2−5
そうしてどのくらいはこう向かい合っていただろうか。
もしかしたら、実質的な時間にすると一分にも満たないのかもしれない。
だが、あの新原 紗希のかもしだす厳しめの雰囲気に呑まれてしまった俺はもうずいぶんと長いことこうしているような気がするのだ。それに明らかに異常な発汗作用も誘発されている。
今ならば「この唐変木がぁー!」と罵られても否定できやしない間の抜けた状況。ただその間も、「なるせ……、あなたはあたしがまもる」とか「だいじょーぶ、まだへーき」なんて言ったあいつの姿がフラッシュバックのようによみがえってしまう。
「な、なるせ、っち――」
沈黙の中で口火を切ったのはいまだに氷河のような視線を向ける新原だった。
俺が話しかけなければ事が前に進まないと考えていたのもあってたいぶ驚かされてしまう。
それに――。
(な、なるせ、っち――?)
刹那。
そう思った矢先に。
その言葉尻が疑問になる。
今のはあの謎の小動物系お姉さん容姿八重歯ちょろりん獣耳先輩の真似だろうか、それとも。
いや――。
「あ、ああ……い」
ちくしょう。なんで母音しかでないんだ。
だが、もう一度考え直す俺。
そんなことよりかはこの場において遥かに重要なことがあるということを。それは新原 紗希という一個体がどうしてここにいるのかについてと、そのかまいたちでもくらったような制服の傷跡はなんなのかを聞かなくてはならない。
しかし、あの『考える人』の銅像より切羽詰まった顔をしている可能性の高い俺を差し置いて、彼女の方が意味の通じる日本語をつぶやいたのだ。
「――なるせは、あたしがまもらなくてはいけないっとおもった」
と、言って小さな手で指さしたのは鼻。――ではなく。
「え、う、うっ――っ」
こんな聞くに堪えない声を出してしまったのはほかでもない。なんと花も恥らう乙女のはずの女子高生が指をさしたと思ったら鼻穴に突っ込んできたからである。
「おい!」
お、おまえは何しているんだ今――いや、その前からもだ!
「――なるせ、ち、だからかけつけた」
ポカーン。まさにそんな表現がぴったしだった。
それは「なるせっち」ではなくて「なるせ、血」。
いや、そんなのはまさしくどうでもいいことであって、その新原 紗希が取った不可解な行動が信じられなかった。正常であればこんなことをするわけがない、というか彼女は普通ではなかった。今、ここにいるという状況を鑑みても。
だが、その発言を境目に彼女を纏っていた殺伐とした空気が和らいでいった。
タッタッタッタッなんて死神の道化師が去っていた、と言ってはいいすぎだろうか。
しかし、自分の指先に付いた人の血液を眺めながらも、
「有機生命体情報統合解釈連動装置が不可視状態において、まだ非正常機能だったとは想定外だった」なんて言い出した。
うっ、ちょっと待て、なんだ? このカオスな言葉遊びは。
さっぱり訳が分からん。俺の血液はなんなんだよ。
「なるせ、<有機生命体情報統合解釈連動装置>にはもう少し適宜な時間が必要だったらしい。ということは今のなるせには危険がないのに参上してしまった」
だからまただ。あの今まで黙りこくっていた新原が物理学的、量子学的な用語をならべて漢字だけで構成されていそうな意味不明な事を口走る発言、どういうことだ?
