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Gate Works  作者: こめ丸 豊
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新生活、開始ぃーーーーーーっ!! ②

◆◇◆ なんちゃって三人称になるとき、この記号を入れます。


◆ これ一個の場合は、一人称視点となります。ちょっとした目印程度にお考え下さい。

 ◆◇◆


「それでは……始めようか」


 昨日の今日で訪れた森の中、メルシェは指を鳴らして、静かにそう言った。

 言外の圧力を伝えてくるその笑みは背筋を凍らせ、念入りに体を解す様は野生動物を狩るハンターよりも恐ろしい。張り詰めた空気は、もはや殺生も厭わぬ戦いのそれだ。


「う、うん、ナニを?」


 だからか、春一は聞き返さずにはいられなかった。

 いや、本当は答えなど判り切っている。しかし、本能的に感じてしまう恐怖の念が、それの否定を余儀無くさせていた。


 メルシェが行先も告げずに店を後にしてから、十数分――

 思いの外、早くに帰ってきた彼女により、春一は有無を言わさず連れ出されていた。


 いきなりのことだったが、春一が異論を唱えなかったのは何を言っても無駄であることが判っていたからだろう。

 移動速度が余りにも早く、服で首が絞められたのは流石に想定外だったが、特に驚くこともなく引きずられていった。


 辿り着いた場所は、奇しくも春一が試しとばかりに暴走してしまった地点。けれど、目を丸くしたのは他でもなく春一の方だった。


 無造作に破壊し、放置したはずの昨日とは明らかに異なり、切り株も倒れた木々も綺麗に取り払われ、ちょっとした小広場のようになっている。

 人里から距離を保ちつつ、ちょうど良いくらいの開けたロケーションは、まさしく絶好の訓練場所と成り代わっていた。


 わざわざ危険と言われる場所に乗り込み、取り立てて役にも立たない場所を整理する人はいない。それを考えれば、ここを整理したのがメルシェであることは間違いない。

 とはいえ、先の所用でここまで完璧には仕上がるには時間が足りなさ過ぎる。いつの間に、というよりもどうやって完璧と言える程度にまで仕上げることができたのか。


 春一は思わず首を傾げずにはいられなかった。けれど、予め伝えられていた訓練を行うために設けられたことだけは容易に想像が付く。それこそが春一の思いついた答えだった。


「決まっているだろう。ストレス発さ……うぅんっ! ……トレーニングだ」


「違った! いたぶる気全開だった!」


 しかし、どうも現実は無常なようであり。

 なおも浮かべられる空々しい笑顔の裏で、熾火のように燻る黒い感情は自らが嬲られる以外に未来が無いということを、つぶさに思い知らせてくれる。

 魔力云々の話があることもそれに拍車をかけているのだろう。お局でも絶対にやらないパワーハラスメント(物理)が、今まさに行われようとしていた。


「実際にそうなるかはお前次第だ。出来なければ、出来るようになるまで体罰を刻み込む。厳しくするといったはずだぞ」


「スパルタとか、そういうレベルでもないから! 教育委員会に訴えられる事案だから!」


「……お前はときどき何を言っているのか判らんな。だがまあ、一度で出来るようになれば、済む話だ。気合を入れろ」


「理屈じゃねえんだよ! 心で感じろ!」


「言うまでもなかったようだな。では、始めるとしよう」


「待ってください。違うんです、そうじゃないんです!」


 悠然と構えるメルシェに対し、春一はすかさず平伏する。


 飛び立とうとした雛鳥が地面に叩きつけられ、あまつさえ獲物として捕らえられてしまうように……

 野生において、一度の失敗が死を招いてしまうなんてことは良くある話だ。


 自然環境にしても、食物連鎖にしてもいつだって一番強いのは暴力。

 おそらく、その真理が覆る時は訪れないだろう。けれど、人間社会が徹底的なまでに殺伐としていたなら、世界を埋め尽くすような勢いで発展することもなかったかもしれない。


 野生においての鉄則が鉄則で無くなったからこそ、その裁量には形無きもの……すなわち、良心が求められる。

 もっとも、春一とてそこまで大仰なことを言いたかったわけではない。ただ一言、彼は伝えたかっただけなのだ。


 ――無茶は止めましょう、と。


 結果として、それが振るわなかったのは、火を見るよりも明らかなわけだが。

 だからといって、自ら殴られに行く人間など、少なくともこの場にはおらず、春一はなおも食い下がる。


「というか、魔力を扱うのってそんな修練が必要なの!?」


「今からやろうとしていることは、いざ魔獣に襲われたときの対処法、及び対人戦も想定した体の使い方だ。魔力に関しては、その後でいい。」


「どうりで話が拗れているわけだ。仕切り直そうぜ」


「健全な精神は健全な肉体に宿る。どのみち覚えることになるんだ……お前も男なら腹を括れ」


 それでも、依然としてメルシェは意見を曲げることは無い。姿勢を崩さず、愚直なまでに真っ直ぐと春一を見詰めている。


 真剣というにはどこか儚く、悲しげというには余りに力強く。

