新生活、開始ぃーーーーーーっ!! ①
翌朝、何とも不思議な夢を見ながら、俺は起床した。
熱き決闘と顔芸に命を捧げる者たちによるカーニバルの火蓋が切っておろされたような、そんな夢……
夢は深層心理の表れとされることもあるが、それが真実なら、俺は山に籠って悟りを開いた方がいいかもしれない。
今日から新しい暮らしの幕が開けるという自覚があるのはいいことだ。しかし、どうして名も知らぬおっさんとご対面しなくてはならないのか。
「はぁ……」
その所為なのか知らんが、なんともスッキリしない目覚めだ。どうにも無駄な危機感に晒されている。
美少女ちゃんとは言わないまでも、せめて閉鎖時空で生活を続ける某核家族と同じ苗字の彼にしていただきたい。というか、彼じゃないなら、俺の見たおっさんはいったい……
いや、止めておこう。ハイレグガチムチなおっさんを思い出したところで、あまり意味は無い。
設置された時計を見れば、時刻は七時二十一分。ローマ数字に似た文字で表されているそれは、俺の知識と合致しているならば、意味通りとなる。
ほんの少しの誤差はあるが、異世界に来ても染み込ませた習慣はちゃんと機能しているようだ。
何をするにしても、早起きは三文の徳とも言うし、特に問題はあるまい。寧ろ、得したと感じたことが、一度たりとて無いことの方が問題と言えるだろう。
既に登った日が街を光で包み込んでいる。しかし、窓を開ければ冷たい風が頬を撫でた。
街を見渡しても、まだ活動している人は少なく、風の音がハッキリと聞こえてくる。
こちらの世界もまだ気温が低い。冬なのか、春なのかは知らないが、随分と染み入る風だ。
平屋が軒を連ねている小路や、ビル群に囲まれ、時に冷たさすら感じる街には無い独特の空気が鼻腔をくすぐる。
空を隠すほどの高い建物は奥手にある魔法学校以外に無く、比較的広く舗装された道の横にそれぞれ趣の異なる家が並んでいた。
森の中に造られただけはあって、自然と調和するような落ち着いた様相ながらも、暖かい色相に富んでいる。
外国に行ったことのない俺からすれば、見るもの全てが目新しい。異国情緒を感じるとは、このことなのだろうか。
神様への鬱憤も兼ねて、叫ぼうかと思ったが、さすがに止めておいた。というか、下手したらシバかれてしまう。
吐く息が白く染まり、溶けてゆくのを見届けて、そっと窓を閉める。
あてがわれた部屋は簡素なホテルのような部屋模様で、ベッドと壁沿いにテーブルとイスが置かれている以外に何も無い。ただ、余計な私物が無い分、寝泊りするのは非常に快適だった。
流石に足の踏み場所が無いなんてことはなかったが、聖域たる自室は山積みになった箱とかが所狭しと置かれている。
その意味で、この部屋は幾分物寂しいわけだが、いずれは似たような感じになることだろう。今日から、正確には昨日からだが、ここは新たな聖域に生まれ変わる。
もうお判りだと思うが、結果から言おう。
俺は昨日の店長、もといメルシェさんの申し出に乗ることにした。
というわけで、ブラウザバック! 違った、とにかくバック!
◆
「……えっ、正気?」
メルシェさんの勧誘に対する第一声がまさにこれだった。
――私と一緒に、店をやってみないか?