あー、今時の女子高生はこう言う表現が波及しているのだろうかと自分を欺く現実逃避に堕ちいりたくもなるあの台詞。さっきまでの彼女は日本語を勉強し忘れた帰国子女みたいなひらがなだけで表せるような口調だったのに。
「ただ、現在校舎状況での個人的空間範囲距離間は人混在状態有無の観点から考慮すれば必要条件はクリアはしているから、予定より一日はやめる」
また新原の声が聞こえてきた。
――そういえばなんでここにいるという問題が解決していない。鍵もなしに。
『はやめるのか?』
はっ? それはなんだ。
新原がコミニケーションが取れる、イコール淀みなくベラベラとしゃべっていると言う事実。それだけでもにわかには信じられねぇーが、なんだって別の声が聴こえてくる? 宙に向かって会話をしているなんて仰天を通り越してひっくり返ってしまいそうになっちまうだろ。
「そう」
「…………」
やはりこの時の俺は、先ほどの出来事と重ね合わせて様々な想いが錯綜する心の叫びを口にすることもなく、ただ餌を待つ淡水魚のように口をパクパクさせていた。
だけど、それとは対照的につるんとした顔をしている目の前の女の子は置物の彫刻であって、かえって安堵の表情を浮かべているのはどういうことなんだろうかと考え込んでしまう。
やがてまた押し黙ってしまった新原によってこの空間に再度静寂が訪れた。
俺はいまだに言葉を紡ぎだせない。
そこからたっぷり一分間を経て、
「なるせ、個人的空間範囲距離間は逐一確認済み」と新原が言った。
「…………」
「それと――」
「……」
「あ、あ」
どうやら、そこの机に置いてあった鍵に視線を向けていた俺の意図に気が付いてくれたようだった。そして望んでいた話題に転換してこう続けてくれた。
「なるせ、わたしがここに来れた理由。それは容易」
「あ……」
「<瞬時概念接近縮地法>と<物質拡散性振動配置法>」
突発的に遭遇したときと比較して今は大分表情を緩和させていたのだが、やはり無表情でけだるげな感じであることには変わりはない新原。これがこいつのデフォルトなんだと再確認をするのだが……じゃなくて、その内容意味がわからん。マジでなんなんだよ?
しかし構わずに――。
「超自然的形而上状態で相互特定所在地場面を意識的に想起し脳内を高速シャフトパターンに切り替え一時的な体内結晶成長技術により万能細胞を喚起した。そして<瞬時概念接近縮地法>を使用して移動――」
だからどういう――、
「さらに<無機質物情報統合解釈>を利用した一時的な異種半導体空間侵食、耐熱融解値誘導作用に繋げるため単原子分子共有結合系列状態から急激な組成変化を促す振動回転を波及させた<物質拡散性振動配置法を使用>、やがてここに進出。単位記号は――」
おい、まて、だから、おまえは――。
「……まてよ」
やっとこさ紡げた三文字ばかりの言葉を受けて、その何十倍以上の文字数で語っていた新原はよよよと首を傾けた。もちろんかわいらしくなんかはない。
そう、それはこんなにもあり得ない状況。
なのに俺もおかしくなったのか幼少時を思い出す。
それは昔々あるところに――ぐらいなトーンの昔に、小早川とナイチンゲール的な穏やかなお医者さんごっこをしていたはずが彼女はいきなりメスを持ち出したことを。
『はい、かいぼーしま〜しゅ』
そんなふうに言われた時には青天の霹靂を通り越してそのままご臨終してしまうのかと思ったぐらいだった。結局はそのメスが全くのまがいものだとわかる前の話だが。
つまりは、その時に抱いた恐怖心ぐらいの不気味感で顔が引き攣っているのか?
だがよー。あたりまえだろ、新原 紗希!
中休みの超常現象もありえなかった。振り向いた先におまえがいたことも腰を抜かすほど驚いた。そして、何も喋らなかった女の子が突然宙に向かって喋り出した。
第一、おまえは人間なのか?
「なるせ、なに?」
「それは……」
「わかった」
また俺の意図を理解してくれようとしたのか、それからもう少し分かりやすい日本語で今の状況と説明してくれた。だがそれでもあまり分からない。ただ、どうも<瞬時概念接近縮地法>ていうのと<物質拡散性振動配置法>というのが組み合わさるとテレポーテーションみたいなものになるらしい。
「なるせ、バカッ」
だってな、無理だろこんなトーン。こりゃーキツネにつままれているとしかいえないだろ?
そして最後に「あたしは適宜な時をまっていた」と抑揚のない声で言い放った。
しかし、俺には適宜な時がさっぱり分からんよ。
「お、おまえは、さぁ……、何者、なんだ……?」
そう問いをぶつられた新原は「あたしは」と悩ましい顔をしてたが、すぐに「あたしは、なるせをまもるだけ」と厳しい表情で呟いた。
まるで自分にも言い聞かせているようでこっちとしてもたじろいでしまうぐらいに。
だが、もしかしたら入学初日にしたドンデモ発言は今日みたいな超常現象から守るという意味だったのか? そして俺の鼻から血が出たのを何処かで感知し衣服がずたずたに乱れるのも気にしないで駆け付けてくれたってことなのか?
