悪役にならなかった公爵令嬢~令嬢がヒロインのドレスにシャンパンをぶっかけた理由~
その少女が第三宮殿の大広間の入り口に現れたとき、わたくしは淑女にあるまじきことに、驚愕の表情を隠せませんでした。
なぜなら、彼女は本紫・濃紫・薄紫・白という色を重ねた、それはそれは美しいドレスを身に纏っていたからです。
とっさにわたくしは手に持っていたシャンパンを入り口に向かってぶん投げました。風魔法でコントロールしたグラスは見事少女のドレスのスカート部分に当たります。ついでに水魔法でシャンパンの入った中身が大きく広がるようにするのも忘れません。
「まあまあまあ、手が滑ってしまいましたわ。申し訳ありません、マリアンナ様」
わたくしは、突然のことに茫然としている少女――マリアンナ様に駆け寄りました。
「え、なん……?」
「本当に申し訳ありません。すぐに着替えを用意させますわ。どうぞこちらへ」
有無を言わさずマリアンナ様の手を取り、わたくしは会場から抜け出しました。背後が何やらざわざわしておりますが、知ったことではありません。
わたくしが向かうのは宮殿に用意された我がカペー公爵家専用の続き部屋です。王城で忙しく働いておられるお父様がお泊まりになったり、お母様が夜会の時の控え室などに利用しているため、ホテルのスイートルーム程度には設備が整っております。
このような特例が許されているのは、この国に二家しかない公爵家のみ。侯爵家以下の方々は、夜会ごとに王家が用意する控え室を、その都度利用するのが習わしです。
「あ、あの、アントニーア様。これは、いったい……?」
マリアンナ様は翠の瞳を揺らし、びしょ濡れのスカートとわたくしを交互に見ています。いまだ混乱から抜け出せないのか、なんだか泣きそうな表情です。
……少し、濡らしすぎてしまったかしら。でも、シャンパンは白でしたし、水で大分薄めましたので、きちんと手入れすれば染みなどにはならないと思います。思い出の品として仕舞っておくならば充分。もう一度、着られるかどうかは存じませんが。
ちなみにマリアンナ様にはわたくしの名前で呼ぶことを許しております。わたくしも、お名前で呼ばせていただいております。それほどまでに親しくしていただいていたわたくしの仕打ちに、マリアンナ様は驚き、そしてじわじわと哀しみが押し寄せてきているようでした。
「なんで、こんな……ひどい……」
「マリアンナ様」
わたくしは一度立ち止まり、宮殿の廊下でマリアンナ様に向き直りました。ちらりと後ろを見ると、使用人の控え室から飛び出してきたのか、わたくしの忠実な侍女であるナンシーがこちらに向かってきているのが見えました。そして、さらにその後ろから別の方々も。
「咄嗟のことで、このような乱暴なやり方になってしまったこと、心からお詫びいたしますわ。ですが、これも理由あってのこと。どうか、まずはわたくしの謝罪を受け取り、ドレスをお着替えになってください」
「で、でも、これは」
自分自身を抱き締めるようにして、マリアンナ様は嫌がる素振りを見せました。同時に、わたくしを見る表情にほんのわずか罪悪感が滲みます。ああ、やはり――とわたくしは自分の予測が当たっていたことを思い知らされました。
「そのドレスは殿下がご用意されたお衣装ですのね?」
「は、い……」
滲んだ罪悪感が濃くなり、マリアンナ様は俯いてしまいます。殿下の幼なじみであり、婚約者候補の筆頭だったわたくしに遠慮しているのでしょう。そんな必要はないと、何度も言っておりますのに。
「あのスットコドッコイ」
「えっ?」
ついわたくしの口から本音が漏れてしまいました。いやだわ、はしたない。目を丸くしているマリアンナ様には、ほほほと笑って誤魔化して、わたしくは追いついてきたナンシーに彼女を委ねました。
「ナンシー、よろしくね」
「かしこまりました」
「あ、あの、アントニーア様」
「マリアンナ様、ナンシーにお任せください。どうかお急ぎを」
わたくしの真剣な口調に何かを感じ取ったのか、マリアンナ様はわたくしたちの来た方向にちらりと視線を投げながらも、しっかりと頷いてナンシーについて歩き出しました。
「待て、マリアンナ!」
――焦った調子でかけられた声にも振り返ることはなく。
わたくしは声の持ち主とマリアンナ様の間を遮るように立ち塞がりました。通せんぼです。ふふふ、子どもの頃を思い出します。小さい頃はよく広い王宮を遊び場にしてかくれんぼや駆けっこをしたものです。その度に女官長に怒られたりして。懐かしいですわね。
「衣装直しに向かう方を引き留めるなんて。女性に恥を掻かせてはいけませんわ、殿下」
わたしくは顔の前で扇を広げ、さも呆れたように言い放ちました。わたくしの横をすり抜けようとしていた方の足がピタリと止まります。正装のために整えていたプラチナブロンドが、はらりと一筋額に落ちました。
子どもの頃と違ってわたくしと殿下の脚力の違いは瞭然、おまけに殿下は側近方を引きつれていらっしゃる。でも、物理で殿下をお止めすることが叶わないなら、言葉で留めればよいのです。
殿下――この国の王太子であるテオフィルス様は、いつもは青空のように明るい瞳を鋭く尖らせ、わたくしを睨み付けました。
「彼女が衣装直しをせざるを得なくなった原因は、君だろう」
「ええ、ですからお詫びのしるしにお召し物を用意させていただきました」
「見損なったぞ、アントニーア。君がマリアンナを虐めているという噂は本当だったのか!」
「――噂?」
わたくしは広げた扇をぱしん、と音を立てて閉じました。わたくしの苛立ちが伝わるように。
