きりのなかにいる
私と中学生の息子が、東北の山村のこの土地に引っ越してきたのは、半年前のことだ。
妻が病気で亡くなった年、都会を離れ、私たちは妻の故郷でもある桐里の村に越してきた。
村からは、車で30分も走れば、市街地と呼べる賑わいのあるN町に出れる。
もともと人付き合いが苦手で自然志向のあった私は、この村の雰囲気に惹かれて、村への引越しを決めた。
村は、居心地がよく、過ごしやすかった。町に近く人の行き来も頻繁にあるためか、余所者に対する疎外感もほとんどない。
この村は、畑と田んぼ以外には何もないのどかな村だ。山に囲まれ川が流れる。そんなこの村の特徴をあえてあげるとするならば、それは村や周りの山を覆う霧であろうか。山が白い霧に覆われたときの幻想的な光景は見事なものだ。特に、村の南側にそびえる狭霧山は、手軽に登山が楽しめ、また霧に覆われた山の風景が有名な画家や写真家に使われたこともあり、知る人ぞ知る絶景スポットとなっている。
村に引っ越してすぐの頃、村を包む霧を見たときは驚いたものだ。先を見通せない白い闇、おぼろげに見える建物や周囲の山々。村全体が神秘的な何かに包まれていると感じた。
村の人たちには、霧が出たら山に入るなとしつこいくらいに言い聞かされた。確かに村では霧の日の失踪者が多いとは聞いていた。狭霧山では、毎年のように、行方不明者が出ている。行方不明者は、狭霧山よりも奥の山脈の中に入り込んでしまったのだろうか、遺体が見つかることはまれなのだという。
また、それよりも強く注意されたのは、黒守山という狭霧山の奥隣にある丸いきれいな形をした小さな山のことだ。この山に立ち入ることは村の禁忌とされており、くれぐれも立ち入ることがないようにと村人からは念を押された。
文筆を生業とする私は、この村の霧にまつわる伝説や物語に興味を覚え、村の古老たちに話を聴き、それをノートにまとめることに夢中になった。
霧の中に人が消えていった話は多数あり、霧の中で見た幻や、取り替えられた人の話、霧に生贄を捧げる話、老人を霧の中に棄てる話など、霧に纏わる伝説は、バリエーションが多く、枚挙するのが大変なほどであった。
この地域の伝説についてまとめた資料はほとんど存在しないようであり、いずれ私がまとめ上げて、出版をめざそうと本気で考え記録していた。
ただ、黒守山の立ち入り禁止の由来については、なかなか知ることができないでいた。狭霧山も黒守山も山の精の領域と言われていたが、何が違うのか。興味を惹かれるものの手がかりが掴めないでいた。
あの日は、村に引っ越して1ヶ月ほど経ったころ、初夏の日差しが気持ちのよい日だった。私は息子の健太と一緒に狭霧山を歩いていた。新緑に彩られた広葉樹が目を奪い、活力をもらった気がした。私は景色を眺めながら、ゆっくりと歩き、気になる野草を見つけては写真に納めた。
健太は、時折現れる野鳥や栗鼠の姿に興奮し、携帯のカメラを使い撮影しようと悪戦苦闘していた。しかし、動く被写体の撮影は難しいようで、しばらくすると私を急かして先に進もうとしていた。
そうして散策していると、私たちはいつの間にか、道から外れてしまっていたようで、狭霧山から降りて川が流れる場所に出ていた。木々の緑が先ほどまでと比べても、さらに深くなったように思えた。何か周りとは違う重い雰囲気を感じる。
そこは隣の黒守山との境界であった。注連縄が黒守山の入り口を塞いでいた。誰かが草を刈っているようで、すぐにでも入っていけそうだ。入り口の傍には地蔵が立っており、お供えもされていた。意外と管理がされているものだなと思った。
おそらく山頂までは、三十分もかからないだろう。登ってみたいとは思ったが、村人の目も気になったし、何よりこの山を見ていると何かに見つめ返されるような気分がして、立ち入ることを躊躇した。