 その表情から、彼女の真意を読み取ることは叶わなかったが、冗談で言っているわけでもないことだけはしかと理解できた。


 だがらか、春一は渋々と言った様子で腰を落とす。

 明らかに見様見真似といった風な構えはそれだけ不格好なものであり、ゴボウのような細い体躯もあいまって、迫力など無きに等しいものだったけれど……


「……確認も兼ねて、先手は譲ろう。本気でかかってこい」


 メルシェは言うべき言葉を敢えて呑み込み、獣のように感覚を研ぎ澄ませる。


 線の細さや魔力を扱えないということから判断するに、春一にはただの一度も戦闘経験が無い。

 当然、彼と同じように線の細い使い手は少なからずいるが、それは武力を必要としない魔法特化型ゆえのものだ。魔力の扱えない春一とは雲泥の差がある。


 だというのに、不思議と彼には隙が窺えなかった。

 先程までのおどおどとした態度も鳴りを潜め、気配を空気に溶け込ませるような静けさに満ちている。もはや別人の領域だ。


 ――これは、想像以上の拾い物かもしれない。

 メルシェの口許が微かに緩む。予想していたものとは別の(・・)ことで驚かせてくれる春一に対し、そう思わずにいられなかった。


 そして、彼女の所見は、それ以上のものとなって確信に変わる。


「んじゃ、行くぞー」


 春一が空気にそぐわない間の抜けた声を発した途端、その姿が消失した。


 単純ながらに最短で距離を詰める直線運動は音を置き去りにするように速く……

 もやしっ子がいたはずの地面から大地が欠片となって巻き上がる。それを目撃した次の瞬間、メルシェは大きな黒い影が捉えた。


 しかし、それが春一だと理解したときには、もう手遅れだった。

 初動から反応が遅れる以前に認識できていない。つまるところ、それは今から最速で対応試みたところで、絶対に間に合わないことを意味している。


 まして、春一は既に腕を弓なりに引き絞っており、予備動作を終えていた。メルシェにとって想定外を極める状況なだけに、身体は動いてくれない。


 それでも、思考は働き状況を把握できていたのは、彼女が経験と実力を兼ね備えた強者たる証拠なのかもしれない。もっとも、半ば死を目前にしたような状況下で、それが良いことなのかは、判断しかねるのだが。


 春一が拳を突き出せば、大気がうねりをあげてメルシェを貫き、その肌が緩やかに波を打てば、心もさざ波立つ。

 水面に落ちた一滴が波紋を織り成すように。あるいは全てを薙ぎ払った嵐の後の静けさのように。


「……とまあ、こんな感じなわけなんですけど、どうですかね?」


「…………」


「お~い、店長さーん?」


 視界の端に映ったものが、吹き荒れた強風により毟られた草葉だと気付いたのは、ちょうどそれが完全に静まった頃だった。


「や~いブラック上司。暴力魔~」


「…………」


「もしもーし? 理腐人さん、聞こえてますかぁー?」


「…………」


「ダメだな、これ。おいコラ、貧にゅ……っぶふぉお!!」


「……お? おお、どうした? 顔なんか押さえて」


 それと同時に春一の顔面へと拳を叩き込んで、メルシェはようやく再起動した。

 無意識でもなお、恐ろしい角度と速さで的確に決め込んでくるあたり、どこか手慣れているところが窺える。

 予期せぬカウンターパンチを貰った春一に構うことなく、メルシェは自分の後ろへと振り返り、呟いた。


「魔力を一切使っていないにもかかわらず、これか。凄まじいとしか言いようがないな……」


 風圧により大地は捲り上がり、木々は枝が吹き飛び、かろうじて被害の免れたところでも草が再起不能となったかのごとく横になっている。どこか焦げ付いた臭いのする地面が余計に生々しい。


「ある程度、予想はしていた……いや、つもりだったと言うべきだな。正直、想像の遥か上を言っている」


「何でもいいから、とりあえず謝れよ」


 一抹の興奮か、恐怖か。メルシェが捲し立てるように言葉を紡ぐも、春一はさして興味も無さそうに言い返す。


 押さえている部分は少し赤くなっている程度で、怪我も無ければ、鼻血などは一切流れていない。されど、もし魔力を纏っていたなら顔面が弾け飛んでいたかもしれない以上、春一が文句を言うのも当然のことだろう。

 もっとも、その当人とて散々な暴言を吐いていたゆえ、余り責められる立場にはないのだが。


「いまいち状況を把握しかねるが……そんなことはどうでもいい。お前、本当に何者なんだ?」


 春一の意見を完全に切り捨て、メルシェは鬼気迫った表情で問い詰める。

 実際、それは痛みがあるとはいえ、無傷にも等しい顔面よりも相当に不可解なことなのだ。


 春一の肉体では、どう足掻いてもこの結果は生み出せない。いや、たとえ彼がどれだけ鍛えたとしても、成し得るはずがなかった。

 矛盾に塗れた因果関係とでも言うべきか、明らかに物理法則を無視している。本来、起こり得ないことが、現実にまかり通ってしまっているのだ。


 仮に春一が魔力を扱えたなら、まだ事態は違っていただろう。魔力単体では行えないにしろ、強化術式を使えば可能となることではある。しかし、ここまでのことをするとなれば、相当な練度を要するのは間違いない。


