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……ひそひそ……
…………ケタケタ……
声が、聞こえる。
耳に届くというより、頭に響くというような、
しかし確かに聞こえてくる。
甲高くて甘えるような声。
強く誰かを罵倒するような声。
楽しげなのに、どこか不自然な声――。
それは向かいにあるアパートの、二階の角部屋から。
窓からは、遮光カーテンの隙間から光が漏れているのが見える。
一年前に私が今のこの家に引っ越してきてから、部屋の中が見えたことは無い。
部屋には誰かが住んでいるはずなのに、その姿を見たことは無い。
声が聞こえるようになったのは引っ越してきてすぐのことだった。
何を言っているのかまでは分からないけれど、それは確かに人の声だ。そして、その声は私にしか聞こえない。
家族の誰に聞いても、そんなものは聞こえないと言われる。先生に相談してみても、何か困っていることが無いかと心配されるだけだった。
友達には……言えなかった。私が転校生でちやほやされていることを、クラスメートの女子たちは未だに良く思っていないのだ。
けれどもその日、月の見えない暗い夜、
声は未だに聞こえてこない。
もしかして、今日はもう声を聞かなくて済むのかもしれない。
私は例の部屋を見るため急いでカーテンを開けた。
見れば、漏れる光もなく真っ暗に、部屋は明かりが落ちている。
ああ、良かった。
私は安心して窓から離れた。
すると、
「……きこえ……ますか……」
聞こえてくる。声は、しかし自然で落ち着いた音色だった。
私は思わず振り返った。
目の前で、ぼうっと白い影が浮いている。
人の形をしている。幽霊だ。
けれども不思議と怖くはなかった。
「聞こえる、聞こえるわ」
幽霊は少年の姿をしていた。中学生くらいだろうか。
「本当に声が聞こえるんだ」少年は言った。
「ええ。それより、私に何か用があるの?」
そう尋ねると、少年は真っ直ぐこちらを見て、
「どうか、僕の両親を助けてください」と言った。
「あなたのご両親を?」私は驚いた。
「そんなの、どうやればいいのか分からない」
「大丈夫。僕についてきて」
少年が手を差し伸べる。
私はその手を、思わず取ってしまった。
途端に私の視界は、白一面に埋め尽くされた。
――眩しい。
今の今まで夜だったはずだが、あたりは昼間のように明るい。
目が慣れてくると、そこは巨大な門の前だった。
その奥に見えるのは、いくつものお城のような建物。
「ここは?」
「――学校、だろうね」
少年が言った。なるほど、そう言われてみれば学校に見えなくもない。
「君にはこれから、この学校のどこかにいるはずの、僕の家族を連れ出してほしい」
「あなたは?」
「僕も同じく彼を探す。けど、連れ出すのは君じゃないと駄目なんだ」
「そう……なんだ……」
私でなければいけない。そう言われて、私はがぜんやる気が出た。
「そういうことなら、時間はかかるかもしれないけど、頑張ってみるわ」
「ありがとう。でも、僕たちがここにいられるのは、今がちょうど朝だけど、一度夜になって、もう一度朝になるまでの間なんだよ」
「制限時間があるのね。だったら急がなくちゃ」
「待って」
門をくぐろうとした私を、少年が呼び止めた。
「どうしたの?」私は尋ねた。すると少年は、真剣なまなざしでこう言った。
「この学校にいる者とは、決して話をしてはいけないよ」
私は学校の校舎を一階から探していく。
少年が言うには、目的の場所は見ればすぐに分かるという。
生徒はまだ来ていないのだろうか、一人も見当たらない。
得体のしれない学校だが、廊下が伸びたり入り口が消えたりすることも無く、このフロアはすぐに調べ終えた。そして二階に上がり、引き続いて調べ終える。
時刻は八時三十分。
夜になるまでと考えれば、時間にはまだ随分と余裕がある。この調子なら夜になるまでもなく、すぐに全て終えるだろう。
キーン コーン カーン コーン――――
鐘が鳴った。何の変哲もない学校のチャイム。
しかし音が鳴るのと同時にあたりは闇に包まれた。
そして明るさが戻ると、教室にいた私は、何体もの人形に囲まれていた。
人形なのだ。彼ら――彼女らには生気が無い。
手足が長く、頭が異常に大きい。
皮膚は樹脂のように滑らかで、ムラも血管もしわも無い。
動きだ。動きが不可解なんだ。彼らには重さが――慣性が無い。
その顔が、顔まで滑らかで、そこには巨大な目が――――
思わず教室から飛び出した。
廊下を駆け、私は誰もいない教室に入り、戸をぴしゃりと閉めた。
息が上がって、膝が震えている。
私はそのまま座り込んで、どうにか自分を落ち着かせる。
扉の向こうは人形たちの行き交う廊下で、その声は楽しげでも不自然で、
そうか。
私が聞いていたのは、彼女たちの声だったのだ。
しばらくすると声は遠ざかって行った。
捜索を再開しないと。そう思い、私は顔を上げた。
窓から見える空がさっきまでよりも明るい。それに何かが――そうだ、陽の向きがおかしいんだ。どこかに時計が――
「――どうして?」思わずそう口に出した。
部屋にかかった時計の針は今にも一時を指そうとている。
そして、
キーン コーン カーン コーン――――
鐘が鳴った。視界が暗転して、戻る。
時計は五時を指し示す。
窓の外から、部活動の掛け声のようなものが聞こえる。
差し込む光はほんのり朱く、空はたそがれていた。
駄目だ。わけが分からない。
もうやめよう。私にはもともと関係ないんだ。
私はふらふらと、教室から出た。そして校舎からも出て、
空にはもう、月が上がっていた。