雪月恋花〜セツゲツレンカ〜
我が身の不遇を呪うのはやぶさかではない。
偏屈な大学の教授が突然、スキー旅行に誘ってきた時点で、ヤバイと思うべきであった。
「フィールドワークも兼ねていてな。暇があれば、少し研究も手伝って貰うぞ」
民俗学という学問は、日本にやって来てまだ日が浅い。日本民俗学の父、柳田国男氏の教えを受けたという教授は、地方の言い伝えを研究する老獪な人物である。師の教えに乗っ取り、文献ではなく直に現地の人の声を聞くフィールドワークを好む、歳に似合わぬ活動的な姿勢は、研究の分野になぞらえて、妖怪ジジイの渾名がよく似合っていた。
今回の研究は、雪国の山岳信仰ということで、学生を集めるためにスキー旅行と銘打っての実施となったわけなのだが。思惑をはずれてというか、当然というか、参加者は全員、スキーに興じていた。
俺とて、勿論そのつもりであった。確かに教授のゼミを受講していて、民俗学には少なからず興味もあった。だが、目の前にスキー板をぶら下げられては、熱心に研究に励む気にもなれず、ウェアを着込んで、颯爽とゲレンデを滑ることに夢中になった。
教授は教授で、研究に夢中になっていて、遊びほうける学生のことなど頭の片隅にも残っていなかったのだろう。冬の田舎を、厚手のコートを着て歩き回っていた。
「それで、何故俺は、こんなことになってるんだ?」
友人達と滑っていたのは数時間前のこと。なまじ上手く滑っていたばかりに魔が差して、一人でコースを外れたのが間違いだった。
気がつくと、あたりは一面の雪野原。人っ子一人いない、雪の山の中だった。
来た道を戻ろうと試みたが、一体どのように進んできたのだろうか。風景では察しがつかないのが雪山である。滑れば滑るほどに人生の果てに行き着きそうな気がして、俺は立ち往生するほか無かった。
身体はがくがくと震え、鼻水は凍っていた。息をするのも辛い冷気は、確実に命の灯火を吹き消そうとしていた。完全無欠の遭難者と化したところに、追い打ちのように雪が猛烈な勢いで降ってきて、一寸先もわからぬ状態になった。いっそ大声を出して、雪崩に乗って帰ろうかとも考えたが、死期を早めるだけだと思いとどまった。新雪に遮られて役に立たなくなったスキー板を投げ出したところで、ついに意識が朦朧としてきた。
笑っていた膝が、急にがくんと機能を失う。どさりという音は、自分の身体が倒れた音だった。
雪に顔を埋める形になるが、身体は言うことを聞かない。しかも、段々とどうでも良くなってきて、堪えきれない眠気までが襲ってきた。駄目だと思えば思うほど、意識は深く沈んでゆく。いつしか、駄目だと叫んでいるのが、自分ではないような気がして――
俺は、意識を失った。
混濁した意識、というのは名状しがたい物がある。寝起きのぼんやりとした頭と、二日酔いの気分の悪さ。その状態でプロボクサーのストレートを顔面に喰らった状態と喩えることができるが、自分で喩えておいて、意味がわからない。
酸欠のように視界の端は白んでいて、それなのにどんより暗い。相反した情報に余計に気分が悪くなり、それが過ぎて、思い切り跳ね起きた。見ると、板張りの古めかしい日本家屋の真ん中であった。日本家屋と言っても、相当に古い物である。部屋の真ん中には囲炉裏が設けられていて、炭がぼんやりと赤く灯っている。障子は黄色く変色していて、年季が入っていた。
「気がつきましたか?」
ふと、女の声が聞こえた。驚いて見回してみると、すいっと障子が開き、俺よりも幾分か年下の少女が、ちょこんと正座をして、こっちを見ていた。肩口で切りそろえられた黒髪と、時代錯誤の艶やかな黄色の着物が印象的だった。
「君が、助けてくれたのか」
どうやら、死後の世界というわけでもないらしい。居住まいを正して少女と向き合う。ありがとうと礼を言うと、少女は屈託なく「いえいえ、当然のことですよ」と笑った。
「麓まで降りた帰りに、貴方が倒れているのを見つけたんです。近くにスキー板があったんですが、すいません。貴方を運ぶのに精一杯で、それまでは持ってこれませんでした」
「いや、そんなことは気にしないでくれ。こうして命を助けて貰っただけで、感謝でいっぱいだ」