 だというのに、春一は己が肉体のみでこの現状を作り上げた。

 人によっては、まさしく人外とも表せるような存在。そんな奴が目の前にいれば、誰だって不安を抱かずにはいられない。


「なんだかんだと聞かれても、俺にもそれは判らない。……いや、すいません。本当に何も判ってないんで、拳を握るのはやめてください」


 そう、それが思わず拳を振り上げてしまうくらいアホみたいな奴だったとしても。


 毒気の抜かれたメルシェは溜め息を吐きつつ、拳を収めた。どこまでいってもマイペースというのか、春一には調子を狂わされる。


 自分のことを理解していないことに呆れもあるが、仮に自分が同じ力を手にしたとして、説明する術は持ち合わせていない……

 となれば、おちゃらけた態度を除いて、春一の言い分もあながち間違ってはいないことになる。


「ちなみに今、俺の魔力ってどんな感じなんだ? 微塵も使われてない?」


「いや、紙よりも薄い程度の魔力が垂れ流しになっている。どんなものにも一定の許容量があるように、魔力もそうやって放出しないとパンクしてまうんだ」


「要は、特に変わったところもないと」


「そうなるな」


 魔力が自発的に限界を越えることは無い。

 けれど、何か別の要因があってそうなる場合は無きにしもあらず。空気を入れすぎた風船がその圧力に耐えかねるように、身に余る魔力もまた害となってしまうのだ。


 その結果、精神汚染などの障害が発生し、多くは肉体に異常を来たすこととなる。

 たとえ運良くそうならなかったとしても、結局は何らかのリスクがある“呪い”を一生背負う嵌めになるだろう。


 その点、春一は精神的にも肉体的にも異常が見られなかった。

 無論、少なからずおかしなところはあるが、寧ろそうした兆候が見られたなら、まだ原因も特定できたかもしれない。

 どちらにせよ、そうした者の多くは魔力の循環がどこかしら歪になっているからだ。


 しかし、それが無いとなれば、メルシェにはお手上げとなる。

 知識は当てにならず、それゆえに推察も出来ない。幽霊の存在を科学的に説明しろと言われるようなものだった。


「そうなってくると、アレは違うな……」


「なんだ? やっぱり思い当たる節があるのか?」


 けれど、当の春一はふざけた態度から打って代わり、真剣な面持ちで思考に耽っていた。そこで、メルシェもまた一つのことを思い出す。


 己の体に何が起こっているのかは春一自身、理解出来ていない。本人もそう言った通り、そこに間違いは無いのだろう。

 だが、この男が自分には無い知識を持っているのは事実。先のキョウイクイインカイなるものだってそうだ。何となく想像は付くものの、具体的には判らない。


 つまり、春一にはある程度推測出来るだけのモノがあるということだ。


「まあ、そうだな。あくまで仮定だが、いくつか候補はある」


「ほう……」


 図らずもメルシェは感嘆の声を漏らした。

 まさしく放蕩者と言うに相応しい男がこれだけ早く、しかも複数の当たりを付けるとは思いもよらない。

 どうしてその状態を平常運転としてくれないのか。それが至極残念でならないほどだった。


「とはいえ、正直どれも差は無い。だがまあ、強いて言うのであれば……」


 そんなメルシェの思惑など歯牙にもかけず、春一はもったいつけるように咳払いをする。一拍の間を置いた後、彼は殊更真面目な顔で呟いた。



「俺がガ◯ダムって、結論に辿り着くわけなんだけど……店長はどう思う?」



「とりあえず死ねばいいと思う」



 メルシェは金輪際、春一に誠実さを求めてはいけないことを深く学んだ。


 いったい全体この男は何を言っているのだろうか。

 そして、理解したらしたで、却って頭が痛くなりそうな気配を漂わせているのはどういうことなのだろうか。


 まったくもって意味が判らない。というより、判りたくないと言った方が正しい。

 予想というのか、期待というのか。どちらにせよ、その悉くを清々しいまでに裏切ってくれる。


 けれど、メルシェの面持ちはどこかスッキリとしたものだった。


「その根底はともかくとして、お前の力の程はよく判った。それを踏まえて、今後は実戦形式で訓練を行うことにする」


「おーけー、先ずは深呼吸だ。お互い冷静になろう。そう、冷静に」


「私はすこぶる冷静だ。お前の桁違いな身体能力とやり合うとなれば、こちらも相応に肉体を強化しなければ、私が死にかねん。お前は私に死ねと言うのか?」


「逆に問おう。貴女が私のマスタ……って、問うまでもないな。いやいや、そうじゃなくて――」


「お前が私の下僕ということなら、その通りだろう?」


「せめて従業員にしてください」


「まあ……二つの意味で“諦めろ”」


 そう言うやいなや、メルシェの体から見えない何かが吹き上がった。

 見た目にこれといった変化は無い。されど、明らかに威圧感は高まり、肌を焦がすような力が迸っている。


 次いでメルシェが両の手を伸ばせば、輝きに包まれ、それが消えると同時に一対の剣が顕れた。


「魔法抜きとはいえ、全力を出すのは久々かもしれないな」


「さすがに剣はマズいと思います」


 盛大に冷や汗を噴き出した春一がそう提言する。


 たった一つ、たかだか一つ。

 しかし、昨晩に見たものと同じ意匠の剣ながらに、昨日は見ることの無かったもう一振りが加わることで、その脅威は明らかに昇華されていた。


 あたかも姿無き得物を捌くように、両の手にある剣を軽く振り回す。

 その表情は獲物を見つけた獣か、狩人のさながらといった、とても素晴らしい笑顔であり……


 彼女の後ろに浮かんでいる光景はポップなお花畑のように優しいものではなく、非常に血みどろの研ぎ澄まされた刃のように凍てついた何かだった。


 どこか吹っ切れたように晴れ渡る表情もその一因だろう。寧ろ突き抜けすぎて、戦闘狂のようになっている。


「なに安心しろ。これを模擬戦に用いることはないし、魔力とて術式に変換してしまえば、何も問題は無い。塵ほどのハンデは生じるかもしれんが、お前の身体能力の前では些事に過ぎん。だから、お前も気兼ねなくかかってこい。私も全力で仕留めてくれよう」