しかし、健太は無造作に注連縄を潜った。
「おい、入っちゃだめだって。知ってるだろ」
とっさに注意するも。健太は気にする様子もない。
「ちょっとくらいいいじゃん。父さんだって、上に何があるか気になるだろ。さっと行って帰ってくればわからないよ」
そう言って、細い山道を登り出した。道には、不規則ではあるものの簡単な丸太の階段も設置されており、登ることは容易そうだ。
黒守山の頂上にも社があるらしいし、どんなものか見てみたいとは思っていた。健太の言葉に乗り、私の首ほどの高さの注連縄に近づき、足元に気をつけながら下を潜る。
その瞬間、ぞわっと鳥肌がたった。怖い、何かに見られているとそう感じた。
屈んだ態勢のまま、顔をあげることができない。顔を上げたら、何か見てはいけないものを見てしまいそうな気がして。
先に行った健太の様子を伺おうと、恐怖を抑えながら、全身の力を振り絞ってゆっくりと顔をあげる。
健太は、立ち尽くして、山のどこかを見ていた。
声をかけようとするが、震えて、声が出ない。
健太は振り向きもせず、一歩足を踏み出した。
だめだ、行くな。
私はそれを追おうとする。
そのとき突然、怒声が響いた。
「こらっ、何をしとるか、すぐに出るんじゃ」
健太がびくっと身体を震わせ、こちらに走ってきた。私も、重しが取れたように、身体が軽くなる。健太とともに、注連縄の下を潜り、飛び出すようにして、黒守山の領域を出る。
声の正体は、中田のばあさんだった。亡き妻の叔母にあたる人で、村の伝説に詳しい人でもある。
「前にも注意したがな。ここは危険なんじゃ。絶対に入ってはならんぞ」
「すいませんでした」
とっさに中田のばあさんに頭を下げた。
「おぬしら、何も見んかったか」
「え、別に何も」
私は答えたが、健太は青ざめた顔をして黙っている。
「見たんじゃな」
中田のばあさんは、強い口調で問いかける。
「ちらっとだけど黒い人の顔みたいなのが覗いてた気がする」
健太がやっと口を開いた。
「はっきり見たわけじゃないのじゃな」
「うん」
私は中田のばあさんに問うた。
「この上にはいったい何があるんですか。なぜ山に入ってはいけないのですか」
「上に行っても古い社があるだけじゃがの。この山は悪いものが住んどる。お主の息子は、目をつけられたかもしれんぞ。黒守山だけじゃない。周りの山にも入らんようにせい。特に霧の日は気をつけるんじゃ」
何を馬鹿なことを、と言い切ることもできなかった。注連縄をくぐった後の禍々しい感覚が身体にまだ残っている。
「その悪いものとは、山の精なんですか」
中田の婆さんは、一瞬沈黙した。
「そうとも言えるがの。黒守山のそれは特別に性質の良くないものじゃ」
「それはいったい」
「神様とも魔物とも言えるものじゃな。黒守山の社はそれを祀ったものじゃ。知りたくば黒沢の家にでも聞いてみい。簡単には教えてはくれんじゃろうが」
黒沢とは、村の名家だ。黒守山も黒沢の家の持ち土地なのだという。これまで蔵の資料を見せて欲しいと頼んだことはあるが、相手にしてもらえなかった。
「とにかく黒守山には入らんよう気をつけいよ」
健太は真剣な表情で頷いていた。
「わかった、入らない。父さんも気をつけないとだめだ。まじでやばいよ」
「聞き分けがよいの、いいことじゃ」
「怖いのに、山を登りたい気持ちでいっぱいになって、たぶんあのままだったら、山に一人で登ってたと思う」
怯えた口調で続ける。
「それに」
健太は口籠る。
「それに、どうした」
私は先を促した。
「樹の陰から覗いてた黒い顔がお母さんの顔に見えたんだ」
ぞっとした。
