1章 籠の子
私はなぜ、生きているのだろうか。
自分なりに考えて努力してみたり、欲に負ける時もあるけど、毎日必死に頑張っている。でもいつかは死んでしまう。
死とは考えることも感じることも無いということ。
私の人生の観測者は私で、それは誰にも代わることのできない事実で、その観測者がいなくなるということは、すなわち、世界が終わるということ。
みんなは、恐ろしくないのだろうか。
どうして平気な顔で、明日も当たり前に来ると信じて、非生産的なことをしているのだろうか。手を取り合えば世界は平和になって、もっと.........なんてのは、綺麗事か。
私は、周りと考えが違う所があるらしい。自分では常識人のつもりだが、これまでの人生の中で何度もそう言われたから、そういうことにしている。
だからなのか集団の中だと浮くから、学校ではよくマトにされた。
混血というのもあって、それとの相性はかなりよかった。
私は両方の学校に行ったが、どちらも上手くいかなかった。
つまり環境ではなく、私に原因があったのだろう。
仮にも心理学を独学で勉強していたし、色々なことを経験したから心は強い方だと自負していた。
でも、知識と実際は別物だった。
蓄積された負の感情を背負うには、十五歳の私にはまだ早かった。
そして今、私は、適当に見つけたマンションの外階段にいる。
今日の空気は湿っていて、冷たい風が強く吹いている。六月、強い雨が降る前の天気だ。私は、こういう天気が好きだ。
いつもより世界が静かで、たまに頬に落ちる雨粒と、体に強く当たるこの冷たい風が好きだ。
好きな天気の日に死ぬのだから.......と思うことにした。
私の人生は、恵まれていた方だと思う。
五体満足でアレルギーも持病もない健康な体に産まれた。口を開けば暴言と暴力が飛び交うそんな家庭だったが、ピアノ、水彩画、墨画、空手、水泳と、習い事はかなり詰められた幼少期だった。
中学に上がるとそれは塾に変わり、もとより好きで始めたわけでもないから、当然ピアノも、絵も、空手もほとんどできなくなった。
何か才能があった訳でもない。努力をする性分でもない。何をしても勝手に周りと比べて劣等感を抱くし、この中途半端に悪い頭が足を引っ張る。どうせなら馬鹿に産まれた方が幸せだっただろう。
親も、気の毒だと思う。だけど離婚も混血も、彼ら自身の選択だ。彼らの選択と私の選択が、交わった結果がこれなのだ。
いや、本当は全部理解してる。
周りと合わせるのが窮屈で、努力が嫌いで、辛い日常から逃げ出す為の、私が考えたら都合の良い口実に過ぎない。
とはいえ、それも、今日でお終いだ。
私は体を階段の手すり壁に乗り出し、重心を、前に傾けた。
「......なんだよ。やっぱ、怖いじゃ——」
体が震えて、言葉が途中で崩れた。
そのときだった。
自然は、人間の事情なんてお構いなしに、ひときわ強い風を吹きつけてきた。
「あ...」
鈍い音を、聞いた気がした。誰かの悲鳴も、聞いた気がした。
それが何の音だったのか理解するより先に、私の意識は、そこで途切れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(...ここは、どこだ?)