「あれれ~、おかしいぞ~? 何か変な言葉が聞こえるー」


「至って三分の四殺し程度だ。先ず死ぬことはない」


「死ぬよ!? 限界突破してるよっ!?」


「問答無用ッ!」


 鳴動した魔力とおぼしき力をその身に固め、メルシェは大地を蹴り上げた。

 放り投げられた双剣が地を穿ったと同時に、稲光よりも鋭い渾身の殴打が眼前に迫る。


「ぐっ……!」


 意趣返しとでも言わんばかりに繰り出された拳に対し、反応の遅れた春一は上半身を捻って躱す。大砲なんて表現が生温く感じるほどの速さと威力は、春一が先に繰り出したものよりも明らかに強い。

 まともに喰らえば、即座に潰されるだろう。素人が力任せに殴るのとは異なり、流れるように体重を乗せ、的確に肉体を抉り抜くそれは百戦錬磨の技だ。


 風音が鼓膜を圧迫する最中、それを見越していたメルシェが追撃を放つ。体勢を立て直すよりも早く、見舞われた本命を春一は倒れ込むようにして掻い潜った。

 ほぼ直観だけに身を任せた動作は功を奏し、次いで起き上がった春一は脇目も振らずに走り出す。


 地の利など無いに等しいが、平野で真っ向勝負を挑んだところで、勝てるはずもない。ならば、曲がりなりにも半日ほど過ごした森林内での方がまだ、結果的に利するところはあるだろう。


 そもそも、ここまで露骨な殴り合いをするなど、春一は考えてもいなかった。仮に激しくしたとしても、組手を打ち合うようなものだと思っていたのだ。


 されど、蓋を開けてみれば、実戦を想定した訓練ときた。

 爆発物といった兵器やトラップ込みで行われないことを考慮すれば、実戦といえどまだ手温い方なのかもしれないが、碌にケンカすらしたことのないもやしっ子からすると、ハードどころの話ではない。


 だからこそ、冗談みたいな速度で濃緑の世界へ飛び込もうとしたのだが、そうは問屋が卸さなかった。


「諦めるまで逃げようって、魂胆か?」 


「……なっ!?」


「はっ!」


 唐突に目の前へと現れメルシェが一切の躊躇もなく、その拳を叩き付けてくる。

 すんでの所で止まろうとしたものの、そこを狙っていたのは明らか。春一は無理やり総身をよじり、体を投げ出すように回避すれば、拳を中心に地面が弾け飛んだ。


 螺旋を描く跳躍回避は見事だったものの、咄嗟のことだけに受身は取れず、春一は地面に叩きつけられる。その身体能力が幸いして、痛みは無いに等しかった。

 勢いを利用して飛び上がり、何とか態勢を立て直すも、慣れていないゆえか尻もちをつく。


 そんな決定的ともいえる隙を見せた相手に対し、メルシェは追撃することもなく、ゆっくりとその拳を引き上げていた。


「ふむ……反応は上々、身体もちゃんと付いてきている。覚束ないのはまあ、仕方ないとして……なぜ、逃げる? 先の心持ちはどうした?」


「さっきのは最初から寸止めするつもりだったからだよぅ! 殴るのも、殴られるのも覚悟完了している一般人がいてたまるか!」


「大丈夫だ、そのうち良くなる」


「なにそれ!? どういう意味!?」


「仮に戦闘場所を変えようと考えていたのなら、最低限自衛の術を身に付けてからにしろ。今は徹底的に染み込ませてやる」


「やだ、猟奇殺人犯みたい……」


「上司がそうならないよう、せいぜい抵抗するんだなッ!」


「他力本願んんっ!?」


 摩擦すら感じさせない瞬動。

 空気を裂くようにしてメルシェは再び距離を詰めてくる。


 拳に蹴りを交えて上下左右、縦横無尽に繰り出される迫撃は反撃の暇すら与えない。さながら嵐のような猛攻は着実に春一を追い詰める。

 かろうじて躱せてはいるものの、掠ったところは熱を持ち、切れたところからは血が滴っていた。


 逃げてもダメ、躱しても次には繋がらない。

 ならば、どうにかして攻撃に転じるしかないわけだが、相手の拳の流れを読み取ることも難しい。


「ぬんっ!」


 だからこそ、一撃を完全に防ぎ、それを大きく弾く。

 避けられるのを想定して次撃を上乗せするのではなく、繋げるために敢えて受ける。メルシェが先に見せたものと似たようなものだが、春一には相手の回避を見切るだけの実力が無かった。


 ある意味、肉を切らせて骨を断つ。

 鋭い痛みが腕に走れば、じんわりと広がってゆくが、それを気にしていられる有余は無い。


 作り出せた隙は、か細い光のようなもの。態勢を整え、拳を打ち込んでいは瞬く間に闇に溶けてしまう。それを理解しているのか、メルシェには些かの動揺も見られない。


 ゆえに、驚かされた。

 春一がノータイムで攻撃を施行したことに。ほんの数十秒前にぎゃあぎゃあと喚いていた男が反撃を省みず、体当たりしてきたことに。


 もちろん、力の乗せ方など成っていないところはある。されど、威力は基本的に質量と速度によるものだ。

 もとより成人女性一人を突き飛ばすだけなら、春一でも事足りる。それがミサイルばりの速さを伴っているとなれば、尚更だろう。


 果たしてメルシェは大きく体勢を崩し、春一はここぞとばかりに肉薄し、掌打を叩き込む。打ち出された疾風の弾丸は目論み通りにメルシェへと突き刺さり、彼女自身は風となったように吹き飛んだ。