妻のことを想うときは、暖かさと懐かしさと悲しさと様々な感情に包まれるが、そのどれとも違うおぞましい感覚が脳天から背筋を通り抜けた。
妻の亡霊が健太を連れに来る、そんな想像をしてしまった。そんなはずはない。妻は最期のときまで、健太を案じていたが、そんな暗い執着に囚われる女性ではなかった。もし、幽霊などというものが存在するとしても、私と健太を暖かく見守っているはずだ。
それから、私たちは、黒守山には極力近づかないようにしていた。健太は、たまに黒守山の方をぼうっと見ている時があったが、そんな時は、必ず声をかけて、見ないように注意した。
そして三ヶ月ほど立ち、私たちは、その時の体験を思い出すことも少なくなっていた。
その日は、秋晴れで気持の良い日だった。久しぶりに狭霧山の頂上からの景色を楽しもうと、健太とともに、登山に出かけたのだ。
中田のばあさんに言われたことを忘れたわけではなかったが、あれから時間も経った。それに、黒守山に入るわけじゃないからいいだろうと、そう考えていた。
狭霧山の頂上で、弁当を食べ、景色を堪能し、帰路に着いた。
傾斜の少ない山道を中程まで歩いているうちに、霧が出始めた。視界が悪くなってきたが、残りの道はほぼ一本道であるため、不安は感じなかった、
しかし、歩き出すも、あっという間に霧は深まり、道すら見えなくなってしまった。
私は健太と手をつないでゆっくりと歩いた。霧が晴れるまで休もうかとも思ったが、なんとなくこの霧の中にいつまでもいたくはないと感じた。中田のばあさんの言葉が思い出され不安がこみ上げてくる。
自分たちは消えない。帰れなくなることなどあるはずがない。
すぐに帰れると自分に言い聞かせ、健太にもそう話して道を進んだ。
気づくと、限られた視界の中で見覚えのある注連縄が目に入った。
なんだ、これは。私の首の高さほどの位置に張られた注連縄。横には地蔵がある。
そこは黒守山の入り口だった。
まさか、そんなはずがないのに。私たちの登山ルートは黒守山に繋がるルートではなかったし、たとえ霧で道を誤ったとしても、こんなに早く移動できるはずがなかった。
黒守山に呼ばれたのだとそう感じた。誰が呼ばれたのか。健太だ、健太はどうしたのか。
一瞬の恐慌から目を覚ますと、私の手の中にあったはずの、健太の手の感触が消えていた。
「健太、どこだ」
叫んで周りを見渡すが健太の姿が見当たらなかった。
代わりに、ざわざわと人の話す声が聞こえてきた。
わたしはすぐに大声で助けを呼んだが、返事はない。話し声は近づき、霧の中にちらちらと影が映りだす。複数の影が列をつくって歩いてくる。
何かがおかしい。影は、ゆらゆらと横に揺れ、人のものとは思えなかった。
頭に引っかかるものがあった。これは、村の古老が話していた物語の一つに似ている。霧の中で、怪しい影が覗いている。それは山の精か、あるいは、山の精に連れていかれた者たちの霊なのだ。彼らは、新たな仲間を探して黒守山から現れるのだという。
いや、そんなばかなことがあるはずがない。だが、尋常でないことが起こっていることは、認めざるを得なかった。
影は黒守山に並んで入っていく。
影たちの顔が霧の向こうにうっすらと見えてきた。その目や口はがらんどうのように暗く落ち込み表情は全く読み取れなかった。背筋がぞっとした。ざわざわと何かしゃべっているようだが、全く聞き取れない。
これに触れられたらどうなってしまうのか。冷たい恐怖が、心を埋めつくした。
そして、気付いた。歩く影達の中に健太がいた。虚ろな表情で歩いている。
霧に遮られた視界がゆがんでいく。
頭がぐるぐるとまわる。追いかけようとしても、足が前に出ない。
そのとき気づいた。健太の隣で健太の手を引く黒い影。黒い体に黒い顔。うっすらと笑うその顔は、なぜか妻の顔に見えた。