危うく死ぬところだったのだ。礼を言うはずが、謝られては、それこそ申し訳が立たなかった。
「本当に助かった。ありがとう」
改めて少女に頭を下げる。こんな少女が、俺を運んでくれたのだ。見ると、あどけない顔立ちながらも美人で、和服がよく似合っていた。雪のように白く透いた肌。ほやっとした目。ちょこんと低いが整った鼻筋。人形のように綺麗だ。
「ふふ、いいんですよ。当然のことをしたまでですから。さあ、それよりも温かい物でも食べましょう。お粥を作ってあるんです」
今時、こんなに良い子がいるのだろうか。囲炉裏にかかっていた鍋から湯気のたったお粥をついでくれる様子は、上品で、そこはかとなく可愛い。
ありがたくお椀を受け取り、一口すする。しつこくないのに甘ったるい。甘酒の味だった。
「身体が冷えていますから。お口に合いませんでした?」
「いや、美味いよ。それに暖まる」
甘酒はそもそも米から作るので、お粥との相性も抜群である。冷えた身体に心地よい。
「よかった。生姜も入れますか? 身体がとっても暖まるんですよ?」
ひょいと生姜を取り出して少女が微笑む。甘酒と言えば生姜。最近の少女はそんなことは知らないと思っていたのだが。
なんだかほっとした気分になった。
「あ、うん。ありがたくいただくよ」
俺がそういうと、少女は棚からおろし金を取り出して、ささっとお椀におろし生姜をふりかけてくれた。改めて食べてみると、甘酒の甘みに、生姜の何とも言えない味がよく合っていて、美味い。身体も、内側からぽかぽかと暖まってきた。
「うん、美味い。遭難もしてみるもんだな。こんなに美味いお粥、初めてだ」
「ふふ、ありがとうございます。作った甲斐がありました」
さっきまでの気分の悪さも綺麗に吹き飛んで、身体も温まったのか、人心地がついた。生来の気楽さが出てきたのか、冗談が言えるまでに回復したようだ。
「ふぅ、ごちそうさま。本当になんてお礼を言ったらいいかわからないよ」
「お粗末様です。一人暮らしの暇人ですから、貴方が来てくれて嬉しいくらいですし、気になさらないでください。落ち着いたら、お風呂をどうぞ。ちょっと自慢のお風呂なんですよ」
無垢な笑みは、本当に俺が居て嬉しいというように見える。実際は迷惑しているだろうな、と思いながらも少し良い気分になった。
少女は手際よく食事の後片付けをして、再びちょこんと正座をした。そういえば、まだ名前も聞いていなかった。
「えぇと、君の名前は?」
「リッカ、と言います。六つの花とかいて、六花」
六花。確か、雪の異名だ。雪の結晶が六弁の花に似ていることから、つけられていたように思う。名付け親はさぞ喜んでいるだろう。この少女はまさしく雪のように、白く、美しい。
「綺麗な名前だね。俺は不動。不動マコトっていうんだ。新選組の誠一文字」
「かっこいいですね。マコトさんでいいですか?」
「うん。そっちは六花さんでいい?」
「いえ、呼び捨てでどうぞ。私の方が年下のようですし。さんって、なんだかこそばゆいです」
「そっか。命の恩人を呼び捨てってのもアレだけど、そういうなら六花って呼ばせて貰うよ」
「はい。そのほうが落ち着きます」
少女――六花は微笑み、ゆっくりと立ち上がる。
「では、マコトさん。身体の中から暖まって来ているうちに、お風呂に入りませんか? ウチ、見ての通りボロですけど、お風呂はちょっとしたものなんですよ。少し歩きますから、今のうちのほうがいいでしょう」
成る程。昔ながらの家のようだし、風呂も外にあるのだろう。毒を喰らわば皿まで、というわけでもないが、折角だから厚意に甘えさせてもらおう。
「じゃあ入らせて貰うよ」
「では、準備をしてきますね。少し待っていてください」
六花はそう言って隣の部屋に行ってしまった。しかし、本当によくできた子だ。
料理もうまいし、器量も良い。大した会話もしていないが、性格も素直だ。一体、何があってこんな雪山のボロ家に住んでいるのだろうか。これではまるで、雪女のようではないか。
「……ん?」
雪女、という単語に、ふと引っかかりを感じた。つい最近、聞いたことがあるような気がする。
「……あ、そういえば」