実際には少し違ったが、意味に相違は無い。だからこそ、俺は驚く他なかった。
だってそうだろ。働いたこともないガキが、まして家庭料理程度の物しか作れないガキが料理を提供したところで、繁盛する可能性は限りなく低い。
食堂か、レストランか……
その形態はともかく、「そんな装備で大丈夫か」と問われるくらいに無謀だろう。要するに死亡フラグってやつだ。
その点、もこニキはすげぇよな、最後までオリーブオイルたっぷりだもん。
「無論、正気だ。お前が如何に思い込みが激しく、変人かつバカであり、身元不明の危険人物であろうとも……それを重々理解したうえで、私は誘っている」
「もうちょっと言葉を選べよ」
発言の九割程が俺をけなす言葉ってのはどういうことだ。
それが確定的に明らかなことだったとしても、せめてオブラートに包めよ。スカウトする気あるのか。
「まあ、事実はさておき……私はお前の手料理を食べて確信したんだ」
「さて置かれても、それはそれで困るんだが……とにかく、評価してもらえるのは素直に嬉しい。でも、肝心なことを忘れてないか? 俺は魔力が使えないんだぞ?」
そう、素人とかどうか以前に、遥かに大きな問題がある。
メルシェさんの思惑はどうであれ、設備もまともに扱えない奴が戦力になるはずも無い。
人様に料理を振る舞うどころか、自分の手料理を食べるのすら恐ろしく面倒な状況だ。お店としてこれほど致命的なこともない……
「そうだな……確かにそうだが、逆に考えてみろ。そんな足手纏いを雇いたいなんて、奇特なところが他にあると思うのか?」
「…………」
とか、思っていたのも束の間、予想外の切り返しをくらった俺は黙るしかなくなる。相手の方が一枚上手だった。
「お前は金を持っていないというのに、稼ぐ術無くして、これからどう生きていくつもりなんだ?」
そう、今の時点で俺は既に寝床もなければ服もなく、金もなければ職もない。
簡潔に言ってしまえば、未来が無い。
「最悪、魔力が無くとも働くことは出来るだろう。しかし、どの職場においても、前提としていることが出来ないとなれば、相応に不利な目に遭う可能性は高い。それは賃金に然り、職場の環境に然りだ」
元いた世界と同じように生きるためには貨幣がいる。無一文であり、金を得るための手段も絶望的。そうなれば、必然的に道は限られてくるのは当然のこと……
けれど、自分が言ったことだが、わざわざ足手纏いを雇う必要はない。そして、仮に働けたとしても、メルシェさんが言った通りの問題が立ちはだかってくるだろう。
「たとえば、店で給仕をするとして、もし喧嘩や酔っぱらいの暴動が起こったら、お前は止められない。土木工事でも力仕事が出来ないとなれば話にならない。毎日のように見下され、心も擦り減った挙句、それでも文字通り命懸けの生活がひたすら続くことだって――」
「もう止めてっ! とっくに私のライフはゼロよ!」
メルシェさんの言葉が次々と俺に突き刺さってくる。一言一句に殺意を込めて放つわけでもあるまいに、これだから社会というものは恐ろしい。
聞いているだけで、それはもう見事に精神がズタズタに突き穿たれた。
これ以上続いていたらブレイブハートならぬブレイクハートしていたかもしれない。
実際、もしあの名曲がブレイクハートだったらどうなっていただろうか。
デ◯ヴァイスから光が放たれてデ○モンが進化を行う、あの誰もが熱くなるシーンでハートブレイク。
ショミーア! ブレイクハーッ!
夢も希望もあったものじゃない。
というか、本当にヤバイな。
企業どころか、社会全体がブラックって、どんなレベルデザインしているんだ。
抗っても従っても死にかねないって、バグだろこれ。
郷に入りては郷に従えというけれど、無理ゲー過ぎる。
「いいか、良く考えてみろ。寧ろ、これはお前にとって利点が大きい話だ。まだオープンすらしていない店にちょちょいと契約するだけで、食と寝床は最低限保証してやれるんだぞ? 何を迷う必要がある?」
「いや、確かにそうなんだけどさ」
飛び込まなければ、自ずとしなびたキノコみたいになってしまうんだけどさ……
言い方といい、都合の良すぎる条件といい、地雷の臭いが半端ない。それで裏が無いと思う方が無理ってもんですぜ、とっつぁん。
「私にもお前にも利することがある……が、別に決断は今日でなくてもいい。ただし、断るのであれば、然るべきところを出てもらうぞ」
「ちょっ!? しばらくは融通するって……」
「これが大人というものだ、ニート。私も身元不明の変人を無償で置いておくほど優しくはないということさ」
こちらが首を縦に振らざるを得ないよう的確な条件を盛り込み、追い詰めていくメルシェさん。
立ち位置が異なる以上、最初から勝敗が決しているようなものだ。彼女からしてみれば、交渉以前の問題なのだろう。
これこそ今をときめくアイドが、その世界に飛び込んで思い知ったであろう格差社会か。
くっ……いえ、どこのとは言いませんよ? ええ、決して。
「さあ、どうする? 黙っていても、何も始まらない無いぞ?」
まさに目は口ほどにものを言う。
決断を迫まってくるメルシェさんの目は自信に満ち満ちており、俺が承諾すると信じて疑わないらしい。
ならば、言わせてもらおうじゃないか。
俺にだって意地はある……
「よろしくお願いしまぁーーーーーーーーーすっ!」
そう、微粒子ほどの、捨てるに何も困らない意地がなっ!
