01
ぱちんっ
という音が鳴って、ひりひりとした額の痛みとともに金田悠介は目を覚ました。
ここは彼の通う高校の屋上である。夏の迫る季節だったが、空は雲に覆われているためそこまで暑さを感じることはなかった。屋上へ出る階段は校舎の端にあるため滅多に生徒が来ることもなく、まして今は授業中という事もあって彼以外に誰も居るはずはない。しかし、目を擦りながら見上げたその先には一人の少女が立っていた。肩まで伸ばした茶色の髪、切りそろえた前髪から覗く大きな目はじっと彼を見つめている。
「起こすなら普通に起こしてくれませんかね、美空さん…」
美空と言われた少女は悠介にもう一発デコピンをしようと手を伸ばしていたが、彼が起き上がるのを見ると手を引っ込めた。
「おっ、起きたねユウ。あんまし世話掛けさせないでよね」
「別に頼んじゃいないだろ」
悠介はまどろみながら答える。
「素行の悪いクラスメイトを正しい道に導くのもクラス委員長の仕事ですからね。それにおばさんにもユウのこと宜しくって頼まれてるし」
「…うちの親はろくな事を頼まないみたいだな」
そう言いながら悠介がため息をつくと、美空はにししと笑いながら彼の隣に腰を下ろした。
「それと、あんたがまた授業サボるから玉ちゃん落ち込んでたよ」
「あー、授業をサボったのはアレだが…それより教師なんだからせめて先生はつけて呼んでやれよ」
歴史教員の玉川の名前を聞いて、自分が授業をサボって屋上に来ていた事を思い出した。そして空を眺めるうちに、いつのまにか寝てしまっていたのだ。
別に普段からよくサボっていたわけではなく、どちらかと言えば歴史の授業は好きな方であったので今までは真面目に授業を受けていた。授業外で気になることは調べたりもしていたし、過去にあった戦争で荒廃した世界を人類が数百年かけて今の暮らしにまで立て直した事を知った時は素直に凄いと思っていた。
だが三ヶ月ほど前にロケット部の部室で崎島先輩と話をしていた時、自分では全く考えもしなかった疑問を不意に突きつけられた。それ以来彼はその事ばかり考えるようになり、いつの間にか歴史の授業の時間を屋上で過ごすようになったのである。
「しかし、お前もわざわざサボってまで呼びに来る事もなかっただろ、仮にも委員長なんだし」
悠介の言葉に美空はぶーっと頬を膨らませた。
「私普通にクラス委員長なんですけど。それにあんた気づいてないみたいだけどもう授業終わってるからね」
「マジで?」
「とっくに昼休みになってるよ」
美空はそう言いながら、布に包まれた箱を二つ取り出した。ピンクの花柄の可愛らしいものを自分の膝に置き、もう一つの紺色の何とも地味なものを悠介に渡した。
「はいこれ」
「俺の弁当じゃん。さすが委員長、気が効くな」
「幼馴染として、ね。さぁ、さっさと食べよ。昼休み終わっちゃうよ」
悠介は美空を拝みつつ弁当を受け取り、曇り空の下弁当を食べ始めた。
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「そう言えばあんたいつも授業サボって何してるわけ?」
しばらく他愛のない会話をしながら弁当を食べていた美空は、最後の一切れのサンドイッチを手に取りながら悠介に質問した。
「あー、ちょっと空を見てたんだよ」
「空ってこの曇り空?」
「いや…もっと上の青空と太陽をな…」
彼は浮かない顔で応えると雲の向こう側を見る様に空を見上げた。
悠介と美空は青空を見た事がない。彼らが生まれるずっと前から空は雲に覆われていて、もっと言えば現在生きている人間の中でそれを見た者は誰一人としていないのだ。
かつて戦争で大量の化学兵器が使用された。多くの人が住む場所をなくし、逃げ惑い苦しんでいたが戦いは激しさを増す一方で、人々は次第に疲弊していった。それでもとどまる所を知らず、ついには核兵器にまで手を伸ばした。その結果、山は焼け、湖は涸れ、見渡す限りの焦土に包まれた。争う人々も、逃げ惑う人々も、関係のない人々も、分け隔てなく命を奪われ、人類は総人口の三分の二を失った。過ちに気付いた人々は世界政府を設け、ひとつの意思のもと二度と争わない事を取り決めたがその決断はあまりにも遅く、高度に発達した技術の大半が失われ、残った物は汚染された海と、電磁波と暴風渦巻く雲に覆われた空だった。
それでも長年の努力の末、海は後二百年程で戦前の姿に戻るといわれるほど浄化されてきた。場所にもよるが、七割ほどの海では人が防護服をつける事なく泳ぐ事が出来る。一方で空は依然として猛威を振るい人々を地上へ縛り続けている。過去何百機ものロケットが雲の様子を探ろうと打ち上げられたが、そのすべてが電磁波の影響で制御不能に陥り、激しい風に機体を破壊され地上へと叩き付けられた。それでも諦めずに打ち上げ続けていたが、一向に解明できない虚しさと雲の圧倒的な力を前に人々は憔悴していった。連日の用に打ち上げられていたロケットは年を追うごとに減っていき、今では年に打ち上げられるのも数える程であった。
現在ロケットの打ち上げをしている国や企業は幾つかあるが、本格的に研究・開発をしているのは世界でも有数の造船・貿易会社“EVOLVE”のみである。
「そっか…今度は上手くいくと良いね」
悠介の表情を察した美空はそう言うと同じ様に空を見上げた。
「まぁ先輩の設計だからな。俺らみたいな素人が造るより何倍もしっかりしてるだろ」
「確かにユウのじゃ雲まで届かなかったからね」
場の空気を察してか表情をくるっと変えおどける悠介につられ、美空もけらけらと笑う。
「一応お前も一緒に造ってるんだからその笑いは自分にも降りかかってますよ」
「私は手伝ってただけだもん。ユウがやりたいならそれでいいのよ」
「さいですか」
などと話をしていると不意に予鈴が鳴り響いた。
「やばっ!次の授業ウォーターバイクの実技だった。早く行かないと遅刻しちゃう!」
「さすがにクラス委員長は遅刻できないもんな」
「あんたも一緒でしょっ!ほらっ、さっさと行くよ」
パパッと片付けをすませた美空に手を引かれ、悠介は屋上を去って行った。