序章 異世界就職 ②
ゲームマスターだけが使える特別スペルにより、日本から排除されて、どれほど経ったのだろうか。
木々が風にそよげば、瞬く間に音が呑み込まれる天然自然の空間。木漏れ日の注ぐ大地は少し湿り気を帯びて、程良い涼しさを提供してくれている。
というより、寧ろ寒いくらいなのだが、そこはまあいい。これが娯楽目的の来訪であったのならば、存分に楽しめたことだろう。
問題は俺にとって、この森林が出口の判らないラビリンスに他ならないということであり……
いまだ緑溢れる天然自然の空間を彷徨っているということだ。
なまじ時の流れがゆったりと感じられることもあいまって、既に心は萎れ欠けている。というか、もう折られていた。ネガティブ幽霊さんに透過されたんじゃないかってくらいにガッツリ持っていかれていた。
誰だよ、ポジティブとか言った奴。
もうハルチカお家帰りたい……
なんて、ふざけたこと言ってると、麗しの生徒会長ファンクラブに、ヴァルハラへと送られかねないので、ここいらで愚痴は止めておこう。
とにかく気休めでもなんでも安らぎが欲しい、この現状。
森林の中を歩けど、同じような景色ばかりで芳しい変化は無い。川でも見つかれば御の字なのだが、そうもいかないようだ。
まあ、仮に川があったところで、飲める程のモノである可能性の方が低いだろう。
それに飲むことが出来たとしても、ゆとりを極める俺からすれば、結構な勇気が要る行為だ。
何しろ天然の水は都市部とは異なり、洗浄されていない。そんな水を飲んで、腹を下そうものなら、色んな意味で大惨事になる。それこそ、茶色に塗れた地獄絵図に。
飲める水と飲めない水との境界線が判らない以上、やはり二の足を踏むことは避けられず。今ほど微妙に鉄の味がする学校の水道水が恋しくなることもなかった。
幸いなことに日はまだ高いらしく、辺りの明るさと葉の隙間から入る光がそれを証明してくれている。
ただ、その光の角度やほんのりとオレンジ色に染まっているのを見るに、あまり悠長にしていられる時間もなさそうだ。
このまま朽ちるのも嫌だが、どことも知れぬ森の中で野宿するのも避けたい。
ある日、森の中でくまさんに出会ってみろ。
花咲く森の道どころか、血飛沫滴る惨道の出来上がりだ。俺だったら、間違いなく発狂する……
そんな風に考えながら歩いていたのがマズかったのだろう。俺は目の前の存在に気付かずにぶつかってしまった。
「ブフォ……?」
それはそれは、くまさんなんか目じゃないくらいの巨大なイノシシっぽいヤツに。
最終的にタタリ神となってしまった某主様みたいなヤツに……
「ブモフォォォォォォォォォッ!!」
「ぬわぁーーーーーーーっ!!」
爆弾のような唸り声が大気を振るわせる。一人と一匹がほぼ同時に叫ぶも、恐怖と驚愕に満ちた俺の叫び声は獲物を見つけたヤツの喜びによって掻き消された。
化物はこちらに向き直りつつ、俺を丸呑みに出来そうな大きい口を開いて、のっそりと近づいてくる。ただ、立ち竦んでいる俺が逃げないと判断したのか、その挙動は遅い。
その判断は概ね正しかった。迫まる異形の存在を前に俺の足は石のように重く、己の意志で動けない。
緊張により早まった鼓動が血液を全身に流すのを、音と共に感じるだけ。
途端、視界がブレた。それと同時に尻に衝撃が走る。
生存本能なのか、無意識に後ずさりをしていた俺は足元にあった何かに引っ掛かり、尻餅をついたのだ。
自分でも予想外の行動にヤツが気付くこともなく、眼前でその口が閉じる。巨大な口の開閉によって生じた圧力のせいか、空気が押し出された。
まさかの異臭オプションを伴って。