「その噂とやらはどんなものですの?」
だいたいの内容は把握しておりますが、あえてわたくしは殿下に問いました。
「それは……マリアンナが平民だからと嫌味を言ったり、突き飛ばしたり、教科書を破ったり、と――」
「わたくしはそのような下劣なことはしておりません」
物語の悪役でもあるまいし。
マリアンナ様は平民でありながら王家をも凌ぐほどの強き魔力を秘めたお方でした。この国では魔力の強い方は尊ばれます。そのため、特例として貴族のみが通う王立学院に入学を許されたのです。
その時点でわたくしたちとは同じ学生、身分の上下はあるとしても、ことさらに蔑んだり驕るようなことがあってはなりません。
それにマリアンナ様はとても優秀ですの。勉強でも魔法でも常に全力で取り組んで、最終的には学院を首席で卒業されました。ちなみに殿下が二位、わたくしが三位でした。わたくしも二年の時は首位を取ったこともあったのですが……少し悔しいですね。
わたくしたちは王立学院に通う三年間、互いに切磋琢磨し、友情を育んで参りました。ですのに、あのような噂は本当に不本意ですわ。もっともごく一部にしか流れていない信憑性の薄いものですけれど。――そんなものを、わざわざ殿下のお耳に入れた方がいらっしゃるのねえ。
「嘘をつくな! では先ほどの君の振る舞いはなんだ!」
「先程の振る舞いとは、わたくしがマリアンナ様に過ってシャンパンをかけてしまったことでしょうか」
「過って? わざとだろう! 水魔法も使っていたことはわかっているんだ」
やはり殿下にはバッチリ見られておりましたね。マリアンナ様の到着を今か今かと待ちかねていらっしゃいましたものね。
――他にはどれぐらいの方がご覧になったでしょう。彼女が到着してすぐの騒動ですので、それほど多くはないと思うのですが。
「シャンパンと水をかけてしまったことは事実です。もちろんそちらについては否定する気はございません。ですが、虐めなどはまったく身に覚えのないことですわ」
確かに、学生の中にはマリアンナ様の存在を内心面白くないと思われてる方もいらっしゃるようです。特に、殿下とマリアンナ様が親しくなられてからは、陰口をたたく者がいたのも知っております。
ですが、わたくしが知る限り実害を与えるような虐めなどはありませんでした。そんなこと、わたくしが許しませんもの。
「だ、だが」
「先程、殿下は噂とおっしゃいましたが、ということは証拠などは特に集めていらっしゃらないのですね?」
「そ、それは……くだらない噂だと、思っていたから」
視線を逸らし、もごもごと口ごもる殿下の姿に、自然とわたくしの口元が綻びます。
「わたくしを信じていてくださったのですね」
「だが、君はその信頼を裏切った!」
「裏切ってはおりません。殿下、殿下はわたくしがマリアンナ様にシャンパンと水をかけたことをもって、噂まで本当と思い込まれてしまったようですが、それとこれとはまったく別の問題です。今回の件でわたくしを責めるとおっしゃるならいくらでもお聞きしましょう。ですが、謂れない罪まで一緒に擦り付けられるのは心外ですわ」
「マリアンナ嬢への非道を目の当たりにして、貴方をもはや信用できなくなったということではないのか」
殿下の側近のお一人が口を開きます。一緒に王宮を駆け回った幼なじみのお一人でもある、リアンクール侯爵家のフランツ様です。
「であっても、噂などで人を糾弾するような真似はなりません。繰り返しますが、この度の件と学園で囁かれていた噂はそれぞれ別の問題です。わたくしが嫌味を言っている場面をどなたかご覧になりましたか? 教科書を破っているところは? 何より当事者のマリアンナ様はなんとおっしゃっていますか? 噂は噂として、疑惑が罪と確証を得られるまで、きちんとお調べなさいませ。殿下はいつかこの国のもっとも高き位につかれる御方。曖昧な噂などを根拠に臣下を処罰されるようでは国が揺らぎます」
「む、う……」
殿下はしばらく考えていらっしゃいましたが、やがて「わかった。噂についての発言は撤回する。悪かった」と素直に頷いて、わたくしに頭を下げました。
こうやって反省できるところは、この方の得がたい資質だとわたくしは思います。あとはもう少し思慮深さを身につけていただけたら……。
側近の方々が冷たいような呆れたような視線を向けてきて、わたくしは少々ばつが悪くなりました。
いくら幼なじみで気安い間柄とはいえ、わたくしのようなものが殿下にずけずけと言い過ぎました。これだからダメなのですね。
公爵という家柄のため、幼いときから殿下の婚約者候補筆頭と言われてきたわたくしですが、実際の二人の関係といえばまるで教師と生徒のよう。いいところ姉と弟、でしょうか……同じ年ですが。
甘い雰囲気など欠片もありはしません。
しきり直しをするかのように、殿下がこほんとわざとらしい咳払いをいたしました。
「しかし、先程のことは言い逃れできないぞ」
「言い逃れをするつもりは毛頭ございません。ええ、わたくしはマリアンナ様のドレスに過ってシャンパンと水をかけてしまいました。本紫・濃紫・薄紫・白の重ねのドレスに」
フランツ様がはっと顔色を変えました。どうやら彼は知っているようです。でも、殿下と他の三人はいまだ要領を得ていないお顔をしています。
まあ、婦人の衣装のことですし、殿方がご存じなくても仕方はないのだけど。女性にドレスを贈るのであれば、知っていていただきたかったのも本音です。季節に合わない色目のドレスなど贈られるのは最悪ですもの!
