スタニング・ワード(epilogue)
春の息吹が前髪をかすめていった。
まだ桜もつぼみが出始めたばかりの三月上旬は肌寒さと暖かな陽光が同居している。大学受験もたけなわとなった俺たちに残されたのは卒業式という一大イベントだけだ。遠方での新たなスタートが決まっている奴らの中には既に新居探しをしている者もいる。
二人の約束は残念ながら一年持ち越しになった。大本命の大学に揃って不合格になったからだ。
言い方が不適切だ。正確には二人とも不戦敗で不合格になった。風邪を引いてうなされるほどの熱を出した俺たちに、受験戦争を戦う気力はもはや残されていなかった。
彼女の方は他の難関大学の合格切符をつかみとっていたけど「ここじゃない」と首を振ってすげなく袖にした。俺は俺で地方の私立大学から駆け込みで内々定の推薦をもらったけど「そこじゃない」と断り、意地汚いと親に散々怒られた。お前に行ける大学がどこにあると言われた通り見事浪人が決定した。
そのことを彼女に話すと、翌日の放課後にあらゆる予備校のパンフレットを家庭科室に持ち込んできた。あの日以来、何気に俺たちはこの部屋を使っていたりする。二人きりの時間が多い割にやましいことはまだしていない。させてくれることもないだろう。高校生だというのにキスですら道のりは遠い。
この前決めた予備校に二人通って勉強することはほぼ確実だろうけど、現段階でついている偏差値の差は著しい。スパルタ宣言をされてしまったこれから先の一年は地獄が予想される。
そうそう、先日、例の女の子が挨拶に来た。結果から言うと二人の行く末は延長戦に入ったようだ。事の成り行きであいつが作ったチョコを俺の後輩に渡す形になったわけだけど、イニシャルの入ったチョコレートに喜んだ後輩はうきうきした顔でほおばり「美味しい」と言葉を残し、垂直に倒れていった。
「お前……なんか仕込んだ?」
「そんなことするわけないでしょ。美味し過ぎて卒倒しただけじゃない?」
「美味しいと思った直後に体が生命の危機を感じたそうだ」
「ほらみなさい。あれは完璧だったんだから。ずっと渡しそびれた自信作よ」
言葉を失った俺は、しばらく間を置いて恐る恐る尋ねる。
「ずっと?」「そう、ずっと。その、三年間」「それだ。期限が問題だ」
原因は無事に特定された。ってことはだ。仮にチョコ作りが上手いこといったら病院送りになっていたのは俺だったってことになるんじゃないか。まったく神様はきまぐれだ。
しかしながら、災い転じて福となるという言葉もある。
病院送りとなった後輩はそれが原因となって転校が延期され、本人の意思もあって取りやめになった。一人暮らしをしてでも残ると親に言い張ったらしい。あとは二人次第ってわけだ。恐ろしいことに来年同じ大学で同級生なんて展開もありえる。
その点で言えば、小出川もそうだ。一緒に行こうと声をかけたけど予備校通学はあっさり断られた。理由は簡単、バイトして学費を稼ぐからだと言い張る。
偏差値は壊滅的だけど運動神経は全国区レベルだからセレクションで合格してみせるとは本人談だ。ちなみに港でジャンプした車は海の底に沈んで二度と陸に上がることはなかった。バイト先の社長が粋な人間じゃなかったら一撃でクビを切られていただろうに、今日も学校をサボってバイトに精を出している。
中学のあの舞台、あそこにいた三人がしんどくても心から野球を楽しめる日が今から待ち遠しい。その夢が実現するなら勉強の日々もなんとか我慢して乗り切れる気がする。
「なあ」と声をかけた俺は、ずっと気になっていたことを切り出した。
「あのときもらったチョコさ、そのままの意味で解釈していいか?」
「そのままってなによ」
「えっと、つまり、義理じゃないってことで」
三白眼でぎろりと睨みつける彼女の目は、地雷源を踏んでしまったことを物語る。
「あんなタイミングで義理を渡すほど薄情じゃないわよ。馬鹿」
ぷいとそっぽを向いてしまった彼女の機嫌はたやすく戻りそうにない。だから俺はチョコに書かれた英単語をひとつ、度肝を抜く言葉に変えて贈ることにした。
「Stay with me」
赤面した彼女が放つ右ストレートはとても感情のこもった一撃だった。