気づくと、私は考えていた。
考えている、ということに遅れてぞっとした。
(ん?私、死んだよな。...あれ。なんで、考えていられるんだ。)
「それは、わしのおかげじゃ」
突然、自分以外の声がした。慌てて周りを見ようとしたがーー周りが、ない。
上も下も、明るいも暗いもない。
そもそも自分が今どういう状態なのかすら、分からなかった。
「混乱しておるな?そうじゃ、こうしよう。」
という爺さんの声が聞こえて来て、黒い空間の目の前に、ふっと人影が灯った。
灰色のローブをまとい、白い髭を長く生やした爺さんだった。
「な.......どうなってる」
周りは真っ黒なのに、爺さんだけは見える。見下ろせば、いつの間にか私にも体があった。
「ここは死後の場所じゃよ。今お主を観測しているからーーふむ、単刀直入に聞くかのう。」
「どうじゃ。力を授けるゆえ、もう一度、生を受ける気はないか?」
と爺さんは、なんでもないことのように言った。
突然の出来事。目の前の不審者。意味の分からない発言。.......もはや、考えるのも混乱するのも無駄だと悟った。
(こういう展開は、ラノベで読んだことがある。今の状況が何なのか知らないが、死んだことに変わりない。もう、なるようになってしまえ、だ。)
「あなたが誰だか知らないけど。能力をくれるってことなら、その話受けるよ。」
「なんじゃ、話が早い。それなら心配は無用じゃ。それでは行くがよい」
「え、ちょっと待って。能力って、選べるとかないの? せめて内容だけでmーー」
と、言おうとしたところでーー今、こういう状況だ。
異世界転生というやつには、もう少し親切な導入が付いてくるものだと思っていた。ステータス画面とか、案内の天使とか、せめて説明書とか。
現実の僕はといえば、森の真ん中で、籠に入っていた。
編み目のしっかりした、大きな木の籠だった。柔らかい布が敷かれ、体には毛布が掛けられていた。誰かが用意したとしか思えない。
でも、周りに人の気配はなかった。あるのは木と、風と、鳥の声だけだった。
(誰が僕をここに置いたんだろう。)
考えても分からなかった。分からないことを考えるには、赤ん坊の頭は眠すぎた。寒さと心細さで、気づけば僕は泣いていた。泣こうと思って泣いたんじゃない。
体が勝手に泣いた。赤ん坊の体というのは、そういうふうにできているらしい。
どれくらい泣いたのか、覚えていない。
(近づいてくる足音がするな。)
草を踏む、重い足音だった。
それが近づいてきて、止まって、息を呑む気配がした。
見上げた先に、男の人がいた。
ひどい格好だった。上等そうな外套は土と、それから多分、血で汚れていた。頬にも乾いた血がこびりついていて、目の下には濃い隈があった。男の人は籠の中の僕を見て、それから、弾かれたように周囲を見回した。
誰かを探しているんだと分かった。僕の親を、探しているんだと。
誰もいないことを確かめると、男の人は籠の前に膝をついた。近くで見ると、思ったより若かった。そして、怖い顔をしているのに、目だけは怖くなかった。
「こんなところに、一人か。」
低い声だった。掠れてもいた。
大きな手が伸びてきて、僕は毛布ごと抱き上げられた。血と土と、汗の匂いがした。お世辞にもいい匂いとは言えなかったけれど、その腕はとても、とてもあたたかかった。
「もう大丈夫だ。」
男の人はそれだけ言った。
それが、父コンラート・ベルクハルトとの出会いだった。もっとも、当時の僕はまだそんなことを知らない。知っていたのは、寒くなくなったということと、この人は多分、僕を放っていかないらしい、ということだけだった。
僕は泣き止んで、そして限界が来て、眠った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次に覚えているのは、天井だ。
