第3章 「マッドサイエンティスト達は造物主の夢を追う」
不気味な響きによって始まった第五楽章は、クラリネットで変奏された「イデー・フィクス」にチューバの音色が印象的な「怒りの日」といったハイライトを経て、全管弦楽の熱狂的な咆哮によって堂々たるクライマックスを迎えた。
十九世紀のフランスで名を馳せたエクトル・ベルリオーズが初めて手掛けた交響曲である「幻想交響曲」は、堺県トリ・コンフィネ交響楽団の名だたる奏者達に演奏される事で、このフェニーチェ堺の大ホールを埋める二千人の観客達を魅了したのだった。
まるで自分の手足のように巧みに楽器を演奏する交響楽団の奏者達に、そんな彼等を的確に統率する高畑氏の卓越した指揮。
両者の奏でる交響曲の素晴らしさは、正しく名人芸と呼ぶに相応しい。
「これは素晴らしい演奏でしたね、芹目アリサ先生。特にマエストロの指揮棒捌きたるや、繊細さとダイナミックさの共存した見事な物でしたよ。脳腫瘍から復帰したばかりとは、とても思えません。」
「摘出手術を始めとする治療の正確さと、復帰を目指す本人の強い意志。両者のどちらかが欠けても、今回の復帰は有り得なかったでしょう。それにつきましては、梅尾博士御自身がよく御存知のはずです。」
無心で拍手を鳴らす初老の紳士が漏らした率直な感想に、私は軽い微笑を口元に浮かべながら小さく頷いた。
量子力学コンピューター研究の第一人者として高い知名度を誇っている、畿内大学量子力学研究所の梅尾博士。
彼もまた高畑氏と同様に、かつては脳腫瘍を患っていた。
脳腫瘍の患者と執刀医という立場で出会った私達は、理系の研究者という共通点から懇意になり、こうして快癒後も交流を続けている。
親子程に年齢の開いた私達の間に、当然ながら恋愛感情など存在しない。
そこにあるのは共同研究者としての戦友意識と、互いの研究分野に対する敬意だけだ。
「それにしても、高畑氏の指揮は素晴らしい。彼こそ正しく逸材だ…」
「お気に召されたようですね、梅尾博士。私なら招待客として顔が利きますので、高畑さんとお会いになりますか?」
高畑氏の見せた素晴らしい指揮に心底惚れ込んだのか、梅尾博士は私の提案に一も二も無く頷いた。
マエストロの招待客にして執刀医。
この肩書きが見事に物を言って、私達二人は快く楽団員の楽屋へ通された。
「こうして再び指揮棒を振るう事が出来ましたのも、芹目アリサ先生の手術があってこそですよ。先生には、本当に感謝しております。」
「すっかり良くなられたようですね、高畑さん。手術を担当させて頂いた方の御健康や御活躍は、執刀医として喜ばしい限りですよ。」
高畑氏の健康な様子は、握手の力強さや感謝の言葉の明瞭さからも伺えた。
ここまで順調に回復していれば、もう大丈夫だ。
「高畑さんを治療して頂き、本当に有難う御座います。またこうして高畑さんの指揮で演奏が出来て、喜ばしい限りですよ。」
「私も千恵子さんも、高畑さんには音大時代からお世話になっているんですよ。私からも御礼申し上げます。」
ピッタリと息の合った様子で上品に一礼したのは、ピンクと白のドレスを纏った二人の女性奏者だった。
彼女達は確か、ピアニストの笛荷千恵子氏とヴァイオリニストの浪切茉莉氏のはずだ。
彼女達にとっての高畑氏は、自分達の所属する交響楽団の指揮者であり、大学時代に薫陶を受けた親しい先輩でもあるのだから、こうしてまた一緒にコンサートが出来る喜びも一入だろう。
「御復帰おめでとう御座います、高畑さん。実は私も以前に脳腫瘍を患いまして、芹目アリサ先生に摘出して頂いたのですよ。それもあってか、高畑さんの見事な指揮に惚れ込んでしまいましてね。本コンサートのDVDが発売されたら、是非とも購入させて頂きたいですよ。」
「そうですか、貴方も芹目先生の手術を…今回のコンサートを御気に召して頂けて、指揮者冥利に尽きるという物ですよ。」