「……見事だ」


 瞬間、呟かれた言葉が春一の耳に届く。そして、生じる違和感。


 確かな手応えがあった。いや、手応えというよりは感触か。

 さすがにまだ拳で殴ることに忌避感があり、苦肉の策として掌底がどれほどのダメージになっているのかまでは判らない。しかし、紡がれた言葉には明らかに意図した意味があった。


 つまり、それを発せるだけの余裕が有るということに他ならず。


 防がれたか、単純に堪えられたのか。おそらくは前者だろうが、それを考える必要も無いだろう。

 所詮は、素人の朝知恵。看破されるのも当然のことだ。そして、何より今は向かってくる相手に対応せねばならない。


「――だが、お前には幾千もの敗北を刻んでもらう」


 メルシェがその身を翻せば、迫り来る樹木を足場に跳躍した。

 同時に爆ぜる幹。震撼する大気。広がる形無き波を置き去りに、メルシェは総身を槍と化し、一条の閃光を描く。


 それはまさしく光と言うに相応しき神速。目にも止まらぬ不可避の速攻。

 しかし、それゆえに相手の動きは至って単純なのであり、相手の動きを捉えられている春一からすれば、寧ろ好都合なことだった。


 動き回る線を点で捕らえることは難しいが、こちらに向かってくる線は点に相違無い。とはいえ、対応を間違えれば、メルシェの崩拳がすかさず炸裂することになる。それを踏まえて考えれば、相手と真っ向からぶつかったところで意味は無かった。


 得られるリターンは少ないのに対し、背負うリスクに大差は無い。なればこそ、目一杯引き付けてから、攻撃を叩き込む。


 ――最小限の動きで、最大限の成果を。

 

 刹那にも似た余りに短い時間の中で、春一は出来うる限りの算段を整え、そのイメージと自身とを重ね合わせる。


 せせらぐ川のようにゆっくりと。

 速すぎる回転により、あたかも逆方向に回っているかに見える車輪のような、倒錯した虚空の最中、春一は淀み無く地を滑り、会心の一撃を打ち込んだ。


 十全とは言えないまでも、回避する暇は与えない。実際、攻撃のタイミングとしてはこの上無いものであり、慢心とも異なる確信が春一にはあった。


 なれど、その拳が食い込もうとした瞬間、メルシェの姿が消える。そして、寸毫の間も無く、あらぬ方向から的確に顎を打ち抜かれた。


「……ぁ、かっ」


 下からの完璧な反撃。いや、本当にそれはメルシェの反撃だったのか。

 自分で自分を殴ったような感覚すらある中、己の殴打が空を切ったことすらも認識出来ぬまま、春一はたたらを踏み、仰向けに倒れる。


「残念……フェイクだ」


 伸ばされた腕を畳みつつ、そっと言葉を告げて、メルシェは意識の混濁する部下を掬うように受けとめた。けれど、春一の脳は何も認識してくれず、雑音と震動としか判別が付かない。


 万全を期した。百パーセントとは言わないが、限り無くそれに近いまでにパフォーマンスを発揮できたのは間違いない。

 けれど、メルシェはそれのさらに上をいったのだ。百パーセントを無理矢理百十パーセントに拡張するように、春一がどれだけ手を伸ばそうと届かない所へと……


 もはや策どころの話ではない。

 朧気ながらそれを理解したせいか、春一の視界に闇の帳が下りてくる。


「初日にしては、上出来だろう……よくやったな」


 呟かれた言葉は意識と共に黒く染まっていった。



 ◆



 ふいに目の前が明るくなり、俺はせり上がってくる水のように意識を取り戻した。


 近くで店長が驚き、あまつさえ引いていたが、無理もないだろう。

 聞いたところによると、「エイドリアァァァァン!」と、叫びながら起き上がったらしい。俺自身、何をもって叫んだのか理解しかねる。


 加えて、店長は少なくとも一時間程度は眠っているものと予想していたらしく、二重の意味で要らんドッキリを味わう嵌めになったそうだ。


 まあ、俺としてはドンマイとしか言えないわけだが。


 思えば十八年の人生において、気絶するなんてのも初めての経験だ。

 いや、別に体験したいと思うこともなかったが、けっこう眠気に近いんだな。抗えずにスッと落ちてゆく感じなんて、特に。

 意識が飛んでから五分ほどしか経っていないことから考えて、もはや居眠りレベルでしかなかった。


 とはいえ、チート擬きの力がなかったら、そんな悠長なことは言ってられなかっただろう。下手をしなくても、首ごと吹っ飛んでいた可能性があるのだから。


「明日からは、倍の時間になるからな」


 だがらこそ、そう晴れやかに告げられたとき、俺は白目を向かざるを得なかったわけだが。


 現在、俺と店長は一通りの訓練を終え、シェスタの街に戻ってきていた。

 動物一匹すら見かけることがなかったことから、昨日豚野郎に遭遇したのは本当に運が悪かったのかもしれない。


 ちなみに魔力訓練は何も進展を見せず、淡々と終わりを迎えた。


「先ずは座って、楽な体勢を作れ。力が抜けるならどんな体勢でも構わない」


 店長の指示に従い、もっとも楽な体勢である胡坐をかく。

 トレーニングという名の殴り合いよりこちらの方が遥かにやる気が湧いてくる……そう思っていたときが私にもありました。


 形式的には、瞑想とでも言えばいいのだろうか。

 目を閉じた状態で己の心を見据えるように、この世のありとあらゆる存在が持っている魔力を感じるところから始めるらしい。


 しかし、「強い根っこを持て!」とか、「感じろ! 俺の小宇宙!」とか、どこか宗教染みたことを言われたところで、まったく使える気がしない。実際はもう少し真面なことだったが、そこまでの差異は無いだろう。