椅子から飛び上がり、これ以上ないジャンピング土下座を披露して着地した。
本当なら、服を脱いだ方が裏表の無い誠意を表明できるかもしれないのだが、さすがに変人扱いされている手前、それはできない。
「どうか、このゴミのようなニートをお使いくださいませっ!」
「そ、そうか。正直、気持ち悪いくらいの潔さだが……とにかく、これからウチの従業員として働いてもらうからには……」
「店長と呼ばせていただきます、サー!」
「呼び方は好きにして構わん。というか、そうではなくてだな……」
「ま、まさか……いきなり靴を舐めて、忠誠を誓えとか、高度なことをご所望なさると!?」
「そうじゃない! お前はいったい私にどんなイメージを持っているんだ!?」
「となれば、これからじっくりと調教するわけですね! い、いくら俺でもそれはちょっと……いや、ここは一思いに!」
「ええい、話を聞けっ!」
本日、二度目の拳骨を貰って、俺は地面に突っ伏した。改めて自分が中々に妄想だらけの痛い人間だということを自覚させられる。
そのままメルシェさん改め、店長はボストンクラブを組んで、話し始めた。
「いや、なんで……ふががががが!」
「そのまま、よく聞け。当分は仕方無いとはいえ、いずれお前にもちゃんと魔力を扱えるようになってもらう」
「で、できるのか……?」
「当然だろう。ただ、チンタラと修練している暇は無いゆえ、諸々含めて厳しくいかせてもらう。明日から、毎日私とトレーニングだ……判ったな?」
「判った、判ったから、そんなに締めなっふぅぅぅぅぅぅぅっ!」
「返事は“はい”だ……っ!」
「イ、イエス、サー!」
「それと……さっきは言いそびれたが、私は女であって、断じて男ではない!」
「おふぅ! ダメッ……私が裂けちゃうぅぅ!」
究極円環理女神みたいになっちゃうから!
悪魔めいた愛ならともかく、純然たる暴力だから、これ!
「らめえぇぇぇえぇぇぇえぇぇぇぇええええええええっ!!」
その夜、シェスタの街に無様な男の叫び声が響き渡った。森に飛来したのは幽霊だったと噂に尾ひれが付いてしまうのだが、それは別のお話。
今日から、この人は理不尽ならぬ理腐人と呼ばせてもらおう。
もちろん、面と向かって言ったら、先の二の舞になるのは火を見るより明らかなので、口には出さないが……
理の腐った御人で理腐人だ――
ここに一筆したためる。
しゃちほこばりにアクロバティックな体勢に至り、店長はようやく肉体的拘束を解いてくれた。人生で初めての精神的にも、肉体的にも痛々しい就活が終わりを向かえた瞬間である。
正直、ブラックな所に就職してしまった感じは拭えない。
いや、死ぬよりはよほどマシなのだが、馬乗り状態で今後の活動方針を聞かされるこの店の未来に不安を覚えるのも当然だろう。
きっとあまねく社畜の方々も、きっとこんな思いで働いているに違いない。
働かざるもの食うべからず。
正論にして、実に人間らしい業の深い言葉だ。
今になって、ようやく“元”という名を冠するようになった無職が言っていいことではないかもしれないが、さっそく顎で使われている俺にもそのぐらいの権利はあるだろう。
命じられたがままに、俺は紅茶の用意に取りかかった。ついでに自分の珈琲もドリップする。
厨二病よろしく珈琲を飲み始めて数年。同時に当時の環境に影響されて紙パックのミルクティーもぐびぐびと飲んで、頻繁にトイレへと通い詰めていたのが懐かしい。
母さんは紅茶が好きだったため、自分の珈琲と併せて、最善の淹れ方を勉強したものだ。こりゃあうまい珈琲だぜぇ!