ここに来た本来の目的。つまり、教授の目的である。教授は確か、出発直前に「この地方には、雪女とか、雪娘がいるという伝承がある。今回はそれを調べるつもりだ」とか言っていた。ついでに「拐かされるんじゃないぞ」とかも言っていた。
雪女と言えば、有名な怪談だ。老人と青年が雪山の小屋で一泊していると、雪女が来て、老人を殺してしまう。しかし青年があまりに美しかったために、雪女は青年に「私のことを黙っていたら、助けてあげる」と言って、逃がしてあげる。青年は無事山を下りて、その途中に知り合った娘と恋仲になり、結婚して子供をもうける。しかしその後、つい妻に「昔、雪女に会った」と話してしまう。実はその妻が雪女で、「黙っていると言ったのに」と怒って青年を殺そうとするが、二人の間に出来た子供が可哀相だと思い直して、殺さずに姿を消す、という感じの話である。
他にも、雪女に関する伝承は多くある。不意に現れてすぐ消えるだけとか。幼子を抱いていて、「この子を抱いてください」と言って、抱くと殺されたり。殺されないが、幼子が雪だるまになって崩れたり、とか。背丈が一丈――3.3メートルもあるとか。地方によって色々だ。
名前を変えると、雪女郎。こいつは話しかけても散々無視して、仕方なく背を向けると、いきなり崖から突き落としてくるという非道いヤツ。いずれにしても、共通しているのは白い肌の美人であり、着物を着ているというところである。
まさに、六花の特徴のその通りであった。
「は、はは。まさかな」
俺とて、民俗学を専攻する学生である。妖怪というのは意識下に置いては存在するが、実在はしないものだ。もしくは、自然現象を指す場合もある。それに、確か雪女にしても雪女郎にしても、着物は白だったはずだ。六花の着物は黄色だし、そもそも妖怪は実在しないとわかっているじゃないか。確かに似すぎているし、こんな山の中で独りで住んでいるというのも変だが、何か事情でもあるのだろう。命の恩人を疑うとは、何事だ。
「マコトさん、準備ができましたよ」
タオルを手に持った六花がひょっこりと顔を出す。ほら見ろ。雪女ってのは、熱に弱いんだ。風呂を自慢するはずないし、そもそもタオルとかおろし金を持っている筈が無い。ましてや、さっきは熱いお粥をよそってくれたじゃないか。
「ああ。ありがとう。じゃあ行こうか」
不躾な考えを振り切って、立ち上がる。だが、まだ身体は温まりきっていないのか、よろけてしまった。
「マコトさん!」
六花が咄嗟に身体を支えてくれる。支えてくれた手が、ひんやりと冷たかった。
「うわっ!?」
「きゃっ……!?」
振り切ったはずの思考が急に鎌首をもたげて、六花から半ば無意識のうちに飛び退いていた。
「あ……ごめんなさい。冷たかったですよね。少し外の様子を見に行っていたので、指先が冷えてしまっていたみたいです。あ、でも大丈夫ですよ。お湯加減はばっちりです」
「あ、そ、そうか。こっちこそ悪かった。助けて貰ってばかりなのに、大声出したりして」
くだらないオチだった。疑心暗鬼というのは怖いものだ。こんなに優しい雪女なんているはず無い。いや、そもそも雪女なんていないんだっけか。まあいい。気分的にも寒くなっていたので、風呂に入らせて貰おう。
「すぐそこですから」
確かに近くにあった。
一度家を出て、夜道(既に夜になっていたらしい)を三十メートルほど歩いたところに、掘っ立て小屋のようなものがぽつんと立っていた。風が吹けば壊れそうな作りだが、家と違ってボロではない。
「私が作りました。反対側の扉を開けると、もうそこは湯ノ花ですよ」
自慢げに六花は言うのだが。
思い切り傾いているし、風が吹くたびに揺れている。それでも、この雪山で立っているのだ。ちゃんと作ってあるのだろう。
「この中で服を脱いでくださいね。はい、タオルです。では、また後で」
六花の言うとおりにタオルを受け取り、掘っ立て小屋の中に入る。風よけにもならないが、火鉢が置いてあって、炭が赤く光を放っている。炭の燃焼時間が長いからと言って、一日も持たないはずだ。さっきの準備の時に出しておいてくれたのだろう。本当に良い子だ。俺のような招かれざる客人のために、ここまでしてくれるなんて。雪女だと疑った自分が恥ずかしい。