 その所為か、たかだか数分の修練にもかかわらず、相当に気が滅入った。

 何事も上手くなるには繰り返し、繰り返し反復練習をするしかないわけだが、おそらくガフの扉が開いて御迎えが来る方が早いだろう。先が見えないにもほどがある。


 いざとなったらシャバドゥビタッチで、ヒーヒーヒーする以外に道はない。

 

 そんな疑問が脳裏を過ぎったときだった。


「おい、ニート」


「次にその名で俺を呼んでみろ。大惨事になりかねんぞ」


 本名を教えたにもかかわらず、不名誉な称号で呼ばれたのは。


 誰か、店長……はダメだな、うん。

 なら、工場長を呼べ。名誉棄損の罪で、アッチョンブリ刑にしてくれる。


「ほう、具体的には?」


「泣く喚く、引きこもる。恨み辛みを書き残して自殺をしようものなら、とんだ不良物件になりかねんが、それでもいいのか?」


「さして問題はあるまい。お前を黙らせ、部屋の扉を消し飛ばし、遺言書なぞは燃やして、四肢を緊縛しつつ、猿轡も噛ませればいいだけの話だ。完璧だろう?」


「度し難いレベルでな」


 どれだけ振り切れた対処法なんだ。

 まさしく最凶と言えるが、アグレッシブを越えるのにも限度があるんだぞ。


 全国の引きこもりも、さぞやお困りになるに違いない。部屋という垣根を平気で取り払われたうえで、一方的に蹂躙されるそれは、もはや災害に近いだろう。

 人を助けるという意味では素晴らしいものの、その前にこちらの心が死にそうだ。というか、最初から殺しに来てる。


「もうちょっと精神的に労わる方向で対処しましょう」


「お前を労わるとしても、当分は先の話になるだろうな。まあ、それはさておき……帰る前によるところがあるから付いて来い」


 ボイコットという概念を根本から覆しかねないぶっこみ店長への対策案を考えながら、言われた通りに後ろを付いて行く。

 立ち塞がる壁を壊し、乗り越えるのか。それとも先に心身諸とも砕け散るのか……


 果たして、俺の明日はどっちだ!? 


「……またこのパターン?」


 そんな不安も目的地にたどり着いたところで、少し辟易しながら溢した不満とともに流れて行った。


 連れてこられたのは昨日街に辿り着いた店長がいの一番に入っていった建物。相変わらず看板の文字は読めない。

 昼の明るさにより、見渡せる範囲が段違いではある。ついでに言えば、俺の隣に巨大な骸も無い。しかし、昨日の今日で羞恥プレイ晒された場所に来たいという人もそういないだろう。


「今回はお前も中に入るんだ。というより、お前無くして、今ここに来る意味は無い」


「なにそれ、どういう意味?」


「会ってもらわねばならん人がいるということだ」


「……っ! そうか、ついに来ちゃったわけだな……」


 美少女ちゃんに巡り合うその時がっ! 

 やっと、やっとフラグが舞い降りてきたというわけだ。いや、昨日の時点で既にフラグは立っていたのかもしれない。だとするならば、羞恥プレイなぞなんのその。


 初めて遭遇した人物が隣にいるブラック上司ゆえに、もう出鼻を挫かれているのは否めないが、もし店長がヒロインポジションなのだとしたら、俺は新たな次元へと目覚める必要がある。

 けれど、さすがに侮蔑の瞳を向けられて、「くやしい……でも」なんて、なりたい人はそういないと思う。


 改めて掲げられている紋章を見れば、鳥に剣を象ったカッコいいエンブレムだと判る。昨日はさして興味もなかったからマジマジと見ることはなかったものの、今は俄然気になってきた。まさか領家の娘さんか、何かだろうか。


「ささ、参りましょう……!」


「あ、ああ……どうしてそんな気味の悪い顔をしているんだ?」


 人はそれをゑびす顔と呼ぶのです。


 扉を開ければ、いまだ開いてもいない我らが店と同じように来客を知らせるベルが鳴る。

 軽く見たところ、広さは店と大差ない。というより、カウンター席こそないものの、それを除けばほぼ似たようなものだ。テーブルや椅子は疎らに並べられ、二階への階段もある。


 ただ、誰一人客がおらず、閑古鳥が鳴いているような有り様なのが物寂しい。時折、風に揺られるドでかい掲示板に貼られたいくつかの紙がそれを物語っていた。 

 店長は何を気にすることもなくカウンターへと歩き、呼び出しのベルを鳴らす。そもそも店なのかも判らないが、それを差し引いても店員すら見当たらないというのは大丈夫なのだろうか。 


「はぁーい、ただいま~」


 奥に人がいるようで、返事はすぐに返ってきた。足音が近づいてくると、カウンターの奥の扉が開く。


「ようこそ~……って、メルシェさんですか」


「ああ、今朝方に頼んだものは出来ているか?」


「ええ、それはもう。少々お待ちくださいね~」


 俺より年下に見える店員さんは言われるがままに、再び奥へと戻っていった。

 なんとも朗らかな外見に、間延びした声。薄いクリームのような金髪から醸し出される雰囲気はまさに優しさを具現化した天使。


 俺よりも年下に見える外見だが、実年齢が上であろうと何も問題は無い。

 屋内に人が見当たらないことを見るに店長の言っていた人は、おそらくこの方で間違いないだろう。ふふふ……感じるぞぉ、ラブコメの波動!