アンモニア臭に、腐敗した生物の臭いを混ぜ合わせたような臭いとでもいうのだろうか。考えたくもない激烈な痛みが俺の鼻を襲う。何でこんな口が臭いんだ、豚野郎。
余りに強烈な臭いは、鼻から後頭部までを貫くような衝撃をもたらし、否応なしに鼻を押さえざるを得なかった。かつてここまで醜悪なゲイボルグがあっただろうか。いや、どこぞの不浄王がもっとヤバい技を使っていた気がする。
なんにせよ、恐怖よりも不快感が増したことで動けるようになったのは怪我の功名という他無い。なまじ強烈なだけに、嗅覚が壊れていないことを切に願う。
とはいえ、今はそれどころじゃない。
「三十六計逃げるにしかずっ!」
立ち上がり、一目散に走り出す。もちろん、全力で。
敵に背を向けるのは危険かもしれないが、知ったことではない。どのみちあの場に留まったところで、デッドエンドへ至る時間が少し短くなるだけだ。
ならば、逃げの一択。これに尽きる。
しかし、その大きさを除けば、ヤツの形状はイノシシそのもの。単純な走力で言うなら、イノシシは人類よりも速い。さらにはトリュフ探しに豚が使われるように嗅覚にも優れている。もしあの化物が人間を好物としているなら、臭いで追跡される可能性も高い。
あの一瞬でヤツの恐ろしい口臭に塗れているならば、心配する必要も無いのだが、それはそれで別の問題が発生してくる。
ともかく、肝心なのはヤツがどの程度の俊敏性をもっているのか、ということだ。
巨体ゆえにそこまで速さはない……と思いたい。というか、速かったら本当に命は無いので、それも願うしかない。
走る、走る、とにかく走る。某超人家族の長男になった気持ちで走る。
しかし、いくら水の上を走る気概を持とうと、所詮は無職の身体能力。状況は限りなく絶望的だ。
体力測定で俺が出した短距離最高記録は七秒と四。ほぼ平均と同値なうえ、それも三年前の記録だ。今となっては、碌に運動もしていない俺がそれより速く走れるかといえば、答えは否。
仮に走れたとしても、短距離世界記録保持者よりも速い速度を出せる動物(?)に勝てるわけが無い。
加えて、ここは平野でなく森林。ただでさえ、走りにくいこの場所はヤツの独壇場ともいえるフィールドだ。
つまり、あらゆる要素が俺に死ねといっているようなもので……
どうする!? どうすんのよ!?
いや、どうしようもないんだけどっ!
「そんなのイヤだ……っはあぁぁぁぁぁあぁああっ!?」
思考をフル回転させたところで判ったのは、結局バッドエンドへと進む道筋だけ。
俺は目を瞑り、上空を見上げては絶叫した。そして、盛大にスっ転んだ。
視覚情報を完全にシャットアウトしていては、当然の結果と言えよう。間違いなくドジっ子だ。寧ろ、正面を気にせず、ここまで転ばなかったことが奇跡に近い。
走行中はちゃんと前を向いて走ることを胸に誓いつつ、目を開いた。
事故に遭う直前、時間を遅く感じると聞いたことがある。今の俺はまさにそんな状態だろう。いや、この場合はもう事後なんだけども。
脚に引っかかったと思われる太い木の根は千切れ、俺自身は宙に投げ出されていた。
そのまま十メートルは飛んだところで、そびえ立つ大木に顔面から衝突する。なんとダイナミックな転倒だろうか。
木も骨もミシミシと音を立てて軋んだが、折れることがなかったのは行幸だった。
「いってぇ……じゃなくてっ! 豚は!?」
重力に従い、落下するやいなや、今しがた自分が走ってきた方向へ振り返る。
しかし、そこに豚野郎の姿は無く、代わりに何か大きなモノが奔り抜けたような軌跡が道を織り成していた。
「撒くことができた……のか?」
無職が? 巨大なイノシシらしきヤツを?