スキーウェアを脱いで、タオルで一応前を隠して反対側の扉を開けてみる。すると、そこには天然の温泉が広がっていた。
「うお、すっげえ!」
夜の雪原の中に、湯気の沸き立つ温泉があるなんて、六花以外に誰が知っているだろうか。そんなに広くもないし、雪が降っていれば、雪煙で湯気が隠れるので、まず見つけることは出来ない。六花が自慢げに言う気持ちがわかった。
試しに手を浸けてみると、ちょうど良い湯加減だった。適当に掛け湯をして、湯に身体を沈める。
「く、くぁああああ〜〜。蘇る〜〜〜っ!!」
隠れた名湯、ここにあり。見れば、小屋同様、拙いながらも石できちんと囲いが作られていて、まさしく温泉である。雪は無く、寒空に映える星のきらめきが、また何とも言えない情感を誘う。酒でもあれば、最高なのだが。
「お酌しましょうか?」
「うわぁぁっ!!?」
突然後ろから声をかけられて、思い切りお湯にダイブしてしまった。潜って隠れたというほうが正しい。
「ごぼっ……っ。り、り、り、六花!?」
「どうです。気持ちいいでしょう?」
ゆっくりと顔を出して、おそるおそる六花の方を見る。もしやとは思ったが、残念というか、安心したというか。ちゃんと着物を着ていた。
「い、良い湯だよ。そ、それよりも戻ったんじゃなかったのか?」
「え。また後で、って言ったじゃないですか。掘っ立て小屋を通らなくても、ちゃんとここには来れますよ?」
成る程。また後で、というのは温泉で落ち合おうという意味だったのか。
「そ、それよりも。寒いだろうし、中に入ってたらどうだ。お酌までして貰うわけにはいかないし」
「あ、いいんですか?」
「うん、勿論」
俺がぬくぬくと湯につかっているのに、六花が外で寒い思いをする必要はない。というか、しては駄目だ。
「じゃあ、遠慮無く」
そう言って、六花は入った。
家の中ではなく、お湯の中に。着物の裾を捲って、素足を。
「ふふ、温かい」
「って、違うだろーが!」
「え、あ、はい。そうですよね。ごめんなさい」
六花が、てへっと自分の頭を小突いて見せる。なんだ、冗談か。こう、フトモモなんかが妙に色っぽくて焦ってしまった。
「そうですよね。お風呂に入るのに、着物を着たままなんて、不作法でした。ちょっと恥ずかしいんです、けど……」
「うん、やっぱり風呂は裸で入らないと。って、違うーーーーッ!!」
いきなり襟を緩めて、着物を脱ごうとした六花の手を慌てて掴んで止める。ついついノリツッコミをしてしまうのは、俺の悪い癖だ。
「ひんっ、マコトさんっ! 隠してくださいよぅ〜〜」
「うぉわっ!!?」
慌てて止めたので、自分の姿を考えていなかった。中腰になっていた俺は、慌ててお湯にダイブした。否、潜って逃げた。
「すすすすす、すまんッ!!」
「い、いえ。それより、どうしたんですか。脱げと言ったのに、脱いだら怒るなんて」
俺の裸を見た恥ずかしさもあってか、ちょっとツンとした感じで六花はそっぽを向いた。
「だからだな。中に入れというのは家の中のことで、お湯の中じゃないんだって」
必死の説明に六花は成る程と頷いた。しかし、一向に襟を正そうとはせずに、しばらく思案してから「やっぱり、お風呂に入りたいです」と、爆弾発言をした。
「あ、でも。やっぱり恥ずかしいので、後ろを向いていてくださいね」
「う、うぅぅ。うん」
正直、物凄く困るのだが、この温泉は六花のものだし、世話になっている手前、断れなかった。決してやましい考えがあったわけではない。いやごめん、ちょっとはあったかもしれない。
いそいそと後ろを向くと、後ろから衣擦れの音が聞こえた。それがまた艶めかしいので、怖くなって反対側まで進む。腰抜けとか言うな。これは紳士的な振る舞いなのである。
ちゃぽん、というこれまた蠱惑的な音が聞こえて、ついでに「はふぅ」なんて気持ちの良さそうな声まで耳に入って、いよいよ混乱したところで「いいですよ」ってな言葉が飛び込んできた。
「いや、このままで」
「でも、お話しにくいですよ?」
「いやでも、ほら」
「大丈夫ですって。湯煙でほとんど見えませんから」