見たこともないくらい高い天井に、細かい彫刻が入っていた。僕はふかふかの寝台に寝かされていて、周りでは大人たちが何やら揉めていた。正確には、揉めているように聞こえた。言葉が、一つも分からなかったからだ。
言葉が分からないというのは、思っていたよりずっと怖い。
でも、そのうちの一人の声だけは、怖くなかった。
女の人だった。栗色の髪の、綺麗な人だった。彼女は他の大人たちが何を言っても首を横に振り、僕を抱き上げて、離さなかった。彼女が僕に向かって何度も繰り返す言葉があった。意味は分からなかったけれど、その響きは覚えた。
後になって分かった。それは「ノア」僕の名前だった。
女の人は母、エリーゼ・ベルクハルト。血の汚れを落とした男の人は、やっぱり父コンラートだった。二人には子供がいなかったらしい。らしい、というのは、これも全部あとから少しずつ分かったことだからだ。赤ん坊に与えられる情報は、驚くほど少ない。ミルクと、睡眠と、あとは大人たちの顔色くらいだ。
だから僕は、顔色を読んだ。
父は、屋敷の中では厳しい顔をしていることが多かった。人がひっきりなしに訪ねてきて、難しい話をしていくからだ。でも僕の寝台を覗き込むときだけ、その顔は面白いくらい崩れた。
母は、いつも笑っていた。でもたまに、僕を抱いたまま、泣いていることがあった。なぜ泣いているのかよくわからないが、悲しい泣き方ではなかったと思う。
(ああ、この人たちは、僕が来て、嬉しいんだ。)
それが分かったとき、胸の奥が変になった。むず痒いような、落ち着かないような。僕はこの感情を知っている。
自己嫌悪と不安だ。
前世の僕は、生きることから逃げた人間だ。
その僕が、今、生まれてきただけで泣いて喜ばれている。
何もしていないのに、だ。
言葉も話せず、ミルクを飲んで寝ているだけの僕を、この人たちは宝物みたいに扱う。
それを嬉しく思っている自分が嫌いだ。この人たちが僕に失望するのにどれくらい掛かるのだろうか。
(そういえば、僕はあの爺さんに力を貰ったはずだ。それが何なのかは、さっぱり分からない。転生以来音沙汰なしだ。不親切にもほどがある。でも、まあ。せっかく貰ったんだ。自殺したくせにまた生きるなんて虫がいい話だが、少しは頑張ってみるとするか。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
頑張る、と決めたはいいものの、赤ん坊にできることは少ない。だから僕は、手近なところから始めた。言語だ。
大人たちの会話を聞き、音を拾い、意味を推測する。前世ではニヶ国語しゃべれたんだ。言語習得に関しては有利だった。言葉は大体理解出来るようになったが、僕の声帯はまだそこまで発達していなかった。
声に出して喋ろうとしたが上手くいかず、乳母に見つかり気味悪がられた。
今の僕は一人で生きていけるほど強くない。だからここは変に目立たないよう年相応の振る舞いをして、体の成長を待つことにした。
歩けるようになると、世界は一気に広くなった。
ベルクハルトの屋敷は、広かった。どれくらい広いかというと、三歳の僕が本気で探検を始めて、把握し終わるのに一年かかったくらいだ。
長い廊下が何本もあって、廊下ごとに窓の形が違った。客間が並ぶ棟、家族の住む棟、使用人たちの棟。中庭がふたつ。厩舎には馬が十頭以上いて、裏手には菜園と、鶏小屋まであった。そして探検者ノアの行く先々には、必ず「関所」があった。
「坊ちゃま、厨房は危のうございます。」
「坊ちゃま、厩舎には大人と一緒に。」
「坊ちゃま、その先は倉庫でございますよ。ようございます、少しだけ...」
関所の番人たちーー使用人たちは、だいたい僕に甘かった。
厨房の料理長は、鍋を焦がしそうなほど忙しいくせに、僕が戸口から覗くと必ず味見用の匙をくれた。庭師のじいさんは無口だったけれど、僕が虫を捕まえるたびに、その虫の名前と、益虫か害虫かを教えてくれた。乳母は僕が転ぶ前に受け止める達人で、僕はいまだに、彼女の反射神経は母に次いで屋敷で二番目だと思っている。