地響きもヤツの鳴き声も聞こえない中、羽音や鳥の鳴き声は姦しいくらいに聞こえてくる。
このざわめきが俺の所為なのか、豚野郎の所為なのかは知らんが、こちらも命の危機とあっては他の生物のことなんて気にも留めていられない。
とりあえず、助かった命だ。色々と疑問はあるが、奴さんがここに来る前にその場から離れるとしよう。
道なりに来れば、ここに辿り着くのは確実。匂いに関してはどうしようもないので、悪足掻きみたいなモノだが、やらないよりはマシだ。
己が誓いの通りに、今度はちゃんと前を向いて走り出す。
そこで、初めて自身の変化に気が付いた。
まるで風になったかのように体が軽い。けれど、軽くなったという実感が無い。
寧ろ、それが当たり前だったかのように何一つ違和感無く、ジョギング程度の走りでグングンと進んでいく。
もしかしたら、俺は風の谷で生まれたのかもしれない――
そんな有り得ない疑念が脳裏を過るほどに、俺は風と一体化していた。
自分の顔型が刻まれてそうな大木の場所から、適度に距離を離したところで、腰を下ろす。出身地詐称疑惑は置いておくとして、とにかく今は休憩しよう。
身体は問題ないが、気疲れがとんでもない。わりと本気で、九死に一生を得た気がする。ただ、それも含めて、意識だけが現実に付いて来れていない。
一つは、ここがどこかということだ。
先の豚野郎を考えれば、少なくとも日本である可能性は低いだろう。あんな人食い豚が存在するなど聞いたことが無い。というか、そもそも豚は肉食じゃない。
あんな奴が国に存在するなら、先ず間違いなく封印指定……じゃなくて、駆除の対象となるだろう。
となると、ここは……
「異世界ってやつ……なのか?」
伊達に妄想を積み重ねてはいない。培われてきた俺のオタク知識が、そう結論をはじき出す。もちろん、確証は無いのだけれども。
もしかしたら、俺が知らないだけで外国に存在する普通の豚なのかもしれない。それか、豚が突然変異を起こして、BU-TAになった可能性も無いわけではない。
可能性の話をするなら、それこそ星の数ほど答えはある。豚だけで判断することは出来ないだろう。
だが、もう一つ……
ここが異世界だとするならば、俺の身体能力が大幅に向上した疑問も自ずと解消される。そして、それはここが異世界だという証拠にもなるのだ。
そう、チートという一言によって。
考えても見てほしい。
まだ日常的に運動していた全盛期でさえ、辛うじて平均値より上の人間がイノシシと走力勝負をして、勝てるのかどうかを。
まして、逃げ始めから現時点に至るまで、息切れ一つ起こしていないというインドア無職にあるまじき体力を。
まだ具体的にどれほどのモノなのかは判らないが、チートと呼べるだけのモノであることは、先の作られた軌跡が証明している……
「ふ、ふふふ……」
そうだ、そうなんだよ。
俺は選ばれた。地球上にあまねく存在するオタクの誰もが、少なからず望むであろう数奇な運命に選ばれたんだ!
「ふわぁーはっはっはっはっははははぁっ!!」
これぞ、まさに選ばれし主人公の特権! 俺は紛うこと無く勝ち組となったんだ!
これを喜ばずして、何を喜ぶというのか! 笑わずにはいられないッ!
「何しろ、俺はこれから世にも霊妙な美少女ちゃん達とイチャコラするってわけだからな……!」
この気持ちは喜び。いや、狂喜と言っていいだろう。溢れ出る感情は笑いとなって、森の中へと響き渡った。
まるで長期休暇にある宿題という名の呪縛から解き放たれたときのような、散々煮え湯を飲まされたボス敵を撃破したときのような、他人に苦痛を与えたときのような……愉悦は専門の部活動で行ってもらうとして……かつて無いカタルシスに俺は打ち震える。
「アーハッハッハッハハハハハハッッ!! …………ふう」
けれど、それもほんの数十秒のこと。
ゲーム終了時のウィ○キーバニオンちゃん並みに笑い果てたところで、冷静になった。
よくよく考えてみれば、何かがおかしい。
美少女ちゃんに――
『あの……大丈夫ですか?』
――と助けられることも無ければ、
『お待ちしておりました、勇者様』
――と召喚されたわけでもない。
俺の身に起こったことと言えば、エセ求人冊子に森で働け……意訳して、死ね……と、飛ばされた挙句、豚野郎に喰われそうになっただけ。
現状におけるチュートリアルもなければ、解説してくれるお姫様も女神様もメイドさんもいない。そもそも最初に出会った存在が人ですら無いって、どういうことだよ。
「…………」
思わず絶望したと言いたくなったが、それをグッと堪える。
こちらに来てまだ半日も経っていないのだ。嬉し恥ずかしハプニングとか、美少女奴隷を購入するとか、フラグイベント、縮めてフラグメントに遭遇する機会は山ほどある。いや、寧ろ決まっているとさえ言っていい。
これからに期待――
学校の教師が通知表に書き込む慰めの報酬を心に刻み、俺は立ち上がる。そう、俺たちの戦いはこれからだ!