その言葉で、ようやく気を取り直して六花に向き合う。確かに湯煙が邪魔で――否、湯煙のおかげで六花の肢体は見えなかった。
「何度入ってもいいですねぇ。ここに住んでいる理由の八割は、お風呂のためみたいなものですよ」
はふぅ、と溜息を漏らして六花が言う。俺は「ああ」という適当な言葉でしか返せなかった。なんというか、湯煙のチラリズムが余計にいやらしい感じになっている気がする。
「六花……は、恥ずかしくないのか?」
「いや、まあ恥ずかしいんですけど。ずっと一人で暮らしていますから、二人で入るお風呂って憧れてたんですよね」
六花は少し寂しそうに呟いた。そう言われてしまうと、俺としてはもう何も言えない。なるべく六花を見ないように、夜空を見上げながら星を数えた。
「こういうの、いいですね。私、今までずっと一人だったので、とても嬉しいです」
「そ、そうか?」
「はい。スキー場からここ、かなり遠いですから。マコトさんみたいに遭難する人だって、滅多にここまで来ませんよ」
素人のくせになまじ上手かった。そんな俺みたいなヤツだけがたどり着ける(遭難できる)わけか。
「そういえば、最初はビビったなぁ。六花ってさ、雪女に似てるから」
遭難した情けなさを隠すように、思いついたことを適当に並べてみる。
「俺は大学で民俗学専攻しててさ。ここに来たのも本当は雪女の伝承を調べるためだったんだ。そんなこともあって、最初に六花を見て、雪女だと思ってさ。はは、バカだよな。命の恩人に」
調子に乗って喋る俺を、六花がきょとんとした面持ちで見ていた。しまった。雪女ってのはマズかったか。
「私は雪女じゃないですよぅ」
「う、ごめん。変なこと言ったかな……」
どことなく、真面目そうな面持ちの後、六花は意を決して―その割には妙に可愛らしい声で言った。
「雪娘です」
………………?
「ゆき、むすめ?」
「はい。雪娘ですよ。今まで気づかなかったんですか?」
いや、気づくも何も。それに雪女と雪娘って、何か違うのだろうか。
「あ、民俗学専攻の割には知らないみたいですね。妖怪というのは、名称が変われば、たとえ同じ特徴を持っていたとしても、それはまったく違う妖怪になるんですよ?」
ゆっくりと風呂に浸かった自称雪娘、六花はつらつらと説明した。大丈夫だろうか。溶けてたりしないか?
「それに、雪女と雪娘は一緒にされることも多いですが、ちゃんと違うところもあるんですよ。私のように『実在する妖怪』ともなると、伝承とはまた違うんですけど」
おいおいおい。今、目の前で、教授をはじめとする多くの民俗学者の通説が壊されようとしているぞ。実在する妖怪だと言ったぞ。実在しないから妖怪というんじゃなかったのか。
「六花……?」
「雪娘の伝承も多々ありますが、この地方では雪女に近いですね。ただし、小屋を訪れるのではなく、小屋に招いて、殺さずに、助ける。この山の守り神を、雪娘と呼んでいます。っていうか、私のことなんですけど」
六花はちょっと胸を張って。そして危うく見えそうになったところで頬を赤らめてお湯に潜った。
いや、どう見ても普通の女の子。しかも美人なんだけどなぁ。
「雪女の伝説。あれって私の御先祖様の知り合いの話が元ですよ。あの、おじいさんを殺して、青年を逃がしたって話。人間の男性に恋をして、山を降りた珍しい雪女なんですよ。本当はおじいさんは小屋に入ったときから死んでいて、青年も死にそうだったから助けてあげた。それで、その力を秘密にしたいから脅して、ついでに惚れちゃったからお嫁さんになっちゃった、という実話です」
「う、嘘だろ……ってか、きちんと辻褄合ってるけど」
「はい。あと説明しておきますけど、雪女と雪娘の違いは歳を取らないか、取るかということです。雪女は歳を取らない、精霊的な存在ですけど、私たちは人間に近いので、ちゃんと歳を取ります。その分、身体も丈夫なので熱で溶けるということもないです。あ、でも寒いのは平気なんですよ。ほら、お湯の中でも肌は冷たいんですから。触ります?」
「え、あ、うん」
ついっと手を伸ばして、六花の腕に触ってみる。お湯に入ってしばらく経つというのに、雪のように冷たかった。そりゃそうだ、雪娘なんだから。
…………いや、なんか変な納得してないか。俺?