「お待たせしました~。受け取られるのはそちらの方でよろしいですか?」


「そうだ」


「では、ハルイチ・ミドウさま、こちらへどうぞ~」


「あ、はいっ!」


 店長がその場所を譲り、カウンター越しにいまだ名も知らぬヒロイン候補と向き合う。


「はい、こちらがギルドカードとなります。受付や報酬の際にご提示して頂くことになりますので、紛失にはくれぐれも気をつけてください~」


「…………んん?」


「それにしても魔力も使えないのに、ギルドの門を叩くなんて……随分と奇矯な方もいるものですね~。それとも死にたがりなんでしょうか~?」


「……は、へ?」


「とはいっても、仕事を受けるかどうかは本人次第ですので、自分の力量をしかと見極めてから、仕事を選んでくださいね~」


「…………」


 しかし、告げられた言葉の大部分が、俺の予想とは大分趣の異なるモノだった。

 意味が判らない。いや、言葉の意味は判るが、唐突の展開にまったく頭が付いていけてない。


「それはそうと、まさかメルシェさんが新人の方とギルド傭兵団を立ち上げるとは思いませんでしたよ~。どういう風の吹き回しですか~?」


「なあに、やっとこさ見つかった従業員の研修……その一環さ」


「なるほど~。それはおめでとうございます~」


「はーい、ちゅうもーくっ!」


 このまま世間話に移りそうな二人の会話を流れるように遮る。

 ちょっとはこっちの空気に気付けと言いたかったが、それ以上に言いたいこと山ほどあった。


「なんだ、どうした?」


「いや、どうしたじゃないでしょ。寧ろ、どうなってんですか? おかしくない? これってアレでしょ? 死んでも成仏しろよとか、命の責任については負いかねますとか、そういう類のお話でしょ? 傭兵団とか聞こえたんだけど、どうして人の了解も無しにそんな戦場を駆けずり回るようなお仕事をすることになっているの? 研修とかそんな話じゃないよ? いや、別にビビってるとか、恐怖を感じているわけではないけどさ。でも、スプラッタは止めようよ。軟骨毟るとか、物騒なことをやるにしても、せめて家畜動物だけにしときましょうよ。戦争も諍いも憎しみと悲しみという結果をもたらすだけで、碌なものじゃないですよ。そういうのは視聴者を楽しませる正妻戦争だけにしときましょうって。間違っても聖なる杯を求めるアレじゃないですよ? いや、アレも見てる分には恐ろしく面白いですけどね? でも、ここはやっぱり主人公を取り合い、励まし嫉妬し、時に悲しみはあれど、心に溢れるものはそれだけじゃないラブコメをやるべきでしょ。愛は世界を救うんですよ。もちろん、綺麗な感情だけに留まらないけども、人間誰しも愛がなければ生きられないんですよ。それは例外無く、俺にも当てはまることなんですよ。えっ、早く要件を言え? 判りましたよ。つまり、何が言いたいのかというとですね……」


 大きく息を吸い、ありったけの思いを込めて、俺は再び叫ぶ。


「あなたに愛は無いんですか!?」


 届いて! 私の想い! 

 オープンハート!


