断章Ⅱ:レアリナ(幼少編)
2026/03/27 挿絵を追加しました。
2026/03/27 誤字を修正しました。
闇の大精霊が世界から消え――おおよそ千年近くが経過していた。
地上に満ちていた瘴気は徐々に薄れ、魔族が暮らせる土地は限られていった。
北の大地だけが、かろうじてその生を許される場所として残っている。
レアリナは、薄い金の髪を持つ少女だった。
ところどころ擦り切れたローブを深くかぶり、冷たい風から身を守っている。
北の大地は、容赦がない。
凍てつく風は肌を裂き、白い息はすぐに空へと消えていく。
足元の雪は踏みしめるたびに軋み、冷気が靴の隙間から染み込んでくる。
魔族の暮らしは過酷だった。
飢えも、寒さも、当たり前のようにそこにある。
幼いレアリナにとって、それは“日常”だった。
だが――その日、彼女は村の外へ出た。
理由は単純だ。
空腹と、ほんの少しの好奇心。
何か、食べられるものがあるかもしれない。
そんな淡い期待だけを頼りに、雪原へと踏み出した。
だが現実は甘くない。
白い景色はどこまでも続き、目印はすぐに失われる。
気づいたときには、帰り道も分からなくなっていた。
歩いても、歩いても――同じ景色。
やがて、足が止まる。
もう、動けない。
空腹と寒さが、体を内側から削っていく。
その場に崩れ落ちたレアリナは、膝を抱えた。
風が頬を刺す。
涙が、頬の上で冷えていくのがわかる。
誰もいない。
何もない。
ただ、風の音だけが耳に残る。
――さみしい。
その感情に耐えきれず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
声を上げて、泣き出す。
すると――
「あらら、誰かしら。そこで泣いているのは?」
やわらかな声が、頭上から降ってきた。
顔を上げる。
そこには、一人の女性が立っていた。
真紅の髪。
紫の瞳。
雪景色の中でさえ、異質なほどに鮮やかな存在。
「私はヴァネッサ。あなたは?」
「れ……レアリナ……」
「ふーん、迷子かい?」
こくり、と頷こうとしたその瞬間――
ぐうぅ……と、腹の音が鳴った。
一瞬の沈黙。
そのあとに響いた笑い声は、この雪原には似合わないほど明るかった。
「ははっ……あっはははは!」
ヴァネッサは、腹を抱えて笑い出した。
レアリナは顔を真っ赤にしてうつむく。
「正直でいいじゃないか」
指が、軽く鳴らされる。
すると、影がひとつ、すっと地面から立ち上がった。
「何か探してきておやり」
影は一礼すると、そのまま闇に溶けるように消えた。
別の影が現れ、手際よく焚き火の準備を始める。
ぱちぱちと、火が弾ける音。
橙の光が、じんわりと周囲を照らす。
「あったかい……」
思わず、声がこぼれた。
それは、久しく感じていなかった感覚だった。
しばらくして、影が戻ってくる。
手には、鳥のような獲物。
それは無駄のない動きで捌かれ、火の上に置かれた。
じゅう、と油が弾ける。
香ばしい匂いが、あたりに広がる。
お腹が、また鳴った。
さっきよりも、ずっと大きく。
「ほら、食べな」
差し出されたそれを、レアリナは両手で受け取る。
そして――
夢中で、かぶりついた。
熱さも気にせず、ただ食べる。
食べて、食べて、食べる。
生きている、という実感が、じんわりと戻ってくる。
その様子を見て、ヴァネッサはまた笑った。
今度は、少しだけ優しく。
やがて、食事が終わる。
体に力が戻り、視界もはっきりしてきた。
「送ってやるよ。村はどっちだい?」
歩き出す二人。
雪を踏みしめる音が、静かに続く。
しばらくして、ヴァネッサが口を開いた。
「あんたさえ良ければ、うちに来るかい?」
「え……いいの?」
「あー、仕事がいっぱいあるぞ?」
「ほんと? あ、お母さんに聞いてみるね」
やがて、村に辿り着く。
そこは、集落と呼ぶにも頼りない場所だった。
つぎはぎだらけの建物が、寒風に晒されながら、ものさみしげに並んでいる。
壁はひび割れ、屋根はところどころ欠け、今にも崩れ落ちそうな家も少なくない。
それでも――そこは、彼らにとっての“帰る場所”だった。
村で行き交う者たちは、ヴァネッサの姿を認めるや否や、はっと息を呑み、次々と頭を垂れた。
誰もが道の端へと身を寄せ、視線を合わせようとしない。
震える手で胸元を押さえる者。
涙を浮かべながら跪く者。
レアリナは、その様子を不思議そうに見上げる。
なぜ、みんなこんなにも怯えているのか。
自分にとっては、ただ食べ物をくれて、あたためてくれた人なのに――。
母の姿が見えた瞬間、レアリナは駆け出した。
「お母さん!」
抱きつく。
母は強く抱きしめ返した。
「どこへ行っていたの……! 心配したのよ……!」
だが――その視線が、ゆっくりとヴァネッサへ向けられる。
一瞬、空気が変わった。
母の体が、わずかに強張る。
「わたしね、ヴァネッサさんのところで働けるんだって。行ってもいい?」
一瞬、言葉が止まる。
母の手が、ほんの一瞬だけ強く握られた。
「……え?」
母は、ゆっくりとヴァネッサへ視線を向けた。
すべてを理解したように。
そして――すぐに、深く頭を垂れた。
「あぁ……本当だ」
「そうかい……よかったね。ちゃんとするんだよ」
母は、優しく微笑んだ。
その声は、震えていなかった。
「……あ、でもお母さんと離れ離れになっちゃう?」
レアリナは、振り返ってヴァネッサに尋ねる。
「ん? なんなら一緒に来ても構わないぞ」
「わーい! やったー!」
無邪気な声が、凍てつく空気をわずかに揺らした。
「……あ、でも……村の人たち……」
ふと、言葉が止まる。
「この状況で他者の心配か……面白い」
ヴァネッサが、くすりと笑う。
「あぁ、遠慮なんていらない。我々は食料を必要としないからな」
一拍。
「何なら――腹いっぱい食わせてやるぞ」
「みんなー! ヴァネッサさんが、おうちに来ていいってー!」
レアリナの声が、村中に響いた。
一瞬、静寂が落ちる。
誰もが顔を見合わせ――
次の瞬間、一斉に膝をついた。
歓喜か、恐怖か、それともその両方か。
震える声で、誰かが呟く。
「……我らに、生を……」
ヴァネッサは、その光景を見下ろしながら、満足げに目を細めた。
――かつて失われた秩序の、ひとつがここに戻る。
そして同時に、彼女は見つけていた。
この過酷な世界の中でなお、他者を思う“光”を。
それは、あまりにも小さく――
だが、確かに存在していた。
「さぁ、出発の準備をしろ」
静かだった村は、一斉に慌ただしく動き出した。
母はレアリナに問いかける。
「あのお方が、誰かわかるかい?」
「んーん」
「あの方はね、私たちが祈りを捧げる――闇の大精霊の使徒様よ」
「えっ……? でも、優しい人だね」
「粗相したら駄目よ」
母は視線を伏せた。
「うん……わかった」
ほんの一瞬だけ、母の手を見てから――
レアリナは、ヴァネッサのもとへと歩み寄った。
村からは荷を背負った一団が、彼女たちの後をついていく。
そしてそれが――
彼女の“始まり”だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
レアリナという存在の“原点”を描いた断章です。
ヴァネッサが見つけた小さな光が、やがてどのような意味を持つのか。