ならば、これから先の俺にはいったい何が起こるのだろうか。
「なあ……」
俺がまた質問を重ねようとしたが新原はそれを制して、
「――なるせ、あとは、これで」
その制服のどこに閉まってあったんだというぐらいの大きくて古い本と何枚かの原稿用紙を手渡してきた。
「こ、これは?」
「ホントはあしたのよていだった。だからあしたから、三日以内に、ここはダメ。ここの場所以外で、それでも学校で、人気のない所で、よんで」
「どうしてだ?」
「――は、ず……、ど、どうしても」
新原は少しだけ、ほんの少しだけ表情が赤らめたように見えたのは俺の気のせいかもしれない。
「だから、よんで」
するとそう発言してすぐに、彼女の存在はリアルで俺の視界から消えてしまった。
きっと、「瞬時ナントカ」と「物質ナントカ」ってやつなんだろう。
ホント、テレポーテーションさながらだぜ。
俺があんなにも憧れていたはずだった第三種接近遭遇的出来事に、間近で目撃したテレポーテーション。はたまた中休みに起きた超常現象。今はただ困惑するだけで途方に暮れるしかない。
「……」
俺は心を落ち着かせるため散らかりまわった文芸室をぐるんと見回す。
しかし、無駄だった。
こんな可笑しくて滑稽な世界ならSFないしファンタジーにおける存在定義の実証を充分にしておいて、小早川相手に伸るか反るかの大ばくちでもしときゃー良かった……なんてどうだ?
「こんなの、立て続けに……笑えねぇって、間近で見せられても笑えねぇよ新原」
今日、ここに来た時と同じように一人文芸室で唸っていたのだ。
その日の帰り道。
あれからすぐにでも、ここを飛び出してしまいたい気分になっていたため、やったらめったらに散らかっていた片付けもそこそこにして家路へと歩を進めていた。
通学路の踏切。カンカンという規則的な音。そして小学生特有の甲高い声。我が妹よりももう少し年齢が低そうだ。そんな彼らのちょうしっぱずれでがやがやとした歌声が聞こえてきたのだった。
――かえる、かえる、かえる、かえるはみどり、みどりはきゅーり、きゅーりはあかい、あかいはおれんちのとなりのおさななじみーなんだ。 あいつさーおれをみるといつも顔真っ赤にして怒るんだよなー。
「おい、まてって! それよりもおまえさぁー何言ってんだぁー、きゅーりに赤なんてないぞー」
「へっ、おまえばかだなーこのよのなかピーマンだってあかいんだぞー、あるにきまってらー」
「そんなわけねぇーよ、このうたのつづきはさー、きゅーりはながい、ながいはろうか、ろうかはすべる、すべるはおやじのはげあたまー♪だろー」
「んなこと気にすんなって、おれだってそれぐらい知ってるからなー。それでなー、あ、おれもっといいの、今思いついたぜー!」
「ん、なんだ?」
「だから、かえるのうた」
「えっ、なんだよ、はやくおれにもきかせろよー」
「まて、ちみちみ、そうあわてるでないぞ」
我流のかえるのうた(そもそもかえるのうたというよりは紡ぎ唄でもいうか)を考え付いたらしい少年はダララララララララーンなんて効果音を着けていて、まさにキング・オブ・ザ・低学年の小学生がやることだな、と俺は思う。
「名づけておれのきらいなやさいをつなげたんだぜシリーズ!」
「なんだよ、つまんねー。きたいしてそんしたぜー」
そうだ、まったくもってその通りだ。
「はっ? まかしとけって、いくぜ、きゅーりから!」
――きゅーり、きゅーり、きゅーり、きゅーりはみどり、みどりはながい、ながいはおねぎ、おねぎはまずい、まずいはなすび、なすびはむらさき〜♪
まあ、よくも飽きずに、こう野菜の羅列を続けられるもんだな。
ていうか、名も知らぬ小学生の特に坊主の方。ネギとか茄子ぐらいは好き嫌いしないで食っとけよ。