「ん、でも。雪娘って確か、聞いたことあるぞ。婆さんの家に女の子が来て、泊めてくれって言うやつ。温かくして寝かせてやったら、次の日に溶けて消えてたとか」
「はい。ありますねえ。でも、それは雪女の娘。それで雪娘って呼ぶんです。ちなみに、鳥取地方の伝承ですね。私たちは、人間に近しい存在だから、できるだけ親しみやすい名前ということで雪娘と呼ばれるようになったんですよ」
す、すげぇめちゃくちゃな話だ。しかし、六花の肌は本当に冷たかったし、一人でこんな山奥に暮らしているのも、着物を着ているのも、全部納得できる。
「あ、こんなこともできますけど」
六花はどことなく嬉しそうに言って、ひゅうと息を吹いた。いや、息ではない。雪を吹いた。
「雪を吹く。これが本当の吹雪。なんちゃって」
どうだ、と言わんばかりに六花が俺を見る。呆気にとられて何も言えない俺に、六花が少しがっかりした。なるほど、身を張ったとっておきのギャグだったのだろう。
「いや、うん。面白いかどうかは別として、雪娘ってのはわかった。すげえな、妖怪って実在するんだ」
ちょっと興奮してしまい、独り言のように言う。今まで何かのトリックとか、手品とか。そんなものじゃないかと思っていたりもしたのだが、これは完全に手品で出来る範疇を超えている。信じ切れない話でもあるのだが、目の前で吹雪を見せられたのでは、もう納得するしかない。六花は雪娘で、世の中には多分、もっと多くの妖怪がいるのだろう。
そう、民俗学的な妖怪ではない。れっきとした、きちんと質量を持った。今、目の前で風呂に浸かっている雪娘のような、色々な妖怪が。キュウリの嫌いな河童とか、探せば居るかもしれない。
おっと。つい、専攻分野の大発見ということで我を忘れてしまった。六花は俺を、どこかぼんやりした様子で見ていた。
「あ、急に黙ってごめん。でも、雪娘ってことはちゃんと納得したぞ」
「あ、は、はい…………」
何故か、六花は俯いてしまった。心なしか、肩が震えているようにも思う。
「六花、どうしたんだ。やっぱり風呂は身体に毒か?」
「い、いえ。気持ちいいんです。そ、そうじゃなくて。わ、私は……雪娘、なのに」
六花は涙声だった。何かマズイことを言ったのかと思ったのだが、次の瞬間、六花が抱きついてきて、思考がシャットアウトした。
「お、おおおっ!?」
「は、はじめてですよぅ。雪娘ってわかっても、怖がらずにいてくれたの、マコトさんがはじめてですっ!!」
「え、あ、そうなの。ってか、六花、冷たい。なんかや〜らかいのも当たってる。危険。色々危険!!」
思わず少し離れる。それでも六花が雪娘であることを、文字通り体感して、それでも普通の女の子ってことも十分に体感した。
「マ、マコトさん。ひ、ひどいですよぅ!」
ぼろぼろと涙をこぼして、六花がねめつける。泣いてる女の子から逃げるのは、確かに非道い行為だ。
「え、あ、いや。うん、ごめん」
そう言えば、雪娘だと知って怖がらなかったのは俺だけだったとか。ということは、今まで幾人もの人が訪れて、六花が雪娘だと知った途端に怯えたのだろう。俺は呆気にとられて怯えることも出来なかったのだが。まあ、それが幸いしたようだ。冷たいのは堪えて、ゆっくりと六花の肩に手を添えた。
「あ……」
「ごめん。ちょっと驚いただけだよ。今まで、寂しかっただろう」
「マ、マコトさぁん!」
気障な台詞だったと思ったが、六花はいよいよ涙の勢いも増して、再び抱きついてきた。
確かに六花の身体は冷たかった。けど、何故か今度は暖かいものも感じ取ることが出来た。心ってやつだろうか。小さな六花の背中をなるべく優しく撫でた。人の温もりってやつを伝えてあげたかったのだ。
「お、温泉より、ずっと、温かいです。とっても気持ちいい……」
「ああ、六花も温かい。みんな、バカだよな。こうしたら、怖がらなくてすむのに」
その夜。六花が泣きやむまでずっと、抱き合っていた。
