3−5
結局あの後、そんな空にも近い静寂な時間をぶったぎったのは電子工学の努力の結晶をこれでもかってぐらい押し込めたハイテクノロジーだった。
というのは、俺の着信音を設定してない電話らしき電子音が鳴り、隙間を縫って入ってきたのは小早川のオーストリアのウィーン辺りで作曲されたらしき行進曲の電子音であって、つまりは混ざり合い奇妙な二重奏を演出していたことになったのだ。
やがて沈黙破るように、
「でないで」
そしてユカリがそのままの姿勢で、
「あ……、あたしが、今大事なことを言うところだから」
黙って頷く俺。
「あたしはいつまでも変わらないから、ハルくんの言うこと、あまり理解はできなかったけど、それでもあたしは変わらないからね」
「…………」
何も言えない。
だが、心のもやもやをつかさどって胸の中で燻り続けていた残滓みたいなやつは塵芥となって消えうせ、それに身を焦がされることもうないだろうというぐらいまでに落ち着きを取り戻すことができた。
それは、俺はあの小早川 紫の偽りのない表情をみてそう思い確信したから。
たとえそれが偽りであっても偽りでないようなオーラが感じられるのだ。
小早川のあの表情から鑑みて、仮に問題があるとするならばそれは外的要因であって内的要因からくる性格の変わりようには思えない。
しかしとりあえずは、
「ご、ごめん、うん」
上手く言えない。
「……」
「いろいろと、ごめんな」
「――うん……、いいから……」
そんな簡単な言葉を取り交わして、だがその後は、そんな簡単な言葉も取り交わさないで岸辺に到着。
ここで俺はもう一度池の方へと振り返って小石を投じた。
それはたぶん、あの安らかにたゆたい続けているで水面にどれぐらいの波紋と水しぶきができるだろうか、と不思議なことが次々と蓄積されていく自分の身に置き換えて考えていたのかもしれない。
俺達があの池での出来事に気を取り直し、宙をさまよっていた互いの視線が緩和方向へと向かったのは昼過ぎの事であった。
その間に、公園内を逍遥しながら露店を覗いたり、公園のブランコに腰かけたり、芝生に寝転んだりしながらも「とりあえずなるようにしかならないのだろうか」と昨日と同じようになんとか心の整理を付けていた。もちろん、携帯のディスプレイに浮き上がっていた<斎藤>という文字にすまなかった――もし仮に、電子工学の技術がありえないぐらい特化していて、本人探知返答可能状況機能なんてものがあったら大変な事だった――と一瞬だけ思いつつも電源をしっかりとオフにしたことも忘れない。そうして、シートを広げる昼食タイムがやってきて、フルーツバスケットの中身が期待通りにお弁当であったことでようやく気持ちが和らいでいったのだ。
まあ、時が癒してくれたらしい。喉元すぎれば熱さを忘れるじゃーないけど、やはり気まずさの境界線も腹の虫によって食いちぎられてしまったということか。
「ハルくん?」
「おおー」
感嘆。ユカリがいそいそと準備に取りかかる。
「ど、どう?」
お弁当のふたを開けてみれば綺麗に揃えられていたサンドイッチ。
「ん、完璧すぎる」
「はぁ、よかったぁー」
お弁当をこしらえてきた女の子との申し合わせたかのようなベタなやりとりをして、ぱくぱく。
「あ、あのね、今日はサンドイッチに合わせて胡桃入り紅茶を持ってきたの」
と、魔法便に紅茶を注いだコップまで手渡してきた。
ん〜。上手い。
だけど。
『あ、あんたのために作ったんじゃないんだからね。あたしの弟のために作った分のあまり、あまりなのよっ! あー、なにその食べさせてくださいみたいな顔! あたしがナルなんかに食べさせてあげるわけないでしょ! そんなこと考えているとグーで殴るわよ。だいたい女の子の手作りのサンドイッチが食べられるだけで幸せに思いなさい、このバカッ! ふん! ふんっ? …………むー、し、しょうがないわね。なんなら一つだけなら食べさせてあげても――』
い、いかんな。なぜか俺の想念体活動の方ではつんつん小早川が暴れ出した。
が、しかしだ。
俺は日頃どう考えているのだろうか。やはり俺は、もしかしたら……。
こうやって日々の習慣が及ぼす人類の影響についてを高尚な気分で嘆き悲しむしかないのかと思い込み、俺の属性が我がままお嬢様に言われ放題怒鳴られ虐げられることなのかもしれないことに気が付いてしまったこの瞬間に、これからの世知辛い世の中を生きていけるだろうかとか、正しく生きる人生の意味について神父様か弁護士様か仏様か、あるいは地蔵様か人間国宝様かおやしろ様か、と考え、こんだけ凡例をだせばそのうち誰か様がこのドブ底のような取るに足らない悩みに答えてくれるだろうと推測し、また蒼い空を仰ぎ見て、このような上手いものばかり食ってメタボリックシンドロームに罹ってしまうかもしれない将来の自分はどうすればいいのか、なんて、いつでもユカリ姫の手作り料理が食べられるような取らぬ狸の皮算用的な悩みに切り替えようとしたところで!
