まだ、このままで
翌日、約束の十時の十分前。
純平はご丁寧に人気洋菓子店の菓子折を持参して挨拶にやってきた。
柴距離マンだから初めての相手に緊張するんじゃないかと心配していたけど、杞憂だった。
純平は、興味津々で玄関に出てきた妹と弟たちにも目線を合わせて話してくれる。ただ挨拶よりもおれへの賛辞が多いのには正直参った。
「先輩には感謝しています。先輩がいなかったら今の俺はいません」とか、「先輩は本当に優しくて、細やかに他人を気遣うんですよね。そういうところにすごく支えられています」なんてさ。
学校で『おかん』なんて言われているおれだけど、気遣いなんて大層なことはしていない。純平を構っている自覚はあっても、家族の前で言われて気恥ずかしくなる。
「そうなのね。ヒナがそんなふうに思われていて嬉しいな。これからもヒナと仲良くしてあげてね」
母よ、追い打ちをかけないでくれ。純平の前で愛称呼びは恥ずかしい。
おれは口を挟もうとした。だけど純平は笑ったりツッコミを入れてきたりせず、反対に、次の言葉でおれにツッコミを入れさせた。
「はい、こちらこそです。俺、絶対に陽向先輩を大切にしますので、安心してください!」
「なんだよ、大切にって。日本語おかしいだろ」
ぽん、と裏手で腕を叩くと、純平はいやに生真面目な表情でおれの目を見てくる。
「おかしくないですよ。陽向先輩は俺の大切な人だから、合ってます」
「ぅ……それは、どうも」
身長差が逆転して見下ろされる側になってしまったからだろうか。調子が狂ってしまう。
大袈裟なんだよ、と言うのも気後れして、モゴモゴと礼を言った。
***
「綺麗なマンションだな。純平んちぽい」
純平の家はいかにも富裕層が住んでいそうなマンションだった。外観やエントランスロビーからして豪華に見える。
「ぽい、ってなんですか」
「おれは詳しくないけど、持ち物とか全部ブランドだって生物部のヤツも言ってたから、このマンションが家だって言われて納得してる」
「別に、俺が買った物でもないですし、家はただの箱ですよ。先輩の家はお母さんに妹さん、弟さんたちがワイワイ楽しそうにしてましたね。俺はあんなふうに人の温度が感じられる家がいいいな」
純平が羨ましそうに言う。謙遜している様子じゃなく、本当に羨ましそうに。それも『人の温度』なんて、変わったことを言う。
どうしてだろうと疑問符を頭に浮かべていると、純平はエレベーターのボタンを押しながらつけ加えた。
「うちは家に俺と犬しかいないんですよ」
「どういうことだ?」
「両親がもともと海外出張の多い共働きなんですけど、俺が受験に合格して以降はほぼ不在で」
だからおれが泊まる了承も、挨拶も手土産も不要だと言ったのだと話す。一応メッセージで訊ねたら、予想どおり『問題を起こさなければいい』と返ってきたそうだ。
「じゃあ食事とかどうしてるんだ」
問いかけたタイミングでエレベーターがロビーに降りてきた。乗り込んでから会話を再開する。
「ハウスキーパーさんが三日に一度入ってくれてます。中一の頃は毎日だったけど、ある程度のことはもう自分でできるしね」
「そうなのか……」
相槌を打ちながらも、おれの頭は少し混乱していた。
純平が小説なんかで読む孤独な主人公のような生活をしているとは露ほども思っていなかったからだ。
愛されて、大切に育てられたのだろう甘えんぼの純平で、だけど柴距離マンでおれ以外には懐かなくて……と、この三年間思っていたのに。
だけどそういえば昨日、純平は『世話放棄に慣れてる』と言っていた。
――ああ、そうか。
混線が解けて、一本の線になった。
反対だ。事実は知り得ないけど、多分純平は親御さんに愛情をかけられていないと思っている。
だから受験の日、おれにとってはごく自然な行動でも、純平には特別な情に感じて強く記憶に残ったのかもしれない。
純平じゃなければ、おれはただの「いい人」で終わっただろう。
エレベーターが最上階に到着した。純平に促されて角にある住居の玄関に入る。
広くて綺麗でも、無機質なほど整理されていてしぃんとしていた。
おれの家の玄関には家族の靴が並び、弟が置き忘れた帽子なんかもある。学校から帰れば必ず誰かが玄関まで出迎えにきてくれる。
――この家には本当に人がいないんだ……。
それでも「お邪魔します」と言い、靴を脱ごうとしたその時だった。少し開いたままのリビングルームのドアがゆっくりと開いて、室内から柴犬がやってきた。
そうだった。純平は柴犬を飼っているのだ。
「ただいま、ソラ」
純平が柴犬……ソラの頭を撫でる。ソラは純平の匂いをクンクン嗅ぎ終えると、チラッとおれを見るもノーリアクションでリビングルームへ戻っていってしまった。
「……柴距離……これがホントの柴距離か」
思わず呟くと、純平がハハッと笑う。
「いろんな子がいますけど、ソラは柴距離感が強いかも。ほとんど俺としか暮らしてないせいかな。基本はご飯の時だけ擦り寄ってくる猫だと思ってください」
なるほど。だけど純平が本当の『独りきり』でないことにホッとした。
リビングに入れば、純平はフカフカのマットの上で寝そべっているソラの腹を優しい顔で撫で、ソラは無表情から一点、蕩けた表情で腹を見せて、体をクネクネさせた。
やっぱり純平には懐いているんだな。これは純平も可愛いだろう。
おれもまた、懐いてくれる純平が可愛くて、他の後輩よりは構っている自覚がある。
そして純平の側面を知った今、もっと構ってやりたくなった。
「純平、この三日間、勉強以外でもやりたいことがあったら言えよ。何でも付き合ってやるからさ」
「ホントですか?」
純平は瞳を輝かせると、ソラを撫でる手を止めて抱きついて……いや、抱きしめてきた。
「やったあ。先輩を独り占めできるの、嬉しいな。なら三日間、ずーっと俺から離れないでね!」
「なんだよそれ。トイレとか風呂とかまでくっついてくんなよな」
やっぱり中身は前の純平のままだな。可愛いやつ。
喜んでくれるのが嬉しくて、ツッコミを入れつつもおれは、純平から離れていくまで抱きしめられてやっていた。
だってさ。身長だけでなく、広くなった肩幅とかハーフアップの髪とか、後ろから見たら別人なんだから……。
これはつまらない気持ちとは違う。学校指定の革靴を新しくした時の、親指の爪先や踵が馴染まない、そんな感じ。
だけど姿形は変わっても、純平の中身は変わっていないんだ。しばらくしたら慣れるだろう。
そう自分を納得させながらも、成長期のおれたちのこれからは、突然変異する微生物のように変わっていくのかも、なんてふと思う。
俺たちは来年、いいや、来月、一週間後、どんな俺たちになっているのだろう。
いつまでも純平を可愛がる先輩でありたいと願うおれは、純平の隣でも後ろでもなく、少しだけ前を歩いて駅へ向かった。