3−4
それから一時間半弱。
俺達は定番通りにごく一般のコースをゆったりとまわっていた。
そして前述の通り俺が質問をして、ユカリが「初めてここに来たじゃないの」といったささいな異常発言以外は、特に何事もなく普通の会話をしていたということになる。
そこで今は、池の中心部で――もしこの池の表面積を円で表そうとするならば、きっと巨大なコンパスの針が俺達の遊覧船に穴を開け沈没させてしまうぐらいのコアな場所――休憩を決め込んて、ボートをぷかぷかと浮かべ漂わせながらボーと時を過ごして二、三分が経っていた。
「ハルくん、空ってなんで青いと思う?」
ここでユカリが、ぼんやりと空なんかを眺めながら哲学めいた質問を問いかけたことに驚き、うわの空だった俺は「え」といったのか「ん」といったのか分からない曖昧な返事を返してしまう。
「どう思う?」
月、火、水のここ三日間では、つまり最近のユカリにしては珍しく有無を言わせぬ口調だった。
前までの俺と小早川ならば、こっちがしゃちほこばって「人はな、奇麗なものしか見たがらないんだぜー。だから空は青いんだよ」とナルシストよろしくなんていえば、あいつが「このナルチュー!」って頭に湯気を出しそうな――そんなやりとりをするのだろう。
あるいは別パターンとして「太陽の光が地球に届いた時、一番光が拡散しやすいのが青なんだよ」なんて蘊蓄を呟き、「いい加減にしてよね! このバカ」って腕のないお笑い芸人よりかははるかに素早い突っ込みが返ってくるのかもしれない。
ていうか、そもそもこんなこと聞くわけがねぇーよな、小早川は。
だがそうやって思い悩んでいるとユカリが、
「昔、ハルくんに教えてもらったんだけどな」
と呟き、俺は「ん」と呻いて首をもたげてしまう。でも構わずに続けて、
「空が青いのは海の青が写っているから、っていってくれたでしょ。それはどこまでも続いていて壮大なスケールで、計り知れないほどの世界が広がっているっていってくれた。そしてあたしはそのお話に納得した」
なんとも抽象的でメルヘンに近いことを言う小早川らしくないユカリ。
しかも記憶力には長けているとはいえないが、俺の海馬シナプス経路をいくらあさっても送られてくる信号はそんなことをいったかどうかは不明とのことだった。
「なあ、ユカリ」
――どうしたんだ? おまえやっぱりおかしいぞ?
と続けそうになる言葉を喉ぼとけの辺りで溜飲とともに飲み込んで、俺はまた考えを改める。
これって幸せなことだ。絶対幸福の範疇には入るはずだよな。
「ハルくん……?」
それにこうやってこめかみを押さえてまで物憂げに耽ってしまったバカを見て、対面の優しげな幼馴染のお穣さんは蒼白な顔で眉間にしわを寄せてまで心配してくれるらしい。
だけど、なぜか胸に押し寄せてくるそこはかとない寂寥感。拭えない虚無感。どっかですべてを見透かされているような――でもおかしな不透明感。
「また、ボケーっとしてバカじゃないのー? このナルシスト!」なんて幻聴感。
あーあ。少し前まで俺が楽観的性格であったのは久遠の昔に栄えたメソポタミアとかの四代文明を間近で感じているぐらいな冗談ごとみたいだ。
「ハ、ハルくん、あたし、なにかまずいことでもいったかな?」
ユカリがますます心配し始めたのかぐいと顔を近づけて覗き込んできた。
しかし――、
俺の気持ちが分銅を移しかえしている天秤のようにふらふらとしているのと同様に、ユカリという分銅がボートのバランスも気にせずにこちらのほうへと重りを追加したため、
――――ぐらっ。
そしてその瞬間、彼女が「わっ」と小さな悲鳴を挙げもたれかかってきた。咄嗟にオールを離してユカリを支えようとしたが、俺には運動神経に関するそのようなハイスペックさは相変わらず持ち合わせてなくしっかりと押しつぶされてしまったのだ。
小早川は、「あっ、ハルくん……、ご、ごめんね」
いいながらコロンと狭苦しいボートで俺の横に寝転んだ。
髪の毛先が頬をくすぐる。
それは、テレカ三枚横に繋げた大きさ分の距離。
しばし視線がかちあい。
間。動きに動けなく。
照れくささで顔がはにかみ、意味もなく剣呑な表情でも浮かべようかとする。
が、その試みももちろん上手くいくはずもなく。
今上空からここを見降ろしたら水面に大きな波紋が広がっているのだろうか、なんて揺れるボートと思考が入り乱れて消えていき。
「あのね、あたしはね、ハルくんに言いたかったことが――」
髪の毛先が頬をわしゃわしゃさせ。
テレカ三枚厚さ分の距離になっていく。
だが、ゆるやかの流れる裕福な時間にまたあの音が、
――ひゅん。
「……?!」
それだけではなくまた、
ゆっくりと、
『だいじょーぶ、まだへーき』。
ゆっくりと迫って、
『だいじょうぶ、まだへーき』。
ゆっくりと迫ってきて、
「ぜっ――――たいに言いたかったことがあるんだ」
小早川の声が霞んで聞こえる。
そして――、
小さな、でも大きな存在の、小さな小さな女の子。
あの新原の言葉がわんわんと反響する。
襲ってくる。
心拍数が上がる。
時計を見た。
十時三十八分で針が――
「それはね」
息を殺して飛び上がり、水面ばかりが広がる周囲を見渡す。
「どうしたの?! ハルくん!」
『だいじょうぶ、まだへーき』
ユカリは気がつかないのだ。
さらに扇情的な気分が増していくこの感覚。
なんでだ? やはりユカリは気がつかない。
なぜだ? またか。どうすればいいんだ?