「ハルくん?」
ブンブンと目前で手を振るユカリがきょとんとした顔で驚いていたのだった。
そしてすぐさま、上目づかいで心配そうにのぞき込み始めた百四十パーセントの幼馴染が太陽みたいに笑う――いや、百四十パーセントなどという表現は、大根役者をホウレンソウ役者というぐらい間抜けな表現なのかもしれない。あのツンドラ氷原地方みたいな小早川ではないユカリにおいてはだな。
あ、ホウレンソウで思い出したがあの時、タマゴサンドの中身の具がホウレンソウ入り玉子焼きかもしれないと、レタスがちらりと見えたときにそう思ってしまったことがばれて恨みを買ってしまい、今からチベット式のお辞儀のように頭をすりつけて謝らなければいけないのだろうか。そんなことが頭の片隅でぎゃあぎゃあと騒ぎ始めてしまったのだから俺はどうしょうもない人間なのかもしれない。
で、そのことをこれから、キッダキダのメッタメタに問いつめられるのか?
あーなむ、あみ、ほーれん、そーきょーじゃなくて!
成瀬春彦よ、さもありなんことだぞ。
いや、さすがにありえないか。
「きょうはね……」
ようやくユカリが言葉を絞り出す。そして慎重に身構えながらも、
「ハ、ハルくんがあたしに食べさせて!」
「えっ?」
「あ……、んぅ……」
「むー」
「うぅー」
「……」
「――ぐすっ」
「あ、え、と、えーと」と困惑してしまった俺。
するとユカリはブンブンと自分の顔の目の前で手を振って、
「あ、あ、あー、やっぱり……」
そこでようやく意を決することができた。
「わ、わかったよ、ほら」
あ……。
照れくささのせいか、かなりガサツに口の中へと放り込んでしまったことを今更ながらに悔やむ。
だが、後悔先に立たず。もうやってしまってからでは遅かった。
「はぐっ、ひゃあ、ほ、が、あっ、んっ、あ、ああっ、り、がほー」
口の中が祭り(擬音祭り、いや祗園祭りと考えた方が伝統的な背景があってはるかに雅だ、って俺は馬鹿か!)と化したユカリは、もぐもぐさせながらも解読不可能なオトマトペと、その後は微妙に震えた声で「ありがとう」と言ったらしかった。
だがな、俺のチキンハートはもっと震えていたんだぜ。
――みたいな……八十年代後半ぐらいの古い表現。
ナルシストにしてもクサすぎて気持ち悪すぎる。
◇◇◇
「あたしを映画館に連れてって」「うん、わかった」と、簡単に甲子園へ連れていくことを承諾する幼馴染の双子の片割れのように俺は野球場……もとい、映画館がある南の武蔵桜駅の方へと進路を取っていた。
そういえば唐突もない話だが、父さんの青春時代であだ名が「もとい先生」という教師がいたなんて話を聞かされたことがある。なんでもその「もとい先生」は、なんでもすぐに言い間違いをして「も〜とい」とかいうらしいから「もとい先生」になったらしい。
結局は何が言いたいかというと、ガキの頃、父さんがその先生の気持ち悪いモノマネをするために顔をグシャグシャとひっつぶして、「アーメマ」みたいな古き一発ギャグのトーンで言っていたのを思い出したということなのだ。
それを、自転車を漕ぎながら一人思い出し笑いをしている気持ち悪い輩がここにいたということになる。
だが、これは世間からの視線で当てはめてみると、後ろに美人な女の子を乗せておごり高ぶっている痛い奴、おごれるものは久しからずだ、なんて思われているのだろう。そんなふうに勘繰ってみる。
そう、だからこそ俺の妄想ではあそこの人が、
『緊急報告でありま〜す脳内神経総司令官殿。早急に伝えたいことがありま〜す。このたびはあの娘っ子が押し当てている男の活力を上昇させる胸部双丘突起部分の件について、私達脳内コーポレーションのもと、全会一致であの少年に及ぼすであろう悪影響対策委員会会議を開かなくてはなりません。このままではあの鼻たれ小僧のバカは、蒼穹の下でファフナー……うぐっ、噛みました。え、もとい、ファスナーをオープンさせて刑法第百七十五条猥褻物陳列罪で立件されるかもしれません。彼の脳下垂体から過剰に分泌されるであろう性腺刺激ホルモン再生細胞、精巣セルトリ細胞アンドロゲン結合タンパク物質再生の防止する手だてを――』