「そう言えば、一つ聞きたいことがあるんだけどさ」
「何だ?」
特に手間取ることもなく、数分で出来上がったそれらを配膳しつつ、俺にとって大事な質問を投げ掛ける。
「例えばの話なんだけど……魔法で今いるこの世界から別の世界に行くことはできるのか?」
そう、魔法という超常現象を意図的に起こせるなら、その魔法で帰れないのかという話だ。
大地を隆起させ、手から火を出し、大気から水を生成し、風を纏ってミサイルよろしく地を駆ける。こうしたことが当たり前のように出来るのなら、それらを届かぬモノとして夢想することも無い。
とはいえ、残念なことに、帰る方法など無いと相場は決まっているわけだが……
「ふむ……それはどういうことだ?」
しかし、それ以前にこちらの言わんとしていることが、店長に伝わらなかった。
おそらく、異世界という概念そのものが希薄なのだろう。俺だって、新宿とかでいきなり異世界について聞かれたら、「あっ、宗教とか間に合ってますんで」とか言って、即否定するに違いない。
夢とファンタジーが生活の根幹を成してしまっている世界ではやれることに際限が無い分、想像する余地も少なくなる。良くも悪くも摩訶不思議な法則は常識を打ち壊し、何倍にも拡充された常識の枠内に思考を閉じ込めるというわけだ。
当然、その範疇収まらない人もいるだろうが、それでも地球にあれほどの娯楽がありふれているのは、そうしたとんでも能力が無いというのも関係してるのかもしれない。
とにかく、適当に紙とペンを用意してもらい、図を用いながら説明することにする。
「具体的に示すと……この片方の円が俺らのいる世界で、もう片方が所謂、別の世界と仮定する。その場合に、この俺らがいる円から、もう片方の円に移動できるのかってことなんだけど……」
「エンデレケイアから、あるとも思えない同じような別世界に……か。だが、どうしてそんなことが知りたい?」
「……いや、俺は魔法が使えないからさ。どこまでのことをやれるのか、興味があるんだよ」
鋭く聞き返してくる店長に、咄嗟の言い訳をつく。
疑問に思われるのも当然だろう。地球でも大っぴらに異世界に行きたいですなんて口にしようものなら、即行精神科に連れて行かれるからな。
ただでさえ常識から外れている奴がそんな質問をして、何も勘ぐられない方がおかしい。
それはそうと、この世界はエンデレケイアって言うらしい。
受け継がれしヤンデレ一族の末裔みたいな名前をしているのはともかく、なんか聞き覚えがあるような、無いような……
「…………まあいい。確かなことは言えないが、おそらく理論上は可能だろう」
記憶を辿っていると、店長が質問の返答をくれる。しかし、良い情報ではなさそうだった。
「それはつまり、できないということか?」
「そうだ。主な理由は二つ……まず、お前の言ったことをやるには途方もない魔力が必要となる。規模こそ小さいが、やろうとしていることは国を焼き払うより難しいはずだ。そして、これもおそらくだが、空間転移や時間跳躍よりも上のクラスに位置するだろう。それも、かなり上のな」
どうやらタイムリープとか瞬間移動よりも難しいらしい。
これらは二次元のフィクションでもメジャーな能力だが、大抵燃費が悪かったり、一人では使えなかったりする場合が多かったりする。
反応を見るに禁呪とかそういう類いのモノになっていないのは、それだけ一般に浸透しているからだろうか。
なんにせよ、メルシェさんの口ぶりからすると、空肝転移や時間跳躍は魔法として確立されていることになる。
それが個人使用が可能なレベルにまで達しているのかは判らない。けれど、どのみち異世界渡航は言葉にならない燃費の悪さを誇るということになるのだろう。
「二つ目は、それほどの魔法を扱える者がいない。そもそも、そんなレベルの魔法が存在するのかも判らない」
そして、そんな魔法が公に存在し、あまつさえポンポンと使えるのなら、異世界に来たくらいで喜ぶ人間はいなくなるわけで。
日帰り旅行で異世界に行くことも可能となれば、観光産業も大喜びとなる。逆に大打撃を被る可能性は無きにしも非ずだが……
結果として、魔法を使い、地球に帰るという案は絶望的なようだった。
仮に方法があったとしても、黄昏の腕輪を使用するか、元気を分けてもらわない限り行使できないのでは話にならない。将来的に魔法が使えるようになったとしても、リスクが大きすぎる。
思い浮かぶのは、やはり母さんのことだ。時間的に見て、もう家に着いている頃だろうか。
本来いるはずの人間がそこにいないとなったとき、人がどう行動するかなんてのは想像に難くない。
最初から期待はしていなかったものの、やはりどうしようもなく。
判ったことは考えたところで、答えなんか見付からないということだけだった。
「……まあ、今のお前には毛ほども関係のない話だ。なにせ、それ以前の問題だからな」
大げさに頭を振りつつ、呆れたように店長は言う。
何となくだけど、わざとそういう風に言ってくれている気がするのは勘違いではないだろう。
不器用な気遣いではあるものの、ほんのちょっとした所作からこちらの心情を察してくれるのはありがたいことだ。
同時に大概の嘘が通じないことが判明したわけだが、そこはどこぞのスピリチュアルな護衛軍のように真実のみで誤魔化せば、問題あるまい。ただ、それだけのこと……
「それより、死なずに明日を乗り切る方法を、ちゃんと考えておくんだな」
「いきなりハード過ぎやしないでしょうか」
何を当然のように言っているんだ、この人は。
死の危険が伴うとか、もはや殺し合いの領域だぞ。というか、雇った次の日に殺人予告紛いのことを言うなんて、職場としてどうなの?
