるので、俺はその雰囲気に飲み込まれないためにもむりくりに言葉を繋げていた。
「わかりませんねー、どうしてでしょうかー」
しかし、眉目秀麗な男は回答をはぐらかす。そして何やら考えているようなスタンスを見せるのだ。
富士額の出っぱっていて尖がっている髪の部分に指の腹を押しあて、そして余っているもう一本の手は、ワックスでハリネズミのように立たせたつんつくヘアースタイルのほつれを直していた。
その姿はいちいちいらん仕草をしてどうにも気に障る奴だというイメージを与えるわけでもなく、その場に女の子がいたらきっと見惚れてしまうぐらいさまになっていった。
「ど、どういうこと、だ?」
「ん〜こっちがききたいぐらいですねー」
「……なんだ? それは」
「さあ、本当はあなたが超能力者なんでしょう? 成瀬 春彦さん」
「……っ」
少なからず予測はついていたが俺の名前を知っていたらしい。それにこっちが問いかけていることに対して鸚鵡返しだとは。対話において心理的優位に立つ戦略か。
「だって、あなたの近くにあったものが私のところにやってきたのですよ」
「それは、ないだろ」
「そうですか。でも、こんなことができる御方を超能力者と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか」
そう言ってパチンと指を鳴らす。
すると俺の持っていた小物類が好き勝手に躍動し始め、それがまた手元に戻ってきた。まるでブーメランのようだった。これは一目瞭然である。
「ほら、あなたがその鉛筆とか、消しゴムとか、ペンダントとかを、慣性の法則に逆らって空中で遊泳させていましたよ。もうあっぱれですね」
男は人指し指を宙でくるくると回し、その指を自分のこめかみに突きつけた。
まるで拳銃自殺のジェスチャーみたく。
「なあ、ふざけないでくれないか」
「そうですか?」
相変わらず煙に巻くようなとぼけた発言。
「あんたはさ、俺に超常現象を見せて何がしたいんだ」
「知りませんよ」
意に反する発言をしてしらを切ってくる男。ならばと別方面から攻めてみる。
「じゃあ話しを戻すが、俺が目的とは具体的にはどういうことなんだ」
たぶん俺は彼の行動様式に関わっている真理を追究しているのであろう。
だけど、「さあ? 少しは考えてみてください」と、言って男は間を開けて、
そして――。
「そう、不満気な顔をしないでくださいよ。ただ単純に、時間を掛けて話し合いましょうと言っているだけですから。結論を先に急いではいけません。単騎は損気ですから。いえ短気は損気でした」
――なにを言っているんだ。新原よりかは幾分かはマシだが、こいつは何が言いたいのかがまるで分からん。何をもったいぶってオブラートに包み込んでいるんだ?
「さあ、時間をかけて話し合いましょうか」
シェークハンドを求めつつ男がそう呟いた。だが、そんなつもりは毛頭もなかった。
なぜなら小早川が危険に晒される心配がないということが分かった今、いち早く退散して喫茶店に向かうべきだと決めていたからだ。しかし、「目的はなんだ?」と問いかけ「あなたですよ」と返されたからには、超常現象の件と新原が言っていた『だいじょーぶ、まだへーき』というセリフの件と関連がありそうで。特に不可解な『まだ』という発言の真意と示し合わせて説明してもらわなければならない。きっと、こいつが無関係であるはずがない。
いや、それよりも喫茶店で健気に待っているであろう小早川の元へと一刻も早く行かねばならないのか。そっちのほうが大切か――。
揺れ動く感情の振り子は、すぐにでも下さなければならない決断を鈍らせるようだった。
するとまた、
「そうすればきっと、あなたの知りたい本当の世界が待っていますよ」
と、男が言葉を繋げた。そして俺はその言葉の誘惑に負けた。
事実、超常現象の秘密は自分の身の危険に関わることかもしれない。
ん? だが、それにしてもだな。
新原が言ったセリフから推測して導き出した結論、それは俺に超常現象を仕掛けてくるやつは明らかなまでの敵愾心を持っている奴であり危険因子だろうと推測はできていたのだが、こいつを見ている限りではまったくもってそうとは思えない。これは救いだったと言えるだろう。
それにこの前みたく新原が突然現われる、というわけでもないのだから問題ないのではないか。
まだ、油断はできないが。
「なあ、どういうことだ?」
俺が再度質問をぶつけると、男は若干ながらも顔をしかめたがすぐに柔和な顔になって、
「ほら、かの有名な17世紀のフランスの思想家パスカルだって言ってますから、慌てないでくださいよ。そう、彼が記した書の一節では人は一本の葦にすぎない、自然の中でよわよわしい物である、と。けれどもですね、人は考える葦であると言っています。だから良く考えましょうか。思考することは偉大なんですから」
とりあえず反駁をしてみようかと考えたのだが、まったくもって無意味のような気がしたので男が話を続けるように働きかけるしかないと思い返した。
ということは奴のペースに巻き込まれてしまったと言えるだろう。
「それは、だが――」
しかし、俺がこいつの立場になって無い知恵を絞ろうと頭を悩まそうとしていたのだが、この男のバックボーンを知らないからにはどうしょうもないことに気がついた。
「おい……」
つーかそもそも、俺とおまえが保有する超常現象についての情報の非対称性が大きすぎるだろー。明らかに不均等とも言える情報網の偏りは考えてみろと言われても、まったくもってフェアとはいえないじゃないか。一見新車と見分けがつかないような中古車を、開示されていた情報が少なかったばかりに高く見積もられてしまったよーなもん。
あー、喩えが悪すぎるな。
と、益体のない考えに心の中で不満を唱えていたら、俺の意図に察しがついたのか男がこう言った。