うちの父なんか、ドレスを贈るのは好きなのにセンスが壊滅的で、薔薇を愛でるお茶会用に百合の意匠のドレスを作ったり、初春を祝う会に枯色だの黄土だの、初冬の色目を使ったりしてくるので、いつも母やわたくしが苦労しているのです。
……話が逸れましたね、失礼いたしました。
「わざとであろう!」
「いいえ、過失でございます。わたくしは過ってマリアンナ様のドレスにシャンパンと水をかけてしまいました。そうでなくてはなりません」
声を荒げる殿下ににっこりと笑いかけ、意図的に同じ言葉を繰り返します。わたくしの言いたいことが伝わったのか、殿下は少し思案げな顔つきになりました。
「マリアンナ様のドレスは殿下が贈られたものとのことですが、本当でございますか?」
「ああ、そうだ。それがどうした」
「殿下、紫は王家の色。本紫・濃紫・薄紫・白を重ねる衣装は、即位の儀式に王妃殿下がお召しになる色目です。王族やその婚約者でもない者が、このような学生の卒業パーティーなどで着ていいドレスではないのです」
申し遅れましたが、王立学院の卒業パーティーは慣例で王宮の第三宮殿で行われることになっており、本日はそのめでたき晴れの場であったのです。
学生たちは――特に女生徒は、この日のために用意したとっておきの衣装に身を包み、胸をときめかせながら宮殿へと参じておりました。もちろん私も同様です。そして、おそらくはマリアンナ様も……。だからこそ、このような事態になったのが残念でなりません。
この国では女性貴族の礼装は『重ねのドレス』と呼ばれる、上着とスカートを合わせたような長衣とペチコートを組み合わせるドレスが基本です。
ローブは――上着部分は一重であったり、袖だけ三重にしたり、いろいろアレンジはありますが――基本的に三層になっていて、スカート部分は前開きで下の層のスカートと最下層のペチコートがのぞくようになっております。
そして、いつの頃からか、この三層(ペチコートを合わせると四層)の装飾や素材、色の重ね合わせが、女性貴族のファッションにおいて注目されるようになったのです。
特に重視されるのが色です。基本的にはどんな色を重ねようが自由ではありますが、季節や夜会のテーマなどに合わせてセンス良く組み合わせるのがお洒落とされています。
例えば若葉色と薄紅、桃、黄の組み合わせは春の色目とされ、秋の夜会に着ていったら野暮ったいものとなります。
野暮ったい程度ならよいのですが、積極的に避けるべき重ねもあります。
白白白白と白ばかりを重ねた場合は『無垢の重ね』といって、花嫁衣装に使われる色目で、花嫁以外が着るものではないとされます。
同じように避けられているのが、国王の即位の儀式で王妃が纏う本紫・濃紫・薄紫・白の『紫高の重ね』なのです。
「だが、デザイナーは問題ないと言っていたぞ。母上の衣装とは意匠も素材も似せはしないからと」
さすがにまったく同じドレスを作るのはマズいという意識はあったようです。ですが、王太子として政や経済などの知識は幅広くお持ちでも、女性の服のことなど詳しくないお方です。反論しつつも、どことなく自信はなさそうに目が彷徨っています。
「確かにデザイン違い、素材違いであれば許される……見逃されることもあるかもしれません」
白の重ねの一番下を銀糸織りのペチコートにしたり、裾にのみ小花の刺繍をするなど、『外し』の文化もありますから。
「ですが、本日のパーティーは国王陛下、王妃殿下がご臨席されます。そのような場ではことさらに周囲の見る目は厳しくなるのです」
そもそも紫は王族が着ることが多いので避けられがちではありますが、特別な式典のみに使われる『紫高の重ね』は特に忌避感が強くなります。
無論、王妃以外が着たからといって罰則があるわけではありません。あくまでも憚られるというような、ルールではなくマナーや良識の範疇の話です。ですが、少しでもそこから外れたと思えば難癖をつけてくるのが貴族というものなのです。
「ドレスを作る際、どのような希望を伝えられたのですか? 王妃様やマリアンナ様にご相談は?」
殿下はしょんぼりと肩を落として首を横に振りました。ええ、そうだと思っていましたわ。
「ドレスのことは誰にも言っていない。マリアンナにも……最高のドレスを作って驚かせたかったのだ。デザインはデザイナーに任せたが、晴れの舞台にふさわしく、紫の重ねにして欲しいという注文はつけた」
「なるほど」
わたくしは頭痛を覚え、軽くこめかみを揉みました。紫の重ねで晴れの舞台のための最高のドレスと指定されれば、『紫高の重ね』の色目で出来上がってくるのも当然といえましょう。
あえてデザイン・素材違いにして儀式の衣装からは外しておりますし、王太子殿下からの注文なのです。王妃殿下もご存じだと思い込んだ可能性もあります。