『うむ、それは大丈夫だ。そういう行動を起こしそうになった時はファスナーのチャックを超常現象で動かしてそのブツを挟み締めつけてやればいい』
「うわぁ―――――――――――――っ!」
脳内を駆け巡っていたバカのシンキングボックスが、おもちゃのビックリ箱をひっくり返して飛び出したかのように俺は現世へと帰還した。
するとユカリが、そんな俺の様子に驚いてふらふらとしたチャリの動きを怖がるようにしがみ付く。
そして――、
「ハルくんっ! あたしのお話聞いてた?」
「あっ、まあな」
そうだった。
なんでもトイレにいってこちらへと戻ってくる途中、今からこの公園でゲートボールを始めても誰も咎めることがないようなちんまりとしたおじいさんが、なにやらユカリに話しかけていたという内容だった気がする。
そんで、なにを聞かれたのか尋ねてみると、
『めんこいお穣ちゃんじゃの、一見すると高校生のようじゃが、学校はどうしたんじゃろ?』
『うんと、その』
『うん、なんじゃあ?』
あー、この辺の続きだったんだ。
「で、なんて言ったんだ? ユカリは」
「それはね」
「うん」
ようやく平衡感覚を取り戻しチャリをスムーズに動かし始めると、腰に手を回してくれていたユカリの力が少し弱まっていた。
「そっ、創立記念日っていっちゃった」
「えっ? あー、あー」
「うん」
「で、そのおじいさんはどうしたんだよ?」
「ふぉふぉふぉ、そうかそうかってサンタクロースみたいな笑いかたをしていて」
「で?」
「そしてね、なら問題はないようじゃな、うむ。ところでお穣ちゃんよー。一寸の光陰も軽んべからずという言葉は知っとるかのー。これはな、時が経つのは早いものなんじゃから、少しの時間もおろそかにせず、頑張るべきじゃぞってことだ」
「え、あ……」
「だから……ね」
黙りこくってしまったユカリがさらに密着してきたような気がした。
それは、緩やかな風を運んでくれるラベンダーの香りが教えてくれる。
ということはもちろん、さっきからずっと後ろから伝わる感触は『嫌だ! どうせエッチでろくでもないことを考えているんでしょ。だからあたしは横向きに座るの! このナルのバカ!』ではなくて、柔らかく睦まじいあの感触が強まったということ。
そう、それは人間というこの生物界における個体が進化を遂げてきた過程において、女性の体が柔らかく睦まじく、二つの膨らみの部分は雄にある一定の刺激を与えるという事について、実のところ赤ちゃんにミルクを与え人類の子孫を繁栄させるのが本来の目的ではなく、こういう青春的な思い出を物理的な感蝕として男の脳内に組み込ませるためにあるのではないのか、と益体のない考えに終始してしまったのだ。
ただ、今このタイミングで授乳を捧げている母親にとっては、俺のこの発言は耐え難い冒涜であることは間違いなく、殴られて足蹴にされてぷんぷんなんて言われても文句は言えないのだろうな、おそらく。
そして。
俺はこのような気を紛らわすためか、また無駄にカッコつけてこう言うのだ。
「なあ、ユカリ。それはちがうさ。あのな、この人生において時に支配されちまった終わりなんだぞ。時は支配するもんだ」
こうして御託を並べるのもそこそこにして、またそれかみたいな気持ち悪いトーンをぶち壊すため、このチャリンコを確信犯的に加速させていく。
「きゃあー、ハルくんっ、ちょっとぉー!」と、ユカリが喚いて、ぎゅーとしてきた。
あーあ。これはわざとなんだよ。まったくたちが悪いな。
だけど、それでも。
こうやって無理やりにでも、あのボートでの出来事を拭い去ろうとしている一面があるのかもしれなかったのだ。