大きな月と、きらめく星々。雪野原と、雪娘。
今、ようやくこう思うことが出来た。
遭難してよかったかな、と。
「へっっくしょい!!」
翌日。長時間六花と抱き合っていた俺は、温泉の中で風邪をこじらせて、六花の家でまだ厄介になっていた。
「ご、ごめんなさい。つい、嬉しくて」
「い、いや。俺に出来ることをしたまでだし。六花に助けて貰わなかったら死んでたんだ。風邪で済んでラッキーだっクシュン!!」
布団にくるまり、暖を取る。なんせ六花は滅法寒さに強いらしく、布団も薄っぺらい。人肌で、と頼みたいところだが、六花に限ってそれは追い打ちになる。仕方なく囲炉裏で少しでも暖かくして、布団に潜るわけだが。
「マコトさん、こういうの、どうでしょうか?」
ちょっと嬉しそうに六花が俺の頭を持ち上げる。何をするのかと思えば、膝枕だった。それも、六花だからできる、『氷膝枕』である。氷枕の冷気に膝枕の柔らかさがマッチして、実に心地がよい。
「すっげぇ気持ちいい」
「ふふ、よかったです」
六花はそう言って、その姿勢のままで器用に鍋からお粥をよそって、食べさせてくれた。
「ちょっと、熱いかな」
「じゃあ冷ましますね」
ふう、と息で冷まそうとすると、お粥が凍った。息は吹雪、だったか。
「あぅ、なかなかうまくいかないです」
「じゃあ、俺が吹くよ。大丈夫、二人なら大体のことは上手くいくはずだから」
今度は熱いまま俺の口元にお粥が運ばれる。それを俺が自分で冷まして、ぱくりと食べる。
「うん。これなら大丈夫」
「………マコトさん、二人なら、上手くいくって、本当ですか?」
へ、と六花の顔を見上げる。先ほどの嬉しそうな顔とは違って、真面目な顔だった。
「その、もし、よろしければ……私、山を降りて暮らしたいんです。お風呂はここのが一番ですけど、やっぱり、一人は寂しいです。それに、マコトさんと離ればなれになるの、悲しくなっちゃいました。どうか、お側に置いてください!」
「え……?」
「迷惑だと思います。冷たいし、息は吹雪だし。けど、二人なら……もしも、マコトさんが言うとおり、二人でなら、ちゃんとやっていけるのなら……」
……参ったな。この台詞は、どちらかというと聞きたくなかった。
何故かって。そりゃ、そうだろう。こういうときは、男から話を切り出すものだ。
それに、俺も色々考えた。住み慣れた山から連れ出すのは、自分勝手じゃないのだろうか、と。だが六花一人を、山奥にいるだけの存在にはしたくはなかった。六花は、もっといろんな楽しみを知らないといけないのだ。お風呂だけが楽しみだなんて、それではあまりに辛すぎる。それに、昨日会ったばかりの少女ではあるのだが。
………惚れてしまったのだ。六花に。それはもう、思い切りと言っても良いほどに。
惚れた女を山にヒキコモリにさせるなんて、俺は許さない。住む場所が他になくとも、問題ない。俺の希望に添う、最適なプランはもう頭の中に出来上がっているのだ。
「俺の家はここより狭いけど。それでよければ」
ぱあ、と六花の顔が明るくなる。ついでに俺の顔も明るくなった。
「マコトさん、その、嬉しいです。本当に、いいんですか?」
「ああ、大歓迎だ。攫ってでも連れて行くつもりだった」
「マ、マコトさぁん!!」
むぎゅう、と頭を抱きしめられる。冷たくて気持ちよくて。それでもって、心が温かくなった。
六花が力を抜いた。少しだけ離れて、ふと目が合う。六花がゆっくりと目を閉じて、頬を赤らめた。
「……なあ、六花。一つだけ聞いていいかな?」
そうだ、忘れていた。一つだけ聞かないといけないことがある。命に関わる重要なことだ。
「雪女がキスすると、男は凍っちゃうらしいんだけど」
人生を賭したキスってのも、趣はあるのだが。
「私は雪娘ですってばぁ!!」
「いや、一応。で、どうなの?」
「凍りませんよぅ……っ……!!」
拙作を読んで頂きありがとうございました。
御感想、御批評。お待ちしております。