まさか卒業パーティー用のドレスとはデザイナーも思っていなかったでしょうね。殿下も来年は成人されます。いよいよ婚約発表でもするのかと張り切ったかもしれません。それならば、あのドレスほどふさわしいものはないのですから。
「僕が贈ったドレスだと、はっきりわかるといいと思ったんだ。うるさい奴らの牽制もしたかったし」
ようやくご自分のなさったことが壮大な空回りであったことがわかったのでしょう。殿下はますますしょげかえってしまいました。
「マリアンナ様にドレスを贈られたこと自体は、よかったと思いますわ」
彼女のご実家はあまり裕福ではないようで、パーティーに着ていくようなドレスなど作れないとおっしゃっていました。卒業パーティーには制服で参加するおつもりだったのです。実は、わたくしがご用意いたしましょうかと遠回しにお聞きしたのですが、必要ないと断られてしまっておりました。
けれど……女ならば、美しいドレスに憧れを抱く方がほとんどではないでしょうか。マリアンナ様はお強い方ですが、華やかなパーティーで、ただひとり制服姿のご自分を想像されれば、辛いお気持ちにもなったことでしょう。
ですから、殿下からドレスを届けられて、マリアンナ様はさぞ安堵し、嬉しかったと思うのです。重ねに関するややこしい不文律を彼女が知らないのは責められません。
「……せめて、どなたかにご相談はされるべきでしたわね」
わたくしは殿下の後ろに立つ側近の方々に目をやりました。とはいえ、フランツ様以外は『紫高の重ね』の色目にも思い当たらなかったようですので、相談したとて同じ結果になったかも知れませんが。
わたくしの視線を受けて、側近の皆さまもまるでわたくしに叱られたかのように縮こまってしまいました。……そんなつもりはなかったのに。
陛下の側近は武の立つ方、知力に優れた方で選ばれております。女性のファッションへの関心など考慮されるはずがありません。
やはりこういったことは女性が得意とする分野です。今回の件はあくまでイレギュラーですし、今後は殿下もふさわしき方に事前に相談されると思います。
「しかし――マリアンナ嬢は近いうちに『聖女』の冠位を授けられる身。そうなればテオフィルス様とのご婚約も叶うだろう。ならば、その『紫高の重ね』の色目とやらを着ても問題はないのではないか? デザインは違うのだし」
殿下の側近で、卒業後は近衛騎士となられる予定のロラン伯爵令息ピエール様は、いまだ『紫高の重ね』の色目のドレスを着るという意味をよくわかっていないようです。後で姉君のテレーズ様にチクっておきましょう。しっかりお勉強していただかなくては。
「殿下やわたくしたちがよいと思っても、周囲がどう見るか――というお話なのです、ピエール様。物事にはタイミングというものがございます。未来に許されるから、今着てもよいという理屈にはなりません」
マリアンナ様は学院でのたゆまぬ努力の結果、聖女として力を目覚めさせました。もはや、王族との婚姻になんら支障はございません。
聖女は女神の力を宿し、その魔力はほぼ無限大。魔王と渡り合えるほどの戦闘力を誇ります。ええ、三百年ほどの前の聖女は実際に魔王と戦い、見事勝利したとのことです。タイマン――というのでしたかしら? 一対一での勝負に負けてボコボコにされた魔王は、以後、冥界に引きこもっているという噂です。
話がわき道に逸れましたが、我が国の王家は女神の末裔であり、そのことを誇りとしています。ゆえに女神の愛し子である聖女は王家と並ぶ身分を与えられるのです。
――が、今は叙位前。マリアンナ様はまだ平民、ということになります。そんな彼女が本来は王妃様が着る『紫高の重ね』の色目のドレスでパーティーに出たら、口さがない貴族たちからなんと謗られることやら。
情けないことに、ここ百年ほど聖女が誕生することがなかったためか、聖女を敬う気持ちを忘れてしまった愚かな者たちもいるのです。魔王を倒した聖女様のことを魔力だけのバーサーカーだの、猪娘だの、女神の威を借る魔獣だの、聖女の皮を被った戦闘狂だのと揶揄する滑稽話が存在するぐらいです。
血筋や身分にとらわれた一部の貴族は、マリアンナ様が平民出身でありながら自分たちの上に立つことが許せないのでしょう。表向きは聖女と持ち上げても、陰ではマリアンナ様を侮り、認めようとはしていません。まったく愚かなことです。また、いまだ王太子の婚約者の座に執着している令嬢もいます。
そうした者たちが、今や婚約者候補の筆頭となった彼女を引きずり落とす機会を鵜の目鷹の目で狙っているというのに、つけいる隙を与えてなんとするのでしょう。
「いかに殿下が贈られたドレスであろうとも、場にそぐわない衣装であれば陰で笑われるのはマリアンナ様ですわ。しっかりなさいませ」
笑われる程度ならいいけれど、王族が着るべき色目でパーティーに参加するなど不敬だと言い出す者だっているかもしれません。