柔和な笑顔を浮かべる高畑氏は、恐らく気付いていないのだろう。
梅尾博士が何故、自身に興味と関心を抱いたのかを。
孤高のマッドサイエンティストを気取っている訳では決して無いが、自宅の地下に設けた研究室に自分以外の人間を立ち入らせるのは、少し前までの私には思いもよらない事だった。
しかしこうして共同研究者が出来た事で、この地下研究室も活気付いてきたように感じられた。
主である私を除けば、生きた人間として唯一この地下研究室に立ち入る資格を持つ梅尾博士。
きっと彼は、私の提供する品物を喜んでくれるに違いない。
その予感は正しかった。
「おお…これが高畑氏の右前頭葉から摘出された、脳腫瘍のサンプルですか…」
私が差し出したカプセルの中身に、梅尾博士はいたく御満悦の様子だった。
「ここまで培養し直すのに、本当に骨が折れましたよ。何しろ薬物療法に放射線照射とあれこれ手を尽くして、可能な限り小さくした腫瘍なのですから。」
「心得ておりますよ、芹目アリサ先生。御厚意で提供頂いた脳腫瘍、必ずや音楽センスに優れたバイオコンピューターに仕立て上げて御覧に入れましょう。」
専門である量子力学を応用して、次世代型コンピューターの開発を目指している梅尾博士。
彼が開発を構想しているコンピューターの最大の特徴は、半導体の代わりに人間の脳細胞を演算素子に用いる事であり、それは一種のバイオコンピューターと呼べる代物だった。
幾ら次世代型コンピューターの研究開発とはいえ、生きた人間の脳細胞を合法的に採取するのは容易ではない。
そこで博士は、生きているうちに患者から摘出された脳腫瘍に目を付けたという訳だ。
外科医にして癌細胞の研究者である私を共同研究者に選んだのは妥当な判断だったが、その接触方法はなかなかに体を張った物だった。
何しろ梅尾博士と私は、脳腫瘍の患者と執刀医として出会ったのだから。
「そう言えば、梅尾博士…博士の脳腫瘍を用いたバイオチップの進捗状況は、その後いかがですか?以前に博士の研究室で拝見した時には、例のバイオチップは将棋ゲームをプレイしていましたが…」
「あの頃は学習データが不十分で、まるで駒の動かし方を覚えたばかりの小学生と対局しているみたいでした。しかし今では充分に育ってきて、歯応えのある将棋仲間になりましたよ。」
自分の脳腫瘍を素体にしたバイオチップ相手に将棋を指すのも、なかなか出来る事ではない。
梅尾博士がバイオチップと興じた風変わりな将棋は、科学の最先端を切り開く者だけが楽しめる特権と言った所だろう。
「つい先日には、プロ棋士の脳細胞を用いたバイオチップも完成しましてね。それまであったバイオチップと対局させているのですが、観察していると面白いのですよ。」
「以前にサンプルを提供した、福島永世竜王の脳腫瘍ですね。摘出した脳腫瘍も御本人も御健勝とは、本当に何よりです。」
手術で患者を救った上で、摘出した腫瘍や癌細胞にも第二の生を与える。
そんな私の理念は、脳腫瘍という限定的な範囲とはいえ、梅尾博士が見事に実現させつつあった。
彼を共同研究者に選んだ私の判断は、やはり正しかったのだ。
「この調子でバイオチップのデータ収集が進めば、より性能の高いバイオコンピューターの開発も視野に入れられるでしょう。そのバイオコンピューターを頭脳として組み込めば…」
「私の研究が真の意味で完成する。全身が腫瘍と癌細胞で構成された人造人間の誕生という形で…」
博士の言葉に応じながら、私は培養ケースの並ぶ棚に目を向けた。
胃癌に肺癌、それに骨肉腫…
これまで私が執刀した患者達に許可を得て貰い受けた病巣達が、そこでは今なお生命活動を続けていた。
この腫瘍達を切り刻んで縫合し、梅尾博士の開発したバイオコンピューターを組み込めば、私は本当の意味で腫瘍達に第二の生を与える事が出来るはずだ。
その時こそ、私達二人が新生命の造物主となる時なのだ…