霧が足に絡みついてくる。溺れるようにもがきながら視界が暗くなっていくのを感じた。
待て、待つんだ。叫ぼうとしたがもう声が出なかった。
気がつくと、村の診療所のベッドの上だった。私は山の麓で倒れていたらしい。
健太はいなかった。村人に捜索をお願いするべきだったかもしれないが、私はそうせずに、真っ先に中田のばあさんのもとに向かった。この人は霧の話に本当に詳しい。親しい人が霧に消えたこともあると聞く。
私は、霧の中での出来事を詳細に語った。
中田のばあさんは、私が考えていたとおり健太は山の精に連れていかれたのだろうと語った。
そして、悲痛な表情で言う。
「取り返す方法はないよ。悪いことは言わないから、あきらめなさい」
私はどんな顔をしていたろうか。息子を諦めるなど簡単にできるはずがない。
「待ってください。伝承では、霧の中に消えた人が戻ってくる話もたくさん残ってる。きっと取り戻す方法があるはずだ」
「お主も知っておろう。霧から帰ってきたものは村に不幸をもたらす。それは、本物ではない、取り替えられたものじゃよ。絶対に連れて帰ってきてはならんのだ」
「それは必ずじゃないでしょう。無事に山から帰ってくる話だってある」
「ふん、知っておるじゃろう。黒守山が関わる話はの、すべからく悪い結末になる」
「あなたの経験からも語ることですか」
「まあ、な」
中田のばあさんは、何度も念を押してくる。
「絶対に行ってはならんぞ」
私は「はい」と答えた。
今、私は黒守山を登る。深い霧が立ち込めている。昼だというのに何も見えない。おぞましい感覚がまとわりつく。それでも、息子に会う希望があるとしたらここしかないと信じて歩みを進める。
村の伝承では、霧に消えたものが帰ってくる話が確かにある。霧から帰ってくる話は、大きく2つのパターンに別れる。
一つは、行方不明になってから、何日も、何年も経ってから突然に帰ってくる人の話。もう一つが、黒守山の頂上に消えた人を迎えにいく話だ。
黒守山から帰った人間は、村に災いをもたらすと中田のばあさんは言っていた。確かに多くの伝承が悪い結末を迎える。だから黒守山は村の禁忌なのだろう。
そして、だからこそ、私は健太が消えたことを村人に話さなかったのだ。
健太が災いになどなるはずがない。必ず連れて帰る。
やがて、霧の中に人影が見える。影は増えて、私の歩みを見守っているかのようだった。
頂上には、社があった。小さな社。
その前に健太がいた。健太の両肩に手を添えているのは、黒い影。近づくに連れ輪郭がはっきりしてきた。それは和服姿の女性で、健太とも顔立ちが似ている、亡き妻であった。
「健太」
声をかけるが、健太はぼうっとした表情で返事もしない。
私は健太の手を取る。
彼女が微笑んでいる。
「霧の精よ。聞け。これは私の息子だ。連れて帰るぞ」
叫ぶ。ある伝承の真似をしたのだ。意味があるかはわからない。
私は健太の手を取る。確かにここに健太の手があると実感する。
歩く。今度こそ、この手を離さないようにと、しっかりと手を握り歩く。
霧は晴れない。白い霧が頭の中までも侵すようだ。頭がぼうっとしていく。
早く帰ろう、家に。
託された息子を連れ帰り、大切に育てるのだ。
強く心に近いながら、私は、この先のことを考えていた。
帰ったらまずやらなければならないことがある。
中田のばあさんに話したのは失敗だった。あの人をどうにかしなければならない。
息子を守るために。
前に投稿した「狭霧に消えて」で、自分が消えに行くのか会いたい人を迎えにいくのかで迷ったので、迎えにいくパターンの話を書いてみたくなりました。設定使い回しで練習ですね。時間があいたのでもとの設定を覚えていない。