ええ、うるさがたのダントン伯爵夫人あたりが、いまだ王太子妃どころか婚約者でもない小娘が紫高の重ねを纏うなど王家を侮っている、不遜だ増長だと陰で言い回る姿が目に浮かびます。
「す、すまない……」
最初の怒りはもうすっかり消えて、殿下は深く反省されているご様子です。
殿下としては、婚約はまだでも、殿下がマリアンナ様を選んだことをこのパーティーで周知したいという思いがあって、先走ってしまったのでしょう。
初めての恋ですもの、浮ついてしまうのは仕方ないのかも知れません。――わたくしには、わからないことですが。
ふう、とわたくしは溜息をついて、そろそろお説教を締めることにしました。あちらの準備も終わったようで、後ろから気配もいたしますしね。
「社交界には魑魅魍魎が跋扈しております。マリアンナ様を守ってあげられるのは殿下ただお一人なのです。気を配ってさしあげてください」
「わたしは、守ってほしいなんて思っていません」
背後から凜とした声がして、わたくしは振り返りました。
そこに佇んでいたのは、まさに花のように可憐で美しい少女でした。
重ねのドレスの一番上の層はマリアンナ様の金茶の髪色に映え、季節にも合わせた薄紅、その下は王家の色の本紫、三層目に差し色でマリアンナ様の瞳と同じ翠緑、ペチコートは金糸を織り込みきらきらと輝く白のブロケードです。上着の胸元は露出控えめのスクエアタイプで、レースをたっぷりと使っています。
マリアンナ様の愛らしい顔立ちにとてもよくお似合いですし、偶然ですがもともとつけていらした真珠の首飾りや耳飾りとも合っています。我ながら、マリアンナ様の魅力を引き立たせるお衣装になったと自画自賛です。
おそらく殿下がドレスを贈られるとは思っておりましたが、念のためと用意していた甲斐がありました。
殿下を見遣れば、晴れ渡った空のような目をぽかんと開いて見惚れていらっしゃいます。口を開かなかったのは褒めて差し上げますわ。
「わたしが、テオフィルス様をお守りしたいのです」
両手を強く握りしめながら、ハッキリと告げる健気な姿を見て、殿下の頬に血が昇っていきます。
「ええ、マリアンナ様も殿下をお守りくださいませ」
わたくしは扇を広げて口元を隠すと、目だけでにんまりと笑ってみせました。
「守り守られ、助け合うのが夫婦というものでございましょう?」
「め、めおと……」
異口同音に呟くと、殿下とマリアンナ様は照れて俯いてしまいました。なんて息がぴったりなんでしょう。ふふふ、微笑ましいお二人です。
わたくしの笑い含みの息を聞いたマリアンナ様がはっと我に返り、頭を下げました。
「アントニーア様、ありがとうございました。私、何も知らなくて……」
ナンシーから説明を受けたのでしょう、マリアンナ様も何故ドレスを着替えなくてはならなかったのか、もう理解されている様子でした。
「面倒をかけた」
殿下もわたくしに向き直り、軽く頭を下げられました。王太子殿下に日に三度も謝っていただくとは、ちょっと罰当たりかも知れませんわね?
「いいえ、謝らねばならないのはわたくしでございましょう。わたくしが過ってマリアンナ様のドレスを汚してしまった結果、着替えざるをえなかったのですから」
その場の皆さまの視線がわたくしに集まります。わたくしは、扇を広げたまま、わざとらしく小首を傾げました。
「そうですわね?」
「あ、ああ」
「そういうこと、ですね……」
困惑しながらも、皆さまが次々と頷かれます。――殿下が贈られたドレスに不都合はなく、ただわたくしのミスでマリアンナ様は違うドレスを着なければならなかった。そうでなくてはならないのです。愚か者どもが喜ぶ材料など一片たりとも提供してなるものですか。
「君はいいのか、アントニーア。それで……」
「もちろんですわ。わたくしの過ちをお二人が許してくださるのであれば、ですが」
気遣わしそうに視線を向けられる殿下に、わたくしは晴れやかに応えます。殿下の失点かわたくしの失点か選ぶのなら、もちろんわたくし一択ですとも。その青の瞳に宿る信頼にこそ、わたくしは応えたいのですもの。
「すま――ありがとう」
謝罪の言葉を飲み込んで、殿下から告げられた感謝の言葉。これほどに嬉しいものはわたくしにはないのです。
わたくしたちが大広間に戻った後、卒業パーティーはつつがなく進行しました。何やら陰でこそこそ囁く方々がいたようですが、きっぱり無視です。
成績優秀者が国王陛下・王妃殿下からお言葉を賜り、お忙しいお二人が退席なさると、会場は少し砕けた雰囲気となります。
フロアではこれから社会へ出て行く令息令嬢が希望に満ちた顔で未来を語り、懐かしい学生生活を振り返っては笑いさざめいています。楽団は晴々と明るい曲を奏でて場を盛り上げ、幾組かのペアが入れ替わり立ち替わりダンスを披露しています。
もともと卒業生がメインのパーティーです。招待状があれば参加は可能ですが、親族の方々などは弁えていて会場の隅で目立たぬよう会話を楽しまれているようです。
