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第5話 森の咆哮、少年の絶望

道中は思ったよりも穏やかだった。


リオにとって、すべてが新しかった。生まれて今まで、村の外に一歩も出たことがない。見たこともない景色、聞いたことのない音、風の匂いに包まれて、まるで異世界に足を込んだような感覚だった。


最初は緊張で周囲をろくに見られなかったが、護衛たちの穏やかな気配と、母の存在に助けられ、漸漸に心がほどけていく。


やっと、景色を「見る」余裕が生まれ、それは旅の始まりを実感させてくれた。


護衛の二人は無口ながらも親切で、道すがらの草木や地名をぽつりぽつりと教えてくれる。


母との会話も自然と増え、旅路になじんでいく。


「ねえ、あれって麦畑? こんなに広いの、初めて見た……」


「ふふ、リオが小さい頃は、庭の花壇でしか遊んでなかったものね」


そんな何歳も年の違わないやりとりが、どこか特別に感じられた。


日が傾き始めるころ、他の森に面した開けた丘に、一行は野営地を設けた。


「手伝います!」


リオが勉勉しく声を上げると、母とエルノが同時に笑み合う。


「ふふ、ありがとう。でも、リオは少し休んでてもいいのよ」


「リオ様に無理をさせるわけにはいきません」


エルノは調子よく広げた手で布を母に渡す。


「鍋をこれで覆っておけば、虫も入らないはずです」


「助かりますわ。今夜は少しだけ煮込んだお肉があるので、シチューにしようかと思って」


「それは嬉しいですね。遠出の疲れも和らぎます」


護衛の二人は交互に見回りをしながら、夕食をとる間も警戒を怠ることはない。


「十五分ずつで交代だ。オルド、先に食ってこい」


「おう、任せた。火のそばに座れるだけでもありがてぇもんな」


ヴァルトとオルドは短い言葉を交わしながら、不常のようにすらすらと務をこなしていく。


煮込みが満たしてきた鍋を母がゆっくりかき混ぜる音、草むらの虫の声。そのすべてが、夜の静けさに混ざり合って、やさしい時間が流れていた。


初めての野営だったが、リオの心は思いのほか落ち着いていた。母の作るあたたかな味と、炎のぬくもりが、旅の不安を少しだけ溶かしてくれるようだった。


「……うまいな、これ」


見回りを終えて戻ったオルドが、椀を手にしてシチューをすすり、小さく唸った。


「うむ。これは胃に沁みる」


ヴァルトも静かに頷き、火のそばに腰を下ろす。


「ふふ……よかった」


母が少し照れたように笑うと、リオの顔にも自然と笑みがこぼれた。


赤く揺れる火の光が寝具や荷を照らし、ささやかだが温かな一夜がそこにあった。


だが――その静けさは、長くは続かなかった。


焚き火の炎がふっと揺れ、森の奥から風が吹く。次の瞬間、草むらがざわめき、不穏な気配が走った。


「下がれッ!」


ヴァルトの鋭い声が響く。


木の陰から、黒くうねる影が飛び出した。


それは――まもの。フォレストウルフと呼ばれる、獣型の魔物。


一体ではなかった。闇に紛れて、さらに二体、三体と木々の隙間から姿を現す。


「この辺りで群れで出るとは……珍しいな」


ヴァルトが剣を抜き、前へと躍り出る。


焚き火の光に照らされた草むらの先で、フォレストウルフたちは低く唸り、じりじりと距離を詰めてくる。目をぎらつかせ、円を描くように移動しながら、こちらの出方をうかがっていた。


緊迫した沈黙の中、にらみ合いが続く。


リオは思わず母の腕を強く握った。手のひらが冷たい汗で湿る。


やがて、一体の狼が地を蹴って跳びかかった!