「さてと……」
そうと決まれば、今の俺が何を、どの程度出来るのか、確かめておく必要がある。
不思議なまでに違和感が無い分、何も知らずに力を振るうのは危険極まりない。下手をすれば、蟻の王に押されたニセ総帥のような、規制の入り乱れる惨劇を作り上げかねない。
そうならないためにも、最優先で知っておきたいことと言えば、当然……
「そぉい!」
力の矛先を攻撃に転じた結果だ。
手近な木に全力の拳を叩き込んでみれば、大砲を撃ち込まれたように抉れ、砕け散った。
本来なら、俺の拳が悲鳴をあげそうな自傷にも等しい行為。けれど、実際に起こったことは想定の斜め上のことだった。
自重を支えきれなくなった木は当然のように倒れ、木屑や埃が宙を舞う。
もちろん、俺の拳に痛みは無い。嘘です、ちょっとズキズキしてます。
「しかし、チートってすげぇな……」
まさに格闘バトル漫画のような破壊力。当然、それを生み出す腕力も凄まじいことになっており、倒れた木に指を食い込ませれば、片腕で軽々と持ち上げられた。
そのまま確認とばかりに素振りを繰り返し、ジャイアントスイングよろしく大車輪を描いては、地面に突き刺したりと、大いにはしゃぐ。
気付けば、周囲の木々は根こそぎ倒れ、竜巻が発生したかのような惨事の痕が出来上がっていた。
いかんな、こういうことを起こさないための確認だったというのに……
でもまあ、仏の顔もと言うしね。きっと、この有り様を見た人は言葉では言い表せない「愛なんです☆」みたいなモノを感じてくれることと思う。
そう、愛なら仕方ないんだ。
半ば逃げるようにして、再び場所を変えつつ、他にも出来ることは色々と試してみる。
バレリーナのように柔らかくなった体を存分に発揮させてみたり、中学生のときに憧れた後方転回、通称バク転を連続でやってみたり、「アイエエエエ!」と叫びながら、木の上で忍者走法を楽しんだり、ラジバンダリしていた。
今なら地球人最強のクリ◯ンと互角の勝負が出来ると思ったが、おそらく気円斬と太陽拳のコンボにより瞬殺されるので、即刻考えを改める。
目で追ってるからダメと言われたところで、俺に気を感じる術は無い。ちなみにエクスぺクトなパトローナムを初め、覚えている限りの呪文を唱えてみたものの、MPが足りなかったのか、何も起こらなかった。
「よし、これなら……」
ともかく、力の扱いにさしたる問題は無いようだ。
それを踏まえて、現状を鑑みれば、やるべきことは一つ。膝を曲げ、全力で地を蹴り上げれば、群生している木々を越えて空へと向かう。
ここがどこで、人里がどの方向にあるのか、そもそもここは本当に異世界なのかといった事実確認をするには、高い場所の方がいい。
要はマップ確認だ。少なくとも、これ以上闇雲に歩き回るよりはいいだろう。
ヒュー! 俺ってば冴えてるぅー!
