003 火の精霊イフリート
魔女は台所から残り火を持ってきて、赤い蝋燭に火をつけた。
植物の実や葉らしきものが混じった太めの蝋燭だ。
インクと羽ペン、茶色い紙もテーブルに広げる。
『火はこれでいいだろう。今から精霊を呼び出すから、やってきた精霊に契約してほしいと伝えるんだ。精霊は精神力を試してくる。気に入られれば、契約できるさ。気に入られなければ魔女だって魔法は使えないよ、私のようにね』
少しぬるくなった紅茶を、一口飲む。
『魔法の仕組みは、精霊と契約した者が供物を媒体に、呪文か魔法陣で現象を呼び起こす。言葉にするとこれだけだ。供物は魔力だよ。精霊は魔力を外から取り入れないと消えてしまうから、要は食事のために契約してくれるってわけさ。強力な魔法ほど、上質な魔力か量を持っていかれる。呪文や魔法陣は、魔法の内訳を精霊に伝えるものだ。詳しくは契約できたら教えよう』
古めかしい紙に、魔女はすらすらと羽ペンを走らせた。昨日のドアに書いた図形にどことなく似ている。
「何を書いているんですか?」
『推薦状さ』
「推薦状。この図形が……」
精霊語なんだろうか。覚えられる気がしなかった。
『人は精霊と直接契約できないからね。魔女の推薦状が必要なんだよ。そら、できた』
魔女は図形の説明をするつもりはなかった。今、説明するには情報量が多すぎる。契約の執行が、何よりも優先すべきことだった。
書き終えた紙をくるりと丸めてから、魔女は親指をガリっと噛み、紙に血をポタリと垂らした。
痛そうだと、ソラカラは眉をひそめる。
魔女はかまわずブツブツと呪文を唱え始め、紙の端を火で燃やした。
『私の推薦とソラカラの旨そうな魔力に釣られて、そろそろ精霊がやってくるよ。精霊は気まぐれだから絶対とは言えないが、低級精霊がなにか試すようなことを言っても自分を強く持てば問題ないさ』
「わたしって、旨そうなんですか? 食べられたり?」
『ああ、旨そうな魔力だね。透明度も密度も高い。案外、大物が釣れるかもね』
ふわり。
赤い煙が燃やした紙からゆっくりと出てきた。
煙が徐々に魔女の手に絡みつく。
その手をソラカラの額に置くと、煙が生き物のようにサーっと動き、ソラカラを包みだした。
「ん、きたな」
その言葉を合図に、ソラカラの意識がぷつりと途切れた。
『やあ、異なる世界のお嬢さん』
妙に通る声が響く。しかし姿はない。
意識はあるが何も見えず、強いて言えば深い霧の中のようだ。
精霊はソラカラが異世界から来た魂だと分かった上で発した言葉だったが、ソラカラは人と精霊の世界の違いを指しているんだろう、くらいにしか捉えなかった。
黒のような白のようなもやもやする視界が、だんだんと赤く染まってゆく。
箱の中のようでもあり、無限に広がっているようにも感じる、不思議な空間だ。
目の前の一箇所が、急に濃い赤を帯びた。
それが素早く人のようなシルエットを形づくっていく。
『火の精霊、イフリートと申します。これはこれは、時の魔女からの推薦とは、珍しい』
ソラカラは、自分のすべきことを思い出した。
ーーーあの、わたしと契約してもらえませんか?
魔女との約束を守るために、ソラカラは人のような姿となっていく精霊に向かって願いを伝える。
人型のシルエットはどんどん赤黒くなる。
『お嬢さん、あなたは僕の強大な力を何に使うのです?』
ーーーそれは…… まだわかりません。でも、悪いことには使いません。
『人とは善悪の概念が大きく異なります。精霊にとって悪いことをしないと、契約に入れても問題ないと? ……契約破棄はお勧めしませんよ』
辺りはすっかり白い空間に変わった。
そして、赤いなにかだったものが青年になった。
肌も、髪も、瞳も。
ロングコートも、シルクハットも。
すべてが真紅。
ーーーそうなんですね。精霊の価値観はさっぱりなので、その約束はできそうにありません。あの、イフリートさん。わたしの魔力は美味しそうらしいのですが、わたしの魔力を提供するというのはどうでしょうか。
『おや、素直な人だ。ええ、たしかに美味しそうです』
精霊との距離は離れているようなのに、ぞわりと身体を舐められたような感覚に襲われる。
『けれど残念だ。僕には、まだ青すぎる』
ーーーどうしても、契約が必要なんです。私にはってことは、あなた以外の火の精霊もいるんでしょうか?その方を紹介してもらうことはできませんか?
ソラカラは必死だった。
火の精霊と契約できないと、魔女の家には居られない。
記憶が無い今、昨日出会ったばかりの魔女にすがるしかなかった。
『なるほどね、魔女と約束か。記憶喪失とは災難でしたね』
ーーーあれ? あ、はい。そうなんです。
言葉にしたつもりは無かったが、ここは精霊の空間だ。
イフリートにとって、契約候補者の考えや記憶を読むことは、息をするように簡単なことだった。
『では、2択としましょう。ひとつ目は、魔女が火の精霊と契約していない理由。ふたつ目は、お嬢さんの記憶が無い理由。僕はどちらも知っている。どちらか1つを教えてあげます』
三日月のように、いやらしく笑った。
『さあ、選んで。選んだら他の火の精霊を紹介してあげますよ。ただし、知ればどちらもお嬢さんを悩ますことになる。僕はお嬢さんの困った顔を見てみたい。ふふふ。』
ソラカラにとって、悪い話ではなかった。どちらも知りたい事だ。しかも、他の火の精霊まで紹介までしてくれるという。
「悩ますことになる」という忠告は、聞かなかったことにした。
いや、最初から選択肢はないのだ。
どちらか選んで紹介してもらう。それしかない。
使い手が少ないと言っていた原始魔法すら、魔女はさらっと使っていた。
どう考えても、火魔法だけできないのはおかしい。
火の精霊は、魔女を知っているふうだったのも気になった。
けれど、人のことよりも自分のことを知るのが先だ。
なにしろ記憶がないのだから。
ーーー記憶が無い理由を、教えてください。
『時の魔女の秘密を知る人はいないよ。本当にいいのかい?』
ーーーはい。魔女さんのことも気になりますけど。自分のことの方が、知りたいです。
ソラカラに迷いはなかった。
『まあ、こっちも面白いかも知れませんね』
ふふふ、とまた笑う。
『さて、お嬢さん。あなたには、この世界に無い魔力がべったりと、ついていますよ。次元を超えてきた魂の特徴です。つまり、ここでは無い別の世界から、魂だけでやってきたんでしょう』
ソラカラは目を見開いた。
『あなたを遥か遠くから呼び出したのは、時の魔女でしょうか。あの魔女が人に関わるなんて、珍しいどころではありませんからね』