わたくしはワイングラスを手に取ると、テラスへそっと抜け出しました。火照った頬に夜風が気持ちよく感じます。
ちなみに我が国では成人として認められるのは18歳ですが、飲酒は16歳から許されております。わたくしは17ですので、お酒を嗜んでも問題ございません。
ふと目を落とすと、胸に飾った成績優秀者の証である本紫のリボンが目に入りました。リボンには金のラインが一本入っています。
このリボンを授けてくださった王妃殿下は、なんだか少し申し訳なさそうでした。王太子殿下とマリアンナ様のドレスにちらちらと視線を送られていましたので、何かご存じだったのかも知れません。
人気はなかったと思いますが、壁に耳あり……との俗諺もございます。宮殿の廊下での会話ですから、影で誰かが聞いていた可能性もありますね。
まあ、王妃様のお耳に入ったとしても、表沙汰にならなければよいのです。殿下はちょっと叱られるかも知れませんけれどね。
「アントニーア様」
手すりにもたれ掛かって物思いにふけっていると、背後からマリアンナ様のお声がしました。わたくしが振り返る間もなく、すぐ隣に小柄な姿が並びます。
マリアンナ様の方が背が低いので、目を横に向けると美しく編み込まれた金茶の髪が映ります。さらに下に視線を向ければ、私と同じ紫の……ただし金のラインが三本入ったリボンが目に入りました。
それは王立学院の総合成績最上位者の証です。
「……わたし、悔しいです」
「まあ、何をおっしゃいますの。悔しいのは首位を取れなかったわたくしですわ」
もちろん、わたくしの努力不足ですので、お恨みはいたしませんが。
「違います」
わたくしがとぼけたのが癪に障ったのか、ちょっと口を尖らせて拗ねたようにマリアンナ様が見あげてきます。
「さっきのことです。アントニーア様がおっしゃることもわかるし、その方が殿下のためだって理解はしてます。だからってアントニーア様が悪く言われるのは……」
手袋をはめたマリアンナ様の細い指が、テラスの手すりをぎゅっと掴みます。
「アントニーア様がわたしに意地悪して、ドレスを台無しにしたなんて言う人もいるんです」
「まあ、そうでしょうね」
わたくしは顔の下でワイングラスをゆらゆら揺らします。ふふ、いい香り。
対外的にはわたくしは過ってマリアンナ様のドレスを汚してしまったことになっておりますが、殿下が勘違いしたように、悪感情を抱いて意図的にしたと思い込む者が出る可能性も折り込み済みです。
今頃はわたくしをよく思わない貴族が喜々として噂を流していることでしょう。カペー公爵家のアントニーアが嫉妬に狂ってマリアンナ様にシャンパンをかけた、と。公爵令嬢であり、長い間殿下の婚約者候補筆頭であったわたくしも、敵が少ない方ではありませんから。
学院でわたくしがマリアンナ様を虐めたなど、事実無根であっても噂を流す厚顔な方もいたのです。今回はどれほど話が盛られるか、想像が付くというものです。
ですが、むしろそれは望むところです。
マリアンナ様が殿下から贈られたドレスを着ていた時間は長くはありません。けれど、短くとも人目がなかったわけではないでしょう。
『紫高の重ね』の色目に気づき、中傷しようとする者が出てこないとも限りません。でも、その噂はわたくしの醜聞によって上書きされてしまうはずです。そのための派手なパフォーマンスなのですから。
「わざとじゃないって、わたしがいくら言っても信じてもらえないし、薄笑い浮かべて『お気の毒に』とか言ってくるんです。わたし、悔しくて……!」
「本当のことは殿下とマリアンナ様がご存じです。わたくしはそれだけで充分。周囲がなんと言おうと屁でもありませんわ」
「へ」
マリアンナ様がぎょっとした表情で凝視してくるので、わたくしは小首を傾げました。
「……屁のカッパの方が正しかったかしら?」
「だ、駄目です! いや、どっちも合ってますけど、正しいとか間違ってるとかじゃなくて、アントニーア様がそんな言葉使っちゃいけません!」
「ふふふ、マリアンナ様といるときしか使いませんわ」
慌てふためくマリアンナ様を安心させるよう微笑んだのですが、彼女は頭を抱えてしまいました。
「ああああ、やっぱりスットコドッコイも聞き間違えじゃなかったんだ~。あんな本貸すんじゃなかった」
「あら、とても面白いご本でしたわよ?」
わたくし、自分ではそこそこ読書家であると自負しているのですが、マリアンナ様に無理を言って貸していただいた小説は、どれも今まで読んだこともないお話ばかり。
波瀾万丈の海賊王女の冒険、身も凍るような魔女の復讐、義理人情で世を渡る股旅物、精霊と契約した男の不思議話……すべて胸躍る素晴らしいものでしたが、わたくしが特に好きだったのは三百年前の聖女の活躍譚の数々です。ですから、マリアンナ様が聖女に目覚められたときは興奮しましたわ!
