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第1章 「指揮者の脳から抜き出された腫瘍」

 母校である五條県立大学医学部付属病院に勤務して、そろそろ干支が半周する位の年月が経っただろうか。

 こうして母校に外科専門医として舞い戻ってから、思えば大勢の患者を受け持ってきた。

 老若男女を問わずに様々な患者を担当してきたけれども、どの患者の手術も私にとっては大切な思い出だ。

 成功率の高さを評価されてか、ここ最近は各界の名士や著名人の手術を担当する機会も多くなった。

 例えば先月に胃を切開したのは近畿地方でも有力な華族の御隠居様だし、その前に頭部を切開したのは永世竜王の称号を得て久しい天才棋士だ。

 そして今回こうして開頭手術を施行している相手は、著名なクラシック音楽の指揮者だった。

 堺音楽大学の指揮専攻を首席で卒業した高畑渡也(たかはたわたや)氏は、オーストリアやフィンランドを始めとする世界各国の交響楽団を渡り歩いた後に故郷の日本へ腰を落ち着け、現在では大学時代の学友や後輩達の大勢在籍している堺県トリ・コンフィネ交響楽団の常任指揮者を務めている。

 優れた指揮者である高畑氏を失う事は、彼の所属する堺県トリ・コンフィネ交響楽団にとっては勿論、我が国のクラシック音楽界にとって大きな痛手と損失である事は確かだった。

 このような名だたる御歴々の執刀を、まだまだ若手の私が担当させて頂いたのは名誉な事だ。

 それも偏に、彼等の患った病と私の得意分野とが一致したからに他ならない。

 胃の幽門前庭部に脳のグリア細胞、それに右前頭葉。

 その発症部位は様々だけど、彼等が腫瘍に侵されている事だけは共通していた。

 そして私こと芹目(せりめ)アリサは、この五條県立大学医学部付属病院に在籍する外科医の中でも、腫瘍摘出手術の若き権威として名声を得ているのだった。


 腫瘍摘出手術の若き権威と称されている私だけれども、決してメスやロボットアームを用いた摘出手術ばかりにこだわっている訳ではない。

 抗癌剤やホルモン治療薬を用いた薬物療法は一通り把握しているし、ガンマナイフや加速器を用いた放射線療法だってキチンと心得ている。

 私が得意とする摘出手術だって、そうした療法の一つでしかない。

 数ある療法の中でも患者にとって最適な物を見極め、選択した療法をいかに効果的に運用するか。

 それこそが、腫瘍患者を担当する医師が何よりもこだわるべき事だった。

 そして決して忘れてはならないのは、「患者の生命と心を救う」という医学の基本的な理念だ。

 今回にしても、薬物投与と放射線照射の適切な併用が見事に功を奏して、発見当初よりも脳腫瘍のサイズを縮小させる事に成功している。

 患者の負担と切除する時の手間を考慮すれば、腫瘍のサイズは小さいに越した事はない。

 困難な手術の成功は外科医にとっては誇るべき事かも知れないけれども、手術を受ける患者の身になって考えれば、可能な限り安全で負担の少ない手術になるよう努めなければならない。

 貝原益軒の「養生訓」にも記されているように、医は仁術であるべきだ。

 そして一連の積み重ねもあって、今回の手術も順調に進める事が出来た。

「脈拍数に心拍数、共に正常。患者の容態は安定しています。」

「腫瘍の摘出に成功。これより閉頭処置を開始します。」

 助手である青年医師の報告に小さく頷いた私は、手術の成功に安堵の溜め息を漏らしつつも、頭蓋に小さく空いた骨窓部を一瞥した。

 発生部位が比較的安全な右前頭葉で、オマケに原発性の良性腫瘍だった事は不幸中の幸いだった。

 正常組織との境界が明瞭だから全摘出も容易だし、それに増殖速度が緩やかなので、こうして早期に手を打つ事が出来た。

 とはいえ幾ら比較的安全な良性腫瘍とは言っても、患者本人と御家族としては、よりリスクの少ない安心な手術を選びたいのが人情だろう。

 悪性腫瘍や癌細胞の除去手術の経験に富み、そして確かなメス捌きが期待出来る若さも備えた私を執刀医に指名したのは、「指揮者として再びコンサートホールに立ちたい」という高畑氏の切なる願いによる物だった。

 その期待に沿えるように全身全霊を尽くして臨んだ腫瘍摘出手術は、一切の滞りもなく無事に完了した。


 脳脊髄液が漏れないように硬膜を丁寧に縫合し、取り外した頭蓋骨を骨窓部に合わせると、プレートで強固に補強する。

 そして筋組織を縫合して皮膚をホッチキスで留めれば、後は血圧や脈拍数の安定した患者が病棟に運ばれていくのを見守るだけだ。

「お疲れ様です、芹目アリサ先生。このまま順調に回復すれば、後は経過観察で様子見ですね。」

「再びオーケストラの指揮が出来るかどうかは、後は高畑さん自身の回復力と根気次第。だけど執刀医としては、常任指揮者の意地と矜持が再起を成し遂げると信じてあげなくちゃね。」

 助手を務めてくれた青年医師に応じながら、私は患者から摘出したばかりの腫瘍を一瞥した。

 赤黒い脳組織の成れの果てが、手術室のライトに照らされてテラテラと生々しく光っている。

 その生々しくて蠱惑的な姿は、ナメクジを始めとする軟体動物の一種のようにも、外宇宙の惑星か異次元を住処とする未知の怪物のようにも感じられた。

「腫瘍を御覧になる時の芹目先生、まるで憑かれたかのような目付きですね。流石は当病院が誇る腫瘍研究の第一人者ですよ。」

「科学者たる者、対象への飽くなき興味と探究心を忘れてはならない。それが私の座右の銘よ、比丘田(びくた)ケン先生…」

 傍らに寄り添っているはずの青年医師の声が、随分と遠くの方から聞こえてくるように感じられた。

 それ程までに私は、患者から摘出した腫瘍に魅せられていたのだった…

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― 新着の感想 ―
[一言] おぉう(;'∀') 確かに内蔵って未知の生物に見えなくもない(;'∀') そして文面からそこはかとなく狂気が(;'∀')
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