3−1 サイン イズ デート
春は冬のいてつく寒さの解放と雪解けとともにやってきて、
夏は春の桜の開花の終焉と木々の新緑とともにやってきて、
秋は夏の渚薫りの綻びと紅葉の色づきとともにやってきて、
冬は秋の枯れ葉落としと寒々しい北風とともにやってきて、
そうして春夏秋冬、季節は巡りまた巡り、こんなふうに今年の春もまた何事もなく流れていくものだと思っていた。
心では何か風変わりなことや面白いことが起こらないかと悠久の時に馳せた想いにも等しい願いのはずだった。
少なくとも一昨日までは――。
だけど昨日、あの小物が体に吸い込まれていくような超常現象と間近で目撃した新原のテレポーテーション。それ以前に、百八十度性格が変わってしまったような小早川の状態。何事もないように取り繕ってみてもやはりそんなことはできやしなかった。
考え悩み、そこから自分が何も生み出せないとは分かってはいるもののこうしてまた無為に――砂時計を引っ繰り返してはそれを無表情で見つめているかのように時を刻んでしまう。
しかし、それでも朝はやってくる。
別にグレゴール・ザムザみたいにベットの中で巨大な虫になっているのでもなく、太陽が西から登ってくるわけでもない。普段と変わらない何の変哲もない朝。当たり前だとは思いながらも一段と深く安寧な気分にさせてくれる日常の始まり。
動もすれば、余計な焦燥感に駆られてしまいそうなこの現状。
けど、こんなイカすみ成分から構成されるような暗掲色の思索ばかりではいけないのかもしれないな。と、また感傷的な方へと傾いていた俺の気持ちはプラスの方へ、まるでインテグラルの線が指し示す振れ幅のように持ち直していくみたいだった。
そうさ、結局のところ小早川にはなんの問題もないのかもしれない。
気になるなら今日、正直に聞いてみればいいじゃないか。なんか心境の変化でもあったか、夢の話はどうなったか、と。
それに超常現象と新原がテレポーテーションを使えるという事実。事情はわからないがこの成瀬春彦というおかしな奴を守ってくれるらしいという事実も付随してくるということ。だからむやみに心配することはないのかもしれない。
つまりは、こう小早川の変化と関連づけてなんかしらの危険が迫っているのではないかと考えるのは、例えそこに新原の噂やテレポーテーション、あるいは別個のものと考えられる超常現象と、時間的な一致があったとしてもそれを相似関係と捉えるのは飛躍しすぎだろう。
むしろ新原が超能力者の類だ、なんてことをユカリにでもかいつまんで話してやろうか。でも、そうすればブン殴られるだけか? いや、この際全て話してやるから、ブン殴ってくれよな。
それとそうだ。あまり重要ではないかもしれないが斎藤が薦めてくれた天文観測会の事も話さなくてはならねーな、うん。
「しっかりしようぜ、小早川が待っているだろーが」
いつもより少し遅い朝を迎えた俺は、ようやく体を起こし制服ではなく洋服に着替え始めていた。そう、それはとめどもなく溢れ出てくる思考を制御させるために電光石火で回路を遮断したともいえる。まるで規則的に走り続けてきたハムスターがぴたっと車輪を稼動するのやめるかのごとく、成瀬 晴彦という人物は思考の再起動を断絶的に放棄していたのだった。
「ねぼすけっハルくん、起きるの遅いよー。ねぼすけさんはどろぼーさんの始まりだよっ」
おいおい、おまえはまたそれか。泥棒大好きっ子だな。
俺が入道雲よりもふわふわな気分で階下のリビングへと顔を出せば、今日も今日とて元気な――やはりあのうろこ状の皮の中が黄色でアマゾン辺りで取れそうな『パ』のつく果物のヘアースタイルをする我が妹が、ウインクをしようにも両目を瞑ってしまう失態も気にせずにこう言ってきたのだった。
「ん、今日はな、まあこれでいいんだ」
「えっ、じゃあ今日は行くのが遅いのー?」
「まあ、そんな感じだな」
あながち嘘ではないよな。アキは学校という単語を出していないんだから。
「えっ、へへへ〜」