下々で流行っているという小説だからか、確かに少々荒っぽい言葉も出てきますが、例えば海賊言葉を上品にするわけにも参りませんものね。
「……アントニーア様も変わってますよね。普通の貴族の令嬢だったら恋愛小説とか詩集とか好みそうなのに。まあ、だからわたしなんかと仲良くしてくれたんでしょうぃふぉ」
わたくしはグラスを持った手とは逆の手で、マリアンナ様の頬を軽くつまみました。あら、もちもちとして素敵な感触ですこと。
「なんか、とはどういう意味かしら? いくら貴女でも、わたくしの親友を侮辱することは許さなくてよ」
「……はあい、ごめんなさい」
つままれた頬を撫でながら、マリアンナ様は嬉しそうに笑っています。
平民出身のマリアンナ様にとって、上流貴族であるわたくしとの付き合いは、どうしても気後れしてしまうもののようです。
最近はご自分を卑下されるような物言いはなくなっていたのですが、今日はドレスのこともあり、少しナイーブになっていらっしゃるのでしょうか。
わたくしはマリアンナ様の胸のリボンをちょんとつつきました。
「国王陛下からこのリボンを受け取られたときのマナーも完璧でしたわよ。褒めて差し上げます」
「本当ですか? ありがとうございます」
子どもの頃から身につけるのではなく、ある程度年齢を重ねてから礼儀作法を覚えるのは、大変な努力がいります。言葉遣い、歩き方、動作の端々についてしまったおかしな癖を先ず矯正しなければならないからです。
マリアンナ様は王立学院の三年間で勉強や魔法だけでなく、国王陛下の御前に出ても恥ずかしくない振る舞いを身につけられました。勉強家で努力家のマリアンナ様をわたくしは尊敬しております。
それに何より、元気で愛らしい方なのです、マリアンナ様は。なんといいましょうか、こう……動きが小動物のようで愛でたくなるような……。そのくせ内面は芯が通っていらして、間違っていると思えば殿下にも意見するような気の強いところもあるのです。
彼女と友人になれたことは、わたくしにとって本当に幸せなことだったと、心から思っております。
ご当人はご自分の価値をまったくわかっていない様子で、もじもじと指先を意味もなく摺り合わせておりますが。
「でも、まだまだだなあと思い知りました。ドレスのことも知らなかったし、アントニーア様のような解決方法も考えつかなかったし」
「貴族社会との付き合い方は、おいおい学んでいけばよいのです」
殿下の婚約者となった暁には、王太子妃として、そして未来の王妃としての教育が待っているのでしょうから。――それに。
「例えばですわよ? 足元に邪魔な小石があったとして」
「小石……はい」
「その小石を蹴飛ばすか、踏んで前に進むのか、飛び越えてしまうのか……やり方はいろいろありますわ。マリアンナ様はマリアンナ様のやり方で、進んでいけばいいのです。殿下もご一緒ですし、ね」
「殿下」
きゅっ、とマリアンナ様の唇が結ばれました。摺り合わされていた指が、まるで何かに祈るかのように組み合わされ、何回か大きく深呼吸を繰り返して、結ばれた唇が開かれます。
「アントニーア様。近頃のアントニーア様は、テオフィルス様のことをお名前でなく、殿下とお呼びになるのですね」
「……そうだったかしら?」
「ええ。二年生ぐらいまではテオフィルス様と呼んでいらっしゃったのに」
組み合わせた手に力を入れすぎて、マリアンナ様の手袋に皺が寄ってしまっています。
「アントニーア様は、ずっとテオフィルス様の婚約者候補筆頭で、ずっと親しくされてきて、でも、わた、わたしがテオフィルス様を好きになったから――」
「マリアンナ様」
わたくしは扇をばさりと開き、口元を隠すとあえて声を冷たくして、マリアンナ様に告げました。
「心得違いをなさらないでくださいまし。わたくしと殿下の間には何もございませんでした」
この国では王子が婚約者を定めるのは成人前後の時期です。わたくしは幼い頃から婚約者候補筆頭と呼ばれておりましたが、それはなんら公的な約束事があるわけではなく、身分や年齢、王家からの待遇などで、周囲からそう目されていたというだけの話です。
「で、でも……」
わたくしたちの関係について、マリアンナ様がこれほど踏み込んできたのは初めてです。青ざめた表情が、手袋の皺が、彼女がどれほど勇気を振り絞っているかを物語っています。
ふう、とわたくしは溜息をつきました。このまま曖昧に誤魔化してしまいたかったのですが、彼女はそれを許してはくれないようです。
「……わたくし、ヤキモチを妬きませんでしたのよ」
「え?」
「マリアンナ様と殿下が楽しそうに笑い合っている姿を見ても、微笑ましい気持ちになるだけでしたの。こういう時、普通は嫉妬とやらをするものなのでしょう?」
わたくしの好きなお話は冒険譚やミステリー。でも、恋愛小説だって嗜まないわけではないのです。
物語ではヒロインにひどい意地悪をする悪役の令嬢が出てきますが、それはすべて嫉妬からくる言動でした。けれど、どんなに探しても、わたくしの中にはマリアンナ様を妬む気持ちは見つからなかったのです。
「だからきっと、わたくしは恋をしていなかったと思うのです」
「思うのですって……ご自分のことなのに」
「だって、本当にわからないのですもの。恋というものがどんな感情なのか、どんな心働きをするのか。――そんな風に考えてしまっている時点で、わたくしは恋なんか知らないのだと思いますわ」
わたくしは扇を外してコロコロと笑いました。この声を軽やかな鈴の音のようと評してくださったのは、幼い頃の殿下でしたわね。
もちろんわたくしだって殿下に好意がないわけではありません。でもそれは、前にもいったように、姉と弟のような感情に近いものなのでしょう。
