25-5 さよなら、アユム
翌朝…
『いつも起きる時間』も、『いつもカオリさんが起こしに来る時間』も、とうに過ぎていた。なのにカオリは起こしに来ない。
外は無駄にいい天気だ。アユム自身も起きて降りていくタイミングを見失っていた。
昨夜、『あんな事』があったから…いや、『あんな事』を『したから』…
気まずい………
でも………いつまでも起きない訳にもいかない。特に、今日は………
※ ※ ※
階下に降りて来ると、カオリはリビングにいなかった。
カチャ、カチャ………キッチンの方から食器を洗う音がする。カオリが向こうを向いて立っていた。
『皆さん、おはようございます。時刻は朝8時となりました…』
キッチンから食器を洗う水音と、ラジオの声だけが聞こえてくる。カオリは………ジーンズを履いていた。
「カオリさん………おはようございます………」
ようやくアユムがそう言うと、カオリは無言で食器を洗う手を止めると、側に置いてあったトレイを取り、リビングのテーブルに歩いて来る。
「カオリさん、あの、昨日は………」
ガチャン!アユムの言葉を遮る様に、乱暴にトレイをテーブルに置くカオリ。トレイにはアユムの分の朝食が乗っていた。いつもはカオリと2人で取るのに、今朝は1人分だけ。
「あの………」
アユムの言葉も聞かずに大股でキッチンへ戻るカオリ。キッチンで洗っているのはカオリの分の食器だ。先にもう1人で食べてしまったらしい。
しょうがないので1人モソモソと朝食を取るアユム。何を食べたか後で思い出そうとしても思い出せなかった。
「ごちそうさ…」
「………アユム…」
またもやアユムの言葉を遮る様に、不機嫌そうな声でカオリは言った。
「………今日から友達の家に泊めてもらうから…」
向こうにキャスター付きのトランクが置いてある。あそこにカオリの荷物が入っているのだろう。
※ ※ ※
アユムの工房の前庭…
「カオリさん、待ってください!!カオリさん!!!」
キャスター付きトランクを引きずるカオリにすがりついて止めようとするアユム。だが力でカオリに勝てるはずが無く、アユムは振り払われ、カオリは出て行こうとする。
(だめだ…何としてでも止めないと…カオリさんが行ってしまう!!)
「カオリさんっ!!待ってくださいってば!!待っ………」
ついに2人が門まで差し掛かった時、そこには大きな黒い車と、軽トラックと、マイクロバスが停まっていた。車体側面にはそれぞれ『3』と『6』と『8』の数字。アユムがレストアして、『ミレニアム共和国』大統領府と、自警団に売った車だ。
「渡会さん、お迎えに上がりました。」
8号車の側に立っていた男…『ミレニアム』自警団の男がアユムにそう告げる。アユムとカオリは一瞬、事態が読めなかったが、しばらくしてアユムが、
「…そう言えば今日は、福島での首脳会談に呼ばれてたの、忘れてた…」
そのために今日は工房も休業にしていたのだった。突然の乱入者に一瞬驚いたカオリだったが、アユムの手を振り払うと、
「………さよなら、アユム。一人でも、お仕事ちゃんとやっていらっしゃい。」
「カオ………」
言いかけてアユムの声は途切れる。ツカツカと行ってしまうカオリに伸ばした手を、アユムは力無く下ろしてしまう。何を言ってもカオリさんは戻ってきてくれない。そんな気がした。アユムは遠くなっていくカオリの後ろ姿をしばらく見つめていたが、涙で滲んで見えなくなると、がっくりと項垂れた。
「あのー………渡会さん!?」
自警団の男が遠慮がちにアユムに促すと、アユムもようやく頭を上げ、
「………ごめんなさい…福島行きでしたね…持って行く荷物もありますから、ブリスターバッグを取ってきますね…」
「は………はぁ…」
アユムは一旦よろよろと工房へと入って行って、しばらくしてリュックを持って戻ってくると、8号車のマイクロバスに乗り込み、一番後ろの席に座り込んだ。
マイクロバスのドアが閉まる瞬間、前に座っていた人物が立ち上がり、後ろへ歩いてくると、アユムの隣に座っていた男に、「すみません、そこ、代わっていただけますか!?」隣の男が立ち上がり、前から来た人物がアユムの隣に座る。聞き覚えのある声に、アユムは顔を上げると、そこにいたのは、2年前は毎日の様に見ていた初老の男性…
「富士野…先生………」
高校時代にアユムの担任だった富士野先生だった。
「郡山にも寺子屋みたいな事をしている人がいて、同じ教育者である私と、この様な世の中における初等教育について話をしたいそうなんです。」
「あ………その人だったら、僕が去年会ってたかもしれません…」
「本音を言うと私は早く楽隠居したいのですが、亡くなった方が多い中、生きている人間は働かなければなりませんからね…」
「出発します。」運転手がそう言うと、8号車は3号車を先導する様に走り出し、その後ろを6号車がついて行く。
「相川さんと、何かあったんですね………!?」