「どうしたんだ?」
「え、ないしょ。あ、そうだハルくん!」
「ん?」
「それよりも、まずは朝の挨拶おはよーだったね」
「…………」
「おはよーございます」
それまできっと良く分かりもしなかったであろう経済のニュースをぼんやりと眺めながら朝ご飯を食べていた我が妹は、わざわざ立ち上がりてってけてーとこっちにまで近寄ってきて朝の挨拶をしてくれた。
挨拶は一日の始まりになりけり。
どうやら今朝は格別に機嫌が良いようである。いやしかし、またそそくさと席に着いたのだから気のせいなのかもしれないと撤回しておこう。
「あーおはよ」
俺は淡々と返事を返しながらも妹が何を食べているかを無意識に確認していた。
これは我が家の家庭の事情であって、父さんが海外の単身赴任で母さんは朝早くから仕事というため、アキがしっかりと朝ご飯を食べているかを確認するという作業であった。
お皿にはトースト、ミルク、スクランブルエッグ、温野菜、全て母さんが用意してくれたものだ。それらをちょうど食べ終えたところでヨーグルトらしきパックをつっついている。一応はなんだか聞いてみた。
「アキ、それはなんだ?」
「これ?」といって目の前のカップを持ち上げる。
「ああ」
「朝食リンゴ」
ああ、それはヨーグルトか。
「ゼリー」
「はっ?」
「グルト?」
気になったので覗いてみるとプリンだった。
「――みたいなのを食べてみたいけど、プリンにしたんだよっ!」
「……」
「ふふ、ははぁーい」
まったく……しっかりしているかなんて一瞬だけでも思ったのは間違いだったか。朝からテキトーなことを言い出し変な擬音をかましてくるこの我が妹は、そのうちチャカポコチャカポコなんて踊り出すんではないかと心配になるぜ。ってこれ、自分の事をもろに棚に上げているけど。
「で、なんで今日はいつにもまして元気溌剌なんだ?」
「んとっ、それはね、お母さんが今日の夕飯はステーキだっていったから。楽しみなんだぁ」
「ふーん」
だからか、すこぶる機嫌が良いのは。
「はやく夜になってステーキ食べたいなぁ〜。ねぇハルくん」
「…………」
俺が少々渋い顔しているのに気がついたのか、
「んっ?! ハルくんはステーキ楽しみじゃないの〜?」と言ってきた。
だがな、それはな。
今こうやってアキと同じように「俺だって夜のステーキをアルティメット級で楽しみにしているんだ」なんてセリフでも吐いたら、茂みにでも隠れていた超能力使いにうちのめされるぐらいの死亡フラグ的発言かもしれないんだぞ。
括弧笑いみたいな。
「楽しみだねっ、ハルくん」
「あ、ああ……」
そうお茶を濁した俺は、たしか夏に黄色い花を付けていたダリアが植えてあるほうのベランダにまで行って、外の空気を吸おうと窓を開けた。
その時、妹はちょうどプリンを食べ終わったみたいで手を合わせて「ごちそうさま」なんて言っていた。こっちもそれに呼応してなんとなく厳かな気持ちで「おそまつさまでした」と言ってみる。
もちろん俺が朝食の用意をしたわけではなく母さんだ。
と、そう思いながらもあのナルシスト台詞を言うような角度で右手だけを空に向かってかざす。
ダイヤモンドの鉱物みたいな大きな太陽から燦々(さんさん)と降り注いでいる。肉眼だと灼かれてしまいそうな天の球体。そして少し仰ぎ見れば、まるで弓弦の広がりのごとく澄み渡った蒼穹が垣間見えた。
そんなのが遮った五本の指の隙間から伝わってくる。
その青空には、主食に添えられたパセリ程度の慎ましさですじ状の巻き雲がひょろひょろとうろついている。
あれならアキでもクレヨン、クレパス、クーピ、色鉛筆などなんでもござれで描けそうな空だ。
「あれれぇ〜、そういえばハルくん、なんで洋服を着ているのかなぁ〜?」
不意に我が妹が問いかけてきた。
「えっ?」
「きょうは洋服記念日?」
なんだかサラダ記念日みたいじゃねーか。
「まあ、そんなとこだな」
「ふぅん。ねぇハルくん。アキはね……、うん、アキはね、早く大人になって制服を着たいんだ」