実際、ここが本当に異世界だとして、その醍醐味を何一つ味わえぬまま、朽ちるなど以ての外だ。
死んだら死んだで、どこぞの天使ちゃんに会えるかもしれないが、それは天寿を全うしたときに願いたい。
空中にてゼログラビティの感覚を味わいながら、出来る限り周辺を見渡すと町のような建物の多い場所を発見する。同時に日本とは異なる景色を目の当たりにした……と思う。
地元と我が家でデカい顔していただけの無職に日本の原風景など判るはずもなかった。誰か奇跡を起こせる程度の早苗さんに聞いてくれ。
ただ、日の丸を象徴するあのFUJIYAMAが見当たらないあたり、やはり日本とは異なる場所なのかもしれない……
「なんじゃ、ありゃ……」
というか、明らかに違っていた。
己が目に映ったのは大樹とおぼしきもの。地続きの果てにあるそれは幹は山脈のように太く、枝の先にある葉が天蓋を作り上げている。
ここから、どれだけ離れているかは皆目見当も付かないが、確かに規格外の大木がそこにあった。
その反対方向にはおそらく海であろう水面と水平線が見える。距離的にはこちらの方が近いか。
近くにある街以外にも、それらしきところが点々と窺えるが、見はるかす大地は山やら森といった自然の方が多い。
「おお~、すげぇ~」
空を穿つような天険の地は雲に覆われ、森共々夕焼けによって鮮やかに彩られている。水面は鏡のように黄昏の光を映しながらも、唯一その眩い煌きを反射させていた。
こんな景色はゲームやイラストでしか見たことがない。まあ、現実に山よりも大きい樹なんて存在しなかったわけだから、当然なのだが。
地下の村から天元突破するにまで至った伝説の螺旋戦士も、地上に飛び出した瞬間はこんな気持ちだったのかもしれない。その眼に映した風景は異なれど、おそらく抱いた思いは一緒のはず……
「ふつくしい……」
ものの三分にも満たない時間の中、俺は非常に感慨深い思いで初めて見る景色を堪能する。何かが違う気もしたが、それに気づいた辺りで徐々に視界が落ち始めた。
ただジャンプしただけなのだから、自然落下するのは当たり前のこと。舞○術のように浮いているのとはわけが違う。
頭では、そう理解出来ていたのだが、ふと下を見て愕然とした。
予想より遥かに高い。高すぎる。
今にして思えば、俺はスカイツリーはおろか、遊園地の観覧車にすら乗ったことがない。当然、バンジージャンプもしたことがなかった。
だというのに、今の状況は命綱も無く、体重を受け止め、支えてくれる床も無いという未体験ゾーンのド真ん中……
「待って待って! おうっ! ちょ、たたたた、助けてぇぇぇぇぇええええええええっ!!」
空中で平泳ぎしたところで、手足が尋常じゃない速度で空を切るだけだった。
みるみる迫る木々と、その間からチラリズムを発揮してくる地面。どんどん加速する俺。
「フォォォオォォオオオオゥウゥゥゥゥウウウッッ!!」
その日、森に何かが飛来したと、後に辿り着く街で噂になる。
クレーターが作られるようなことこそ無かったが、俺自身は大幅なダメージを受けることとなった。
「ぐおぉぉぁお……っ」
尻骨から痛みが駆け上がってくる。
某マスコット恐竜が大乱闘を繰り広げているときにヒップドロップして自滅したような、そんな気分。
まさかの尻から着地という大失態をした俺は体を丸めて悶絶していた。
如何にチートといえど、尻の防御力はそれほど高くはないらしい。もし着地地点が上方向に尖っていたら、前代未聞の大惨事になっていただろう。考えただけでも、身震いが凄いことになる。
自分であれだけ跳べるなら、着地も同様に行えることに気付いたが、もはや後の祭り。やはり突発的なことに対応できるだけ意識との擦り合わせが出来ていない。
結果として、全然冴えてはいなかった。
多少の痛みが残ってるものの、尻を擦りつつ、街の見えた方向へと歩き始める。
なにやらドでかい大きい建物や敷地も見えたから、それなりの規模を誇る街なのかもしれない。
ここに飛ばされて、どれほどの時間が経ったのかは知らないが、命を賭けた全力疾走から始まる久し振りの運動に、だいぶエネルギーを消耗した気がする。
腹も減ってきたし、喉も乾いてきた。ゆとり無職は低燃費だが、効率がいいわけではない。
だが、一つ問題がある。ここがどんな世界であれ、おそらく社会という生活体系が構築されているはずだ。そして、そこの中核を担っているのは、やはり貨幣だろう。
RPGゲームで武器を優先する余り、他がおろそかになって、死にかけた経験のある人も多いはずだ。
アイテムを買うにしろ、宿に泊まるにしろ、お金が無くてはどうしようもない。貨幣のシステムが成り立っているのであれば、どこかでやり繰りする必要がある。
しかし、今の俺は英世さん、一葉さん、そして我らが諭吉様はおろか、小銭すら持ち合わせていない。そもそも、彼らがここで有効なのかも判らない。