とはいえ貴族の婚姻は政略でおこなうもの、相思相愛であることなどまれです。それに結婚してから育まれる愛情もありましょう。わたくしと殿下も、もしかしたらそのような夫婦となれたかもしれません。
――殿下が、マリアンナ様と出会わなければ。
王立学院の入学式、桜の木の下で笑うマリアンナ様に、殿下は一目で恋に落ちました。
それはまさしく運命の恋でした。マリアンナ様が平民であることに悩み、距離を置こうとし、それでも諦めきれずに惹かれていく殿下のお姿を、わたくしはお側で見ております。
マリアンナ様もまた、殿下に初々しい恋をされました。憧れて、少し話せただけで嬉しくて。その恋は身分の差を実感されたときに、一度失われたように見えました。けれど、彼女もまた諦めきれず、厳しい魔法の勉強をして聖女になる可能性に賭けました。
……わたくしには、そのような強い想いはないのですもの。降参するしかありません。
「正直に申し上げれば、すこーしばかり寂しい気持ちはございます。でもそれは、恋を知らないわたくしが置いてきぼりにされた気分になっているだけのこと。何より、わたくしはお二人に幸せになって欲しいのです。だからどうか、わたくしに悪いと思ったり、引け目を感じたりしないでくださいませ」
瑞々しい青葉のような翠緑の瞳がわたしにひたと据えられます。わたくしも、真っ直ぐにマリアンナ様に視線を合わせます。
やがてマリアンナ様は深く長く息を吐きました。それから、金茶の頭をぴょこんと下げて謝罪されたのです。
「わかりました。……身勝手で不躾な質問をして、すみませんでした」
「構いませんわ」
単なる好奇心で訊いたのではないことはわかっておりますもの。今日は卒業パーティーです。区切りをつけるには、ふさわしい日でありましょう。
テラスに続くガラス扉に、見覚えのある淡い金髪がぴょこぴょこ動いているのを見て、わたくしはマリアンナ様にそちらを示しました。
「そろそろ戻りましょうか、殿下がお待ちです」
愛しい相手の姿を認めたマリアンナ様が驚いて、それからちょっと困ったような、けれど嬉しそうな微笑みを浮かべました。こちらの胸もほんのりと温かくなるような笑顔です。
マリアンナ様は一歩戻りかけ、けれどわたくしに動く様子がないので訝しげにこちらを見遣りました。
「アントニーア様?」
「わたくしはもう少し……このワインを飲み終わってから参ります」
マリアンナ様はわずかに心残りな素振りをみせましたが、すぐにわかりましたと頷いて、室内に戻っていきました。
テラスの扉を開け、マリアンナ様を迎えた殿下の顔にも、幸せそうな笑顔が浮かんでいます。
大広間へと消えていく二人を見送って、わたくしはもう一度、テラスの外へと視線を向けました。
美しく整えられた庭には魔法によってともされた灯りが並び、幻想的な雰囲気を醸し出しています。視線を上げれば、春の夜空に輪郭を柔らかく滲ませた満月が浮かんでいます。
――上手く笑えていたかしら。
ちょっと心配になって、わたくしは閉じた扇で自分の頬を軽く叩きました。
マリアンナ様に言ったことは嘘ではありません。わたくしには恋がわかりません。マリアンナ様に嫉妬したこともないのです。
ただ、わたくしも最初から諦めていたわけではありません。
わたくしにも婚約者候補筆頭として育ってきた者の意地がありました。子供の頃から未来の王太子妃として恥ずかしくないよう座学も魔法もマナーもダンスも教えられ……一途に努力してきたのです。
勝手な思い込みであったとしても、ずっと信じてきた未来が崩れ去っていく恐ろしさ、無力感や喪失感。お父様たちの期待を裏切ってしまう心苦しさ。それらの感情に思い悩み、涙を流したこともあります。
まあ、王太子妃にならなかったからといって、わたくしの価値は何一つ損なわれないと気づいてからはそのようなことはなくなりましたが。つまらないことで悩んでしまいましたわ。
けれど――そうやって納得しても、たまに胸の奥底が痛むこともございます。
決して恋ではないのでしょう。ひょっとして、お気に入りの玩具を取られて泣く子どものような、幼く我が儘な感情でしかないのかもしれません。
曖昧で、なんの形もなく、名前すらつけられず。
だけど、もしかしたら。
この胸に宿る、どこまでも漠としてつかみ所のない感情は、いつか恋に育ったのかも知れません。
でも、ね……。
頭の中に、先ほどの殿下の笑顔が浮かびます。マリアンナ様を迎えて、喜びがあふれたかのように零れた笑み。
「仕方ありませんわね」
わたくしは密やかに呟いて、頭上の月を見上げます。ほんのり黄色味を帯びた柔らかな光は、まるでどなたかの髪の色のよう。闇のなかでほっと安心させてくれる光です。
「殿下には幸せになっていただきたいけれど、わたくしでは幸せにしてさしあげられないのですもの……」
テオフィルス様の光はわたくしではないのです。
わたくしは目を閉じて、ぐいとワインを飲み干しました。
今日は卒業パーティー、区切りをつけるにはちょうどいい日です。この胸の想いも摘み取って、月光の中に捨ててしまいましょう。
目を開けて振り仰げば、煌々と照らす満月。未来を祝福してくれているようなその光に包まれて、わたくしはパーティー会場へ戻るべく、足を踏み出しました。
―終―
読んでいただいてありがとうございました。
新しいお話を連載していますので、よかったらそちらもどうぞ!
悪役令嬢になったので、反省して救国の勇者を目指そうと思います!
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