そして、みんな僕を「坊ちゃま」と呼ぶ。
ベルクハルト家の一人息子。この屋敷の、次の主。そう扱われるたびに、僕は少し不思議な気分になった。ポッと出の僕を、少なくとも表向きは、余所者扱いしなかった。
「表向き」というのには、理由がある。
ほんの何人かだけ、違う人がいた。頭は下げる。作法は完璧だ。なのに、上げた顔のどこかに、冷たいものが挟まっている人が。特に、母付きの侍女頭は、僕を見るとき、いつも目だけが笑っていなかった。
その理由はわからないが、気にしても仕方ないと思い、その人たちの前では行儀よくするようにした。ただの勘だが、前世のおかげで人を見る目はある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この世界が前の世界と違うことなんて、数え切れないほどあった。でも、決定的なやつを最初に知った日のことは、はっきり覚えている。
四歳の、秋の初めだった。
屋敷に、行商の隊が来た。年に何度か来る、北の大陸まで渡るという大きな隊商で、彼らが来ると屋敷は少しだけお祭りになる。見たこともない色の布。嗅いだこともない香辛料。それから、僕にとっての目玉は、品物じゃなかった。
話だ。行商人は、話を持ってくる。
その晩、荷解きを終えた行商人たちに、厨房の隅で夕食が振る舞われた。僕は例によって戸口から覗いていて、例によって見つかって、気づけば樽椅子の特等席に座らされていた。髭もじゃの隊長が、子供向けの土産話を始めてくれた。
「坊ちゃまは、天海をご存じですかな。」
「てんかい?」
「空にある、海でございますよ。」
(空に海があるのか。重力はどうなっているのだろうか。)と考えていると
「北の大陸の、東側でございます。夜血帝国と、エルフたちの聖樹国。あのあたりで空を見上げますとなーー青の、ずうっと奥に、水がうねっております。雲よりも、ずっとずっと高くにだ。おかげで昼間でも薄暗くて、霧が多くて、初めて渡った者はみんな、一度は道端で空を見上げたまま動けなくなります。あたしもなりました」
「落ちてこないの?」
「落ちてきません。伝説によると神様が創った海ですからな。波もあれば、魚も泳いでいるという話で、あの空から降る雨のおかげで、聖樹国の森は世界一の森になったと、土地の者は自慢しておりましたよ。」
「竜の国も、北にあるんでしょ?竜たちも、その海の下にいるの?」
「おお、よくご存じで..ところが、坊ちゃま。竜の国の上だけは、ぽっかりと晴れておりましてな。」
「なんで?」
「大昔に、竜たちが焼き払ったそうでございます。」
(焼き払った。空の、海を。さすが異世界、わくわくされるじゃないか。)
「薄暗いのが我慢ならなかったんでございましょうなあ。国中の竜がいっせいに空へ昇って、火を吹いて、自分たちの頭の上の海だけ、まるごと蒸発させてしまった。以来、あそこの空だけは晴れている。ま、あたしも婆さまから聞いた話ですがね。」
その夜、僕は寝台に入ってからも、ずっと空の海のことを考えていた。
翌朝、庭に出て、空を見上げてみた。青い空に、雲が流れているだけだった。ここからは、見えない。天海は遥か北の、海の向こうの大陸の空にある。分かっていても、僕はしばらく、青の奥に水の気配を探してしまった。
「母様。天海って、ほんとうにあるの?」
「ええ、あるわよ。神様の海。ずうっと昔から、北の空にあるの。」
「母様は、見たことある?」
「私はないわ。でも、絵本でなら。」
「えほん」
「あなたが字を読めるようになったら、ね」
字を読めるようになったら。というのは、まだ家族に字が読めるのを隠しているからだ。色々な人から話を聞くが、この国で4歳だとまだ字が読めないらしい。
(今度また書庫室で探してみるか。)
