008 月明かり亭のハムステーキ
大門を通ってからもしばらくは畑が広がっていたが、しだいに家がぽつぽつと現れ始めた。
小川の先に架かった小さな橋を過ぎると、いよいよ町らしく家が密集する風景に変わった。
ソラからは、リドーの後をひたすらついて行く。
だんだんと人が多くなり、商店街に入ると、そのうちの1つの店に入った。
『あ、店主さま、お帰りなさいませ』
リドーの姿に気づいた店員が、声をかけた。
『ただいま、ルル。キースはいるかい?』
背負っていた大きな荷物をゆっくりと降ろす。
『たぶん、奥にいらっしゃるかと』
『月明かり亭にいるから来るように、キースに伝えてくれ。荷物も頼んだ』
『はい、わかりました。いってらっしゃいませ』
女性と思えない怪力っぷりで、軽々と大荷物を持って店の奥へ消えた。
ご飯屋ではないことにソラカラは不思議に思ったが、荷物を置きに来たのだと納得した。
『お待たせしました。食堂はすぐそこです。行きましょう』
細い道をいくつか曲がり、5分もしない内に目的の店に到着した。
白いレンガの可愛らしいお店だった。
カラーン、カラーン。
入店を告げるベルが鳴る。
『いらっしゃいませー。あら、リドーさん、今日はもうオムレツ売れ切れちゃったわよ』
『今日はがっつり食べたいからいいさ。ハムステーキセットを2つ頼む』
そして窓側の席の椅子を引き、ソラカラを淑女のようにエスコートした。
珍しいこともあるもんだ、と月明かり亭の女将は思った。
リドーはここの常連だったし、ご近所で昔馴染みでもあった。
長年見てきたが、リドーの紳士な態度は亡くなった奥さんに対してだけだった。愛する人とそれ以外をはっきりと線引きするタイプだと認識していたのに。
そのリドーがエスコートしたのだ。
連れの少女は14、5歳くらいに見える。
恋人というには若過ぎるし、商談相手にも見えなかった。
リドーが隠し子、というのは面白いがそれだけは無いと言い切れた。
それくらいリドーの愛妻家ぶりは誰もが知ることだったからだ。
素朴な作りのテーブルや、天井から吊り下げられたドライフラワーが妙に懐かしい。
昔こんな場所へ来たことがあるような、ないような。
小さな食堂に入ってから、ソラカラは一瞬なにかを思い出しそうで、なにも出てこない。
そんなもどかしさと戦っていた。
『はーい、お待たせー。ハムステーキセット2つね』
芳醇な肉の焼ける匂いが漂ってくる。
『きたきた。さあ、ソラカラさん、食べましょう』
リドーがハムにがっついた。幸せそうな顔だ。
ソラカラは手を合わせてから、ハムにかぶりついた。
(んんーーこれ美味しい! 魔女さんのソーセージは香草がたっぷり入ってたけど、厚切りの肉もいいわね)
じゅわーっと、口いっぱいに脂身がとろけ、燻製特有の香ばしいさが鼻をくすぐる。
とっくにお昼の時間は過ぎているし、なにより疲れてクタクタだ。
空腹な身体に、食事の幸福感が染み渡る。
付け合わせのサラダも、クリーミーなスープも、夢中になって食べた。
『いやぁ、うまかった。ソラカラさん、お口に合いました?』
にこりと笑うリドー。
『たべる、ありがとう』
ソラカラも大満足だった。
カラーン、カラーン
『いらっしゃいませー。あら、キース。リドーさんも来てるわよ』
女将さんがちらっとリドーを見た。
『ええ、親父に呼び出されたんですよ』
キースと呼ばれた少年は女将に挨拶をして、リドーの隣にどかっと座った。
『お、きたな。ちょうどいい。すみませーん! 紅茶を3つ追加で』
向こうから、はいよーと返事があった。
リドーは口を拭い、きちんと座り直してから、隣のキースを紹介した。
『ソラカラさん、こちらは息子のキースです』
キースは訳がわからなかったが、これでも商人の見習いだ。
紹介されたからには、きちんと挨拶した。
『はじめまして。魔女薬局の見習いのキースです』
紹介されていることくらいは状況で把握した。
しかしなぜ魔女という単語がここで出てくるのか。
会話を理解するにはまだまだ知らない単語が多すぎた。
『キース、こんにちは。わたし、ソラカラ』
よろしくってなんて言うんだろうなと思いながら、にこりと笑ってみせた。
『キース、ソラカラさんは魔女さまの同居人なんだ。今日は買い物で町にいらした。今晩うちに泊まって、明日魔女さまの家までお送りするから、それまで町の案内と警護を頼みたい』
『え! 魔女さまの! 』
ちらりとソラカラを見る。
魔女の同居人なら魔女ということもあり得るだろう。
まだ成人前に見えるが、年下どころかだいぶ年上かもしれない。
『私は明日、お送りするまでに魔女さまに頼まれたものを揃えたい。ソラカラさんは服や日用品をご所望だから、質の良い店をご案内して、値段が適正か確認してほしいんだ。頼んだぞ』
お茶請けのクッキーと一緒に、紅茶がやってきた。
リドーはミルクをたっぶり入れ、キースは砂糖を1つ入れた。
ソラカラはそれを見て、首を横に振り、ストレートならではの香りを楽しんだ。
リドーとキースの会話はまったく分からなかったから、紅茶で手持ちぶたさが解消されて嬉しかった。
『ソラカラさん、買い物はキースがご案内します』
右手でソラカラ、左手でキースを指差し、両手の人差し指を立てた。
指を二人に見立てて、一緒に歩いているような手振りをしてみせる。
『買い物、キースと』
今度はゆっくりと話す。
『キースとわたし、かいもの、いく』
ソラカラは頷いた。
身振り手振りが加わって、ようやく意味がわかった。
なるほど、買い物は『かいもの』と言うのかと。
リドーは忙しく、わざわざ案内人にキースを呼んでくれたんだろう。
なんて親切なんだ、とソラカラは感謝した。
『実は、ソラカラさんはザザ語を話せないんだ。けれど非常に聡明で、魔女さまの家からここへ来るまでの道のりで、かなりの言葉を覚えられていた。ゆっくりと、身振り手振りも加えて話せば、ちゃんと伝わる。ザザ語もお教えしながら、ご案内してくれ。くれぐれも、粗相の無いようにな』
『要求が多すぎるだろ……』
どうやら話はついたらしかった。
ソラカラはまたもやさっぱり会話がわからなかったが、とりあえずこの後キースが買い物に付き合ってくれる、それだけわかれば十分だった。
カラーン、カラーン
『夕飯は妖精の雫亭で集合だ。大切な客人だから、丁重にな』
『わかってる。じゃあ行きましょう、ソラカラさん』
そう言って、キースはソラカラと手を繋いだ。
万が一にも迷子にさせず、攫われることもないように。
照れてる場合ではない。店に取ってだけでなく、町にとっても大切な客人なのだ。
手を繋ぐとは思っていなかったソラカラは、驚いた。
人の体温を感じることに、懐かしさを覚えたからだ。
いつか、こんな風に手を繋いで歩いたことがあったような。
思い出しそうで思い出せない、またもや霧がかった記憶は晴れないままだった。