「場合によっては、そうなるかもしれないという話だ。少なからず、心構えはしておけよ。……さて、私も風呂に入るかな」
それは死ぬ覚悟をしておけということですか、と尋ねる間も無く、店長はそそくさと二階へと登って行ってしまった。やっぱり、感謝しないでおこう。
実際問題、帰れないのはどうしようもないとして……
いや、諦めるつもりは毛頭無いのだが、それを抜きにしても、魔力の操作は早めに習得しておきたいところだ。
俺の生活のためにもなるし、何よりそれが出来なくては一筋の希望さえも見えなくなってしまう。
だから、今日はもう寝るとしよう。
うん、明日から本気だす――
◆
とまあ、そんなこんなで……
昨日、俺は見事に料理人へとジョブチェンジを遂げたわけだ。
正直、調理師免許とか色々ダメな気がするけど、今は忘れよう。
脱無職……それでいいじゃないか。
まだオープンしていない店ゆえ、何もやることが無いという極めて微妙な状況だが、俺の心にはどことなく清い風が吹いている。
ただ、俺は素人だ。独学で試行錯誤を繰り返してきたとはいえ、経験もなければ、プロの現場で下積みをしていないことは言うまでも無く……
暗殺と互いに命を懸けたやり取りでは、その経験値が大幅に違ってくる。
本来ならメニューに合わせて、仕込みの行程を確認したり、早さや出来栄えに関する練習など、やっておきたいことは山のようにあった。
しかし、仕入先が決まっていないことからも判る通り、この店にはいまだメニューひとつすら無い。まあ、仮に店長が考案しようと、暗黒の殺傷宝具しか生まれないわけだが……
ホント、店長は何を思って飲食店を開業するに至ったのだろうか。というか、よく開業する気になれたな。下手したら、レバ刺しとかユッケよりも大惨事になりかねないぞ。
「おはよう。意外と早いんだな」
――せっかく内定出た飲食店が殺人の容疑で廃業とか洒落にならん。
とか、ヤバいことを考えていると、小さく音を発てて店長が二階から下りてきた。
軽めの服装に暗い色のロングコートを羽織っただけのラフな格好。膝上まであるブーツらしきものも、ファッションというよりは動きやすさを重視しているように見える。絶対領域がそこはかとなく気になってしまうのは、男の性だ。
「早起きは習慣化しててな。とりあえず、何か作るか?」
「そうだな、適当に用意してくれ。使えない器具があるなら、呼ぶんだぞ」
「イエス、マム」
今日の朝食は目玉焼きに食パンにするか。というより、冷蔵庫らしき物の中に目ぼしい材料が無かった。
豚野郎の肉がこれでもかというぐらいに余っているが、流石に朝からヘビー過ぎる。とはいえ、少し寂しい気もするので、ベーコンの代わりに余った猪肉を試してみよう。物は試しだ。
意外にもトースターのような便利な物があったので、原形そのままの食パンをその口に合わせて切り、セットする。残存魔力があったのか、スイッチを押すと勝手に動いてくれた。途中で切れるようなことがありませんように。
本来なら、パンと一緒に目玉焼きを作った方が効率良くできるのだが、生肉にはちゃんと火を通したかったし、そもそもポップアップ型ではどうしようもない。
しかし、純粋に食パンを美味しく食べたいのなら、熱の通りやすいポップアップ式はオススメである。
間違っても、「うわぁー……お前の家、まだそんなトースター使ってのかよ」などとバカにしてはいけない。これもまた紛うこと無き文明の利器なのだ。
パンを焼いている間は、ちょうど良い塊のあった豚肉のローストに取り掛かる。少し時間がかかるものの、単純に焼き上げるよりはパンとの相性もよくなるだろう。
先ずは塩や胡椒をすりこみ、練り込み、下味を付ける。
それが終われば、香辛料のニンニクと共にフライパンに投下し、強火でしっかりと表面を焼き固めてゆく。こうすることで、肉汁と共に旨みを閉じ込めることが出来るのだ。
こんがりと焼き目の付いた後は、オーブンで緩やかに加熱する。
豚肉は牛肉より水分量が多く、熱の通り具合が急激に変化しやすい。ゆえにじっくりと火を通したかったのだが、肝心のオーブンが無かった。
