小説|融溶の楽園 第2章
【第2章 十三頁】
――氷が溶けるには、それ相応の時間を要する。
ロックグラスの底で、削り出された角のない氷塊が、琥珀色の液体に浸されてわずかに傾いた。
カラン、と硬質な音が鳴る。
オールドファッションド。角砂糖に染み込ませたアンゴスチュラ・ビターズが、バーボンのアルコールと混ざり合い、沈殿した甘みが時間をかけてグラス全体へと行き渡るのを待つ。
焦ってマドラーで掻き回せば、酒の肌理は簡単に壊れてしまう。
じっと待つこと。熱が冷め、冷気が熱を奪い、境界が曖昧になるまでの緩慢な推移を、ただ黙って見届けること。
白石冴子がこの酒を頼むようになったのは、いつの頃からだったか。
現場で生き残るための術を、身体の奥底に刻み込まされたあの夜以来のことだったかもしれない。
まだ配属されて二年目の初夏だった。
管轄区域の端、古い団地の一室。邪神を奉じる集団の『儀式』の兆候を掴んだ冴子は、独断で先行した。助けを求める悲鳴に耐えかね、応援の到着を待たずにドアを蹴破った。
結果として、冴子は何も救えなかった。
居間にいた少女は三人。誰一人として傷を負っていなかった。ただ、互いの手を取り合い、居間の床に正座したまま、穏やかな、まるで春の陽だまりの中にいるような陶酔の笑みを浮かべていた。
声をかけても、肩を揺すっても、彼女たちは反応しなかった。
彼女たちの意識は、すでに冴子の知る人間のものではなかった。内側から何か別のものに満たされ、自分という輪郭を喪失した肉の塊が、ただ規則正しく肺呼吸を繰り返しているだけだった。
悲鳴を上げていたのは、奥の浴室に閉じこもっていた四人目の少女だった。冴子はその少女だけを外へ連れ出したが、少女は心を閉ざし、ひと言も口をきかなかった。
庁の記録には、邪教集団による生贄の儀式の掃討作戦、とだけ残っている。
あの時、少女の一人が冴子に向けて浮かべた、焦点の合わない、耳元まで裂けんばかりの笑顔。
あれは今でも、浅い眠りの底に泥のように沈み、不意に首筋を冷たく撫でていく。
「――それでさ、本庁の会計課がまた突っ返してきたんだよ。事後承認じゃ通せない、事前に上申書を回せってさ。こっちの現場の都合なんて、机の上の書類しか見てない連中には関係ないんだよな」
カウンターの隣で、森田拓也が愚痴をこぼしていた。
手にしたジントニックのグラスには、すでに半分ほど溶けた細長い氷が浮いている。
冴子より三歳若い、特務調査部での同僚であり、三年越しの恋人でもあった。
屈託のない眉の動き、少し丸みを帯びたあどけない顎の線。国家公務員の厳格なスーツを着ていながら、彼にはまだどこか、学生時代の柔らかな皮膚の感覚が残っていた。その無防備さが、冴子にとっては時折、冷たい針のように胸を刺すことがあった。
「……上申書は出しておきなさい。宇佐美部長の判さえあれば、会計課も無下には突っ返せないわ」
「わかってますよ。でもさ、白石さんだって先週の池袋の残業代、まだ削られたままでしょ?」
「あれは私の不備よ。日報の添付書類が一日遅れたから」
「真面目すぎるんだよなあ、白石さんは」
拓也は苦笑しながら、残りの酒をあおった。
薄暗い店内に、静かなジャズのピアノが流れている。
銀座の裏通り、雑居ビルの地下にある小さなバー。神格管理庁の職員が身元を隠して立ち寄るには、この適度な煤け具合と、寡黙な老バーテンダーの距離感が都合よかった。
「そういえばさ」
拓也が空になったグラスをコースターの上で回しながら、ふと思い出したように言った。
「最近、豊島区の方で奇妙な噂、耳にしませんでした?」
「豊島区……池袋のこと?」
「ええ。ほら、総務課にいる相川さん、いるじゃないですか。あの人の姪御さんが、東池袋の私立校に通ってるらしくて」
冴子はグラスに唇を触れさせたまま、視線だけを拓也に向けた。
「その子が、どうしたの」
「様子がおかしい生徒が、急に増えてるらしいんです。それも一人や二人じゃなくて」
「思春期の情緒不安じゃないの。進学校なら、夏休み前の模試のプレッシャーもあるでしょうし」