そういえば、この世界には魔法がある。それも、教養がなくても簡単な魔法は使えるらしい。厨房の料理長は、調理に使う炭を作るのに火の魔法を使う。行商人の荷車も、どう見ても積みすぎなのに、風の魔法で軽々と動く。
(爺さんのいう力も、もしかして、魔法に関係あるんだろうか。ないんだろうか。)
しかし、手がかりは、相変わらず、何一つなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
父は、忙しい人だった。
どれくらい忙しいかというと、夕食を家族三人で食べられたら(今日は当たりの日)と僕が思うくらいだ。父の書斎には朝から晩まで人が出入りして、廊下ですれ違う客たちは、みんな難しい顔をしていた。
「父様は、なんのお仕事をしてるの?」
一度、母に訊いたことがある。母は少し考えてから、こう言った。
「たくさんの人の暮らしを、預かっているの。この屋敷から見える畑も、村も、その向こうの街も、ぜんぶ。何かあったら、お父様のところに相談が来るのよ。」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶ。先の戦争で、いろんなものが壊れたから。直すお仕事が、山積みなの。」
(先の戦争。)
その言葉を、僕はもう何度も耳にしていた。使用人たちの立ち話に、客たちの挨拶に、その言葉は当たり前に混ざっていた。「戦争の前は」「戦争で亡くした」「戦争から戻って」どうやら僕が生まれたのは、大きな大きな戦争の、ちょうど終わりかけだったらしい。書庫にもそれに関しての本は見ないし、詳しいことは聞いた話しか分からなかった。ただ、屋敷の外の世界が、屋敷の中みたいに平和ではないことだけは、分かってきていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
五歳の、春の初めのことだ。朝食の席で、父が唐突に言った。
「三日後、一日空けた。」
母が、パンを持ったまま固まった。
「あなたが?一日、まるまる?」
「まるまるだ。私とて、空けようと思えば空けられる。」
(いつも忙しいくせに、よく言うぜ。まぁ、冗談だろうけど)
「まあ。空が落ちてくるわ。」
「エリーゼ。」
「ふふ。それで?その貴重な一日を、どうなさるの。」
父は咳払いをひとつして、僕を見た。それから、少しだけ照れくさそうに、言った。
「ピクニックに行こうと思う。ノアはまだ、領地を見たことがないだろう。湖まで馬車で半日だ。天気もいいらしい。」
(ピクニック。)
その響きに、僕は椅子の上で跳ねた。屋敷の敷地から出たことは、数えるほどしかない。門の外には道が続いていて、道の先には村があって、畑があって、母の言う「ぜんぶ」が広がっている。それを、見に行ける。
「行く!行きたい!」
「よし、マルタに弁当を頼もう。あれの焼き菓子は絶品だ。」
父は満足そうに頷いた。
「あら、お弁当は私が作りますよ。」
「エリーゼ。君には剣の才能と、領地経営の才能がある。」
「お料理の才能は?」
「マルタに弁当を頼もう。」
母は頬を膨らませ、僕は笑いを噛み殺すのに失敗した。
こうして、ベルクハルト家のピクニックが決まった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出発の朝は、雲ひとつなかった。
馬車は二台。前の一台に僕たち家族、後ろの一台に弁当と敷物と、それからマルタが「万一に備えて」と積み込んだ謎の荷物一式。周りを、騎馬の護衛が六騎、緩やかに囲んだ。
「ピクニックなのに、兵隊さんが来るの?」
「ピクニックでも、だ。」
父の答えは短かった。その横顔が一瞬だけ領主の顔になったのを、僕は見逃さなかった。でも馬車が門を出ると、父の顔はすぐに父の顔に戻った。
(ここまで用意するんだな。でも大領主だからこれぐらいが普通なのか?)
