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001 空から落ちてきたソラカラ

清潔に整えられた病室に、年老いた女性がベッドで横になっていた。

焦点の合わない目を、うっすらと開けている。



老女はこれまでの人生を思い出していた。

けれど、どれも靄がかかったような記憶ばかりで、はっきりとしない。

特に最近のことはさっぱりわからなかった。


あれは、いつだったか。


子供の頃、ナスカの地上絵をテレビで見て、砂浜に大きな鯨を描いたことがあった。たしか、波に消えて結局完成しなかった。

誕生日に油絵のセットを買ってもらった時はワクワクして、最初になにを描くかずいぶん悩んだこともあった。

鳥好きな息子にせがまれて、カラフルなインコや黒々としたカラスをよく描いた。あの子はなんで、あんなに鳥が好きだったんだろう。


たわいのない日常の一コマが、断片的に浮かんでは消えた。

92歳と少しを生きた、そのほとんどの記憶を、老女は忘れてしまった。




そういえば、絵が好きだったわね。



ベッドの周りで、看護婦さんがバタバタし始める。

老女の命が尽きかけていた。

担当医師もあわててやってきた。




もっと、描いておけばよかった。




まぶたを閉じた。


ふと体が軽くなる。

一瞬ふわっと浮き、ベッドで眠る自分を見下ろした。

旅立ちの時がきたのだ。

意識が上へと吸い寄せられる。




もう、描けないのね。





そう思った瞬間、軽い衝撃と共に、弾かれる感覚があった。



鋭い光が真横からつらぬき、一瞬で世界を真っ白にする。

上ではなく今度はその光に吸い寄せられる。

老女は飛ばされた洗濯物のように、抗うこともない。

なすがままに引っ張られた。



ああ、どこかへ行くのね。


そこで意識が途切れた。









『娘さん、大丈夫かい?』


気がつくと、銀髪の少女が心配そうに覗き込んでいた。


歳の頃は8つくらいだろうか。ほっそりした体つきで、整った顔立ちをしている美少女だ。腰までまっすぐに伸びたサラサラのストレートヘアがなびく。

くすんだ緑色のワンピースに斜めがけのバッグをさげていた。



老女がムクッと上半身を起こす。


いや、老女だった若い娘と言った方が正確か。

毛穴すら無い、張りのある肌。生命力にあふれる瞳。顔つきは10代半ばか、もっと下にも見える。



元老女の手のひらを、短い草がくすぐる。

濃い土の匂いと青々とした香りに包まれる。

爽やかな風が頬を撫でて、肩まであるカラス色の髪を、ひと束揺らした。



湖が左手に広がり、奥には山が見える。

なんとも美しい景色だ。





「ここは、どこだろう」



少女が眼を見開いた。

眉を寄せ、少し難しい顔をする。

一拍置いてから、声を掛けた。


『怪我は、ないかい?』


少女が若い娘の長袖をまくって、腕を確認する。

つられて若い娘も、自分の腕を確認した。

続けて足首まである前開きのワンピースを膝までまくり、脚も確認したが出血や打撲はみられなかった。


そのワンピースは、魂が身体から抜ける間際まで着ていた生成色のネグリジェだった。



『ふむ、怪我はなさそうだ』


少女とは思えない口調だ。

一通り確認し終わった少女が訊ねた。


『で、娘さん、どこからきた?』




若い娘は記憶を探るように左上をじっと見て、次に右上を見た。キョロキョロと何度か往復したのち、ようやく口を開いた。


「わたし、誰だろう……」




若い娘は記憶がなかった。

思い出そうとしても、なにも出てこない。

それはそうだ。老女だった時からすでに、記憶は混濁していたのだ。その上、魂になって次元を超えてきた。


思考に問題はなく、言葉も話せる。

それだけでも、御の字だったのかもしれない。




銀髪の少女は眉にシワを寄せて、ふむ、と唸った。


『記憶が無いのか、一時的ならいいが』


独り言のように呟きながらふと空を見上げると、あったはずの魔法陣が跡形もない。


『なっ……』


少女は両手で目を覆い、がっくりとうなだれた。

大袈裟なくらい大きな声で笑いはじめた。そして娘を見据えて言った。


『娘さんは、空から降ってきたのさ。笑えるだろ?』


台詞とは裏腹に、少し顔がこわばっている。

若い娘は上を見る。そこにはただ、薄い雲のかかる青空があるだけだ。

自分が何者なのか、どうしても思い出せない。



『ソラカラ、でいいかね。名前がないと不便だろう』


そのうち名前を思い出すだろうしと、安直に名付ける。


「ソラカラ…… 空から、あぁ…… はい」

少し首を傾げたが、まあなんでもいいかと諦めて、コクンと頷く。


「ええと、助けてくれて、ありがとう。あなたは?」


『魔女。名は無いよ。立てるかい?』




ソラカラと名付けられた若い娘は、パンパンと服についた草や土を払いながら立ち上がった。

両手を上にあげて、う〜ん、と伸びをする。



『とりあえず、ついてきな』

そう言って、魔女は湖と反対側へ歩き出した。




魔女は、小さな女の子に見える。しかし口調は老人のようで、得体の知れない迫力があった。

まだ全部信用できないなと思いつつも、魔女の後をついていった。



大きな木を過ぎて、ゆるい坂道をくだると、一軒だけ小さな家がぽつんとあった。赤いレンガの壁が可愛らしい。屋根全体は蔦で覆われ、長い年月ここに家があることを物語っていた。