俺にまたあの感覚が襲ってくる。
昨日の中休みに起こった「こんにちは、局地的ポルターガイストさん」。
そしてユカリの胸の十字のペンダントが救いを求めてきた。
が、俺の体に吸い込まれていく。
が、ユカリはそのものが始めから存在しなかったかのように気がつかない。
「なあ、ユカリ」
声が震える。不安定な気持ち。
扇情的な気分がさらにこみ上げてくる。
ユカリよ。今の不安定な状態ではどうにかなってしまうかもしれないぞ。それにいくら幼馴染とはいえどおまえのその体勢。成瀬 春彦というしょうもない遺伝子は本能のままに動いて抱きしめ、翌日にはおたふくかぜよりさらに酷い頬を腫らしてしまうほど嫌がることをしてしまうかもしれない。
この不安感を拭おうとするために。藁にもすがりたくなるのような中途半端で最悪の心境だから。
しかし、ユカリまでなぜか物憂げな表情をうかべて――。
と、そう思った途端に胸の奥底で燻っていた火花みたいな――いや、そうとはいえないが何か癇癪玉みたいなものが弾けてしまったような気がした。心のずっと内側に抑圧していたものが耐えきれなくなっていき、超常現象だの新原のことなどがいっしょくたんになってしまったかのごとく別の感情を、とぐろを巻いたようなどす黒い感情を吐き出してしまう。
「なあ、ユカリ!」
声のトーンに違和感を持ったユカリの様子も気にしないで、横向けに寝ころんでいた俺は女の子らしく腕を無造作に置いてあって同じような体勢でいた彼女の手首を掴んで、こう言った。
「ユカリ、どうしておまえ……なんで、どうして変わってしまったのか? どうして、あのまま、おまえ、ふざけてるのかよ」
「えっ?」
筋違いなのは分かっている。
それに俺だって自分に待てよ、と言いたい。ほんの一か月前ではこんな幼馴染を望んでいたんじゃーないのかという気持ち。どうしたんだ。
さっきから発想も思考も言動も行動も全て支離滅裂。自分の中で相まみえるかのような肯定と否定を交互に繰り返す二つの個の存在が二律背反的にしのぎを削って争っているようで、まるで自分の意思とは別個に存在するドッペルゲンガーを心の中に飼っているみたいな異質の気持ち悪さ。そして、今しがた起こった自然科学の知見では明確な説明がけっしてできない現象をまた受けて、堰き止められていた感情の防波堤がなだれ打つように崩壊して心の中でドッカーンと炸裂音が響く。
「なあ、どうしてだよ? 日記帳みたいな改行もロクに使わない手紙といったやり方。どうしてそんなまどろっこしいことするんだ! これまでみたいに、そう、これまでみたいに放課後、腕十字固めでも卍でもして、ロックなんかして引きずりこむように――いや、そこまではしなくてもいいが、なんでそんなふうにしないんだ?! だって、おかしいだろ? なんで覚えていないんだよ! 中学のとき一緒にここで夕日を眺めたこととか、いろいろ忘れたのか? なんでだよ! どうして!」
「…………」
とめどもなくあふれ出ては増幅していく感情を勢いのままにほとばしってしまった俺は、その言葉にやるせない想いまで重ねて一気にぶちまけていた。だが、やはり小早川は不思議な様子で、しかも少し困り果てた様子で曇った視線を向けて、
「い、痛いよ。ハルくん」
気づけば彼女の手首をぎしぎしと、警官が手錠を掛けたかのように締めあげていた。
そして、そんな自分に唖然として即座に手を放す。
その時、あの感覚が止まった。
また、間が空く。
気まずく、間が空く。
とりあえず出てきたこの世で一番信用のおけない状態であろう俺の言葉は、
「――ごめん……」
「あ」
「――ユカリ、ごめん」
「う、ん」
オブラートに包み込まれた感情が二文字の言葉を二文節で表したことから読み取れる。
そこで俺は拍子はずれにもこう思う。
これは見ている世界が夢の中なのかもしれない。虚構で縁取られた枠の中で躍らせているのかもしれない。いや、もしかしたらおかしいのは自分だけという可能性だってある。
そんな、今の状況ではけっして錯覚とはいえない胸中に囚われてしまったことに苛立ち仰向けになった。
消えかかるヒコーキ雲が目に入り。
紙ヒコーキを飛ばしたあの頃が脳裏をよぎり。
その時は、空も飛べる気がした、――あーそこまでは、さすがに、思わなかったっか。
でも、超常現象が存在するものだと知って。
いろんな常識が潰えて。
なんだか過去の事が良く分からなくなっていく。
と、そんなヒコーキ雲しかない澄み切った空の下で考え――
ユカリが不安そうに微笑んでいた。
やがてゆっくりとヒコーキ雲が消えていき。
俺達はそれを見送らなかった。