門の外は、続いていた。
当たり前のことを書いているようだけど、五歳の僕には大事件だった。屋敷の窓から見えていた「景色」が、馬車の速さでどこまでもどこまでも続いていく。麦畑。放牧地。小川と水車。屋根の低い家々。
村を通るたび畑にいた人たちが、馬車の紋章に気づいて、手を振るのだ。それも、義理の会釈じゃない。麦わら帽子を振り回す勢いで、だ。父は窓を開けて、いちいち手を振り返した。
「旦那様ー!例の橋、直りましたぞー!」
「見た!いい仕事だ!」
「奥方様もご一緒で!坊ちゃまですかい、そちらは!」
「息子のノアだ!自慢の子だ!」
僕は慌てて頭を下げた。村人たちがどっと沸いた。父は、村の名前と、去年の収穫と、誰の屋根が戦争で焼けて誰の息子が戻ってこなかったかを、覚えていた。全部の村で、だ。
「父様、すごいね。」
(かなり親しまれている様に見える。)
「領主だからな、覚えるのも、仕事のうちだ。忘れたら、ただの偉い人になってしまう。」
(なるほど、これは親しまれる訳だ。)
馬車は昼前に街道を逸れ、緩やかな丘をひとつ越えた。
丘の上から、湖が見えた。
大きな、青い湖だった。岸辺に白い砂地があって、背の高い草が風で銀色に波打っていた。空が水面にそのまま映って、どっちが上か分からないくらいだった。
「わあ。すごいな!」
(これはどういう地理の成り立ちでこういう地形になったんだろうな。まったくわからないが、それにしても良い景色だなぁ。)
ーーその景色が壊れたのは、馬車が湖まであと少しという、林の際だった。
先頭の護衛が、鋭く手を挙げた。
馬車が、止まった。
最初に気づいたのは、音だった。
鳥の声が、消えていた。
さっきまであんなにうるさかった林が、水を打ったように静かになっていた。護衛たちが馬首を巡らせ、剣の柄に手を掛ける。父が窓の外へ短く何かを確認して、それから、僕が一度も聞いたことのない声で言った。
「エリーゼ。」
「ええ。」
母はもう、動いていた。座席の下から、細身の剣を引き抜いていた。うちの馬車の座席の下に剣が入っていることを、僕はこのとき初めて知った。
「ノア。床に伏せて、頭を抱えて。何があっても、顔を上げない。いいわね。」
母の声は、柔らかいままだった。柔らかいまま、一切の反論を許さなかった。僕は言われたとおり床に伏せた。伏せて.......
(そうは言われて伏せるわけがない。こんな機会あまりないんだ。この状況で大人しく出来る子供がいたら、会ってみたいよ。)
僕は窓の下の隙間から、外を見た。
林から、影が湧いた。
「燠狼だ!囲まれる前に.....」
護衛の誰かが叫んだ。
(確か燠狼という魔物は、全身黒毛で目が燠火のように灯ることから、俗に「赤目」と呼ばれている魔物だ。この前書庫の本で読んだ。群れで狩りをするんだけど、本で見たまんまの体の大きい狼だな。)
魔物の群れが、一斉に駆けた。速い。護衛の馬が竿立ちになる。先頭の一匹が、馬車まであと十歩ーー
《我が求むは敵を貫く三本の槍!》
呪文が聞こえて来た。父の声だった。
先頭の魔物が、跳んだ姿勢のまま、ぱたりと落ちた。落ちてから、体が斜めにずれた。何が起きたのか、僕には見えなかった。剣筋が走った、ように見えた。それだけだった。
母が、消えていた。
消えたように見えた、だけだ。
次の瞬間、母は魔物とすれ違った位置にいて、剣を振り抜いた姿勢で止まっていて、魔物は二つになって転がった。二匹目が怯んで足を止めた。
《奔放な風の精霊よ。我に鋭き風の力を貸したまえ!》
父はまだ呪文を唱えていた。
「左、抜けたわ。」
母の声がして、僕は窓の反対側に目を移した。
群れの二匹が護衛の輪をすり抜けて、馬車の左へ回り込んでいた。その進路上には、母がすでに立っていた。ドレスの裾を軽くつまんで、剣を無造作に提げた、いつものにこにこ顔で。
「だめよ。」
と、母は言った。悪戯を叱るときと、同じ声で。
(おいおい、左って自分で言ったのに、自分で追いつくんかよ。)
《鋭風三槍!》
父が呪文の詠唱を終えた。
三本の歪みが魔物の方へ飛んだ。派手な光も、爆音も無く、ただ鋭い風が無慈悲に魔物達を貫いた。
残った数匹は次々に逃げて行く、それで終わりだった。
戦い全部が終わるまで、お茶が一杯冷めるほどの時間もかからなかったと思う。護衛たちは周りを警戒したり死体を解体していた。父はというとこの後どうするかの話し合いを、護衛としていた。
気づけば林の際は静かになって、鳥の声が少しずつ戻ってきた。
(すっげぇ!風の槍!?魔法ってやっぱりカッコいいな!流石に戦闘で使うだけあって、うちの料理長の火おこしとは訳が違うや。父さんが使ってた魔法僕も使える様になりたいな!)