俺がこいつらの頭の悪い唄で微妙に先ほどのショックが癒えつつあるのを、苦虫を噛み潰したようないたたまれない気持ちを感じていれば、坊主じゃない方の少年がシャウトしたのだ。
「ストップ! ストップストップストップストップだ! もう、おまえのうたつまらん。ねぎもなすびもきらいなんてだっせー」
「んだよ、しかたねーだろ。それにおれのかえうたにもんくつけるのかー。だったらおまえにうんこくわせるぞー」
「はぁーやってみろよー。へっ、バーカ、バーカ。そんなことできなるわけないじゃんねー。バーリア!」
坊主じゃないほうの少年は腕をバッテンに交差までしている。
あー、俺だってやけっぱちでバリアーでもするか? 非現実的超常現象対策として。
「っ……おまえ知らないのか。隣のクラス小林いるだろー。ほら、みんなに気前よくレアカードくばるやつ。あいつがいっていたんだぜ。ねぎを食うと首にねぎまかれてしめ殺されるんだぜ、なすびだって体じゅうがむらさきになるんだぞ。それこそエイリアンに心を乗っ取られたみたいにな。いいか、まだあるんだぞ、加藤。きゅーりだって食いすぎると頭がカッパ見たいにはげるし、とまとだっていつも顔があかくなるんだぜーおれのおさななじみのモエみたいにな。はっはっはっ、どうだまいったかー。それになーおまえ、ばかっていたやつがばかなんだぞ、知らなかったのかバーカ」
「はっ、バーカ。そんじゃ、おまえのほうがばかだ。いま全部でさんかい言ったからなー。おれはにかいだもんね。
「ばっかじゃねぇーの! おっと今のはなしだかんな。だからおれはさんかい、おまえはよんかい言ったぜ!」
「……なしとかなしだろーが」
「んじゃーどっちがかしこいかしょーぶしようぜ、ふみきりが開いたらおれんちまでダッシュだ」
「あー、うけてたってやるよ。それにまけたら校庭いちまんしゅうもついかだー」
その言葉を合図に踏切が開いた。少年二人は華麗なるスタートダッシュを決める。
杖をついているおじさんをかわし、チャリンコすら抜かしてしまう猛然としたでスピードで遠ざかっていく。
そして俺は、けっして良いとはいえないがまばらな住宅街の町並みとこいつらみたいな馬鹿が織り成す会話とのスーパコンボで普段は絶対に安らいでいくはずだったのだが、彼らが勢いよく駆け出してしまった後は、深い海の底の投げ込まれたかのような気持ちをまたぶり返していた。そう、さっきまでの心身の余裕さは持ち合わせてはいなかったのだ。見せかけだったのだ。
やはり、さすがに笑えないレベルの懸案事項が増えちまったのだろうか。
と、考えたその時――。
俺は新原に絶対聞いとかなければならなかったある一つの出来事が浮かんでいた。
それは、あの今日の中休みの超常現象はお前の仕業かということだった。なぜなら彼女の発言から推測すると、俺を超常現象で抹殺させてしまうような別系統の存在も感じてしまうからであった。
「そうだな、きっとあの時の多弁系新原なら絶賛キャンペーン中で答えてくれたのかもしれないぞ」
雲間から覗かせたまだ高い位置にある絹糸の夕日を眺めながらもそんなことを口走ってしまったせいか、センチメンタルな気持ちがさらに膨れ上がっていく。
だけど。
今、どうしてほわーんとマンガのふきだしみたいな感覚で脳裏をよぎったのが、ここ一週間は目にしていない小早川のつんつんとした顔なんだよ。ぜひこれはイエス・キリスト様にでも説いてもらいたいぐらいだぜ。
――あっ、そうか、もう一つあったな。新原に問わねばならんこと。
それはあの最近の小早川の変化について、現実世界と夢世界が交差しているという夢の話について。新原 紗希が見せたテレポーテーションなんかと関連性があるのかもしれないことを、俺は問わなければいけない気がしていたのだ。