……いや、あるにはあった。
けれど、それはスイッチ一つで稼働してくれるオーブンレンジではなく、何と言うか、石窯みたいなヤツだった。
さすがにそんなものを使った経験は無い。ゆえに、曲がりなりにも経験者であろう店長からそこら辺の簡単なイロハを教わりつつ、じっくりと火を通してゆく。
なんでも冷蔵庫やオーブン、トースターといった機械類は相当な高級品なようで、一番高価な冷蔵庫を優先した結果、予算が足りなくなったらしい。
一番安いトースターでも、最低十万エルツは下らないと、溜め息混じりに話された。
正直、そのエルツという通貨の相場がよく判らないのだが、豚野郎四百グラムが約八百エルツ(店長見立て)であることを考えると、大いに頷ける話ではある。
ちなみにエンデレケイアでは、グラムではなくフォリムと言うらしいのだが、俺としては豚野郎が地味に高価である事実に驚きを隠せなかった。まあ、あくまで日本の物価で換算するならの話なのだが。
この分だと、長さの単位もメートルとは異なってくるのだろう。さすがに意味自体に差異は無いと考えたいが、やはり昨日の今日でまざまざと思い知らされる。
此処が、違う世界なのだと。
とはいえ、魔力駆動であることを除けば、調理器具も地球のモノとそう変わらない。違和感無く扱えるということは、少なくとも日ノ本に勝るとも劣らない証拠。
充分に発達した科学は魔法と見分けが付かないとは、よく言ったものだ。それを考えれば、寧ろ地球の方が凄いのかもしれない。
石窯の使い方を教えてくれた店長は既に用を終えたと、テーブルに座っている。熱加減を見ててもらおうとも思ったが、昨晩の出来事を思い出して止めた。
もう怖すぎるのねん。洗剤と水でケーキを作るようなものなのねん。
メタモルフォーゼ的なカーボン錬成を行われても、食べられないのねん。ぐひぃ~~っ!!
店を操業し始めてからの風評被害を考えれば、今後調理を目的として厨房に入るのは止めてもらった方がいいかもしれないな。
そういうわけで、店長にヘルプを申し込むのは無し。
窯の熱に気を払いながら、これまたゴツいチーズの一部を切り分け、さらに薄く、細かく切ってゆく。
ほんのりとした黄色いに、ポコポコ穴の開いた見た目。特別変わった匂いもしなかったから、青カビや白カビのような特別な菌を使ったものではないだろう。
ついでフライパンに油を引き、卵を落とし、半熟加減で焼き上げてゆく。その際に、胡椒を振るのも忘れない。
頃合いを見計らって、取り出したローストポークを焦げ目の付いたパンに乗せ、チーズ、目玉焼きを順繰りに乗せていけば、晴れて完成となる。
ラピ◯タの美味しそうなアレを思い出してくれれば、それで合っているだろう。さすがに猪の肉は入ってなかっただろうが、そこは独自のアレンジというやつで。
朝食が出来たら、飲み物と併せて店長のもとへ運んで行く。
飲み物は、もちろん珈琲に紅茶。モーニングブレッドに飲み物は欠かせない。
「ふむ、これはまた……サンドイッチのようなものか?」
「まあ、似たようなもんじゃないか? 正式名称は俺も知らないけど」
「そうなのか。どれ……」
店長が切り分けることも無く、ガッツリとパンを頬張る。実に潔く、男らしい。
だが、蕎麦を啜って食べるように、これも様式美の一つ。口周りが汚れようと、切り分けてしまっては台無しだ。
「うむ、中々美味いじゃないか」
「ああ、うん……でも、これならサンドイッチみたいに野菜入れた方が良いな」
悪くは無いが、そこまで良くも無い。
冷蔵庫に何も無かったから選択肢には入らなかったものの、やはり緑黄色が欲しくなる。
「もしくは、ベーコン使って塩っ気を増すとか……」
それにどうせ作るのなら、下味付けて一日寝かしておいた方が美味かったはずだ。今後は、そこら辺もよく考えておく必要がある。
「ふっ……それなら、また明日にでも試してくれ。必要な食材は後で仕入れておく」
「うん、了解」
それから、俺たちはさくっと朝食を食べ終え、朝のティータイムを満喫する。