家の横には大きな林檎の木とレモンのような黄色い果実をつけた木が仲良く並んでいた。椅子が4脚あるテーブルセットも、長年放置されたような趣がある。ガーデンと呼ぶには手が入っておらず、自然に溶け込んだ家だった。




絵になりそうな家だわ、とソラカラは思った。




外の椅子を指差し、座ってろと言い捨てて、魔女は家へと入っていく。少しすると、湯気の出たカップを2つ持って出てきた。


『まあ、まずは飲んで一息しようか。薬草茶だよ』


紅茶のような澄んだ色のお茶に、松の葉のような細く乾燥させた葉がいくつか浮いていた。

葉ごと飲んでいいか悩みながら、お茶をズズッとすする。

独特の青臭さがあるものの、飲めなくはなかった。




「身体に良さそうな味ね」


『疲れた体に効くやつさ』魔女もズズッと音を立てる。

葉は避けて飲んでいた。




『なにか思い出したかい?』

3分の1ほど飲み終えた魔女が口を開いた。


ソラカラはゆっくり、首を横に振った。

「この素敵な家の絵を描きたいなと、思ったくらいかしらね」

ふむ、と言ってまた魔女はブツブツと独り言を始めた。



しばらくソラカラは黙っていた。

耳をすませて魔女の呟く言葉を拾おうとする。

けれど、どれだけ耳をすませても、何を言っているのか理解できなかった。内容が難しいのではなく、聞こえないのでもない。知っている言語ではないのだ。


先ほどから気になっていたことがある。

魔女の言葉が不思議と、頭に響いて聞こえるのだ。




「ねえ魔女さん、それは魔女語かしら?」


魔女の意識がソラカラへ戻り、質問に答えた。


『いや、ザザ語だよ』

魔女の口の形と言葉が合わない。


「ザザ語…… 聞いたことない…… いえ、思い出せないだけかもしれないけれど」


『ソラカラが話すのは何語なんだい?』


「これは日本語ね」

ハッとした顔をする。そしてもう一度、ゆっくりと繰り返した。


「そう、日本語。日本語よ」

断片的にではあったが、過去を思い出せたことに、ソラカラは心の底から安心した。




魔女は舌打ちをした。


マズイ、知らない国だと。




魔女はその日、誕生日だった。


2222歳。

数字の中でなにより2が好きな魔女は、ちょっと浮かれていた。

自分へのプレゼントに、新しく旅魔法をつくったくらいには。


魔法陣は異国の地へと繋がった。成功だ。けれど、なぜか娘さんが転移してきてしまった。

魔女が作る魔法はいつだってそうだった。一見成功にみえるが、実は失敗。


今回も、残念ながらいつも通りだった。




魔法陣は気づいたら消えていた。

同じ場所へ繋げて送り返すのは無理だろう。

繋ぎ直すにも、今は手がかりがなさすぎる。

なにしろワクワクする旅がしたくて、魔女が知らない場所を行先に指定したのだから。




仕方がない。




『行くあてができるまで、ここに住んでいいよ』

そう言って、キセルに火を付けた。


これは、魔力を充填させる方法の一つだ。

煙草ではなく、上質な魔力を保持する草を乾燥させた、通称マソウ。特大の魔法陣を含むいくつか高度な魔法の連続使用で、もう魔力がすっからかんなのだ。


『条件はあるがね』


自分のせいで起きた事故だというのに、なんという言い草だろう。

魔女は鬼かもしれない。



「それは、ありがたいわ」

事情を知らないソラカラは、素直にほっとした。




魔女は人差し指を立てた。


『1つ、家事の分担。1つ、魔法の研究に付き合うこと。 1つ、火魔法と契約すること。どうだい?』


指は3本立っている。条件は3つだ。




家事の分担は当然だろう。

魔女というくらいだから魔法の研究を手伝えというのも、まあ理解できる。

けれど火魔法の契約は意味がわからなかった。



「火魔法の契約とは、何をすればいいのでしょうか」

ソラカラは言葉遣いを変えた。

お世話になる人に、丁寧に話す方が自然だと思ったからだ。

記憶がなくても、習慣は身に染みている。


『契約は私が手伝うから心配しなくていい。私の研究に火魔法が必要でね。滞在費を報酬に、ちょいと研究を手伝ってほしいのさ』


「お世話になります」

ソラカラがすっと姿勢を正す。


「ひとつ、質問です。お互い違う言語なのに、どうして通じるんでしょう?魔女さんの言葉は耳からというより、頭に直接響いてくるので」



魔女は椅子から降りると、家のドアへ歩いていく。

ザザ語なのか魔女語なのかをブツブツと唱える。くわえていたキセルで、ドアに図形のようなものを書きはじめた。魔法陣だ。



パンッ



魔女が両手を弾いて手を叩くと、一瞬だけ強い光が走る。




『さ、これでソラカラも家に入れる。質問も明日まとめて答えよう』

ガチャリとドアノブを回してドアを開ける。


『ほら、コップを片付けておくれ。水場は裏手に井戸があるよ』

さっそく家事の分担を言い残して、魔女はさっさと家の中に入ってしまった。




こうして、魔女とソラカラの新しい生活がはじまった。

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