「ノア、もう大丈夫よ。」
母に抱き起こされながら、僕は自分の心臓がばくばく言っているのに気づいた。
興奮していたのだ。恐怖ないと言えば嘘になるが、この世界に来て初めて戦闘を見たのだ。無理もない。
門の外は綺麗で、広くて、人が手を振ってくれる。ここには人々の営みもあるが、当然の様に死んだりもする。絵本の世界じゃない。
ここは、そういう世界なのだ。
「怖かったか。」
父が僕の前に膝をついた。僕は素直に頷いた。こうした方が年相応だからだ。
「今はそれでいい。」
父は僕の頭に手を置いた。
「怖がれるのは、いいことだ。怖さを知らん奴から死ぬ。よく伏せていられたな。偉かった。」
(めちゃくちゃ図星だけど、ここは静かにしておこう。)
襲ってきたのは燠狼という魔物で、黒毛の間で赤い目が燠火のように灯ることから、俗に「赤目」と呼ばれているらしい。深界の生まれで、群れで狩りをする
「ーーさて」
指示を出し終えた父が、ぱん、と手を打った。
「湖まで、あと少しだ。弁当が待っている」
「え、行くの?このまま?」
「行くとも。」
父は当然のように言った。
「掃討は兵の仕事、ピクニックは家族の仕事だ。それにマルタの焼き菓子を持ち帰ってみろ。あれは根に持つぞ。」
母が声を上げて笑った。僕もそれにつられて笑ってしまった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
湖は、綺麗だった。
砂地に敷物を広げて、三人で弁当を食べた。マルタの焼き菓子は、悔しいくらい美味しかった。
食事後に父は服を脱いで水に入り、僕に向かってこう言った。
「昔はここで泳いだもんだ。ノアも川に入って泳いでみないか!」
言われるがまま少しだけ泳いで、その後は母と護衛たちとで水切りをして遊んだ。僕が上手く石を跳ねても、母が毎回上回って「ふふん」と得意にするから、(母さんは子供相手に何してるんだ。大人気ないなぁ。)と思った。
父はというと、護衛たちと泳ぎを競っていて楽しそうだった。
帰りの馬車で、夕日を見ながら、僕はうとうとしながら考えた。
この世界は、綺麗だ。でも危なくて、だけど父様と母様は強い。
(僕も、強くなれるだろうか。いや、なるしかない。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「僕も、剣と魔法を習いたい」
数日後の夕食で、僕がそう切り出すと、父と母は顔を見合わせた。
「だめ、とは言わないわ。」
「ほんと!?」
「でも、今すぐでもないの。」
「えぇ...」
父がフォークを置いた。
「ノア、学びには、順番がある」
父の言う順番とは、こういうことだった。
剣は、体ができてから。子供の骨に大人の稽古を乗せると、伸びるものも伸びなくなる。だからもう少し先。
そして魔法はーー字が先。
「魔法は、言葉と想像でできている。言葉を粗末にする者に、ろくな魔法は使えん。文字を覚え、本を読み、言葉と、言葉の指すモノを、頭の中にたくさん貯めること。それが魔法の稽古の、一番最初だ」
(困ったな、そしたらしばらくは独学で勉強するしかないか。)
「そうだ。あとは、うちにはそのための部屋がある。」
父はそこで、なぜか少し得意げになった。
「部屋?」
「見せていなかったな。ちょうどいい、七つの誕生日にしよう」
七つの誕生日。それはもう、そんなに遠くなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
七歳の誕生日の少し前、屋敷に客があった。
客自体は珍しくない。珍しかったのは、父が僕に「同席しなさい。」と言ったことだ。
「南方のロートリング家だ。うちの領地の南側を、代々預かってくれている家でな。年始の挨拶に来る。先方は、息子を連れてくるそうだ」
「息子?」
「お前と同い年だ。」
(こういう幼馴染になるポジションって、普通女の子なのに...)