優雅に紅茶を飲む店長は、昨日の逆エビ固めがなんだったんだと思えるくらい気品に満ちており、目を擦らずににはいられなかった。
厳しく教育が為されたのか、それとも高貴な生まれなのか……
意識的に振る舞っているにしては、どこにも堅さが無い。かといって、荒ぶっているときも、これといった違和感は無かった。
「うん、どうした?」
「いや……」
なまじ貴族とか、そういう御偉方とは縁遠いところで生活していただけに、店長の佇まいは新鮮に映る。これがごきげんよう症候群というやつか。
「ふむ……? まあ、ちょうど良い。そろそろ仕事に取り掛かるとしようか」
店長が首を傾げつつも、ティーカップを置いて切り出す。
「……といっても、正直何から手を付けるべきなのか、まるで判らんのだがな」
「ちょいちょいちょーい」
しかし、まるでお手上げですとばかりに両の掌を空にかざした。いや、滑り出し悪すぎだろ。
「昨日の内に考えるとかしなかったのか? つーか、トレーニングするって言ってたじゃん」
「それはそうなんだが……一先ずお前に何が出来て、何が出来ないのかを把握しなければならん」
店長はそう言って、目を細める。
まあ、碌に面接もしてないし、履歴書も提示していないからな。店長がそれを確認したいと思うのは至極真っ当なことだろう。
「自分で雇っておいて今更なんだが、やはりお前は得体がしれなさ過ぎる。その意味で、 底が浅そうなのは欠点なのか、不幸中の幸いなのか……どちらなんだろうな?」
「どちらにしてもバカにしてるだろ、それ」
要は可能性が未知数なだけに、どれだけ使えるようになるかが判らない。でも、これ以上無能になる恐れも無いに等しい……といったところだろう。
気持ちは判らんでもないが、当の本人を前に言うことではない。泣くぞ、この野郎。
「だが、お前が宝玉の原石なのは間違いない。少なくとも、私にとってはそうだ。……なればこそ、全てのリスクを背負のが、上司たる私の務めというものだろう?」
「お、おやびんっ!」
「まあ、そういうわけだ。お前の出来ないことを言ってほしい」
「ん、出来ない?」
「そうだ。逆にそれ以外は、出来るものと見なす。それが判れば……後は磨いていくだけだ」
まさしく飴と鞭。闇の中に差し伸ばされた光の手のような優しさに満ち溢れた声に、思わず別の意味で泣きそうになった。
だからだろうか、俺が脳内フィルターを介さず、ありのままの願望をぶちまけてしまったのは。
「そうだな……先ずは彼女が出来ない」
「そういことを聞いているわけではないんだが……まあいい、次」
「素敵な二次元的美少女と巡り会えない」
「いや、もう意味が判らん。次」
「ラブコメがしたいんです……!」
「いいだろう……これ以上ふざけるというのなら、歯を食い縛れ」
「ユー! 冷静になれよっ!」
その瞬間、視界が上下にひっくり返るやいなや、暗転した。
さながらパイルドライバーを決めこむように、鮮やかに脳天から店の床へと突き刺される。予想の斜め上をぶっちぎる攻撃だった。
流麗な動きは風のように淀みなく、繰り出されたお仕置きは回避に移るよりも前に得物を仕留める。せっかく歯を食い縛ったのに、まるで意味が無い。もしかしなくても、言葉の選択を誤ったのだろう。
というより、俺は何を言っているんだろうか。
さすがの安〇先生だって、こんなの許してくれねえよ。校長先生だって、怒りますよ。
「それで……お前の出来ないことは?」
「あー、文字が読めません。というか、すいませんでした。引き抜いてください」
「……他には?」
「今のところ、思い当たる節は無いです。それより、引き抜いてください」
「ふむ……そうか」
その言葉を最後に店長は話すことを止めたらしい。
代わりに聞こえてくるのは足音。それも、なぜだか遠ざかって行く。
「あの、ちょ……えっ? もし、そこの方? 」
返答の代わりにあるのは満たされた静寂。
障害物があるのも一因だろうが、息づかいの一つすら聞こえてこない。それが意味するところはこの場所にいるのは俺という事実……
なんなの? 放置プレイが好きなの、あの人?