「少なくとも、会って一日で芽生える感情ではないんじゃないか?」


 なんて俺の思いとは裏腹に、店長はどこまでも純粋な、疑問以外の感情が無いような表情を浮かべて、これ以上ないド正論を叩き付けてきた。


 堪らず、俺は意気消沈する。

 察するに、このギルドの受付嬢さんである彼女からは拍手を頂けたが、それが何に対しての賛美なのか、そもそも賛美なのかどうかもよく判らない。

 十数秒経ったところで、ようやくハッとしたように受付嬢さんは拍手を止め、口を挟んできた。


「こほん……ダメじゃないですか、メルシェさん~。本人の同意も無く、契約書持ってきちゃ~」


「いや、ちゃんと同意は得たぞ。その証拠にちゃんと血印もあっただろう?」


「そ、それって、まさか……今朝の……」


「ほら、問題ないだろ?」


「う、う~ん……」


 受付嬢さんは口ごもったのは、おそらく店長のやったことがグレーゾーンゆえに良し悪しの判断が付きにくいのだろう。というか、ちょっと待ってほしい。


「アレ、店に関する契約書じゃなかったのかよ!?」


「そうだな。私は一言も店のものだとは言わなかった」


「堂々と言い切るなっつーの! 限りなく只の詐欺だよ!?」


「何を言う……お前の希望もちゃんと叶えてやったではないか」


 言いながら、店長は床に崩れている俺の側により、先程受け取ったものとまったく同じ模様であるギルドカードを開く。

 俺のもそうだが、カードは二つ折りになっており、開けば読めない文字が色々と書かれている。これ、写真とか無いけど、身分証明として使えるのだろうか。


「ほら、ここを見ろ」


「いや、見ろって言われても、読めないんですけど……」


「ここの欄は傭兵団が書かれているんだ。そして、記されている名は異界理論ハイブリッドセオリー……つまり、お前が考えた名だ」


「バ、バカな、それはお店の名前って……」


「これも仕事の範疇と思えば、似たようなものだろ」


「ク、クソったれぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええっ!!」


 某野菜王子のように叫びながら、慟哭に沈んだ。

 ちなみに命名の理由は二つの世界の存在が織り成すという意味を込めたのと、厨二病かっけぇーという感情によるモノである。もちろん、後者の割合の方が高い。


 誰か、小一時間ほど前、意気揚々とその名前を告げた俺を殺してくれ。


「それで……何か私宛ての依頼は来ているのか、マーブル?」


「はい~、二件ほどあります。どちらにもマスターは絶対にやめてほしいと注意書きがございまして~……」


「はぁ……ったく、エルヴィの奴め。何をやらかした……」


「別段、急ぎということではなさそうですが、お願いできますでしょうか~?」


「ああ、詳細を頼む」


 俺など、もはや用無しと言った様子で店長は受付嬢さんと仕事について話し始める。


 店長は言っても無駄なゆえに仕方ないとしても、受付嬢さんは空気読みすぎじゃないだろうか。四つん這いで嘆いている人を完全放置するって、なかなかできることじゃないよ。

 このままでは単なるピエロ、ただの痛い人間でしかない。かといって、俺からこの空気を壊せる勇気は持ち合わせていないわけで。


「おい、ニート」


「これ以上、僕の心を削らないでください」


「何でもいいが、仕事が入った。明日の朝には戻るから、朝食は私の分も作っておくんだぞ」


「えっ……それなら、俺はこの後何をすればいいんだ?」


「マーブルから説明を聞いて、依頼を受けるかは、好きに決めろ。では、行ってくる」


「おい、ちょっ……!」


「いってらっしゃ~い」


 受付嬢改め、マーブルさんの挨拶に手を振って答えた店長はそのままギルドを出て行った。手を伸ばしたものの、俺の手は何を掴むこともない。


 心なしか悲しい視線をその身に浴びつつ、身体を起こす。俺にもお金があれば、こんなことにはならなかっただろうに。同情するなら金をくれとはよく言ったものだ。


 結局、世の中なんてのは、ほとんどお金なんですよ、お金! 

 キィーッ、どこかに四億円ぐらい落ちていたなら、私だって札束ビンタを噛ましてあげますのにっ!


 ……いや、この世界で円は使えないからダメか。なんだっけ、エルツ? 

 ともかく、落ち着こう。そう思った矢先に受付嬢さんが背筋を伸ばし、こちらに向き直った。 


「それでは、改めまして……私、マーブル・プライツと申します~。早速ですが、ご説明に入らせて頂いてもよろしいですか?」


 少しとろんとした目付きに朗らかながらも、艶めかしさのある笑顔。見目麗しい容姿は凛として苛烈な店長とは正反対に、爽やかで温かい。

 一見して、絆される男はおそらく相当な数になるだろう。現に俺もその向けられた笑顔に少なからず見惚れていた。同時に、個人的かつ最重要な目的を思い出す。


「その前にマーブルさん、一つお聞きしたいことがあるのですが……」


「はい~、何でしょう~?」


「マーブルさんは付き合うとしたら、どんな男性が好みですか?」


 そう、俺は何も魔の手に陥るためだけに来たわけではない。想定とはまるで違ったが、結果的に美少女っちゃんと会うことは出来たのだ。チャンスは生かすに限る。


 呆けたのも束の間、その質問の意味を呑み込んだ彼女が少し照れ臭そうに、顔を赤らめながら話し出した。


「う~ん、そうですね~……私は……」


「うんうん、私は?」



「私は女の子は女の子同士で、男の子は男の子同士で……といった方が好みかもしれませんね~。あっ、これって変だと思いますか?」



 結果は見事なまでに……いや、これ以上ないくらい無残なことになった。一瞬の沈黙の後、俺は奥歯をカタカタと震わせながら、なんとか返答する。


「…………イイエ、トッテモスバラシイコトダトオモイマスヨ」


「はぁぁ~……そういって貰えたのは、あなたが初めてです~! そうですよね~、素晴らしいことですよね~!」


「アハハハハハハ」


「うふふふふふふ……!」


 うわぁぁぁぁぁあぁぁぁあぁあぁぁぁぁあぁっ!! なんなんだよ、この世界はっ!! 

 栗色の悪魔上司ドエスブラックに受付嬢は発酵中とか、どうなってんの!? 色物多すぎるだろ!!


 だいたい、この人は何を淀み無くカミングアウトしちゃってんの!? いや、聞いたのは俺だけども、初対面だよ!? 今後のお付き合いもあるだろうに、凄ぇなおい!


「うふふ、禁断の花園を理解してくれる方に出会えというのに何が問題なんですか? それとも、もしやハルイチさんもっ!?」


「違います! 本当にそうなってしまったら、誰が幸せになるっていうんですか!?」


「それは、私です~」


「やかましい!」


 積んで彩るバラ色の予測、もとい妄想がもはや音も立てずに霧散してゆく。

 マーブルさんが勝手に意中の方とくんずほぐれつイチャついてくれる分にはもっとやってくれて構わない。しかし、俺を当事者にしてもらっては困る。


 決してその道を否定するつもりは無いし、他所でやる分には構わないが、俺がしたいのは、美少女ちゃんとのキャッキャウフフであって、「アッーーーーーーーーー!」と叫ぶような縺れ事情ではないのだ。


「はぁ……まさか、こっちにも腐女子がいるとは……」


「フジョシ……?」


「ああ……いえ、何でもありません。それより、マーブルさんは本当に男性とお付き合いする気は無いんですか?」


「仮に男性とお付き合いするとしても、ハルイチさんとはご遠慮したいですね~」


 それは優雅に止めを刺してくる発酵少女。

 なんてことはない。舞い降りたのはフラグではなく、ラブコメの波動でもない……


 ただの心無い天使だった。

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