我が家から唯一持ってこられたスマートな相棒は今でこそ機能しているが、充電機器が無い以上、いずれ死に体になるのは明白。そのうえ、常に圏外であり、端から使い物にならない。
異世界でも自分の居場所が判る……
そう、アイフ◯ンならね。
なんて、都合の良いことはないようだ。とはいえ、相棒がリンゴではなく、ドロイドの時点でどうしようもないのだけれども。
役に立つとしたら銃弾を防ぐくらいだろうが、果たして防弾アプリも無いこの相棒に防ぎきれるのかは疑問が残る。やはり、シルバーを巻いておくべきだったか……
「まぁ、街に着いてから考えればいいか」
いざとなったら、「ニホンゴワカリマセ~ン」とか言って、窮地を乗り切るほか無い。それでも通じなかったら、ジャパニーズDO☆GE☆ZAを披露して進ぜよう。
仮にそうなってしまっても、母上……どうか不出来な息子を許してくださるよう……
「…………」
そうだ、今頃母さんはどうしているのだろう。
家に居るはずの肉親がいないとなれば、その状況を目の当たりにした人がどう動くのかなんてのは、想像に難くない。
時間的にはまだ有余があるだろう。かといって、家に帰れるかといえば、それは絶望的だ。方法が判らないという意味でも、浮かれているような状況ではない。
それこそ魔法でも使えれば、まだ一縷の希望もあったんだが……
「っと……」
足を進めつつ、考え事に耽っていると、また何かにぶつかってしまった。
いかんな。さっき前を見ると誓ったばかりなのに、まるで学習していない。前方を確認すると、先程見かけた覚えのある大きな体躯の生物が横たわっていた。
まさかの豚、再☆来。
「おっっうぶっ……」
またもや叫びそうになったところで、不意に口を押さえる。半ば反射的だったが、学習していないというわけでもなかったようだ。
何かと縁のある豚のようだが、人を食うような天然の豚と赤い糸で繋がっていても、まったく嬉しくない。なんなんだ、お前は。せめて、ケモっ娘に生まれ変わってから出直してこいよ。
恐る恐る相手の様子を窺うも、豚野郎はこちらに気づいた様子もなく、ひたすらに沈黙を貫いている。先程とは打って代わって、どこかゲッソリとして見えた。
ヤツの身に何があったのかは判らない。判らないが、こちらに好都合なことであるのは間違いない。
先程と状況が異なっているのは、こちらも同じこと。何をされようと、確実に抵抗できるだけの力がある。
けれど、忍び足で足を動かそうとした瞬間……
「ん? 誰かいるのか?」
あろうことか、豚が語りかけてきた。しかも、女性の声で。
さっそく神様が俺の願いを聞き届けてくれたのだろうか。それにしては、恐ろしく中途半端な結果である。
「キェェェェェェアァァァァァァブタシャァベッタアァァァァァァ!!!」
なんにせよ、言い知れない恐怖を前に俺は叫ぶしかなかった。
透き通るような声音はどこか神々しくも、儚さを持ち合わせている。そんな声が複数の傷跡が刻まれている豚から出てきたとなれば、驚くほかあるまい。
先ほどの荒々しい鳴き声と、状態異常が多発させるような臭い息から考えても、カイ〇キーの性別が雌であるくらいのミスマッチ加減だ。
「誰が豚だ……と言いたいところだが、そちらから私は見えなかったな」
どうやら豚の精霊さんというわけでもなかったらしい。
明るい綺麗な栗色の髪の女性が豚の影より、こちらに歩いてきた。
既に垢抜けた顔立ちは美しく、ややつり上がった瞼の奥に鋭い光を宿している。その凛とした佇まいから醸し出されている雰囲気はまさしく美女のそれだ。上げるようにして留められた髪がまた、それに拍車をかけている。
鎧こそ纏っていないが、泰然とした雰囲気はまさしく騎士そのもの。にもかかわらず、その胸にロマンが無いのはなにゆえだろう。
正確な年は判らないが、おそらく二十代ではあるのは間違いない。しかし、その整った外見から十代に見えてもおかしくなかった。
「お前……けっこう汚れているな。いったいこの森で何をしていた?」
「…………ぁ」
そう尋ねてくる女性を前に俺は呆けることしか出来なかった。ついで、遅れ様に衝動が込み上げて来る。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
返答がこないことに心配したのか、少し表所を強張らせながらその女性が尋ねてくる。変なキノコでも食べたとか思われているのだろうか。
「…………っと……」
「ん? なんだ?」
だが、どう思われようと今の俺にそれを気にする余裕などなかった。
「やっと人に会えたぁーーーーーーーーーーっ!!」
そう、この喜びは誰にも止められない。
少なくとも数時間は森で彷徨っていたのだ。柄にも無く、神様に感謝してしまう程度には喜んでいる!