「いや、そういう荒れ方じゃないみたいで……なんて言うのかな。むしろ、急に『聞き分けが良くなりすぎる』らしいんですよ」
拓也の指先が、グラスの縁をなぞる。
「昨日まで親と口も利かなかったような反抗的な子が、突然、誰に対してもにこにこ微笑むようになったり。かと思えば、休み時間になっても席から一歩も動かず、窓の外をじっと見つめたまま、話しかけても返事もしなくなったり。――親御さんは『急に大人しくなって気味が悪い』って言って、心療内科に連れて行ったらしいんですけどね」
「診断は?」
「原因不明。極度の疲労による感情鈍麻、あるいは解離性の反応じゃないかって。でもね、相川さんが言うには、その姪御さんの同級生の親が、気味の悪いことを言ってたそうなんです」
拓也の声が、わずかに低くなった。
「夜中にふと目が覚めると、その子が玄関の土間に突っ立ったまま、暗闇の中で誰かと話してるんだそうです。『もうすぐですね』『はい、置いていかないでください』って。……街灯の明かりで障子に映ったその子の影が、まるで二重になって揺れてた、って。そういえば、その家、家族で通ってる集まりがあるとか言ってたかな」
カラン、と。
冴子のグラスの中で、氷が崩れた。
ビターズの重い苦味が、舌の上に広がっていく。
「……ただの夢遊病か、思春期の思い込みよ」
冴子は淡々と言った。
だが、その声の冷たさとは裏腹に、背筋の皮膚が粟立つのを自覚していた。
神格管理庁――内閣府直轄でありながら、世間にはほとんど存在を知られていない特務機関。
世界中に偏在する『信仰』と『記憶』の凝集物、近代合理主義の枠組みからはみ出した土俗の神格や怪異を、社会の表面に波風を立てぬよう秘密裏に監視し、必要とあらば切除する部署。
その切除を担う職員は、一人の例外もなく、何らかの神を、その身に背負っている。神を背負える器でなければ、庁の扉は開かない。
名大法学部を卒業し、キャリア官僚としての人生を歩むはずだった冴子が、官庁訪問の果てに案内されたのは、窓のない地下の取調室だった。
そこで受けさせられたのは、法律の知識を問う試験ではなく、古びた白黒写真を見せられ「この家のどこに死者が隠れているか」を直感で選ばせるような、異様な適性検査だった。
採用通知に記されていた所属名は『内閣府直轄 神格管理庁 特務調査部』。
それが、冴子の新しい肩書きだった。
採用通知の裏には、小さな活字で、適性の区分が一行だけ記されていた。
『祓戸系 瀬織津型・微』。
意味を教えられたのは、配属から半年後のことだ。あの白黒写真の試験は、神を背負える器かどうかを測るものだった。冴子の身に降ろされたのは、罪穢れを水に預け、川の流れで押し流して薄める、祓戸の四柱の一柱。その末席の権能。
庁の職員は、誰もが一柱ずつ、神を背負っている。冴子が背負ったのは、実戦の役には立たない程度の、ごく淡い神だった。
ただ、その掌だけは、夏でも濡れた紙のように冷えていた。
「……森田」
「はい?」
「その心療内科、どこか聞いてる?」
「え? あ、確か南池袋にある『高槻メンタルクリニック』だったと思いますけど……どうかしたんですか?」
「いいえ。少し、気になっただけよ」
冴子は残りの酒を喉の奥へ流し込み、席を立った。
コートを羽織りながら、バッグから二枚の千円札を取り出してカウンターに置く。
「白石さん? まだ九時半ですよ」
「明日の朝一番で、豊島区の住民異動ログと、都内の救急搬送記録を洗うわ。森田、あなたも付き合いなさい」
「ええっ、明日は非番なのに……」
拓也の情けない抗議の声を背中で聞き流しながら、冴子はバーの重い防音扉を押し開けた。
階段を上がると、真夏の熱帯夜の淀んだ空気が、湿り気を帯びた獣の息のように顔を撫でた。
遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。
その細い電子音が、なぜか遠い山奥で響く夜鳥の鳴き声のように、冴子の耳の奥でいつまでも擦れ合っていた。