「そうでしたね。これでは難しいので、少しヒントを差し上げましょうか。ということで思想家パスカルの話をもう少し。――彼は、人を押しつぶすのに宇宙は武装する必要なんてありませんと言いました。たったひとふきの風やひとふきの雫で十分です、と。ただし、たとえ宇宙が人を押しつぶそうとしても、人はその宇宙より尊い存在であります。なぜならば、人は自分自身が死ぬことと宇宙が人間の上に優越することを知っています。そして自分自身の存在が自然界の中でも矮小であることも知っています、しかし宇宙に関していえばそんなこと知る由もありません。当り前ですね。とまあこんな節を唱えたらしいです。つまりは、考えることによって人は宇宙をも超越する、と」
ここで少し間を開け、にやりと不敵な笑みを浮かべて、
「ただ、その節を助長させるような人がいたらどうしますかね、もし考えることによって宇宙をも超越すると。この言葉を額面通りに捉えると大変なことになりやしませんか?」
パスカルの話は聞いたことがある。が、それはなんだっていうんだ。なにか哲学的な問題でも孕んでいるというのか。
「何が言いたい。……思考することによって超常現象が生み出されている、というのが本当の世界の姿だといいたいのか? まさか」
「それは、おそらく違いますね」
「…………」
俺はさらに頭を悩ます。
第一、話が形而上的な問題になりつつある。例示されている事柄も分かりにくく具象性にも乏しい。この話、飛躍しすぎな気がする。
「いやはや、そこまで考え込まないでくださいよ。違うといっても微々たるものですよ。ボタンの掛け間違い程度でしょう。私の説明が悪く、双方の見解にわずかながらの齟齬を来しているだけですから」
何を言いやがる。話を混沌とさせた張本人が言うべきじゃないだろ。
「言うなれば、この世界はイツワリでできているのかもしれませんよー、ということですね」
最初からそう言え、と述べたいところだったが、それでも根本的には何も解決していなかった。
「で、結局何のことだよ?」
「さて、なんでしょうか」
「……」
話は振り出しに戻った。
話が噛み合わないのか、わざとそうしているのか。おそらく後者であろう。
まったく。あいつのエセ哲学と比較すれば、アマゾンでカニバリズムの宗教を信仰している現地集落とのボディランゲージの方がまだマシかもしれんな。
まあ、かなり大に袈裟をかけている表現だが、この状況で冷静になれというのが無理だろう。
えっ、新原? 彼女は論外だ。
「その哲学ぶった……」
気づけば自然に独り言を呟いていた。
するとうろんげな視線を投げかけていた男が、
「いえいえ哲学なんてとんでもありません。そもそも、哲学の萌芽は古代ギリシアにおいて始まっています。われわれが計り知れないぐらい遠い――それこそ悠久の彼方から議論されてきた学問なので、私にはまだまだです。哲学ぶったにも値しない未熟者ですよ」
こちらの考えを見越したかのように言葉を重ねてきた。
「おっと、そんなことよりもあなたが不服そうな顔していますので、もう少しお話しをしておきましょうか」
しかし、そんなことよりも俺にとって確認せねばならない懸案事項を思い出す。
「あのな、その前に少し聞くが、あんたはいつからつけてきたんだ? それに、俺が連れていた女の子の追っかけではないんだな? 確認ではあるが――」
だが、まるで腹話術師がぺらぺらと言葉を紡いでいるように、自分の言葉でさえも現実感が無くなっていく気がするのだ。この清潔感に満ちた男の表情を見ていると、なぜだか。
「そうですか。では言っておきますが、今回において小早川 紫さんは無関係です。それに私が追っかけなんてことは事実無根な話ですよ。ただし、私の目的があなたという事ですので、これから直接的にではないにしろ間接的には引っ掛かってくるのかもしれません」
やはり、わざわざ名前を伏せたのに出してきやがった。
それと、俺が目的であって小早川が間接的に関わってくるというのはどういう意味だ。
「そして、もう一つの問いかけ。いつからつけてきたとの事ですが、ずっと前からですよ」
男が軽やかにそう言った。
「だから、いつだ?」
「さあ、いつでしょうか」
と言って、次に繰り出そうとする言葉を深呼吸で免れて時間をかけ、
「だいたい二十九時間と三十五分二十八秒ぐらい前でしょうかね」
俺はあまりの数値の大きさに慄いた。というよりも具体的な数値を出してきたのに驚いたのかもしれない。
いや、待てよ。それよりか二十九時間とはあの時の――、
「さて、成瀬 春彦さん、それはいつでしょうか?」
人の事情などお構いなしに、困惑している輩を見て楽しそうに笑う目の前のハンサムな男。
俺はこいつに名前を呼ばれたことよりも小早川の名前を知っていることよりも先に、その二十九時間三十五分二十八秒と言う端数を省略しない呼び方の方にウエイトが傾き、脳内で電卓計算機を持ち出して計算してみた。
すると、その予感と言うのは当たるもんで彼が告けてきた時間は、
「昨日の、十時三十八分か」
「そうですよ」
「だからなー、それはどういう意味なんだよ!」
俺の声が荒っぽくなる。激昂とまではいかないがそれなりに腹が立っていた。
「なあ……、これではっきりしたじゃないか。俺は昨日の中休みに、それに今日もおそらく同時刻だ。これらのもんが浮かびあがり俺の体に吸い込まれて消えた。しかしここに、あんたから渡されて全て手元にある。まさか知りませんなんて言わないだろーな」
握りしめていたそれらのもんを手の中で広げて見せる。
「はい、知っていますよ。ただ、訂正させていただきますがあなたの体に吸い込まれたのではなくて、吸い込まれるように見せかけて消えたのです。そうして私のところにやってきたのですよ。ということは新原 紗希さんの仕業になりますかね――――」