この際、初めて出会った女性がヒロインというより、女上司って感じなのもどうでもいい!
「お、おい?」
「しゃあぁぁぁっ! キタコレーーーーッ!」
これで野宿の可能性は著しく減っただろう。きっと街まで案内してもらえるはず。場合によっては色々と融通してもらえるかもしれない。
「なぁ……」
「ヤッフウゥゥゥゥゥゥッ! ヒィーーハァーー!!」
「話を聞けッ!」
「ぉぶしっ!」
そして、俺の喜びはいとも容易く止められた。
初対面の人にグーパンもとい拳骨を噛ますのはいかがなものかと思うが、これは致し方ない。俺が悪かった。
それと、普通に聞き流していたけど、この人当たり前のように日本語喋ってません?
◆
「そう言えば、まだ名乗っていなかったな。私の名前はメルシェ・マイアだ。一応、とある店のオーナーをやっている。お前は?」
歩きながら、流暢な日本語で自己紹介してくるメルシェさん。
誤魔化しの手の一つが早速使えなくなったが、言語が通じるのなら、その方が利点は大きいだろう。土下座することもないのだから、これでよかったということにしておく。
現在、俺は彼女の案内のもと、近くの街へ一緒に向かっていた。事情を掻い摘んで説明したら、連れて行ってくれることになったのだ。
ちなみにその案内人は豚野郎の亡骸をズルズルと引きずっている。オーナー自らが巨大な豚を狩るとか、いったいどんなお店と思わなくもないが、そこはかとなくヤバい臭いがするのでスルー。
とまあ、そんなところで、自己紹介をしてくれたわけだが……
よりにもよって、俺の職業を聞いちゃうの? いいの? 死ぬよ? ……俺が。
「俺は、その……ムショクと言いますか、ニートと言いますか……」
案内してもらっている手前、答えないわけにもいかず。
居た堪れない気持ちでそう言い淀んでいると……
「そうか。なら、ニートよろしくな」
こちらの苦悩など、どこ吹く風。メルシェさんサラッと笑顔まで添えて言い放った。俺の目が点になったのは言うまでもない。
「それで、お前はどうしてこんな森で遭難を? まさかとは思うが、密入国者ってことはないだろうな? 仮にそうなると、出るところを出て貰わねばならんのだが……」
「……その前に一つ言わせてくれ。俺は……ニートじゃない」
「いや、お前がそう言ったんだろう?」
「確かに口にしました! しましたけど、『なんでニートが森で遭難してんの?』とか、『え、もしかして自殺ですか?』みたいにもっとこう……疑問に思うことがあるんじゃないの!? なんで、さも当然のように受け入れちゃってんの!?」
「お、おい、どうした? 落ち着け……」
「じゃあ、他に何かって訊かれたら、ニートですとか言えませんけどっ! 違うものは違うんですぅ!」
散々、無職とニートの違いを語っておきながらニートという都合のいい言葉に頼るしかない現実。それでも、無職だなんて言えないし、言いたくもない。
「つまり、俺がニートであるエビデンスは無くて、社会という名のマネジメントモデルがリスクとコストパフォーマンスからシナジーを得ることでコンセンサスも同時に得ようとニッチなコミットメントをしたリザルトなんだよ!」
どっちにしろ社会不適合者なのは変わりない事実かもしれないが、こんなゴミにもプライドはある。そう、微粒子レベルの……
「アグルィー?」
「いったい何を言ってるんだ、ニート。呪文か?」
俺は泣き崩れた。まさか、働けと飛ばされた先の地、とはいってもそもそも働く場所なのかは疑問なところだが、その地でこうもニート呼ばわりされるとは……
いやまあ、最終的に俺も何を言ってんだかよく分からなかったけども。
巻き舌を駆使しようと、横文字はダメだね!