その点について、とやかく言うつもりはないけど、せめて引き抜いていこうよ。そろそろ腰がヤバい。
「おいぃぃぃぃぃ、店長ぉぉぉぉぉおおおおお!? もしもぉーし!? 聞こえてんだろぉ!? オラ、答えろ! 貧にゅ……っウボァーーーーーーーーー!!」
強烈な力で無理矢理引っこ抜かれる。その際に木屑が俺の口に侵入してきた。
「誰が……なんだって……?」
「大変麗しく、慎ましやかな相貌ですね、と申し上げました」
「ほう……まあいいだろう。これにお前の名前を書け……って、文字が読めないということは、書けもしないか……」
「左様でございます。それとよろしければ、下ろしてもらってもよろしいでしょうか?」
頭に血が上って、気持ち悪い。そして、それ以上に一本釣りされた魚のごとく宙ぶらりにされているのが悲しい。
しかも、顔だけ見れば、本当に麗しい女性に片足を持たれての状態なのだから、尚更だ。
「ふむ、そうなると……」
「おブぇッ」
何かを呟きながら、店長は俺を捨てる。顔面と床との距離が近すぎたゆえに接触は免れず、顔面から床に突っ伏した。
既にこの悲しみを訴えてもいい段階に入っていると思うのだが、果たしてこの世界にも労働基準監督署はあるのだろうか。おしえて、ギ〇ル子ちゃん。
「よし……それじゃあ、これを使え」
戻ってきた店長は改めて俺を椅子に座らせ、同時に自分も腰を据える。そして、差し出してきたものは鋭くも磨かれた美しい刃のペティナイフ……
「いったいこれで何を……?」
「何って、ナイフでやることなんて決まってるだろ? ……指を切れ」
「なんというバイオレンス!」
いきなり指詰めろとか、俺が何をしたというのか。まさか、昨日言っていた心構えってこれのことなの?
そうだとしたらブラックどころの騒ぎじゃないんだけど、ダークネスなんだけど。ダークネスなのはえっちぃやつだけで充分です。
「しかとご遠慮させていただきます」
「なにを言っている。お前は既に契約した身なんだぞ。いまさら覆せると思うな」
「契約の代償がデカすぎるでしょう!?」
「紙二枚に血印を押すことの何が大きいというんだ。指先を少し切るだけだろ?」
「なんですと……?」
テーブルを滑らせ、こちらに向けて二枚の紙が並べられる。そこにはやっぱり読めない文字がこまごまと書かれており、何について書かれているのかはさっぱり判らなかった。
ただ、下の欄に手書きで書かれた文字があることから、何らかの契約書に近いものだと思われる。
「これは契約書……?」
「……まあ、似たようなものだ。名前は私が書いておいたから、後は確認の意味も込めて、お前自らが血印を押すだけとなっている」
「そうだったのか。いや、てっきり……」
「てっきり……なんだ?」
どこぞの営業のテーマが聞こえてきそうな契約でも結ばされるんじゃないか、と。
まあ、さすがにあの白き悪魔でも、理不尽に理不尽を重ねる真似をすることは無かった。その分、手堅い絶望を残していきやがるから、あまり意味は無いんだが。
「……それより、店長はどうして俺の名前を知ってるんだ?」
「は? お前の名前はニートだろう?」
「いえ、違いますけど?」
「え?」
「え?」
寸刻の間、俺たちの時が止まった。まさしく水を打ったような静寂に包まれる。
冷静に考えて欲しい。名前がニートって、冒険し過ぎにも程があるだろ。
いったいどんな願いを込めたらその名に辿り着くのか。仮にベーシックインカムが成立しても、名前には成り得ないと断言できるくらいに理解不能の領域だ。
間違いなく、下手なキラキラネームよりも輝きをみせるだろう。もちろん、悪い意味で。
「俺の名前は御堂春一だ。いや、この場合はハルイチ・ミドウって感じになるのかな?」
「森で聞いたとき、どうしてそう名乗らなかったんだ?」
「職業を聞かれたのかとね、思ったんですよ……」
「なんで……いや、もういい。しかし、その名前からすると、東の生まれということに偽りは無いということか……」
「そうなのか?」
「そうやって、名前をひっくり返して読むのは共和国の方でしか行われないことだからな」
その共和国がどういう所なのかは判りようもないので、適当に相槌を打って流しておく。
店長の言い分からすると、その共和国はここよりも東に存在するわけだが、いくら名前の読み方が似ていたところで、クールジャパンな文化まで同じなんてことはないだろう。いったいどんな国なのやら。
「ところで、この店の名前なんだが……何か良い名前は思いつかないか?」
店長が新しく紙を用意して、俺の名前を描き込みつつ、尋ねてくる。
「ふ~む、名前ねぇ……」
おそるおそる自分の指にナイフを当てながら、思いついた名前を伝えると、店長は流れるようにそれを用紙に記入していった。そこに俺が血印を押すことで、二つの書類は完成となる。
今にして思えば、ここで疑問を持つべきだった。
「それじゃ、少し出てくる。大人しく待っていろよ」
どうして書類が二枚あるのかということに。
そして、オーナーであるはずの彼女が書類を持ってどこに出掛ける必要があったのかということに……
どこかホクホクした表情を浮かべて、店長は店の扉に手を掛ける。
すると、思い出したようにこちらに振り返った。
「そう言えば……ニートというのは、いったいどういった職業なんだ?」
それは、ニード・ナットゥ・ノゥ――知る必要の無いことでございます。