第四話 無知
どうやって家に帰ったのか、覚えてない。気付いたら朝。ここはどこ、あたしは誰状態。キョロキョロ辺りを見回したら、見慣れたアパートの部屋だった。ここはあたしの部屋。1Kの八畳。
やばい、今日も仕事だ!そう思って、慌てて時計に目をやったら時刻は七時。出社にはギリギリ間に合いそう、だけど、焦って仕度しないと間に合わないくらいの時間。
少しの寝坊という事実と、昨日の記憶の無さであたしの頭はパニック状態だった。とにかくベッドから抜け出して部屋の中をうろつく。昨日着てた服が洗濯機の中に入ってた。クリーニングに出すものはちゃんとハンガーにかけてあるし、身体はさっぱりしているから、お風呂には入って寝たんだろう。でも記憶は無い。
仕度をしながら坂名に会ったらどうしようと思った。多分、絶対、あたしの返事はYESだったはず。というかあたしから告白したわけだから、相手が受け入れた時点で結果は出てた。魚が一番だけど付き合うってことでいいんだよね。
家を出る前に一度深呼吸した。時間が迫ってるから今日は車で出社だ。
「よぉし!」
気合!たるむなあたし。仕事はばっちりこなすこと。あとで春に電話すること。坂名に会ったら、普通にすること。うかれるな、あたしはその辺の恋愛おバカとは違うんだ!
「おはようございます」
焦って出社すると、あたしは二番手だった。先に来ていたのは二つ上の先輩で、もう仕事を始めてた。よかった、遅刻じゃなくて、割と早めに着けて。最近自転車での出社に慣れてたから、車出社の時間差を計算し忘れてた。アパートから会社まで車で五分だったんだ。
「おはよう。今日はイワシが安いらしいわよ」
「あ、そうなんですか」
「さっき坂名くんがそう言ってた」
「…じゃあ、お夕飯用に買って帰らないとですね」
先輩は「そうね」とにこやかに言った。デスクに置いた小さな鉢植えに水をやりながらパソコンを開いている。メールのチェックでもしてるんだろう。
「………」
朝っぱらから坂名のワードを聞くとは思わなかった。確かにあいつは社内でもムードメーカー的な存在だし、人気者だから、そのうち何か噂話を耳にするとは思ったけど。
ドキドキする。仕事は慣れたものだからめったなことではミスしないけど、電話の応対の声とか、普段より作っちゃってる感じがする。はい、洋島水産株式会社でございます、なんて、どこのウグイス嬢よってくらい気取ってる。馬鹿、うかれるな、平常心だ、あたし。
お昼休み、机で眠っている坂名を見た。朝が早い営業方では、お昼休みに寝ている人が大半でそれは珍しい光景でもないけれど、こいつに限っては寝ているのは珍しかった。お昼も生簀に引っ付いて、魚を眺めながら片手でおにぎりとか齧っちゃうようなやつだからだ。坂名は昼食を食べるのも忘れて眠っている。あたしは寝ている坂名を横目に見ながら、お弁当を食べていた。自分では作らないから、ホカ弁だけど。
朝が早いってどんな感じなんだろう。そういえば、仕事をしている坂名はあまり見たことが無い。セリには一般人は入れないし、あたしが行っても、多分入れてはくれないだろう。テレビやなんかで捲くし立てるように声かけをするセリ人を見たことがあるけれど、そんな感じなんだろうか。トロイとまでは思わない。けれど、比較的マイペースでゆったりした所作のこいつに、そんな仕事が勤まるのだろうか。いや、あたしも人のことは言えないけど、早口でしゃべる坂名は想像できない。
その日は結局、お昼に坂名が眠っていたので、一言も会話しないままだった。あたしの退社は夕方六時で、坂名はそろそろ夕飯を食べて眠ろうかなどど考えている時間だろう。二日も続けて、夜呼び出すのは気が引ける。
そう思っていたら坂名からメールが来た。夜の八時くらいだった。内容は簡単で、明日の昼食は一緒にとろうかってことだった。そんなこと、今までは断りもなく自然に一緒にやってたのに。こうやって改まってメールを寄越すあたり、坂名なりにあたしと恋愛したいってことなんだろうか。
真夜中近くに春に電話した。事の次第を報告するためだ。
『よかったじゃない』
「うん、春には感謝してるよ。あのお店の料理、おいしかった」
店云々に関しては、春は照れくさいのか「ああ、そう」とそっけない答えが返ってきた。
『だから言ったでしょ。自信を持てばいいのよ。岬は素材がいいんだから』
「…ありがとう」
お魚には勝てずとも、今は幸せ。友人に励まされて、意中の彼とはとりあえず両想い。不満はほとんどない。
でもなんでだろう。何か引っかかる。あたしは大事なことを忘れてるような気がする。知らなきゃいけないことをすっ飛ばして、うきうきしちゃってる気がする。
電話を切って、それが何なのか考えた。布団にもぐってもまだ考えた。夢の中で、セリをしている坂名が出てきた。実際見たことはないから、テレビの知識と普段の坂名がまぜこぜになったような感じだった。あたしはお客の一人で、番号の書かれた黄色い帽子をかぶって、いわしを一箱買い付けてた。そんなに買ってどうするつもりなんだろう。つみれ鍋を作ったら社員全員分をまかなえそうな量だった。捲くし立てる坂名の声に相場をいくらか下回った値段で、あたしは颯爽と手を上げた。坂名と目が合って、真剣なまなざしにドキリと心臓が跳ねた。
朝になって、ぼんやりしながら夢を思い出しているうちに、あたしが一体何を見落としているのか気付いた。坂名がなんでお魚大好きなのか、結婚するには魚の気持ちを真剣に考えられなきゃならないのか、まるで理由を知らないってことに。