そうか、制服が大人か。
俺にもそういう気持ちになったことがあったな。
「あっ、でも――」
突然押し黙ってしまった我が妹は、未来を語る朗らかさがなくなり表情にも影を落とし始める。
「ん、どうしたんだよ?」
「――アキ、バカだから。ハルくんみたいにしっかりと宿題ができる大人にはなれないのかもしれないの」
「なっ……」
おいおい。大人は宿題なんてないんだぞ。それに俺だって次々に発生する懸案事項に対処するための宿題が未解決で、しかも下り坂道を転がしている雪だるまか消費者金融への借金を盥回ししているかのごとく膨れ上がっているんだぜ。
しかし、だな。まあ、我が妹のために景気付けにやってやろうか、あれを。
「え、あ、うーう、ハルくん、どうしたの?」
不自然な動きを取り始めた俺の様子を訝しげに窺うアキ。だがもう発動しているのだよ。
「いいか、アキ。人は常に未熟な過去の挑戦を受けて立ち向かわなくてはいけないんだぞ。そしてそれに打ち勝ってこそ成長という名の階段を登り大人へとなる。バカだと思うのならば精一杯抗えば良い。自ら向上しようと試みこの意識を持ち続けていれば、世に蔓延っているどんな森羅万象だって、もちろん宿題だって見抜けるものなんだぜっ!」
「――あっ、あちゃー」
そこにあるのは見事までの困惑顔だった。ったく我が妹はアホ兄貴の詭弁を見抜く能力に長けていることだけは認めざるをえないな。
「ハ、ハルくん、おっかしいなー」
こういうわけでやっぱり獣耳先輩を勘違いさせたようには上手く行かなかったのであった。ていうかあの人の存在もこのうえもなくイレギュラーなだったはずなのに、小早川と新原のせいでインパクトが薄くなっちまった。
「ほ、ほら、遅れるから早く学校に行けよー」
「う、うんっ」
あーあ。階段を駆け上がるけたたましい音が、今の俺にはナルシストな言葉としぐさに対する止めてくれという無言の圧力のようにも聞こえてしまうね、と悲しく思いつつも窓を閉めていた。
「ハルくーんっ、用意できたぁ」
あれからニ、三分を経て準備を終えたのか、赤いランドセルを背負いながらも「ハルくんが見送りなんて嬉しいな」と微笑みかけてきた。
そうだよな。いつもは先にでるか一緒に出るか。我が妹はしっかりとしたカギっ子だ。だから泥棒のことばかり気にするのかもしれないのか? まあ、できるだけ一緒に出てやるようにはしているが。
「ほら、玄関まで来てっ」
そう言われた俺はなすがままに引っ張られる。
そしてアキは巣を旅立つ小鳥よりも軽やかな調子で玄関を飛び出したのだが、
「いってきま――――しゅ……?」
と、噛んじまったから可愛らしくも台無しである。
「しゅ?」
「いっ、いっいってきま――――――――――すっ!」
そこまで赤鬼みたいな表情で大声を張り上げてまで言わなくて良いぞ。ちゃんと聞こえているのだからな。
「いってらっしゃい」
俺が玄関先で優しくそう返した時、我が妹はなんとも形容しがたい―― 一種の子供が見せる何の屈託もない笑顔で喜びの感情を爆発させていた。
そして、母さんとの約束も守らずに隣近所三軒先にまで菓子折りを持っていかなければいけないほどの大音量で、
「ハルくぅん。いってきま―――――――――――――――――す!!!」
俺は思うね。
たまにはこういうのもいいな、と。
しかしだ、アキ。朝からそんなテンションでやっていけるのか?
まあ、子供だからそんな心配する必要は皆無なのかもしれない。
そんなことを呟きそうになりながらも、同時進行で腕時計を覗き込み今の時間を確認していた。
さあ、俺も待ち合わせに遅れないように行く準備を整えようか。
背景描写を模索しすぎたのか、主人公の文体がキョン離れしつつあるこの現状。
良い方向へと流れるのを祈りつつ、また統一性を持たせるためにも序盤の修正を施すのだろうか……。
なーんて心情で文章の推敲に走ってしまいそうです。どうしたらいいものですかねぇ……やれやれ。