第2章 「経過観察の席で、女性外科医は密かに愉悦する」
指揮者の高畑渡也氏が家族に伴われて五條県立大学医学部付属病院を退院したのは、脳腫瘍の摘出手術が完了してから六日後の事だった。
脳腫瘍と一口に言っても、退院に要する時間は人によって様々だ。
治療法や所要時間は腫瘍の発生経緯や性質によって大きく左右されるし、そもそも脳組織の何処に腫瘍が出来るかでも変わってくる。
高畑氏の場合、右前頭葉という比較的安全な部位に出来た腫瘍で、尚且つ事前の薬物投与と放射線照射で充分に小さく出来たという好条件が重なったからこそ、こうして一週間足らずの早期退院が実現出来たのであって、これが悪性腫瘍だった場合は更に入院日数が延びていたはずだ。
早期復帰を望む高畑氏としては、入院日数は短いに越した事は無いだろう。
『退院したら真っ先に、チャイコフスキーやモーツァルトのレコードを書斎で聞きたいですね。過去に私が担当した交響曲の指揮をシュミレーションして、一日も早く感覚を取り戻したいんです。幾ら個室病棟でも勝手に壁面へ防音対策をする訳にはいきませんし、アンプやスピーカーを持ち込むのも無茶ですからね。』
スマホやポータブルプレイヤー等を使えば病棟でも音楽には触れられるけれども、レコードの豊かな音域には到底及ばないらしい。
いかにもプロ指揮者らしいこだわりだったが、自身の専門分野に最適化された書斎への帰還を熱望する高畑氏の思いは私にも共感出来る物だった。
何しろ私だって、自宅の地下に設けた研究室で腫瘍や癌細胞の研究に勤しんでいるのだから。
術後の経過観察に来院した高畑氏は、至って元気そうな様子だった。
「御陰様ですっかり良くなりましたよ、芹目アリサ先生。手術をする前は起き抜けの頭痛に悩まされましたが、この所は気分良く起きられるようになりました。」
「脳圧の上昇による頭痛は、脳腫瘍の典型的症状の一つですからね。お元気そうで何よりですよ、高畑さん。」
もしもの時に備えて家族に付き添われての来院ではあったが、確かな歩行の足取りと会話時の明瞭な受け答えを見る限り、後遺症の心配は無さそうだった。
そして初見における私の見立ての正しさは、術後観察の一環で行った精密検査によって証明された。
「MRIや血管撮影を行いましたが、腫瘍の再発は見られませんね。術後の容態は至って良好です。」
「そ、そうでしたか…」
診察室のディスプレイ機器に貼り出したMRI画像を見つめる高畑氏の顔には、一目でそれと分かる安堵の表情が浮かんでいた。
自分の脳組織に寄生生物よろしく巣食っていた腫瘍と手を切る事が出来たのだから、それも無理からぬ事だろう。
私としては、その摘出された腫瘍や癌細胞にこそ興味と関心があるのだけれど。
あの軟体生物を彷彿とさせる艶かしいフォルムと、ヌラヌラと光沢を帯びた赤黒い魅惑的な色彩。
摘出した脳腫瘍の事を考えると、思わず陶然となってしまう。
とはいえ診察中は、そうした欲求を理性で抑えてポーカーフェイスに努めているけれど。
医師として、そして何より研究者として。
患者に奇異の目で見られるのは、色々と都合が悪い。
「その後、何か変わった事は御座いませんか?例えば、てんかん発作や手足の震え等といった自覚症状は?」
「いえいえ、全く!御陰様で、かつての健康をすっかり取り戻せましたよ。そうそう…変わった事では御座いませんが、先生にお見せしたい物が御座いまして…」
そうして高畑氏が返答もそこそこに差し出したのは、彼の所属する交響楽団の名前が印刷された封筒だった。
「ほう…」
そして封筒の中には予想通り、堺県トリ・コンフィネ交響楽団のペア招待チケットが収まっていたのだ。
「なるほど、『トリ・コンフィネ交響楽団クラシックコンサート〜交響曲の調べと共に〜』ですか。指揮は高畑さんが担当されるのですね?」
「今回のコンサートで、本格的に復帰させて頂く事になりました。すっかり回復した私の執る指揮を、恩人である芹目先生に是非とも御覧頂きたいと思いまして。」
これは高畑氏の単なる謝礼という訳ではなく、無事に快癒した自分の姿を執刀医の私に披露したいのだろう。
要するに高畑氏は、再び指揮棒を振るえる事が嬉しくて仕方無いのだ。
そして高畑氏がコンサートへの復帰を喜ぶポジティブな精神状態にある事は、腫瘍の再発を防ぐ上でも有益だった。
世間一般的にも広く知られている事だが、明朗快活な精神状態にあれば、人間の免疫機能は活発に働く傾向にある。
そしてそれは、癌や腫瘍を抑え込む免疫機能も例外ではない。
それならば、高畑氏の喜びに付き合ってあげる事は、彼の執刀医を担当した私にとっては大切なアフターフォローと言えるだろう。
それに指揮者である高畑氏の回復具合を確認するには、交響楽団の前で指揮棒を振るう姿を実際に見るのが確かに早道だった。
「ありがとうございます、高畑さん。復帰後初のコンサートには、是非とも出席させて頂きますよ。今回のチケットもそうですが、摘出した腫瘍を研究用に寄贈頂きまして、本当にありがとうございます。」
「御礼を申し上げるのは私の方ですよ、芹目先生。私の腫瘍が医学の発展に役立つなら、これ程に名誉な事は御座いません。」
温和な笑顔を浮かべる高畑氏には、本当に頭の下がる思いだった。
いいや、高畑氏ばかりではない。
今まで私が執刀してきた患者達が腫瘍や癌細胞を快く提供してくれたからこそ、私は研究を進める事が出来たのだから。
そして私の共同研究者も、きっと高畑氏には感謝するに違いない。
『せっかくだから、『彼』と一緒に行こうかしら?元気に指揮を執る高畑氏の姿を見た『彼』が、どのように感じるか楽しみだわ…』
高畑氏に手渡されたペアチケットを見ながら、私は一人そんな事を考えていた。