だが、言わせてもらおう。それでも俺はニートじゃない。
「一先ずそれは置いておくとして、私の質問に答えてくれないか?」
「ん? あ~、そうだなぁ……」
俺のニート呼ばわりについての議題を颯爽と投げ飛ばして、メルシェさんは再度答えを訊いてくる。それだけ重要ではあるのだろうから、無理もないが。
実際、密入国と言えば密入国なわけだし、その意味で彼女の目の付け所は賞賛に値する。けれど、如何せん自分の意志とは関係ないし、「目的の無い密入国ってなに?」ってなるわけであって……
豚野郎とのチェイスバトルや、メテオヒップドロップを興じるために飛ばされたなんてこともない。
かといって、「気付いたら、ここにいました」なんて言ったところで、どれだけ信じてもらえるのかも判らない。まさしく八方塞がりだ。
「……多分、密入国者ってやつじゃないですかね?」
「疑問形のうえに、突き出されることすらありえるこの状況で、いやに軽いな」
メルシェさんが少し毒気を抜かれたように表情が緩んだ。
「いや、俺としても来たくて来たわけじゃないっていうか……そもそも、ここがどこの国かだってよく分かってないのに、どうしろってんだ?」
「はぁ? ……なら、お前はいったいどこから来たんだ?」
「えっ? それは……東の方じゃない、です……かね?」
お互いの頭上に疑問符が飛び交うが、嘘は言っていない。極東の国、黄金の国と言われた我らが日本は間違いなく、東のエデン……いや、言いたかっただけです。
ともかく、こちらとしても犯罪者扱いは困るので、寛大な処置を願いたいところではあるが、それは隣を歩くその人次第。
「東の方……となると共和国から? いやしかし……」
なにやらぶつくさ呟いているあたりが不安を誘う。ホント、独房とかは勘弁していただきたいです。
そんなとき、俺の腹が中々の音を発てて、自己主張をしてきた。
「ふむ……まあいい。お前の処遇を決めるよりも前にやることがある」
「ご飯ですか? ありがとうございます!」
「違う。先程、彼方より叫び声が聞こえた。私はその遭難者を助けなければならない…………ん?」
「お察しの通り、私めがその遭難者です」
にこやかにそう告げると、メルシェさんは興醒めと言わんばかりに溜め息を吐いた。もう少し、喜んでもいいんじゃないでしょうか。
それにしても、あの時の叫び声が聞こえているとは思わなんだ。そのうえ、この人が豚野郎を仕留めたのだから、なんかあらぬ運命を感じる。
「なら、さっさと街へ向かうとしよう。ついでに飯と寝床は私が提供してやる」
「えっ、よろしいので?」
「見た限り、お前無一文だろう? どんな因果にせよ、拾ってしまったのは私だ。野放しにして、無用な事を起こされても困る。言わば、お目付けみたいなものだ」
「じゃあ、頑張ってください」
「どうして、他人事なんだお前は……」
逆にどうやってシリアスに捉えればいいのかを聞きたい。
ブタ箱にぶちこまれるのは確かに御免だ。でも、取り立てて悪いことはしていないし、この状況で飯はおろか、宿まで提供してもらえるとなれば、俺には感謝しかない。
とはいえ、いくら野放しに出来ないといっても、身元不明の男を一つ屋根の下に泊めるのに抵抗が無いのはこれ如何に……
と疑問に思ったが、彼女が引きずっているモノを見て納得した。
何かをしようものなら、それこそ問答無用で豚野郎のごとく狩られるに違いない。犯罪を起こすつもりはないが、それでも背筋ときんのたまが凍った。
自分よりあからさまに大きな物体を片手で引きずる女性。きっと見た目は淑女でも、実際のそれはラ◯ウなのだろう。真実はいつも一つ。
「悲しいけど、これって現実なのよね」
「は?」