その瞬間――ヴァルトの剣が風を裂く。


鋭い閃光が夜を切り裂き、魔物の胴を縦に一閃。血飛沫が舞い、フォレストウルフは断末魔すらあげる間もなく、地面に崩れ落ちた。


一撃。まさしく真っ二つだった。


だが、それが合図となったかのように、残る群れが一斉に動き出す。唸りを上げ、左右から包囲するように突進してくる。


「数が……増えてきている!?」


森の暗がりの中、さらなる赤い瞳が浮かび上がる。


「ヴァルト、一人じゃ持たねぇな」


オルドが低く呟き、大剣を抜いて前へ出る。


焚き火の周囲に立ち、ヴァルトと背を合わせて構える。


「オルド、右を頼む」


「任せとけ」


二人の私兵が剣と大剣を構え、互いの死角を補い合いながら獣の群れに対峙する。


剣閃がうなり、咆哮が夜を切り裂いた。刃と牙が交錯し、火花が舞う。


リオと母は馬車の陰に身を寄せ、恐怖に凍りついていた。震える指で母の手を握ることしかできない。


母の手は、強くて温かかった。


そのぬくもりに触れた瞬間、胸の奥にあった何かがかすかに震えた。


――自分が守ってもらってばかりでいいのか?


いやだ。


母を、誰かに傷つけさせたくない。


リオの中で、まだ名前のつかない想いが、ゆっくりと芽吹こうとしていた。


剣の音、獣の叫び。頭では理解していても、体が動かない。素振りなら毎日欠かさずしてきた。父のように強くなりたくて、誰にも負けないと信じて、汗を流してきた。


なのに今、自分は――剣を抜くことさえできない。


その無力感が、胸を締めつけた。


「しっかり、伏せていてください」


もう一人の護衛――執事のエルノが短剣を抜き、リオたちの前に立ちはだかる。


普段の彼からは想像もできない姿だった。穏やかで礼儀正しく、どこか頼りなさすら感じていたその背中が、今はまるで鋼鉄のように揺るぎなく見えた。


「……エルノさん?」


リオは思わず、呟いた。


その背から滲み出る気配は、冷ややかで鋭く、まるで戦場に身を置く戦士そのものだった。


彼もまた、戦う者だった。


次々と斃れていく魔物たち。剣と大剣が獣の身を裂き、十体を超える死骸が地に転がる。


血の匂いが漂い、草むらを赤く染めていく。


やがて、残った数体が動揺したように後ずさり、森の闇へと逃げ去った。


「……退いたか」


ヴァルトが息を吐き、剣先を下げる。オルドも肩で息をしながら周囲を見回す。


安堵の空気が、一瞬だけ場を包んだ。


だがそのとき、森の奥から、別の“何か”の気配が近づいてくる。


風が止まり、虫の声も、木々のざわめきさえも消えた。


まるで、世界が息を潜めたような静寂――


「……まだいるな」


ヴァルトが呟いた直後、焚き火の光の届かない暗がりから、巨大な影が歩み出る。


それは――他のフォレストウルフとは比べ物にならない。


筋骨隆々とした体躯。額には黒く湾曲した一本角。


獣の王を思わせる威容が、闇の中からゆっくりと姿を現した。


「群れの……ボスか」


重低音のような唸り声が響き、退いたはずの森の奥から、再び赤い目が現れ始める。


――闇はまだ、終わっていなかった。



2025/07/09 セリフと、描写を追加しました。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第5話では、リオにとって初めての「外の世界」での恐怖と緊張、そしてそれに立ち向かう護衛たちの姿を描きました。

平穏な野営から一転、命の危機にさらされる展開の中で、リオの中にも少しずつ「何か」が芽生え始めています。


彼はまだ何もできない。ただ震えて、見ていることしかできない。

けれどその目に焼きついた「現実」は、確かに彼を変えていくきっかけになるはずです。


次回、第6話では——

いよいよリオの中で眠っていた光が、現実の闇に触れて覚醒します。


次回もどうぞお楽しみに。

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