富士野先生はそう切り出した。どうやらカオリとのやり取りをマイクロバスの窓から見られていたらしい。
「カオリさんに………出て行かれちゃいました………もう、だめかもしれません…」
「そうですか………」
さすがにアユムもカオリを抱こうとして拒絶されたなんて具体的な事は先生に言えなかったし、富士野先生も大方の事情を察してそれ以上聞こうとしなかった。
「僕………どうすればいいんでしょう………」
アユムは恐る恐る聞いてみたが、
「そんな事、私に答えられる訳無いですよ…」
富士野先生の言葉は素っ気なかった。
「そんな、先生………」
「私はもう、あなたの先生じゃありませんよ。あなた達はもう、大人になって私の手を離れたんです。卒業という形を取れなかった事だけが心残りですが…そもそも男女の関係なんて、高校教師に教えられる事じゃありません。多くの高校では『男女交際は友情の範囲内で』としているのもそのためです。ましてや私だって、妻とはもう何十年にも渡る倦怠期です。あなたに偉そうに教えられる事なんてありませんよ。これはあなたと相川さんの問題です…」
「………」
突き放した様な富士野先生の言葉に、呆然とするアユム。車はいつの間にか、仙台の南にある長町を過ぎて、仙台市街地跡を遠く離れていた。
「…これは君と相川さん、2人の問題です。君1人だけでも、相川さん1人だけでも解決出来る問題ではありません。だから、ちゃんと相川さんと話し合いなさい…」
「先生………」
その時、富士野先生のスマートフォンに着信が入る。しばらく画面を見ていた富士野先生だったが、
「妻から連絡がありました。荷物を引いた相川さんが、黒部君の家に入るのを見たそうです。相川さんの方は、小田さんがとりなしてくれるでしょう。あなたも福島から帰ってからという事になるでしょうが、頭を冷やして、相川さんとちゃんと話し合ってください。なあなあで済ませたら、本当にこのままになってしまいますよ…」
「奥さんから………でもさっき、奥さんとは………」
「…私の仕事には一定の理解をしてくれているみたいなんです…だからこそ、妻には感謝しています…」
その言葉にアユムは再び俯いて、
「………難しいな………」
富士野先生はアユムの肩をポン、と叩き、
「告白して交際して、めでたしめでたしでそれで終わりではありません。めでたしめでたしの続きを2人で作っていく事こそが、本当に大変で大切なんです。しかもそこには、教科書も参考書もありません。もちろん、教師も、ね…」
仙台平野を離れて山中の道を走る車の中で、アユムは長い沈黙の後、ようやくこう呟いた。
「………僕に出来るでしょうか………」
富士野先生は前を向き直り、
「渡会君…高校に入ったばかりのあなたは、他人との間に距離を置いている様でした。それが高校生活を通して徐々に緩和されて行き、相川さんと一緒に住み始めました。仙台に来てからの事は、今回の事も含めて、あなたにとっては全て大きな前進だと思いますよ…」
※ ※ ※
同時刻、アユムの工房…
「…おーいアユム、いるかぁ…!?」
ユウタのいささか遠慮がちな声が響くが、工房には誰もいない。
『時刻は午前9時になりました。ニュースの時間です…』
つけっぱなしのラジオの声だけが無人の工房に響き渡る。
「昨日は変な事言っちまって悪かったなぁ…あんな事、間に受けんじゃねぇぞ…」
しかし返事は返って来ない。
「あ…そうか。今日はアユム、福島へ行くから工房を休みにするって言ってたっけ…あいつ、アレッツジェネレータがバグダッド電池だって事を突き止めて、平和利用する事を提案した張本人だもんな、そりゃ呼ばれるわな…」
あれからアユムがカオリとどうなったか心配だが、いないのが分かっているなら、ユウタも仕事に行かなければならない。
「じゃあ…昨日借りた、ブリスターバッグを返しておくからな…!!」
そう言ってユウタは、工房の玄関に、空っぽのブリスターバッグを置いて行く。昨日はユウタが車で工房を訪れ、そこに車椅子のカナコがユウイチと一緒に来て合流し、ユウタと3人で車に乗って帰ったため、カナコの車椅子を積むスペースが無かったため、アユムのブリスターバッグを借りてそこに車椅子を入れて帰ったのだ。
ウィィィィィ…ユウタの1号車のモーター音が遠ざかっていく。今度こそ無人になった工房に、ラジオの音声が響いた。
『…次のニュースです。信頼出来る情報筋によると、関東方面で未確認人型物体が目撃されたとの事です。しかもその目撃情報は日を追うごとに徐々に北上しており、このままの速度と進路では一両日中に「ミレニアム」に接近、侵入する危険性があるそうです。さらに目撃情報より得られた外見的特徴から、人型物体は「ホワイトドワーフ」と呼ばれる、アレッツを越えた危険な存在である可能性が高いとの事で、自警団でも警戒を強めております。「ミレニアム」国民の皆様、どうか不審物を見かけても近寄らず、直ちに離れて、自警団に連絡を………』