応接の間で会ったロートリング卿は、日に焼けた、実直そうな人だった。父への挨拶は型どおりで、でも型の奥に本物の敬意がある。南の国境に近い領地は、魔物への備えで大変らしい。大人たちの話は、すぐに橋と兵と穀物の話になった。
で、僕はといえば。
部屋の隅で、同い年の男の子と、無言で向かい合っていた。
焦げ茶の髪に、丸い眼鏡。ユリアン、と紹介された子は、挨拶だけは大人顔負けに折り目正しくこなして、それきり黙ってしまった。人見知りらしい。気持ちは分かる。分かるが、大人たちの話は長い。このままだと二人で漬物石みたいに黙って座っているだけの午後になる。
(仕方ない、ここは僕から切り出そう。)
僕は、彼が膝の上で大事そうに抱えている物に目をつけた。分厚い、革表紙のーー本だ。
「それ、なに?」
ユリアンの眼鏡が、きらりと光った。気がした。
「...竜の、図鑑です。」
「竜ってあの?翼で空を飛んだり、火を吹いたりする?」
「他にも海竜に地竜もいますよ!それぞれに特徴があって、例えばこの竜とかはですねーー」
それが引き金だった。彼は少し興奮気味に言ってきた。
(おぉ、内気な子と思ったけど、かなりぐいぐい来るな。)
竜には地竜、海竜、翼竜の三つの系統しかないこと。北の大陸には、竜たちの国があること。竜はお互いの血が混ざれば、混ざるだけ特徴を受け継ぎ強く生まれること。
「へぇ、色々載ってて面白いね!」
「これは、ほんの一部です。竜はまだほとんど解明されていなくて、まさに未知と夢が詰まっているんです!」
大人たちの話が終わる頃、ユリアンはおずおずと言った。
「あの。ノア様......文で、続きの話をしませんか。ぼく、友達と本の話をしたこと、なくて。」
「いいね。やろう!」
即答した。文はカッコいいから憧れるし、この世界で初めての友達だ。上手くやれたらいいな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
七歳の誕生日の朝、父は僕を、屋敷の東の棟へ連れて行った。
そこは普段は僕がこっそり行ってる書庫の方だった。静かな廊下の突き当たりに、両開きの大きな樫の扉に、蔓草の彫刻。取っ手は、長年の手の脂で黒く光っていた。
「ここは...」
「ここは書庫室だ。」
父は扉に手を掛けて、でも、すぐには開けなかった。代わりに、僕を見下ろした。
「ノア。この部屋は、ベルクハルト家が何代もかけて集めたものだ。剣より、たぶん金貨より、うちの一番の財産だ。開けるぞ。」
扉が、開いた。
最初に来たのは、匂いだった。革と、古い紙と、微かなインクの匂い。それから、高い窓から朝の光が差し込んでいた。
(いつ嗅いでも、本の匂いは好きだ。)
壁という壁が、本だった。床から天井まで届く棚が、部屋の奥まで何列も続いて、そのすべてに、背表紙がぎっしりと詰まっていた。しかし、いつも見慣れていた光景だった。
「いつもこっそり来ていたみたいだが、この隠し部屋は知らないだろ。」
隣で、父の声がした。
「ここの棚の本を取ると、後ろに仕掛けがある。それを押すと隠し部屋の扉が開くんだ。」
「え、隠し部屋なんてあったの!?どんな本があるの!こんなのがあったなんて知らなかった!」
「この部屋には魔法や戦法なんかの本が置いてある。前提知識の本もあるからな。勉強に役立てるといいよ。」
(どおりでこんだけ本があったのに、魔法に関しての本が少なかった訳だ。なるほどな。)
「父様ありがとう!僕頑張るよ!」
七歳の誕生日。籠の子は、扉の前に立っている。この部屋の中で僕が何と出会い、何を知ることになるのかーーそれは、次の話だ。




